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■豊前蓑島周防灘物語

はじめに
■蓑島全景

蓑島上空より

行橋 蓑島

*グーグルアースより作成

             

■本編は、母親の故郷・福岡県行橋市蓑島に移り住んだのを機に 、少年時代に過ごした日々、現在の生活、これからの計画を記したものです。 長い間、観光業界にいた関係から、地域の町興こしのアイデアを盛 り込みました。この中の一部分でも、地元の人が活かすことになって 戴ければ幸いです。できれば、自分でもそのお手伝いができれば いいとも思っています。 基本的に記述には、ほとんどが歴史の事実に基づいていますが、 いずれ、全編にフィクションがちりばめられていることを前提にして お読み下さい。

もくじ
.


はじめに
1 海辺の小さな家
   1 海辺の家……………………5
   2 小さな家の生活………………………7
2 祖父母の家
   1 移住…………………………9
   2 宮定家と渡辺家 ……………………10
   3 龍宮荘……………………10
   4 隠居所……………………15
   5 生活………………………16
   6 龍宮神社……………………………17
   7 蓑島の歴史…………………………18
   8 叔父とガザミ ………………………19
3 岬の宿
   1 図書室のある宿……………………22
   2 麻雀大会……………………………22
   3 簡易宿泊施設………………………23
4 天神浜
   1 天神浜……………………26
   2 潮湯………………………27
   3 藤原朝臣邦吉………………………27
   4 イベント ……………………………28
   5 ミニ九州 ……………………………28
5 小島から大島へ
   1 大島………………………30
   2 小井島浜……………………………33
6 蓑島へ
   1 行橋から蓑島へ ……………………47
   2 従弟との思い出 ……………………48
7 魚市場
   1 市場の賑わい ………………………35
   2 新メニュー …………………………36
   3 これからの試み ……………………37
8 蓑島近郊
   1 金屋・浄喜寺 ………………………39
   2 沓尾 ………………………40
   3 松山神社 ……………………………41
   4 姥ヶ懐 ……………………42
   5 今井・須佐神社 ……………………45
9 ふるさと創世
   1 商店街の復興の試み ………………50
   2 町興こし ……………………………52
   3 今後の計画…………………………54
   4 邪馬台国ネットの事業 ………………………57
   5 実現したい計画 ……………………60
   6 蓑島地区での計画 …………………63
   7 道の駅ゆくはし美夜古 ………………………63
10 観光振興のために
   1 地域活性化の担い手 ………………65
   2 専門部会 ……………………………67
   3 ピラミッド理論 ……………………67
   4 観光要素の構築 ……………………68
   5 マスコミとの連携 …………………68
11 再び海辺の家で
   1 海辺の家で過ごす …………………69
   2 海辺の家・春 ………………………70
   3 海辺の家・夏 ………………………72
   4 海辺の家・秋 ………………………74
   5 海辺の家・冬 ………………………76
   6 車の別荘 ……………………………77
   7 日本一周計画………………………78
   8 海辺の家の増築 ……………………81
   9 最後に……………………82
蓑島物語・別巻
   1 再び観光の動機、イベントについて …… 83
   2 産業観光について …………………84
   3 工場直販グルメのこと ………………………85
   4 地域百科……………………………85
とりあえず実現可能なこと
   あとがき  85

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一 海辺の小さな家
1 海辺の家

行橋 蓑島
東北地方にある山形県は、地図で見れば、その形が人の横顔をしているというのは東北6県の人には知られている。同様に福岡県行橋市は犬の形をしている。このことは地元の人には周知のことなのであろうか。
いずれにしても、この行橋市域のちょうど尻尾の部分にあるのが、母の故郷・蓑島である。 蓑島は、その南にある長井浜とともに筑豊県立自然公園の一部としてその海岸線が「せとうち風景30選」に選ばれている、いわばちょっと景勝の地ともいえる。瀬戸内海の最西部に位置していて、行橋の 海水浴場のひとつとして昔から知られ、地元周辺の人を中心に、北九州方面の海水浴客で賑わいをみせていた。いまは、夏の遊びが多様化して、人出は少なくなった。ふだんから潮干狩りや釣り客も顔を見せる。
この冬、蓑島の南東部、海辺に面した小さな家に、世捨て人のように移り住んだ。
行橋 蓑島
◆写真は、蓑島遠望
周囲には住家がほとんどなく、多少、映画「キャストアウェイ」の遭難者・トム・ハンクス、あるいはロビンソン漂流記の主人公エドモン・ダンテスの気分ではある。
新潟県出雲崎の少し北の本郷海岸に、晩年になって帰郷した良寛の住んだ苫屋(もっとも現在ではその場所は既に波打ち際の海の部分になっているが)と、茨城県五浦海岸にある岡倉天心の立派な住まいのちょうど中間のような家の造りといえば、海辺という環境も合わせて雰囲気が伝わるであろうか。というより、この家にぴったりのイメージは、香川県小豆島の二十四の瞳映画村内にある男先生の家である。
しかしはっきり言えば、後で説明する祖父母の家の敷地内にあった 隠居所がその原点である。
こどもの頃から大きな家で生活することには慣れていたから、どん な家でくらすのも平気だった。小さな質素な家に住む事にもコンプ レックスもない。
思うに、物事で一旦十分に満たされたことがある場合、人はそれに 縛られなくなるものだ。美味しいものも1度飽食すると、あとその食材 は食べなくてもいいということになろう。中途半端にしか食べていな いと何時まで経っても固執し、繰り返し満足できない飢餓感が続くも のだ。大人に成って、異常にお菓子を食べ続けたのは、子どもの 頃に満足におやつを食べる事ができない時代を経験したからであ る。
食べ物であっても逆に観光情報誌の仕事の関係で、本当に美味し い帆立、雲丹、鮪のトロなどの魚介類を十分に味わう経験を持った ため、もうそれらは食べなくてもいいし、特に食べたいとは思わない 。あれば食べてもいいという程度の感じである。つまり、世間的な美 食意識に束縛されなくなってしまった。
住み着いた家は小さいけれども、雰囲気は天心敷地内の本宅と、 少し離れた崖上にある六角堂のような感じではあった。それは、海 を眺めるのんびりとした風情については一流だった。いうなればタ ーシャ・テューダーのような生き方でもある。
ターシャ・テューダーという人は、1915年、ボストン生まれ。父親は 設計者、母親は肖像画家。9歳の時、両親が離婚。父の友人の家 に預けられた。15歳で学校をやめ、はや1人暮らしをする。23歳の 時に結婚。30歳でニューハンプシャーの田舎に引っ越す。4人の 子供に恵まれるが、46歳の時には離婚。10年後バーモント州の山 奥に18世紀風の農家を建てて、1人で暮らし始める、というような人 。
あるいは、兼好法師の「徒然草」の中にある次のような段の心持ち である。
神無月の頃、来栖野を通り、ある山里の人を訪ねた。苔むした細い 道を踏みわけて行くと、ひっそりとした庵がある。懸樋に木の葉が覆 われ、水の雫の音が聞こえるだけで他には、何一つ聞こえない。庵 の閼伽棚に、菊や紅葉などの枝が無造作に置いてあるのは住人が いるのだろう。こんな寂しい所でも、住めるものだと、しみじみ見てい た、とある。さらに文は続き、すると、庭の向こうに蜜柑の木があり、 その周囲を厳重に囲いがしている。少し興冷めして、この木がない 方がどんなによかったかと思った、と徒然草らしい話ではある。[11 段]
人間は生活を簡素にし、贅沢をせず、財も持たず、世俗的欲望も 求めないのが最もいい。昔から賢人といわれた人で、同時に富者で あった者は稀である。唐の許由という人は、身辺に少しも持ち物が なく、水さえ手ですくって飲むようで、それを見た人が、器のために 瓢箪を与えた。ある時、それを木に掛けていたら風に吹かれて音が した。それで「やかましい」といって捨ててしまい、元のように手です くって飲んだという。彼の心中はどれほど清々しいものであったろう か。また孫晨という人は、冬に夜具がなく、藁一束を使い、夜はこ れに寝て、朝になれば片付けたという。唐では、これを大したもの だと思うから話が残ったのであろう。わが国ではこのような人のこと は語り伝えられていない。[18段]
ある晩春、のどかで、ほのぼのとした日、風情のある家を見かけた 。奥行きのある家で、木立も古びて、庭には散り萎れた花もゆかし いものがあり、通り過ぎるのが惜しいので、邸内に入って見た。寝殿 の南面の格子戸は、みな降ろされて淋しげだが、東に向いている 妻戸が開いていた。御簾が少し破れている所から、清潔な感じの20 歳くらいの男が、いかにも奥ゆかしい落ち着いた姿で、机上に書物 を広げて見入っていた。あの人はどんな人であろうか、誰かに訊い てみたい。こぢんまりした家の前は海に落ち込む急な岩場、背後も 山の崖になっていて、三方は都合良く黒松の木に囲まれていた。 [43段]
さて、関門海峡を通り抜けた玄界灘からの厳しい北風が周防灘に 広がりをみせた、その風を避けるように山陰で、そして南に向いた 心地よい陽溜まりになっている場所である。裏山には孟宗竹の林が あって、春には筍が収穫できる。それから、竹は生長が速いため、 それを利用して生け垣などをおいおい造る予定である。

2 小さな家の生活

行橋 蓑島

家の敷地内には、わずか な平地があり、小さな畑を造った。そこに6列ほどの畝を作り、漁で 使いふるされた網を畑の囲いと風よけに使用していた。この網を張 るというのは島という環境では極く、ありふれた風景だった。網はサ ヤエンドウの蔓を伝わらせるにも使うつもりである。
いずれも自家消費のため、栽培する野菜は少量ずつではあるが、 次のようだ。
胡瓜、トマト、大蒜、茄子、菠薐草、春菊、玉葱、葱、人参、牛蒡、 紫蘇、大根、蕪、苺、西瓜、南瓜、薩摩芋、里芋、玉蜀黍、唐辛子 、ピーマン、落花生、ゴーヤ、花豆、アロエ、白菜、山椒、オクラな どを季節毎に収穫できるように植える。
行橋 蓑島
◆写真は、その畑
ピーマンなんぞは一旦食べ頃を迎えると毎日、恐ろしいほどの速さ で生長し、数日すると食べ飽きる。
「街に暮らす者は花を育て、田舎に暮らすものは実のなる樹を植え る」。互いに相手の感覚が理解できないものだ。それに、農業を知 らない街の人間は、野菜を作るときにも無駄なことをしがちだ。
例えば、日照りの時に水道の貴重な水をいくらでも平気で撒く。そ れはほとんど無駄である。試しに土を掘ってみるといい。表面から 何ミリも染み込んではいない。やり水というものは、長雨が降るよう にしとしとと充分に地面に沁み込まないとだめなものだ。
エコのひとつといえるだろうが、コンクリート製の桶に屋根からの雨 水を発泡スチロールに集めて、これを打ち水や、野菜の水やりにも 利用している。屋根といえば、南側の面はすべて太陽光発電簡易 パネルも敷設した。それに、中型の風力発電用の風車を海に立て て、電線を敷地に引っ張り込んでいる。この家で暮す場合の燈火 はこれらで充分足りた。
また2リットルのペットボトルの表面をスプレーで黒く塗り、 それに水 を入れると日照に応じた温水ができる。 キャップ部分に 10個ほどキ リで穴を空ければ、夕方シャワーを浴びることもできる。冬期でも小 屋のままた冬期室温を少しだけ上げたり、 蒲団の中で湯たんぽに する。うまく使うコツは2リットルいっぱいにしないで少し水を減らし て入れること。
畑のある場所は開放的であった。ある日思い立って周囲を木の枝 の幹を使って柵で無造作に囲んだ。これは、物理的にも精神的に も閉鎖することを望んでいたわけではなかったが、なんとなく自分 の世界を構築したいと思ったからだった。この敷地はまるで自分の 頭脳そのものであり、目の前にある景色は、それを眺める自分の眼 と同一の風景だった。
ただ、しばらくして、干拓地にあるかなり広い面積の畑を借りて、野 菜栽培を本格的に始めた。畑作りの人手がこの島でも少なり、休耕 地が増えたためでもある。田も畑も耕作をやめると翌年まではいい が、その年にできた1本の雑草が数百の種を地面に落とし、その翌 年は夥しい数の草を茂らせるものだ。
ところで家の敷地内には、小さな鶏小屋を造った。小屋は風を避け 南面に向いていて、雄鶏が1羽、残り7羽の白色レグホンを飼ってい る。
一人住まいなのに多すぎると思われる7羽の雌鳥の卵というのは、自 分の食事に使用する他、毎日この卵を集めにくる業者がいるからで ある。
業者といっても60代前半の老人がその集荷の任にあり、ここと同じ ように有精卵を産む鶏を飼育している市内の80軒ほどを、毎朝他 の4人の仲間たちが集荷している。
もっとも彼と顔を合わせるのは月に1、2回だ。というのは、彼は早朝 のいつか、鶏舎にやってきて、私のための卵を1個だけ残して、残り をかってに持っていってしまうのだ。そのため私自身は毎日卵が何 個産み落とされているのかを知らない。毎月初めにeメールで前月 の個数が知らされ、後日、代金が振り込まれている。
この新鮮玉子集荷システムは、自然の卵を育てるという「邪馬台国 ネット」という会社の一販売事業である。車の運転が好きだという高 齢者がその仕事にあたっている。そうした、リタイアした有閑の人た ちが邪馬台国ネットにいろいろな形で雇われている。この卵は、「新 鮮邪馬台有精卵」という銘柄で、市内の契約6宿泊施設、そして1部 の食堂、商店に毎日卸されている。卵が残った場合は駅前の案内 所で売られる。この案内所については後で紹介する。この事業は、 この市のグルメのひとつとして観光協会が宣伝もしている。新鮮な 卵を炊きたてのご飯にかけて醤油をたらしたシンプルな玉子かけご 飯は、本来とても美味しいものである。テレビドラマ「セレブと貧乏太 郎」でも上戸彩がこれにこだわっていた場面があった。この玉子か けご飯は一時期、全国的に流行したが、玉子の質と新鮮度が大い に問題である。
ところで、玉子を食べる時に、カラザを取り除く人がいる。もちろん、 それは好みというか自由なことだけれど、そんなことにはこだわりた くない。ある説ではこのカラザには抗癌作用のあるシアル酸が含ま れているという話もある。
話がかなり横道にそれた。
私の家の話の続きをする。家を取り囲む松の木立の間からは瀬戸 内海の西の端である周防灘の青い海がいつも見えていた。
この場所は島の500戸ほどある家々のほとんどが風を避けて島の西 部に集中している中で、島の東側にあって、いわば村はずれで、水 道も引かれていなかった。その上、井戸も掘られてないため、裏山 から湧き出ている水を竹の樋で家の軒先の茶色の水瓶に引いてそ れを生活用水としていた。水の量は多くはなかったが、1人暮らしに は充分だった。鶏舎にもこの新鮮な水が引き込まれていたし、雨水 の他、畑の水遣りもこの水が使われていた。蓑島は後で述べるよう に、海辺ながら真水が湧出するということで知られている。
住み始めた家は、戸を開けるとすぐに土間で、正面には石造りの 台と竃があった。プロパンガスのボンベもあるにはあったが、常時 使用される7輪が置かれていて、ちょっとした炊事場になっていた。
七輪は至極便利である。煮炊きの他、暖を採ることもできるし、なに よりも動いている炎を見ているとホッとできた。1斗缶を縦に2つ重ね て穴を通し、下の缶にもう1つ接着させてL字型の組み合わせを作り 、中に煙突を通した。そして断熱・蓄熱材として川砂を空間で満た すとこれもストーブになった。煙もあまり出ない。ただ、後になって、 火鉢のような形状をした灯油ストーブがホームセンターで売られて いるのを発見して、これで煮炊きをするようになった。炊事時間も短 縮されるし、何よりもこのストーブは軽油をほとんど消費しないことが わかった。
電気釜など言語道断。米もこのストーブを使い、銅鍋で炊いた。始 めは強火で、あとから弱火にして15分ほどで炊飯できる。そしてこ の方法の何よりもいいのは、内側部分が適度に焦げることである。 好きなお焦げが毎度できる。これはお握りにちょうどよかったし、米 菓子のようでもあった。
土間の炊事場の横には部屋が2つある。手前は囲炉裏を切った居 間で、襖を隔ててその奥にもうひとつの部屋が続いていた。ともに6 畳の大きさで、手前の部屋の真ん中には薪ストーブを置いた。薪ス トーブから出る煙については法規制はない。煙突は壁抜きにすると 上昇する煙の抵抗が大きいため屋根抜きにしたかったが、それも 周囲の樹木のためにむつかしいため、横引きを極力抑えて海側の 壁に筒を抜いた。時々、裏山に入って枯れ枝、松葉を集めて束の 形にして軒下に積み上げている。薪があると電気もガスも節約でき る。奥の部屋は床張りで、高さ1メートルの高床を造り、寝床をその 上に置いた。こうすることで万一の獣からの被害に遭わないことと、 ベッドの下を有効な物置に活用することができる。これは寝る場所 の上部に棚を作ることより安全で、またスペースも数倍に活用でき る。ある。もっとも、この地方はほとんど地震というものはない。
行橋 蓑島
◆写真は、庭先の四阿
電気はといえば、南側の傾斜のある屋根には太陽光発電の装置を 付けた。近年の普及でずいぶん安く設置できた。そして簡易な蓄 電器があったのでこれに日中の電気を溜めて夜間に使用した。電 球はもちろんLEDを使用しようした。
ただ、この地方は冬もそれほど寒くはないので、焚き物は頻繁に使 用しなくても良かった。薪と七輪は、燻製を作る時に主に使用した 。主に魚を燻し保存するため、薫製器は1斗缶を加工して作成した 。
奥の部屋には手摺りのある窓があり、寝室にしている奥の部屋には 半坪ほどの広さの濡れ縁が付いていた。手摺りは手ぬぐいを干す のにちょうどいいし、爪を切るのにいい濡れ縁は生活に余裕を産ん だ。
小屋の脇にある樹木の植え込みが道からの視線を遮り、騒音を和 らげ、ゆっくりと寛げる住居だった。
ただ、夏場の蚊には閉口した。日向には蚊はやってこないため、よ ほど日陰をつくらないようにしておかねばならなかった。シマ蚊は海 の岩場で潮のこない水たまりに、ヤブ蚊は山の水分の多い場所で 、それぞれにボウフラが発生し、たくさんの蚊がいた。これらを無く すことはできないのだろうか? キーホルダーになった蚊が嫌がる 超音波グッズが千円くらいで販売されているそうだが、以前そのよう に通信販売されていた物が全く効かない物だったということも暴露 されていたのを知っている。蚊の嫌いな草というのはどうなのだろう 。レモンの香りのするシトロネラゼラニウム(蚊連草、蚊嫌草)、モス キートブロッカー、ミラクルニーム(印度栴檀)などのハーブ種が蚊 除けに効くようである。
なお、刺された後にはアロエもしくは自然塩を摺り込むといい。
濡れ縁の前には、柿や、蜜柑、金柑、柚、庭梅や、キウイ、檸檬、 無花果などが実をつける。他に、桃、葡萄、枇杷、グミ、棗、胡桃な どである。これらの果樹は、受粉効率のために、異なる店から1本 ずつ購入して、複数本植えた。特にキウイは雄樹が必要。梨、梅、 スモモ、プルーン、は受粉樹が必要なものが多い。茶の木を植える と、茶葉が収穫できる。
1本植えで大丈夫な果樹は、無花果と枇杷、石榴、葡萄、温州蜜柑 、柿、桃(あかつきなど自家受粉がある品種)、金柑など。これらの 果樹は、実のなる季節に順に食べた。
家の前の海辺にある潮だまりができ、いつも多少の魚がいた。時間 のある場合は、岩場の窪みに網を張っていて、居残った魚を捕獲 することができた。1日分以上の魚が掛かったときには、開きにして 、塩水に漬け、振り塩をして日干しした。この美味さは灯油の熱で 強制乾燥したものとは比べ物にならなかった。とびきり新鮮な鯵の 干物はなぜかワタリ蟹やフグの味がした。
この家の生活は、ウェブで紹介されている豊橋市出身の明治・大正 時代のジャーナリスト・村井弦斎のような生活に、精神的には近い ものがあった。そう、厭世観ではないが、孤独癖ともいえるものであ ったかもしれない。
村井 弦斎(1864・1・26-1927・7・30)は、1920年の夏、妻と長女と 長男と2人の甥と、友人の八百善主人栗田善四郎の7人で上高地へ 行き、焼岳のふもとにテントを張って、男性たちはテントで生活した という。その経験もあり、弦斎はいよいよ長く山中に引き蘢って生活 したい、という思いを抑えられなくなった。……御嶽山での天然食 の実験を通じて弦斎は、人間は自分の身体さえあれば生きていけ る、という確信を得たに違いない。それが、弦斎に「人間の私有物 は身体あるのみ」と断言させたのだろう。そして、以後、彼は物質文 明を批判し、「自然に還ろう」と提唱した。
海辺のこの家は、島を一周する道路に面してはいたが、中心部か らどちらの回り方をしても最奥ともいえる場所にあって、用事のある 者以外は来ることもなく、車の通行量もほとんどなかった。
当初、住む家は、国上山中腹に住んでいた良寛の五合庵のような 方丈の大きさでもいいと考えていたが、実際生活をするためには、 これくらいの大きさは必要に思えた。知り合いが尋ねてくるということ はないので、居間があることは贅沢な方だったが、余分の部屋がひ とつあるというのは精神的な余裕を生んだ。
それに、父方の実家(それは、千数百坪の土地に、2、3百坪ほどの 2軒の分家の土地がある広大な場所であった)の敷地内にある下の 家という小さな小屋で生まれた私にとって、こういう素朴な造りの家 は、懐かしさそのものだった。

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2 祖父母の家
1 移住

行橋 蓑島
いつまでも忘れない。この家のすぐ横に祖父母の家があった。
祖父の一家は、むかしは島の西側にある中心地である蓑島神社近く に住んでいた。
大正末期に一族を挙げて島根県の津和野に炭焼きの仕事を求め て移り住んだ。母はその津和野の山中で生まれたのだった。もちろ ん子どもが生まれたことで、すぐに役場に届け出るようなことは後回 しの時代であったので、母は本当の自分の誕生日を知らない。当 時、炭の需要は高かったが、それほどの収益にならなかったため、 数年のち、祖父の一家は蓑島に戻って来た。途中、山口県小野田 の町に従兄弟たちはとどまったため、いまでも親戚が住んでいる。 小野田といえば、高速道路を走っても行橋からは車で2時間ほどの 距離にあるが、海を隔てたこの島から見れば、目の前にあるといっ てもいい。そのため、漁船を持つ島の人間にしてみれば海路です ぐの対岸にある場所という感覚をもっているのである。

進取性に富んでいた祖父は、戻って来てしばらくすると島の反対側 、当時小島と呼ばれていた5区のはずれ、当時、蓑島村245番地の 地、朝日が真っ正面から上ってくる島の東岸に家を建てた。もちろ ん、近隣には家はなかった。 後年、叔母が歌集「華」で「ふるさとのわれの枕にひびきくる潮騒の音今宵は低し」(1998.7・葉文館出版)と詠われるような環境だった。 蓑島は市場から蓑島神社の付近まで が1~3区で大島と呼ばれ、バス停から南側が4~5区で、小島と呼 ばれている。この当時、大島は島の中心で、小島に行くにも、海沿 いの道を通り、天神浜の脇を通り抜け、いま旅館の建つ小さな突端 を回り込まなければならなかった。ここには龍宮神社があったので 勝手に竜宮浜と名付けられた。
行橋 蓑島 行橋 蓑島
◆写真はその竜宮浜
さらに、祖父母の家の少し先は、道が途切れて、後は人が歩いてい けるだけの海沿いの杣道が続いていた。
文化7年1月19日に伊能忠敬が蓑島の測量をした際、「渡海、汐干 乗船難成、砂地を駕篭に乗て渡る。蓑島半周を測る。11町23間3 尺・天神島周3町遠測。蓑島一周は23町9間3尺、家数301」と記し ている。蓑島は当時、豊前18浦の1つといわれていた。
その後、昭和8年、島内一周道路工事にかかり、昭和10年代に周 回路がようやく開通している。
村から購入した時、土地というより山そのもので、家を建てるほどの 敷地はなかった。それで、人の手で崖を壊して、苦労を重ねて平 地を造成した。崩した土は目の前の竜宮浜に捨てた。結果、海辺 にも広い土地ができた。この作業には幼かった母も手伝いをした。
最初は、終戦後、海水浴客向けの簡易的な海の家を営んだ。海水 浴はその当時は数少ない庶民の娯楽として人気があった。それで 商売は思っていた以上にうまくいった。その内、家から通うのが面 倒になり、泊まり込んで商売を続けた。
翌年、同じ場所に本格的な家を建てて、一家を挙げてその家に移り 住んだ。小学生の足で、島の反対側まで通うのは大変だった。そ れでも毎日、子どもたちは潮風に吹かれながら土ぼこりの舞う道を 通って学校に通い続けた。
祖父母の家はいま思えば、旅館のようだった。

2 宮定家と渡辺家 行橋 蓑島
祖父石蔵は、宮定松市の次男として蓑島に生まれた。石 蔵の母サダは神楽で知られる下検地の有松傳作・フイ夫婦から嫁いできた。松市には石蔵のほか、長女エイ、長男小十郎、二女トメ、三女フイ、三男勘治、四男鉄治の3男2女がいた。
「東町のおいさん」と呼ばれた石蔵の兄・小十郎は、宮定家を継ぎ 、蓑島の中心部に家を構え、今井の高辻乙七・タメの長女キセを娶った。行橋へのバス乗り場の 場所に家があったため、後年、西鉄バスの切符を販売もしていた。子のなかった小十郎は三女フイの子フサコを養女にして 今元村元永の山下為蔵・トメの子延男を三男勘治の養子にした後、この二人を夫婦にして跡を継がせた。二人には1男2女があった。
長女エイは田川に嫁して後岡山に移った。二女トメは4歳で夭折した。三女フイは中原善道に嫁ぎ、3男6女に恵まれた。中原は現在苅田町で会社を経営して善道の子進から広海と続いている。三男勘治は、田川郡猪位村の伊東禎三・カリノの長女ヒサを娶り、行橋の市街地で歯科医を開業した。勘治には3男1女がいる。
4男鉄治の係累は長崎に在住している。
長女蝶は田川へ嫁し、後に岡山へ越した。
なお蓑島に多い中原家は、中原君の始祖は皇家の流れであり朝廷に仕えていた中原氏の末裔。鎌倉時代に藤原宋円の二子が、当初中原氏を名乗り、長子中原宗綱は以降姓氏を変えて下野宇都宮氏・武茂氏・伊予宇都宮・筑後宇都宮氏へと続いた。弟の中原宗房は建久6年(1195年)仲津郡城井郷の地頭職として赴任し、築城(築上)郡本城を本拠地としてこの周辺を治めている。行橋の町を興した大橋太郎平貞能の娘・利根局 の姉が中原親能(鎌倉幕府政所公事奉行、源頼朝の部下)に嫁していることからその係累と思われる中原家の出。なお利根局は豊後の大友家初代である大友豊前守能直の母である。能直は一説に源頼朝の落胤ではないかともいわれている人物。宇都宮氏の庶流には他に諫早、肥前、肥後、大隅にもある。なお、筑後宇都宮氏の後裔に柳川城主蒲池氏がいて、歌手・松田聖子は筑後宇都宮氏・三河壱岐守久憲の16代目蒲池鑑盛(宗雪)の三男蒲池統安の子孫で、江戸時代は柳川藩家老格だった旧家。
なお、宮定松市はチヨという妹がいて、二人の父母は勘次郎、トメという。トメは蓑島の門田七兵衛の二女である。ちなみに有松傳作の父は曽七、フイの父は犀川高屋村の村上武吉という。 行橋 蓑島
◆写真上は若き日の祖父母。龍宮神社下。晩年の祖父石蔵と祖母。後ろの建物は母屋の2階。
石蔵の そして石蔵に嫁いできた、旧京都郡犀川町(現、みやこ町犀川)上 高屋の渡邊万吉・ナツの3女だった祖母タツノには父親違いの1人の姉ムメと1人の兄四郎吉、それに後添いの後に生んだ3人の姉妹、トナ、サダ、トメがいた。
四郎吉の長男は田川郡香春町採銅所鮎返で炭鉱勤めをしていたが 流行性感冒で死亡。採銅所鮎返で生まれたその子治雄は下検地有松六太郎・スヱノの三女良子を娶り、山口県宇部市に住み、吉治、俊治の2男、八重子、節子、百々代、房美、睦子の5女を儲けた。 八重子は堀に嫁し大分市宮苑に、百々代は穴井に嫁し日田市小ヶ瀬町に住んでいる。 。
長女トナは地元上高屋の坂本家に嫁いだ。長男守は苅田町に住み、一政、剛、和子の2男1女を儲けた。戦死した次男種一は近所の岩永家の3姉妹の長女と結婚した。この坂本の家には種一の義妹にあたる岩永家3女のキクさんという人が住んでいた。 母はこのキクさんは幼児遊んだ記憶があり、一緒に犀川の町中 の写真館に行き、記念写真を撮ったこともあるという。キクさんには子ども がなかったが、末娘であったので岩永家を継いで、いま夫の実家 である坂本の家に住んでいる。家の裏には倉庫があり、山からの水 で風呂を沸かしたりもしていた。すぐ裏手にある山からの清水が家 前の溝に流れている。この坂本の敷地の庭先からすぐ隣の神社の 舞台が見える。社殿はいまでも往時の姿をそのまま留めている。岩永家次女のみつ子 さんは今井の陣山に嫁して、近 くでもあるため蓑島の祖母の家に「おばさん」と慕ってリヤカーを引 いて野菜をたびたび売りに来たりしていた。
行橋 蓑島 行橋 蓑島 行橋 蓑島 行橋 蓑島
◆写真は岩永家、キクさんと母、岩永家庭、隣の神社

キクさんの住んでいる家のすぐ近くにある岩永家には長女の養 子として正人さんを迎えた。キクさんは血は繋がっていないが、この 甥を頼りにして晩年を過ごしていたが、残念ながら正人さんが先に亡くなった。

行橋 蓑島 行橋 蓑島 行橋 蓑島 行橋 蓑島
◆写真は岩永正人氏、上高屋風景2景、渡邊家付近
◆写真はかつて渡邊家のあった場所から見た上高屋の風景。
トナの妹2女であったサダは、嘉穂郡穂波村の高橋叶・マサの子成實を養子に迎えてた。子がいなかった サダは上高屋村上幾太郎4男吉輝をその長男として連れて広島に嫁したが、その長男も戦死した。後、妹トメの6女美佐恵を養女に迎え、渡邊家を継いでいる。
タツノの下の4女である末妹トメは嘉穂郡穂波村林廣吉・イソの長男林正雄に嫁つぎ、山口県小野田に住んだ。林家の子どもの7人ともが女で、長女であった 真須恵は的場九一と結婚し、看護師を長く続けた。次女智恵子は国鉄職員であった播磨□□と結婚した が死亡した。智恵子の子、1男2女の内、長女は下関に住んでいる 。林家3女トシエは柳瀬七郎に嫁し、小野田駅前で長い間食堂経営をしていたが、近 年死亡した。4女恵美子は村田敬助に嫁し、5女一枝は森上□□に嫁したが早くに死亡、6女美佐恵は広島の□□俊麿に嫁していた渡邊家を継ぐため、先に書いたように2女伯母サダの養女となった。女ばかりであったので末の娘7女真佐美が養子□□しげるを婿に迎え、家を継いでいる。
そういうわけで、この上高屋にはすでに渡邊家の血筋の者はいない。なお犀川という美しい地名は賽の神がこの地に祀られていたことによる。平成筑豊鉄道に沿って流れる今川 もここでは犀川とも呼ばれていた。
3 龍宮荘
さて、竜宮浜にあった祖父の2階建ての家の話である。今思うとそ れほどの広さの家ではなかったが、当時は子供の目で見ていたこ ともあり、2階の2間続きの広間の存在もあって大きな家だったという 思いがある。祖父はこの家を龍宮神社にちなんで龍宮荘と呼んで いたようである。家の中央には大きな戸口があり、床は広めのコン クリートの土間になっていた。ここが玄関で、きわめて開放的な造り だった。正面には黒塗りの大きな柱時計が架かっていた。この時計 は祖父母の家にやってきた時、見下ろしながらコチコチという変わ らぬ音で歓迎してくれる存在だった。祖母も「○○ちゃん、来たか」 といういつも変わらぬ声で歓迎してくれた。数日の滞在の後、それ ほど本数の多くないバスの時間に合わせて、子どもの足で25分ほ どかかるバス停までの時間を逆算して、出発の時刻を知らせてくれ るのもこの柱時計だった。
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◆写真上は、中央がかつての祖父母の家の本宅、右は新しく建て たコンクリートの家。ここには井戸があった。左は後に建てられた工 務店作業所。この場所には中庭があった。隠居所は作業所の左あ たり。下の写真は2階への階段。
柱時計の右手には2階への黒塗りの厚板でできた階段があった。 その階段を上がると左手には2間続きの、合わせて40畳ほどの大 広間があった。正面には龍宮浜が広がっていた。南側の窓は樹木 の茂る中庭に向いていた。
東側、つまり大広間の海の方は広めの板張りの廊下になっていた。 転落防止のための木の柵のついた手摺のある窓はすべてガラス戸 になっていて眺めがよかった。
2階の部屋には戸袋があったが、いつも使用されているわけではなか った。台風などが近づくと、この戸袋から雨戸を出してしめた。2階 の窓からは正面に周防灘が広がっていた。板張りの廊下の窓の下 には3本の貝塚の木が立っていた。
家の裏手には垂直の崖がすぐ迫っていた。
夏の間は海の家を兼ねているため、この大広間は居室というのでなく、海水 浴に疲れて休憩する客のための部屋であった。眺めもよく、のんび りできる環境がすこぶる好評だった。特にお盆の頃には、街からや ってきた海水浴客であふれた。この時代こそ、海水浴は今から考え られないほど一大レジャーとして人気があったのだった。
旧盆を過ぎると、海水浴は、波間に漂う水母を嫌い、海も荒れ模様 になるために、客足は目に見えて遠のいた。
祖父母の家は旅館業ではなかったので普段からも宿泊していく客 はいなかった。当時、自家用車を持っている家庭は少なかった。夕 方には、皆、バスの時間などを見計らいながら街に戻って行った。それで 海水浴客の席料が売上げの主なものだった。浮き袋などの海水浴 用具を貸したり、販売することでも収入を得ていたかもしれない。他 には、サイダー、オレンジジュースなどの飲みものがたくさん注文さ れた。これらの瓶は、井戸で冷やされた。裏庭には仕入れた瓶が いつも山のように積まれていた。
ある年の夏、行橋の町から料理屋の板前を呼んで、休憩をする人 たちに飲み物の他、簡単な食事を出したことがあった。
その板前は、行橋駅前、旧寿屋近くにあった銀丁という小さな料亭の若い男 だった。修業中ながら腕前はよいらしくて、なんでも上手に捌いた。
その板前は泊まり込みで、夜、仕事を終えると娯楽のないこの島の 唯一の芝居小屋で上映される時代劇の映画に連れて行ってくれた り、隣接した同経営の潮湯にも誘ってくれた。その板前がやって来 てから少し遅れて、都会の匂いのする可愛らしい顔をした美人の姉 妹が数日間板前の兄の仕事場に遊びにやってきた。毎日海で遊 んでいたが、ある日、妹がアイロンで火傷をして、それ以降、海に 入ることをやめて少年をがっかりさせたこともあった。毎晩、庭先で 花火をした。浴衣になった年頃の娘はまぶしいほどに美しかった。 盆が過ぎて海水浴客が少なくなると、彼らはまた街に戻って行った 。家の前で、一行を見送ったが、目にうっすらと涙が滲んだ。
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◆写 真は、祖父の家の前の通りと、竜宮浜
後年、懐かしさで行橋駅前の店を密かに訪ねたことがある。店は確 かにあったし、暖簾もかかっていたが、その時、店に入る勇気はな かった。後年、もう一度訪ねた時にはすでに、店はなくなっていた。
ところで、祖父にはずいぶん多くの家族がいたし、そういう住み込 みの人たちもいた時期もあったのに彼らはいったいどこで眠ってい たのだろう。尤も、いつからかは不明だが、安川電機に勤めていた 2人の叔母たちは、通勤の利便性のため行橋の街中に移り住んで いた。
<母親の兄弟姉妹のこと-略>
2階の大広間北側の角部屋は、落ち間と呼ばれていたなぜか1段 低くなった部屋があった。真下は炊事場で、この部屋の窓のすぐ下 には、深い井戸を真ん中にして、コンクリートで固められた広い洗 い場と、生け簀や鶏舎、小さな畑なども見えた。畑の仕切りにはブ ロックがわりに独特の青色が混じった砂礫岩が使用されていた。
井戸水は山からの地下水が溜まったもので、海水浴客が体から塩 を洗い落とすのにむやみに大量の水を使うことを祖母が時々注意 していた。蓑島は小さな島で、それほど高くない山ながら大昔から 地層の関係であろうが、海に囲まれていながら真水が湧くことでも知られてい た。山の水は冷たく、サイダーなどの他、西瓜などはこの井戸で冷 された。
落ち間の隣、山側にはこぢんまりした部屋があった。この部屋にあ る襖のひとつは押し入れで、もうひとつは隠し階段になっていて、 直接階下の炊事場に降りることができるようになっていた。少年に はいかにも楽しく、不思議に思える部屋だった。
後年、2階の大広間に隣接して、増築がされた。立派な1つの部 屋と便所ができ、さらに新しく浴室へ下りる階段も造られた。それで 、2階から階下に降りるのには、合わせて3つの階段ができて、雨の 日などに子どもたちが家をかくれんぼ遊び場にするのに、さらにぴ ったりの造りになった。
さて、順序が逆になったが、この家の1階の間取りは、次の様である 。
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正面の階段横には硝子戸があって、そこに家族が集まる居間があ る。隣接した廊下の前は小さな中庭で、ここにも井戸があり、すぐ奥 の垂直の崖に面し ていた。この崖の山肌は漏れてくる水分でいつもじめじめしていた。廊下の先 は、奥の部屋になっていた。この山際の部屋は陽当りがよくなく、夏 でも1日中ひんやり涼しかった。団欒所の居間は、すぐに広い炊事 場に続いていた。この炊事場は床がコンクリートで、セメントの流し 台からは、魚を調理して、その後を綺麗に片付けて、仄かに清潔な 魚の残り香と海の香りが合わさったよう独特の匂いがしていた。炊 事場の最奥には2つの竃と燃料置き場があった。この置き場には、 裏の山から拾われて来た焚き付け用の松葉がいつも山積みされて いた。
調理場も海の素材を扱うため、広めの流しになっていた。その横に は少し深めの水槽で、ここでは魚介類を下ごしらえした。調理場に も炊事、飲み水に使用する井戸があった。調理場から前の道の方 には、玄関の横から続くコンクリート床で、すぐに家の外になってい た。
まるで料理屋のような広い炊事場の床は全面に水を打って掃除を するのだが、玄関の戸の下にはその水を掻き出す穴があけられて いた。ある年の夏、台風の風で雨水がその穴から家の中に浸水し てきたことがある。その印象が強く心に残り、後年、台風の大波が 打ち寄せて、その穴からはもちろん海水がこの家を襲ってくる夢を 度々見た。ある時は、家の前にあった貝塚の木に登ったり、波の大 きさが酷い場合は裏山に攀じ登るという夢を度々みることになった 。
玄関の左手の部屋には、おそらく雑誌から切り抜かれたであろう美 人画が何枚かの額に入れ飾られていた。当時、もちろん大人は働 いていたため、子供がやってきているこの祖父母の家に、おそらく お盆の休みにだけやって来た時、一族郎党がこの部屋に集まって 大宴会をやるのが恒例だった。その他にも親戚がたくさん集まると 主にこの部屋で食事をした。祖父の葬儀、後に行なわれた祖母の 葬儀もこの部屋で執り行われた。その部屋の奥には一段高くなった 少し薄暗い仏間があった。仏間に隣接した奥の部屋は団欒の居間 から続くさきほどの湿気の多い部屋に続いていた。つまり、昔の大 きな家はほとんどがそうであったように、家の中を一周できるのであ った。
奥の部屋の外側と美人画の部屋も外廊下でつながり、最奥には浴 室と便所があった。便所はいつも樟脳の強い臭いがした。
海で泳いだ場合は心臓が止まるほどの冷たい井戸水を桶でかぶっ たが、海に入った日も入らない日も潮風で肌がべとべとしていたた め、夏休みの間はとにかく毎日この風呂に入ったのだった。炊事や 調理、風呂にもこれだけ水を使っていたということは祖父母の家は 、島にもかかわらず水の量は充分にあったのだろうか。
この浴室は一い番奥の薄暗い空間であったので子どもにとっては 恐ろしい印象だったと思うのだが、大きな五右衛門風呂の浴槽で 入浴はいつも楽しかった記憶しかない。風呂の縁は磨かれた花崗 岩だったようで、子どもの熱い肌には心地よい冷たさだった。薪を くべる焚き口の背後には時々赤い色をした山蟹が歩き回っていた 。この蟹は食用にならなかったのだろうか?いまでもこの蟹は山に 入ると見ることができる。
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◆写真は山蟹。
2階建てのこの母屋の南側は良く手入れされた広い庭になっていて 、躑躅などいろいろな樹木の育っていた築山もあった。庭は道路と 黒塗りの塀で隔てられていた。海の石で造られた土台に、コールタ ールの匂いが漂う黒色とバンガラの朱色に塗られた塀に囲まれて いた。その中央部には、小粋な門が設えられていて、どういう趣味 か知れないが富士、鷹、茄子の彫刻が刳り貫かれていた両開きの 扉があった。もっともこの扉は実用的ではなくあまり開かれることはなかった。
4 隠居所
中庭の先には、離れになっている隠居所があった。玄関というほど 立派な造りではなかったが、入口は南側にあったのだが、僕らはほ とんど、この中庭続きの方から出入りしていた。裏の上がり口の両側 は物置になっていて、いつも薄暗かった。上がり口からすぐに部屋 に入るということになる。ここにはふだん祖父と祖母がふたりで暮ら していた。昔は、齢をとると隠居して、竃を次代に渡すことはありふ れたことだった。
隠居所は簡単な造りで、浴室も、台所も必要なかったので2間の居 室と板張りの仕事場、それに便所だけという間取りだった。
道路に面して、大きな窓のあった仕事場は明るかった。そこで祖父 は面を彫っていた。 後年、叔母は「父彫りし鬼面能面壁にあり塗料ひびわる二十五回忌」(歌集「華」・1998.7・葉文館出版)と詠った。 叔母は、一本買いした公孫樹の木を面作りの幅に切らされたそうである。 そう、祖父は芸術家というわけではなかったが 、ちょっと玄人はだしの彫刻を趣味としていたのだった。あるいはど こかから頼まれ、代金をもらいながらその面を納めていたのかも知 れない。島の中の他人の家で祖父制作の面を見たことがある。祖 父の暮していた隠居所に飾ってあったものは、納品できなかった失 敗作か、あるいはお気に入りの作品で手放さなかったものかとも思 える。木で鬼、狐、ひょっとこ、おかめなどの面、布袋、観音などの 立体の彫刻、宮造りの棚などを日長が一日作っていたのだった。も ちろんそれで生計を立てていたわけではない。
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◆写真は祖父の作 品
鬼の面はまた、市内で行なわれるあちこちの村まつりの際にも使用 されていた。いまでも一族の家々の玄関や床柱にはこれらの面のな にかしらが飾られている。
祖父は時々、余った木の材料で玩具の舟などを孫たちに作ってく れたりしていた。
その祖父は手先の器用な人で自分の髪もバリカンを使用して自分 で刈っていた。近所からよく鋸の目立ても頼まれていたし、海岸の 砂で煉瓦なども作っていた。
祖母は昔の女性の誰もがそうであったようにとにかく働いていた。 そして、休憩の時には、今では見られない百草によるお灸をしてい た。ということは、それなりに体に無理をして働いていたのだろう。そ れは孫達にはわからないことであったが、当時としてはそういう風に 働き続けることは至極当然のことであったのだろう。昔の人は、元 気でさえあれば、死ぬ間際まで働いていたのだ。それでも、ひと休 みした時にキセルで煙草を喫うことや花札、八卦を楽しみにしてい た祖母であった。その祖母はある時、村田英雄だったか春日八郎 だったかが、あまり売れていない頃、困っていたのでいくばくかの金 を与えたということが自慢話のひとつであった。
隠居所の外はそれほど大きくもないが、南側に野菜を育てる畑も作 られていた。この隠居所の玄関の傍らには季節にはレンギョウが美 しい黄色い花を咲かせた。
夜になると、この隠居所や、落ち間や、2階の大広間などその日の 気分次第だったのか、その日に泊まる親戚の家族構成の都合があ ったのだろうが、子どもたちは好きな部屋で眠った。海岸ということ もあり、裏手には山があったこともあって蚊が多くいたため、蚊帳と 蚊取り線香は必需品だった。蚊といえば、母はあまりにも多く蚊に 刺され続けたため、晩年になるまで、いくら蚊に刺されても痒がるこ とはなかった。これは母のすぐ下の叔母も同様でこれは2人とも自 慢事であった。島に棲息している蚊は普通の蚊と比べて1段と痒み が酷いのだったが、それに免疫ができることによって、どんな蚊にも 平気になったのだろう。ところで蓑島山の中には蚊がたくさん棲息 している。できれば蚊取り草ともいわれるローズゼラニュームという ハーブを植えてその環境を変えてみたいと思う。
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◆写真はローズゼラニューム。
祖父母の家の母屋のような広さの家に住むことは平気だったし、隠 居所が気に入っていたために、逆に小さな家に住むことにもなんら 抵抗がなかった。齢をとって現在の小屋のような家に住むことを選 んだのもこの時の記憶が強かったためでもある。少年時代を過ごす には最適の環境だった。
5 生活
祖父母の家の前には、島を一周できる比較的広めの村道が走り、 海側には高さ1メートルほどの堤防がある。この堤防は子どもたちの いい遊び場であった。その下はもちろんすぐに海岸になっていた。 海辺に降りるには、家の前にあった堤防の切れ目から3メートルほ どの急坂を下り、さらに100メートルほどのところが波打ち際になっ ていた。普段はこの坂の両側にきゅうりなどの野菜を作られていた 。極く、たまに台風などで大波が寄せた後、畑が流されることがあっ た。土は、砂鉄を含んだ砂地だったのでいくらでも作り直せた。
今考えればこの砂浜でキャンプなどをして遊んでもよかったのだろ うが、まだまだキャンプをすることは一般的でなかったし、専用のテ ントを個人所有していて、それを張って、海で寝るなどということを 考える時代ではなかった。またキャンプなどをしなくても浜辺には 遊ぶことがいっぱいあった。
砂浜の両側は岩に囲まれていて、海水浴客にとっても少年にとって もまるでプライベートの海水浴場のように思えた。
海辺の正面には岩場があって、潮が引いてくると、毎度だんだんと その姿を現した。
夏の日の朝、目覚めた時間帯と満ち引きとのタイミングが合ってい ると、朝食前にその岩場で小さな蟹や浅蜊を獲りに行った。
そして、ガサゴソ動いている蟹を持ち帰り、大鍋に入れて蓋をして 茹で、味噌仕立てにして、朝食のおかずにした。浅蜊は砂出しをし て、その日の夕食にした。
海水浴シーズンには、砂浜でバカガイ(潮吹き)が大量に獲れた。こ の青柳ともいわれる貝は、しかし夏には毒を持つといわれ、食用に ならなかった。
ハガメンタマという巻貝も岩場にたくさん付着していた。少し苦みの あるこの貝は茹でて蓋の隙間に針を突き刺して、それを串代わりに して中身を取り出して食べるのである。特に冬場は美味しくて、帰 宅するバスに乗る前、貝のいる岩場が見えていればギリギリの時間 まで獲ってお土産にした。
南側の岩付近の小石の混じった場所にはたくさんの浅蜊がいたし 、夏には海水浴をしながら赤貝や絹貝を取った。魚釣りこそしなか ったが、貝類は豊富に取れた。特に絹貝は生のまま中身を取り出 して、足の先に針金を通して干したものが作られた。これはいまでも この地方の珍味として売られている。
時々、ガザミという渡り蟹や車エビが潮だまりにいた。このガザミに は、今、豊前本ガニという名称がつけられて漁獲が豊富、地元の店 や魚市場でも販売されている。全国的に有名なのは有明海の竹崎 であるが、これに対抗できるブランドになれるのか?竹崎にも送ら れているときく。水産試験場でガザミの幼蟹を放流していて、半年 で15センチの漁獲サイズに生長する。
蝦蛄や牡蛎も有名。他に、砂浜には当時は食用にならないため見 向きもされなかったが、いまは天然記念物として保護されているカ ブトガニがいくらでも動き回っていた。 岩場にも、当時食用にすることなど考えもしなかったカメノテがいく らでも付着していた。また、漢字では海松と書く、ミルといわれたち ょっと気持ち悪い海藻もたくさん見られた。ところで、このミルは、湯 通しすれば、酢の物で食べられるらしい。水に浸して色を抜いたあ と、乾燥もしくは塩蔵すれば保存できる。
祖父の実家があったこの海岸は、太平洋戦争以前は岩がまったく 見えず、砂浜だけの海岸だったが、昭和18年の夏、大きな台風が やってきて、たくさんの砂を波が1晩で沖に運び去った。その翌日 から、突然、家の前の海岸は岩場が常に見える風景になった。逆 に少し南の天満宮のある海岸に砂が打ち寄せて、天神屋の2階ま でが砂に埋もれた。それまで砂浜から直接続いていたこの海岸に 堤が造られたのはこれ以降のことである。また、この砂の大移動は もう1カ所、沓尾漁港の北側、祓郷川の河口にも砂山を出現させた 。この祓郷川河口の砂山の上には、しばらくして2軒の苫屋が地元 の漁師によって建てられて、いまでも使われている。近年は、低気 圧による高潮被害をのぞけば、台風の影響がほとんど見られない 蓑島も昭和25年9月、鹿児島県志布志湾に上陸したキジア台風、 翌26年10月、鹿児島県串木野市に上陸したルース台風でも大被 害を受けている。
6 龍宮神社
祖父母の家のすぐ北側には、道路脇に海に向かって斜めに延びた 大きな幹の松と大きな岩山があって、ちょっとした景観を造り出して いた。この松や、ちょっと危険な岩はともに登って遊ぶのにちょうど よかった。
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◆写真上は龍宮浜とかつての龍宮神社社殿。神社境内の大きな 松の木は既にない。その下は神社下にあった斜めに延びた松の木 の風景。
松の山の手、家の敷地に隣接したすぐ北側には神社があった。こ の環境にふさわしく名前を龍宮神社といい、10段ほどの階段の上 に、いまはコンクリートになっているが当時は木造りの大きな拝殿が あった。境内には松の木が2本生えていた。その内の1本は太平洋 戦争中、突然倒れて村道を塞ぎ、1本のみが残った。大木であった ため、松脂が多く採取できた。これは焚きつけに使用したという。
現在の拝殿天井のガラス器の中には竜の彫り物があるが、これも祖 父が彫った物である。山際の階段を上って行った崖の中腹には、 草木に埋もれるようにして小さな石造りの本殿が鎮座している。
氏子の1人だったのか、隣接地ということもあって、この神社は祖父 が面倒をみていた。かつては大きな木造の建物だったが、現在、こ の拝殿は、コンクリート造りになっている。世話人には、尾形洋、中 川清、中原和彦、今井香、和田勝博、尾形俊明、橋本昇の各氏の 名札が並ぶ。
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◆写真は現在の拝殿にある龍の彫り物、左は階段の最上部にある 本殿
大岩のある場所から、長い鉄線に結ばれた網が沖合にまっすぐ延 びていた。あの仕切りは、おそらく漁業のための仕掛けと思われる が、一体何だったのだろう。海水浴の時、足がつかない程の水深に なっている時には、この鉄線に掴まって一休みした。
大岩のある場所は、車が転回できるほどの道幅になっていて、ちょ っとした崖下の広場になっていた。ここはいわば感覚的には行き止 まり的な場所であった。その先は、通常足を延ばさない地域になっ ていたのだ。行橋 蓑島
◆写真は転回場所
それでも現在、島一周の道はその先も続き、道に面して昭和31年 に創立された稲荷教会の拝殿が建っている。入口には赤い花の咲 く木がある。大鳥居の先にも赤い鳥居が続き、上部にはこぢんまり した本殿があった。背後には菱形大明神も祭られている。ちなみに 昭和48年に建立されたこの大鳥居は施工した叔父宮定治久と大 坪一利・安田利勝の名が刻まれている。後に、この拝殿に、一時期 しばらくの間、その叔父が住んでいたこともあった。
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◆写真は稲荷 教会の鳥居、遊歩道の案内図
神社の先のカーブから坂道を上がった場所は、今は2段の駐車場 になっているが、かつては野焼きの火葬場があった。町まで行かな いで島の人間はここで火葬されていた。祖父も葬式の後、ここで木 材をかぶせられて焼かれた。今は、この場所は公園と広場になって いて、島の稜線を辿る遊歩道の入口になっている。
7 蓑島の歴史
ところで、蓑島という名前は、農作業着の蓑からではなく、「3つの 山からなる島」に由来するといわれている。この島は北から標高82 メートルの蓑島山を頂上とする)、中央に58メートルの城ヶ辻、南に は標高57メートルの鷺山という3つの山がある。島としては北側に亀 甲島(略して甲島、南に鶴島という2つの島からなり、それに鶴島の 西、天神浜に延びる岬部を伴った菅原神社のある天神島(小島とも )というこんもりとした小山がある。すなわち、蓑島の名称は、現在遠 望する亀甲島・鶴島・鷺山3つの頂上に由来する。その景色から1 名、浮島と美称された。いま、この3つのピークを結ぶ尾根伝いに 縦走する道が走っている。
蓑島の北には神島、毛無島、笠縫島、間島という4つの無人島があ った。神島は、無人島として苅田の沖に浮かんでいる。古の宇佐島ともいわれ、大分県宇佐神宮はこの神島に祭られていた三女神を遷したことに由来している。 毛無島、笠縫島は現在の北九州空港造成の基礎になっている。そして「3つの 山からなる」三ノ島は、この笠縫島の「笠」から「蓑」の文字が美称と して採られた。
豊国のみの島山の郭公(時鳥)かしらや雨にぬれてなくらむ 村雨に濡るる衣のあやにくにけふ蓑島の名をやからまし
五月雨に名をたのみてや蜑船の蓑島にのみ漕とまるらむ
などいずれも平安期の和歌で詠われている。 かつて、沓尾と二崎の山を両側に置いて、海に漕ぎ出す正面に蓑 島があった。そして蓑島は、北九州三津の筆頭であり、江戸期には 豊前十八浦のひとつといわれた。
福岡藩の儒者であった貝原益軒の「豊国紀行」で1694年5月5日の項に「是より下はるかに蓑嶋海中に見ゆ。其山三顆あり、潮干ぬれば陸地よりわたり行。みの嶋の南のふもと海辺に漁人多し。此浦にて魚を多く取て、隣国につかはし売」とある。
島であった当時、文化7年の伊能忠敬による測量は一周23町9間3 尺という数字で表されているが、明治14年発行の「蓑島村誌」には 、「東西8丁20間、南北18丁20間、周囲53丁20間、家数3百01、人 口千2百709」とある。1間は6尺で、1・8182メートル、60間で1丁だ から、1丁は109・092メートル。これに従えば、東西約900メートル ×南北2000メートル、周囲5800メートルということになる。こちらの 方が正しいようだ。そうすると面積は1部でいわれているような0・5 平方キロメートルではなく1・8平方キロメートルということになる。
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◆ 写真は伊能図。当時は離れ島。下は沓尾方面から蓑島
尾根伝いにある縦走路には、今でも石垣が残るが、ここには蓑島 城があった。この蓑島城を語るにはすぐ北の苅田町にある松山城 の歴史を語らねばならない。
松山城は、常に北九州における戦いの要地だった。その攻防は紆 余曲折を経た。
最初、740年(天平12年)に大宰権帥、藤原不比等の3男・宇合の 長子である藤原広嗣が築いた。ちなみに朝廷と戦った藤原広嗣は 、敗走して肥前国松浦郡値嘉島長野村(現、長崎県宇久町)で死ん でいる。
940年(天慶3年)には神田権少進光貞が居城とし、1157年(保元2 年)、平判官康盛に滅ぼされるまで、18代続いた。なお現在の苅田 (かんだ)の名前はこれに現在由来する。平康盛は、左大臣・平時 盛の6男で、1157年(保元2年)豊前国司となって下向し、企救郡長 野に城を築き、長野氏を称した。
ところで、神田氏を滅ぼした後、松山城には平康盛の3男信盛が入 った。信盛の子・小平大夫吉盛は「壇ノ浦の戦い」で源氏と戦って 入水している。
一方、応安年間(1368-74年)に豊前国を支配した大内義弘の守 護代であった杉興信以降、杉氏が城主になっていた蓑島城も松山 城と関連してたびたび戦いの舞台となった。
1386年(享徳3年)に、蓑島の五郎なるものが求菩提山護国寺に舎 利塔を奉納した記録が残る。この名はもちろん地名の蓑島を姓に 戴いた実力者である。
周防大内氏が盛んであった応永の頃は大内氏の家臣・杉氏の居 城だった。1398年(応永5年)頃の蓑島城主は杉弘信であった。
1399年(応永6年)には、大内配下の千田九郎豊房は津留に布陣 している。後に沓尾にあって名主を勤めた千田家の先祖である。豊 房は蓑島に生まれ、両親もその当時、島に在住していた。戦いのさ なか、ある日二崎(蓋崎)から蓑島に渡り、父母と再会した話が次のように 伝わる。
「千田九郎豊房は豊前国蓑島の人也、‥‥杉弾正弘信、豊前の 守護たりし時、追従して長門国豊田にありしが、近年相続いて軍役 暇なければ父母の対面も叶わず。心憂くておりたりしに応永6年正 月内藤又次郎に伴ないて鶴の湊に在陣す。よき折節なれば蓑島に 渡り、父母に対謁せばやと思いけれど陣令厳ければ、かりそめに 往くべきにもあらじ。空しく光陰を送りけり。或る時海辺を警固する 事ありて、幸いと思い、便船を求むれど漁夫は厳法を畏れて肯わ ず。時しも正月十日の黄昏に夕潮の湛えたれば,鹵地を往かむも 叶わで、蓋崎の海岸に休らい、島の方を眺めやりていたり。宵潮の 頃なるに、忽ち潮渇きて平沙漫々たり。九郎即て乾潟を思ぎ往きけ るに、宵月朦朧として、遠近定かならざるに蓋崎の方より猛火忽ち 潮の上を飛びて島の方へ往きて、又沖の方より火団来たりて、龍女 宮の辺にて入り違い双方に飛び去りぬ。九郎此の火をしるべとして 、父母に対面し、年月の物語りに夜も闇に及びければ、父母に暇 乞いして立ち帰る。されども潮も来らず、九郎も奇異の思いをなし、 本の陣所に帰着す。陣所の人に何の刻ぞと問うに戌刻と答う。九郎 余り不測さに傍らの人に然々の由を語りければ、年老いたる人云い けるは、かようなる事誠に汝が孝心を天神地祇も感応ありてこそ、 潮もはや乾き不知火も道しるべせしなるべけれ‥‥」(「応永戦乱」) この話は伝説というより、おそらく年に2度巡ってくる大潮の日であ ったからに違いない。この中に出てくる「蓋崎」は現在の2崎であり、 また「龍女宮」は、祖父母の家に隣接していた龍宮神社のことであ ろうと思われる。
1409年(応永16年)には、杉弘重が蓑島城主となった。 1468年(応仁2年)頃には、蓑島城は藤原不比等の流れを汲む藤 原朝臣邦吉がいた(後述)。
その後、1551年(天文20年)、当時、大内氏の家来であった陶晴 賢が長門において主君大内義隆を裏切り、大内氏を滅ぼした。こ れは大寧寺の変と呼ばれている。
1554年、大寧寺の変の後、杉隆重は、正式に蓑島城に拠点を移し た。蓑島城に杉因幡守が寄進した菩薩神像が後に、行橋市街地に ある大橋正八幡神社で発見されている。
その後1555年、その陶晴賢も厳島の戦いで毛利元就に滅ぼされる 。そのおよそ1年後の1557年(弘治3年)に大内氏は滅んだ。翌 1558年(永禄元年)、その大内氏を滅ぼした毛利氏が門司城を攻 略した。一方、大友氏は門司城の支配下にあった小倉・長野城に いた長野氏を配下にしていた。
1561年(永禄4年)毛利・大友が豊前北部で戦い、この時蓑島も戦 場になり、大友の船が毛利方が奪った記録がある。
1562年頃は、元大内氏の家臣で、その後、毛利氏の家臣になって いた天野隆重が在城していたが、大友宗麟に攻められ、大友氏の 属城となった。
1575年(天正3年)、薩摩の島津家久はこの地を通過している記録 が 上京日記に見える。
1579年(天正7年)、北九州に勢力を延ばす毛利氏の命により、馬 ヶ岳城主長野三郎左衛門助盛(助守・祐盛とも)は、高橋宗全、宝 山城の安東氏とともに、蓑島城で毛利氏に反旗をひるがえした杉 重良(長門高倉城主杉因幡守重昌の子・幼名千代丸)を攻略した。 その長野氏もほどなく、島津征伐に来た豊臣秀吉勢によって、攻め 落とされている。
天正年間にはこの長野助盛の属城だったが、慶長5年の関が原の 戦いの戦功で、豊前は細川忠興が領し、1606年(慶長11年)には 松山城も廃城となった。
江戸時代、蓑島は細川氏小笠原藩の領内・元永手永にあった。こ の手永は小笠原藩が施いた制度であり、郡と村の中間にあたる行 政区分である。
元和年間(1615~23年)には、家数133戸、住民数363人(男190、 女173)。庄屋、肝煎、の他、神主、坊主、加子などがいた。
1665年(寛文11年)の春、海豚117尾が揚がった記録がある。
その後、蓑島について触れた記述は以下のようである。
1694年(元禄7年)、貝原益軒の著「豊前紀行」に、
「津積を通過‥、是よりしたはるかに蓑島、海中に見ゆ。其山三顆 あり。潮干ぬれば陸地よりわたり行。みの島の南ふもと海辺に漁人 多し。此浦にて魚多く取て、隣国につかはし売」とある。
1696年(元禄9年)、江間氏親は「両豊海上行嚢抄」に「蓑島4里、 比島ノ内、何風ニモヨシ。スヘ湊ナリ。大沼ナレ共ニセズ」とある。
享保年間(1716~35年)の飢饉では552人(大島409、小島143)が 餓死した記録がある。
1783年(天明3年)、古川古松軒の「西遊雑記」に「大橋より近一里に 蓑島といふ名所有り、風景の地なり。今は地つづきとなりて塩浜とな る。古歌などに郭公のよみあはせをす。卯月の比はほととぎす多し と云」とある。この「大橋」は後に行事と合併して、[行橋」の名前の 元となった大橋村のこと。「古歌」とは「豊国のみの島山の郭公(時 鳥)かしらや雨にぬれてなくらむ」の和歌。郭公は「時鳥」とも詠まれ ているが、ホトトギスのこと。
1802年(享和2年)菱屋平七は「筑紫紀行」で「漁浜にて家居四、五百 もあるよしなり。道より西にあたりて山中に、南原村、尾倉村なども 見ゆ」と記している。
東日本を調査して将軍家直参に登用された伊能忠敬は、引き続き 西日本の地図作成を命じられ、1809年(文化6年)の末、小倉に到 着。翌年1月から九州の海岸線を測量開始する。その際、行橋を通 過した。19日の日誌に「蓑島半周(11町23間3尺・・天神島3町遠測 )を測る。渡海、汐干乗船難成、砂地を駕籠にて渡る」と記している (前述参照)。なお伊能忠敬は九州の測量を終えて、中国、信濃、 甲州を経て5月江戸に一度戻り、11月再び九州に赴き。壱岐・対馬 ・5島の島嶼部を測量、年末姫路を経て、文化11年江戸に戻り、翌 年江戸府内を精密測量。4月に74歳で死亡している。死後、弟子 たちが「大日本沿岸輿地全図」を完成させた。
1813年(文化10年)、野田成亮の「日本九峰修行日記」には「美野 島と云ふに渡る。此島に神変菩薩勧請ある由、因て詣る。当島三 百軒計あり。豊前十八浦の一と云ふ」とある。豊前十八浦とは門司 の柄杓田浦から東吉富浦の間にあった18の浦、すなわち入り江の ことである。
藩政時代、蔵屋敷があり、米穀・農産物を運んだ。
文久3年に監視所ができて御番所の浜と称された。
慶応2年、浄喜寺の村上良春が僧兵150人を連れて防備のため蓑 島に渡海している。
明治22年、市制町村制施行で「仲津郡蓑島村」となる。明治29年 に京都郡に所属を移す。
大正9年には大島地区で50戸を焼失する大火があった。
昭和29年、行橋市に編入。
昭和48年に蓑島漁民センターができた。
ところで蓑島はいまでは陸続きだが、大正元年10月に蓑島橋が架 かるまでは、文字通りの離島であって、舟を利用するか、高めに築 かれた岩の上を干潮時に渡るかしなければ島には渡れなかった。 江戸時代末期、1862年に干拓された文久の地に植えられた松並 木が続く堤防を延ばす形で突堤を築造した。築造には、山口県徳 山市の御影石が石船で運ばれたという。突堤の先端から1回2銭の 渡り賃が徴収されていたのである。
ちなみに橋が架かって2年後の大正3年には島内に電灯が点って いる。
1953年、50町歩という広さの蓑島干拓が完成して、行橋平野と面 で結ばれ、完全な陸続きになった。
行橋 蓑島
◆写真は、蓑島城ヶ辻からみ た文久の松、かつての蓑島橋
現在、蓑島山と城ヶ辻の鞍部には集落中心部と小井島浜を短絡す る山越えの小径があり、生活道路としても比較的頻繁に利用されて いる。また、中央の城ヶ辻から南の鷺山にももうひとつの鞍部があり 、ここには集落の西方寺からの小径が合流し、旧火葬場を経て、小 糸浜に降りるもうひとつの短絡路になっていた。但し、こちらの道は 島民のほとんどが利用することのない道ではあった。その長閑さは 、松尾芭蕉の「山路きて何やらゆかしすみれ草」の句が似合いそう な山道である。
島の南端に位置する鷺山からは樹木の間から国東半島が見える。 この縦走路には、山茶花、馬酔木、薮椿などの他、現在は、御衣 黄、公孫樹など、いろいろな樹木や草花が植えられ始めていて、数 0年先にはこの島は花の島になるだろう。
また、中央の嶺・城ヶ辻の一角では石に自作の俳句を彫り込んで 設置する事業が続けられている。30万前後の費用で、自分の作品 を残すことができるということで、市内の短詩型文学者に好評のよう である。これによって市内の石材店の商売に継続的な需要が見込 めている。青森県津軽の外ヶ浜町蟹田では、太宰治の作品に由来 する「風の町川柳大賞」を募集していて、大賞は碑にして観瀾山に 建立している。蓑島でも毎年、短詩型文学を募集し、その1席作品 を、石屋さんの費用で設置したい。碑を建立した人も、友人などと 連れだって何度も蓑島を訪れることになるだろう。なお蓑島山の散 策路には金比羅神社もある。
 
8 叔父とガザミ

 
祖父母の家、それに神社が並んだ300メートルほどの一角、蓑島5 区のこの場所は、他に人家がないというわけではなかった。
戦後少し経ってから、その南側、堤防の続くかつて誘蛾灯のあった 角地の山側に、2階家の個人宅ができた。建物の裏手は、崖の傾 斜を利用して植木を階段状に植えていた。そのように利用しなけれ ば土地がなかったのだ。2階家がなくなったいまでもその植木の階 段は残っている。
その家は、隣接して食事処を経営していた。後年、防波堤の海側 の岩の上を均して、今度は海に張り出すようにして周坪館という3階 建ての旅館を始めた。
周防灘は、ガザミという渡り蟹がよく獲れた。ガザミは他の蟹と比べ て絹のようなきめ細やかな身に人気があった。ガザミは、よくシャコ 、エビとともに市内の業者が車に積んで家々を回って売り歩いてい る。都会では考えられなかったが、シャコやエビにしても販売の時 にも生きていなければ売れないというほど、新鮮な魚介類が当たり 前というこの地方の土地柄だった。この旅館で提供するガザミを目 当てにくる客は主に北九州からの泊まり客が中心だった。
近年、ガザミは、他の蟹と同じように傷つかないように鋏の一方を切 り取られている。この状態で生かされ続けるとストレスが溜まり、美味 しさが失われるのではないかと思われるが如何。
この旅館ではそのままの姿で食卓に出された。蟹は魚と同じで漁 獲されてからは瘠せる一方なので、最も美味しく食べることを知って いる島の人たちは、捕獲してからすかさず茹でる。
魚貝に詳しい叔父などは茹でる前に、腹部の中央に千枚通しを突 き刺した。蟹の心臓は腹の中心、山でいえば山頂にあたる部分の 下に心臓があり、ここを突き刺せば30秒ほどで蟹は死ぬのである。 これを知る人は漁業関係者でもそういない。ちなみにその山が鋭角 の形をしているのが雄で、お握りのように鈍角なのが雌である。スー パーなどで量が多いのに廉価で販売されているのは卵を持たない 雄だからである。それで魚屋では腹の方を見せて売るのが良心的 というわけだが、多くの客はそのわけを知らない。もっとも通の叔父 にいわせれば、蟹の肉 は雄の方が美味いらしい。通らしく徹底して食べ尽くすため、食べ たあとは猫も跨いで通るということをいつも自慢げに聞かされた。
この叔父は、母方にいた6人きょうだいの中では長男を除けば唯一の男で、父親の血 を引いたのか、自分で工務店を営んだ。大工らしく豪快で、長男が こどもの折、海に投げ込んで泳ぎを覚えさせたというくらいのことは 当たり前のことだった。
中学生の時、車の運転に興味があった時も、簡単な気持ちで引き 受けてくれ、広場ではなくて、普通の小路で試させたものだから、 案の定、隣の家の塀に、いとも簡単にぶつけたことがある。この狭さ では初めての運転は無理だろうなどという計算などはするはずもな い性格だった。
この叔父は運転がすこぶるうまく、極端に狭い道での切り返しの見 事さはまさしく神業のようであった。
行橋 蓑島
◆写真は、自宅堤防の上の叔 父。
叔父が夕方戻って来ると、必ず近所の友人がやって来ていた。この 振る舞い酒が後年家を傾けたともいわれるほど、いつも数人が焼 酎を酌み交わしていた。多くの島の人たちに愛されていた。
飲酒の後でも、叔父は最後には必ずご飯を食べた。「食欲がなくて も、翌日の仕事のためには米を腹に入れておくもんだ」と。
いくら酒を飲んでも翌朝、早く起きた。その叔父はある年の冬の朝、建築 現場に行く途中、沓尾橋袂の十字路で交通事故で死んでしまった。彼の葬式には島中といってもいいほどの人た ちが参列した。彼の人の良さは島民の誰もが知るところであった。 叔父の死によって、この世で私の名前を呼び捨てしてくれる人はと うとう居なくなった。
この祖父母の家は古くなり、徐々に壊され、その隣に鉄筋2階建て の家ができた。しばらくの間、叔父一家はここに住んだ。古い家は しばらくの間、内部を空間にして工務店の作業場に使っていた。今 、鉄筋の家はそのままで、別の人が住んでいる。祖父母の家の跡 は、周坪館の駐車場になっている。なお母の実家「宮定」という苗 字は、蓑島の中に数軒、田川市に1軒あるが、それを合わせても全 国に608軒しか存在しない。

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三 岬の宿
1 図書室のある宿

行橋 蓑島
さて、隣家の周坪館の話の続きである。
この旅館では、玄関そばの1室を図書室にしていて、客が不要にな った本を宿泊の際に持って来て、気に入った本を帰る時に持って いくということをやっていて、読書家にも好意的に迎えられて評判が いい。持ち帰る本の冊数より持って来た本の方が多いというわけで 、本は増える一方で、時々整理が行われている。いつも本の内容 は変わっている。
行橋 蓑島行橋 蓑島
◆写真は、天神浜から周坪館方面
その考え方は以下のようである。
本好きな人は多い。旅館などの宿泊施設に来て、知らなかった分 野の読む気の起こる本があると嬉しい場合もある。本人が知性を身 につけるのは時間がかかるが、本を宿の一角に置いておくとちょっ と知性的になれそうである。もちろん置いてある本を取捨選択しな いと無知性になるので。よくなさそうな本は処分しよう。
愛媛県の道後温泉も旅館で、各部屋に、夏目漱石「坊っちゃん」の 本を置くようにしたそうだが、各地で同じようなことをやるべきだろう 。東北地方でも、下風呂温泉では井上靖「海峡」、湯野川温泉= 水上勉「飢餓海峡」、百沢温泉=石坂洋次郎「草を刈る娘」、温川 温泉=「宮本武蔵」、大沢温泉=「宮沢賢治全集」など。客が持ち 帰っても、許すくらいの気持ちを持ちたい。もちろん井上靖「しろば んば」「夏草冬濤」「北の海」「あすなろ物語」なんぞは、湯ヶ島温泉 に文庫・全集などの判型のものを幾種類も置くことになるかな。
行橋だと富島健夫「錦ヶ丘恋歌-青春の野望」、五木寛之「青春の 門・筑豊篇」ってところ?
そんな名作の舞台ではないところでも、一般本の読書棚と読書コー ナーを作ってはどうだろう。もちろん既にある施設も多い。過去の 文学全集などが、1冊100円で売られている時代である。そしてお 客に、本を幾冊か持ち寄って置いていってもらうのもいい。そして持 参した本以下の冊数を良心に従って持って帰ってもいいようにしよ う。少しずつ増えていくのも面白い。こういうことでリピーターになる 人もいよう。ある部屋を図書室にするくらいでないと話題性は弱い かな。投資価値はあるような気がする。
2 麻雀大会
それから、周坪館では、年に4回、島内の公民館で開催され ている麻雀大会の参加者が、前日と、大会当日に宿泊する。館内 に、自動卓を4台備えた専用の麻雀室もある。そのために普段から 近隣の愛好者による宿泊で賑わっていた。麻雀をする宿泊客は、 その日の午後到着するやいなや、麻雀を始めて、夕食もお握りと味 噌汁だけですませた。メンバーには酒を呑みながらの強者もいた。 ゲームに慣れている常連は5人で泊まった。ゲームを抜けた人間 は次の順番が回ってくる小1時間に、入浴したり、読書をしたり、浜 辺を散歩したりしてのんびりと過ごすことができた。宿には、小さな 天体望遠鏡も置かれてあったので、月夜の晩などはこれを覗く人も いた。
麻雀大会のことは以下のようである。
[観光のアイデア]宿泊需要につながる麻雀大会の率先開催。
千葉県いすみ市で、毎年6月の土(13~18時)+日曜(9~12時)に 「いすみ市岬町ふれあい麻雀大会」が開催された。2007年11月に はリニューアルされて「第1回いすみ市国際麻雀大会」が開催され ている。
「ふれあい麻雀大会」は以下のよう。
実行委員会主催で、後援はいすみ市・岬町商工会・岬町観光協会 ・岬町民宿組合・岬信販チケット連盟・麻雀博物館・岬雀の会・日本 麻雀連盟・日本健康麻将協会・全国麻雀業組合総連合会。
参加人員は240名・60卓(以前は200名・50卓)、1泊朝食付募集 160名13000円、大会参加のみ80名8000円。ともに1日目の昼食を 準備。
半荘(50分打ち切り)、8回戦総当り、参加のしやすいアリアリルー ルで、順位は累積得点、各種賞と参加賞。
優勝者には日本麻雀連盟の3段の資格が与えられ、副賞はお米 10kg、旅行券10万円、また、飛び賞ではお米5kgなど、3人の1人 は賞が当たる。
申し込みは4月中旬で、受付当日の半日で締切らざるを得ないほ どの申し込み多数とのこと。この「ふれあい麻雀大会」は文字通り、 「ふれあい」であり、行政がらみの麻雀大会ということで信用があり、 会場は公民館、大会の中ではビンゴゲームなども行なわれる。
maj2 maj2 maj2 maj2 maj2 maj2 maj2 maj2 maj2 maj2 maj2 maj2 maj2+ maj2ツモ。
ちなみに、「第1回いすみ市国際麻雀大会」の要項は次のよう。 11月24日(土)13時-18時20分(パーティー終了後、希望者は21時 30分まで会場利用可能)、25日(日)8時30分-14時15分。1荘(90 分)6回戦総当り、国際公式ルール(花牌8枚入)・順位点方式。
Aコース=大会参加のみ、40名以内(パーティー代込1万1000円) 、 Bコース=宿泊朝食付き↓120名以上(大会参加 ・16000円)。 両日、昼食付。
この麻雀大会を開催可能な町で行なうと面白いと思う。これは宿泊 需要につながる。
まだこういった麻雀大会は、大勢になっていないため、早目に取り かかるといいと思う。麻雀は従来の「賭け事」というマイナスイメージ でなく、近年、頭脳活性化などの効能で0分に市民権を得ている。 いすみ市の大会でも当日の参加者の4割は女性。イベントは、基本 的に利益を生み出す必要があるので、参加記念品を町内の菓子 舗などから協賛してもらうようにする<各店舗の所在地を知らせる 町内の地図、観光地地図を添付>とか、スタッフは組合・町関係者 でボランティアなど、持ち出しを極力少なくする。
参加費は1グループ4名・5000円程度に設定してもいい。経費とし て、会場は、町の公共施設、あるいは大型旅館の大宴会場を無料 で借りる。
麻雀の自動卓は課題ではあるが、各宿で自動卓を2〜3台を分担 購入する方法がある。中古品で1台15万円、新品で40万円程度。 これはふだんから使用できるようにしていて、「麻雀ができる町」で もアピールするといいと思う(いすみ市では、岬町内にある麻雀博 物館から借用)。故障予備用として必要卓+1〜2台を用意しておく 必要がある。
賞品は、「1泊2食宿泊券」を各宿から提供してもらうようにする。こ れが1番経済的で、かつ宿の宣伝効果にも繋がる。
参加者の内、宿泊者は、各宿の収容人数によって分宿することが いいと思う。もちろん、参加者には町の情報・割引券を提供。
今後、地元のセミプロ、理論麻雀家、場合によってはプロ雀士を招 待して「実践麻雀講座」の開催も考えられる。これは意外に求めら れているはず(これだけでもイベントができそうなほど)。
申し込みが多数の場合、抽選漏れの人たちの希望をかなえるため 、状況判断で、随時開催をすることもできる。
実際、いすみ市では盛況のため、本戦の6月の他、2月、11月にも「 岬町ふるさと麻雀フェスティバル」を開催するようになった。初めて の回は2月17日、3月4日で、期間中の3回ある土日曜にそれぞれ 大会を3回開催、その間の平日期間も「健康麻雀」として民宿に泊 まるプランが設定されている。1泊3食1万500〜1万2500円。この「 フェスティバル」は「抽選に漏れた人たちにも岬町で麻雀を楽しん でもらいたい」ということで民宿組合が主催するもの。
これから団塊の世代(彼らの多くは麻雀を経験した世代)は、このよ うな交流の場を欲しているという潜在需要があろうと思う。彼らは平 日(閑散期)の開催も可能。普段から、このプランを設定するのが有 効になる。
また、こういう団塊の世代向けに、この大会の前、金曜泊、後の日 曜泊にも宿泊してもらうなど、宿としての連泊プランを考えるといい。 もちろん彼らは麻雀好きの人たち4人組なのだから連夜、麻雀を することが予想されるので、夜食のおにぎりを用意するなどの配慮 を考えることが必要。アルコール類の売り上げもほどほどに見込め る。
この企画に、家族で参加してもらうプランも考える。家族も喜ぶ公認 の麻雀で、お父さんは大会に心置きなく参加、家族は観光協会で 運行するバスで地元観光・果物狩りなどグルメの旅プランなどが可 能。
3 簡易宿泊施設
周坪館には、本館に併設した、いけすの設備があるが、他 に岩盤浴の施設がある。 その他に、小体育館か、集会所のような極めて簡単な造りの簡易宿 泊施設が近くにあって、国道10号線を通過する日本一周人や長距 離旅行者に利用されている。
決して、現在ある宿泊施設を否定し、営業妨害をする意図はない のだが、各地で、このような簡易宿泊的施設を造ることはどうだろう 。
インターネットを見ていると、「道の駅」の車中泊もそれなりの需要が ある。中期間のドライブ旅行をする時に、1泊毎にホテルと車中泊を 繰り返す人もいる。
別の観点からすると、宿泊場所の予定を組まない旅の方が楽しい 人もいる。また宿泊地を決めていると、安心もあるが、まだまだ走る 元気があるのに、どうしても、その日の終着点が決められてしまって いるというのはもったいない場合がある。
また、行きたかった現地で朝、目が覚めて、すぐにそこから行動を 起こせるという利点も捨てがたい場合が多い。もちろん、これらのこ とは旅行費用が潤沢にある、ゆっくり休むことが好きというたちには とんでもないことである。それはそれで結構である。
行橋 蓑島
◆写真は岩盤 浴施設
そもそも旅行費用に占める宿泊費が高すぎるということがある。車 中泊をして、その地方の美味しいものを食べる、あるいは地元の店 でちょっと豪華な物を買い込んで贅沢をする、というのもいいものだ と思う。これはこれで地域に金を落とすひとつの観光対策であろうと 思われる。
新しく設置するならば、幹線から外れてもせいぜい車で10分程度。 できれば、町中とかでなく、自然の中、その地域の特徴あるポイント がいい。目覚めると気持ちいい、景色のいいところがいいが、それ は絶対条件ではない。
もちろんライダーハウスのような簡易宿泊施設であっても治安のた めには管理人が必要である。
本当に簡易の場合、受付と、世話と、掃除をする夫婦がいればい い。管理人は、人好きな人が良い。それなりに夜間に受け入れる場 合もあろうから、近所迷惑にならない場所を選びたい。
日本各地に、モーテルがあるが、使用目的がモータリスト・ホテルで はないのが残念である。尤も、小生、旅行中など平気で泊まるけれ ど。このモータリスト・ホテルの考え方で試みられているのに「ファミ リーロッジ旅籠屋」がある。
既設旅館の特別受け入れでもいい。徳島県の国民宿舎みとこ荘が 営業休止したが、温泉もあり、眺めのいい立地であったので、4国 808霊場巡りの拠点宿にしたらどうかということを考えたが、そんなこ ともひとつの生き残りのアイデアになるかも知れない。
投資的に考えれば、既設一般旅館に隣接させた簡易廉価宿泊施 設を併設するというのもいい。安く泊まりたいという需要がある場合 、普通の宿泊費の売上げができないとしても、彼らが通常料金で自 分の宿を選んで宿泊するということは期待できないではないか。こ れで本館の売上げが落ちるのではということはそれほど心配しなく てもいいかも知れない。
それから、後継者がなくて、食事も出せない、布団の上げ下げもで きない高齢者だけの既設の民宿活用でもいい。それらの力仕事を 宿泊者にまかせてしまうという方法であれば営業できるような気が する。民宿で宿泊客の最大重視関心事は3つある。つまり、「布団 が清潔か」「トイレが水洗か」「部屋に錠が付いているか」である。こ れらが解決されれば活用が期待される。
食事は、部屋持ち込みか、あるいは近くの契約レストランに宿泊者 用のメニューを特別契約で設定してもらうという方法も有効である。 行橋 蓑島

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4 天神浜
1 天神浜

行橋 蓑島
ところで、周坪館の隣にはそのむかしは錦海荘という料亭が あった。その料亭は道路・海とは直角の家を建てたために、「海の 見える料亭」というわけではなかった。これは敷地が海に面して広く なかったためと、当初は個人の別荘だったからだ。しかし、今見ると 、敷地内に道路に面した建物もあったのだろうか。いまでもこの家 は残っている。
錦海荘の先には民家が続き、分岐点には天神屋という木造2階建 ての仕出し、料亭があった。この家の初代は中原姓で、喉に障害 があり、気管が見えるほどの孔があった。そのため話す言葉が聞き 取りにくかったが祖父母の家の者は理解できたこともあって、よく祖 父母の家に遊びに来ていた。当時としては珍しい女性仕様の自転 車を所有していたので、母は高価であったこの自転車を借りて乗り こなす練習をした。乗り慣れたものは歳をとっても平気なものである 。このため晩年の80歳過ぎまで乗り続けた。
天神屋に隣接する中原海苔店は初代の次男が営んでいまでもある 。
行橋 蓑島 行橋 蓑島 行橋 蓑島
◆写真は、錦海荘、現在の天神屋、かつての天神屋の佇まい。
ある夏、この天神屋の正面の店でカキ氷を販売したことがあった。 僕らは、鍋を持って行って、その中に入れて貰い、一目散で家に 持って帰り、シロップをかけて食べた。
このエリアは地元では小島というが、天神島とも呼ばれていた。そ れはおそらく岬の小山のことであろう。現在、この小山までの間に 広がる浜は一面、海水浴場になっていて、その前の道には店がず らりと並んでいた。
かつて、天神屋の隣に3階建ての家、続いて食事処の鶴の屋、豊 前屋旅館、そして同じ並びの、今は空き地になっている場所には、 一時期、時々映画や芝居も上映・上演される食堂があり、隣接して 同じ経営者による、上階は無料休憩所になっている潮湯銭湯があ った。その先には魚介を扱い、行橋の町に売りに行っていた米谷と いう家があった。
現在ある「門」という店は、かつてはカドヤスという屋号で、豊前屋 旅館のあった場所を買い取ったのだ。先代は漁協組合長を務めた 門田安太郎という人で、彼は当時、海苔の養殖に使用する竹を入 手するため私の父方の祖父母の家に毎年訪れていた。
2 潮湯
現在の「潮湯銭湯」については、こう考えている。
潮湯銭湯はかつて漁師達が疲れた体を癒しに、よく利用していた。 日本の温泉の90%以上が確か、食塩泉である。まぁ当然である。四 方を海に囲まれた島国だから。現在、山の中にある温泉で食塩泉 が湧くのは、そこが以前は海だったからというところも多い。 火山帯が地中に走っていないことから、「温泉さえ出ればなぁ」とい う観光地も多い。2000メートルも掘れば大体、温泉は出るが費用が 甚大。それで、海岸部にある宿は、浴槽=加熱方法を工夫して(塩 分は金属を腐食させやすいから)潮湯を看板にしてみたらどうだろ う。
そもそも、食塩泉なんてものは、塩分が水分に溶け込んでいるもの である。従って、温泉が湧かなくても、水に食塩を溶け込ませるか、 海水を混ぜればいい。海水は1度沸かすことでプランクトンが死ん でミネラル分が残り 海水特有のベタベタ感もなくなる。岩手県宮 古市の浄土ヶ浜パークホテルは沖合の海水を採取して、もう実行し ている。
ところで、温泉の食塩泉が、浴後もよく温まるといわれているが、こ れは塩成分が人の汗腺の穴を塞ぎ、人間の持つ体温が放熱せず にいるためである。汗をかいてこの塩の結晶が取れるまで保温効果 は続くというわけである。
行橋 蓑島
◆写真は現在の天神浜前の道路と、かつてあった潮湯の 建物
潮湯のあったこの天神浜はかつてこの島一番の海水浴場だった。 米谷という家は、現在は望海荘という仕出し料理店になっている。 、戦前には、島の人が絹貝を収獲し、それを剥いて、塩水で洗った 貝を持って行き、それらも売り物にされた。
この家で働いていた角田吉夫さんは、当時必需品だった炭を仕入 れ島内で販売していた。戦争に行き、その後、豊津町光留で鮮魚 商を営んだ。松村良夫という朝鮮籍の人は、戦争で半島に帰って 行った。
3 藤原朝臣邦吉
ところで、この分岐の南側は、平坦な岬のようになっていて、 突端には天神浜の鳥居から延びる菅原道真を祀る神社があった。 神社の本殿は海を見下ろす小高い小山の上にある。この地は、天 神森という地名になっている。
都落ちして、太宰府に向かう菅原道真は瀬戸内海を船でやって来 て、行橋の南、椎田町の浜宮海岸に上陸したといわれている。
現在、菅原神社拝殿の横に「玉野井藤原朝臣邦吉発祥の地」碑と その説明の石碑が建立されている。碑文には次のようにある。
「朝鮮季朝の高官、申叔舟は、国王成宗の命により、1471年『海東 諸国紀』を著し、日朝外交通商上貴重な資料として遺されている。 この中に、豊前国蓑島の佳人、玉野井藤原朝臣邦吉は、1468年、 対馬国王主宗貞国を介して朝鮮と交易せりとある。
郷土史家村谷正隆氏は、この史績を縦横に探求され、その著書「 村上水軍史考」に詳述された。
惟うに、邦吉は国内の応仁の乱世(1467-77年)を見切り、海外雄 飛を企図し腕利きの船夫、即ち、我等の祖先であろう屈強の男子 を引き連れ、宗貞国より正式の「渡航証」を受け、海商として、堂々 と日朝通商の先駆者となり、外交親善にも活躍した。その勇気識見 と旺盛なる開拓精神は、万人より等しく賞賛されるところである。
併せて、瀬戸内海の西端に位置する一小島の蓑島が、自然の恵み 、地の利に併せ島民の和協により、古来より良港として、北九州三津 の筆頭にあげられ、奈良・平安朝の古代には、都と太宰府を結ぶ 海路往復の拠点とされた。
中世に海を支配する水軍の時代には、その要港の重鎮となり、内 外通商貿易の商港として真価を発揮した。この商港としての伝統は 近代に至るまで完全にその役割を全うしたことは我等の大いなる誇 りである。
これ等郷土の貴重なる歴史の重みを永く後生に伝承すべく、有志 相図りここに此の碑を建立する次第である」(2001年3月21日 文 学博士長野覚校閲、泉潔記述)
玉野井藤原朝臣邦吉という人物が蓑島にいたというわけであるが、 彼らは朝鮮との貿易を行なっていたというくらいであるから、もちろ ん悪事を働いていたということではなさそうである。貿易や通行料を 徴収して、航海の安全を保証することを商売にしていたということに なるだろう。いまでも村上水軍の末裔が島に残るという話もあるし、 西方寺にある水軍井戸もこれに由来する。村上水軍といえば毛利 元就と手を組んで瀬戸内海を支配していたのであるから、かれらも また海賊であったには違いない。
この碑建立地は、かつては浮き袋などを販売する海の家があった 。現在、その隣になぎさというカラオケ店がある。
行橋 蓑島 行橋 蓑島 行橋 蓑島 行橋 蓑島 行橋 蓑島
◆写真左から、菅原神社前、その拝殿、藤原朝臣の碑
4 イベント
この天神浜は蓑島を代表する昔からの海水浴場で、シャワ ー設備もある。浜からは海に突き出た周坪館の建物がよく見える。 昭和26年に付近一帯が県立公園に指定されている。
ところで、この浜だけでなく、島の海岸が美しいのは、定期的に海 岸の清掃が行なわれているからで、時々は、宿に泊まった人たちも この活動に加わるような企画がなされていた。
一般に、観光イベントを行う際、どこの観光協会もおおっぴらには 口にはしないが、このイベントで来訪者はいくらお金が落とすだろう か、ということを考える。
観光費用で、大きな部分を占めるのは交通費と、宿泊費である。そ れに、飲食費、お土産などがある。
イベントに参加したら泊まらざるをえない、あるいは泊まりたくなる、 夜間・早朝イベントは宿泊の集客に有効なことを考えることが重要 である。ろうそく灯火、土・日曜開催の麻雀、ゴミ拾いの他、例えば 、24時間島一周駅伝、花火、星空観察、蛍狩り、夏のミッドナイトバ ザー、朝まで踊り明かし、夜の海岸散歩、キャンプファイアー、早朝 健康ウォーク、早朝登山、地引き網、海苔採取、大謀網、潮干狩り 、健康マラソン。囲碁、将棋、オセロ、トランプ、花札大会。バックヤ ードツアー的企画、地元の人と協力しての農林漁業お手伝いツア ーなどが考えられる。
例えば、「宝探し」だが、蓑島全体を会場にして、日曜日に開催。 宝の番号札を町中の施設、浜辺、蓑島山の縦走路などに隠して、 実施する。これも、前日の土曜日に宝札隠し隊を一般募集して、宿 泊してもらう。作戦会議を開いて、土曜日の1日かけて札を隠して回 る。日曜日当日は、要員として魚市場で賞品交換を手伝うなどする 。彼らにももちろん海産物のお礼を出す。主催は、蓑島漁協で、後 援は市の観光協会など。賞品は海産物の他、市内の会社、商店、 飲食施設、JAなどから製品、商品、割引券、野菜などの協賛品を 提供してもらう。宝探しよりも本当は宝札隠し隊の方が面白い。1つ のイベントを2つの内容で実施する。この考え方は多くのイベントに 適用できるような気がする。片付け隊=ごくろうさん会を持つ場合も ある。また青森県黒石市では、この「宝探し」を年中行い、エンドレ スにしているゲームがある。町内の数箇所にしかるべき入れ物を設 置。観光客にヒントの地図を渡して、それを頼りにその場所を探し てもらう。ユニークなのは、中にあった宝物はいただけるけれど、替 わりに自分の宝物を入れていく、というシステム。代わりの物を置か ない人は取ってはダメということになっていて、いわば「物々交換」。 その品がいつ別の物に変わるかもちょっと分からない。けれど、こ れは観光客だけでなく町歩き・散歩をする住民にも楽しいことかも 知れない。もっともこれは性善説に立っている行動・イベントには違 いなく、適度に管理しないと、いたずらや荒らされる場合もある。野 菜の交換などもできるかも。
夏休みには海岸に数百個の蝋燭を灯すイベントが行われている。 ただ単にスタッフがろうそくを用意するとかは面白くない。見物客に 浜のゴミ500グラム以上で1個ろうそくを交換して行なう。こういうこと が参加者は楽しいのだ。紙コップに芯を仕込んだ蝋を入れて、お 盆の日に先祖の霊を迎える行事として浜いっぱいに幻想的な明か りが灯った。これは伊豆西海岸戸田海岸でも行なわれている。 「Tシャツイベント」の類いも開催されればいいのにと思う。これは浜 辺にワイヤーを張って、たくさんのオリジナルアートのTシャツを展 示するというもの。その他、いろいろな形と大きさと色の違う貝殻を 集めて貝殻アートを描くイベントも面白い。
5 ミニ九州
天神屋から曲がったすぐ西側には、昭和37年に観光道路と して敷かれた迂回路があって、今では町中を通らないで中原海苔 店の先を回って、移転した小学校の方に回り込むことができる。こ の道にはかつては波洗う海辺の小さな道が通っていた。
中原海苔店の先はすぐに小さな漁港になっている。漁港の先は 1947年に着工して、1953年に9500万円を投じて干拓が竣工、50町歩という大きな 土地が広がっている。いまではこの地域は公園、市の施設などの 他、ゴルフの打ちっぱなし場などがあるが、最近は住宅も出来始め た。この干拓地を囲む堤防上は、自転車と人、リヤカーなどが通る ことができる道があり、祓郷橋を渡って沓尾、今井方面への近道に なっている。
行橋 蓑島
◆写真上干拓前の蓑島の小島地区。山陰の左手は天神浜で、小 山は菅原神社、彼方は沓尾、下の写真は現在の小島漁港
元々この干拓地の場所は大きな入り江であった。この写真の左の 山は鷺山の流れ、その陰が天神浜、その右の小山が菅原神社、漁 港には舟が停泊している。向こうに見えるのは沓尾である。遠浅で あったため、引き潮のときは天神浜と沓尾を結ぶラインまで歩いて 行くことができた。
いま、この干拓地の中には、水で囲まれた広さが500×1000メート ルという大きさのミニ九州というのが造られ続けている。愛知県御津 町にあるような情けないミニ日本列島公園=三河臨海緑地のような ものとは違う。
ミニ九州とは、縮尺500分の1の九州の形に土地を造成して、国道 は遊歩道に、それぞれの山や川は実際の地形に模して積み、ある いは掘ったものである。その基盤の上に、九州各地の名所等が造 られている。例えば、関門海峡、若戸大橋、平尾台、海の中道、虹 の松原、九十九島、阿蘇山、天草、別府、国東半島、臼杵石仏、 青島、大隅半島、桜島、薩摩半島、開聞岳などである。観光地とい えない小さな町村も表現されている。九州各地からやってきた故郷 思いの人たちが自分たちの街をうまく造ろうとして手弁当で毎年や ってくる。いまでは常連になり、友人を伴ってくるため、輪が広がっ ていっている。そう、お役所仕事ではこれは楽しくない。これは未完 成のまま造られ続けている企画なのだ。その様子は邪馬台国ネット のホームページで随時発信されている。
それで、ガイド誌でも掲載されていることで観光スポットになってい る。本州から関門海峡を渡り、九州へ車でやって来た人が、その行 き帰りの際、国道10号線を通過する時、かなり多くの観光客が立ち 寄るようになっている。

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5 小島から大島へ
1 大島

行橋 蓑島
天神屋から北に向かう村中道路の曲がり角にも和田という店 舗があった。夏には、掻き氷なども売っていた。
行橋 蓑島
◆写真はかつての和田商店と、横にあった蔵の跡
東町に位置する 西方寺への分岐でもあるこの丁字路まで来ると、その先は両側に 間口の狭い家々が並び、そのままバス停まで続いていた。 この和田商店から小路を進むと浄土宗 鎮西派西方寺がある。西方寺には、史跡として水軍井戸、庚申塔群がある。
行橋 蓑島 行橋 蓑島
◆写真は西方寺と、境内にある水軍井戸
蓑島の終点になっているバス停は、かつては島の中心部であった 。長い間、小学校もここにあった。当初、小学校は明治6年に浄念 寺本堂に置かれ、3年後には近くの民家に移し、この時、為善小学 校と称した。そして明治35年に、蓑島小学校の新校舎を東町に建 てた。昭和47年以降は、村中から島の外に出て、漁港の近く、陣山 地区にある。
蓑島小学校の校歌は次の通り。
1、南は清き英彦の峰 姿はいとも雄々しけれ 東に望む周防灘  心は清く澄みわたる 学びの窓に勤(いそ)しめよ
2、展望広き城ヶ辻 眼下に続く文久の 千歳の松も双葉より 伸び て繁りて色濃ゆし 学びの庭に勤めよ
3、思えば遠きその昔 歴史は語る官公の 古跡は今なお天神の  清き海にぞ残るなり 学びの国に怠るな
この丁字路の角地にあったバスの切符を販売する家は2男であっ た祖父の兄の家、つまり長男が家を継いだ実家であった。母たち は「東町の叔母さんの家」と呼んでいた。この家では苅田の中原家 に嫁した妹の子、すなわち長男の姪を養女として貰っていた。この 母の従姉妹にあたる人はとても優しかった。バスを待つ時間、この 家に上がり込んでバスが来るまで休めていたので、バス乗客として 島の人たちとは区別されて特別な扱いをされているようであり嬉し かった。
家の向かいには小さなバス待合室があった。現在、この場所には、 蓑島百手祭の碑が設置されている。
行橋 蓑島
◆写真はバス停
ところで、行橋からのバスが天神屋まで至っている昭和7年頃の昔 の写真があるが、この時代前後、犀川出身の吉田と、島内出身の 田原という業者の運行する客馬車が蓑島と行橋を結んでいたことも あった。
蓑島には現在でも、中原、中山、中川、大西、大野、小西、島田、 橋本、門田という姓が多く、他に丸谷、久谷、二石、今井、別府、則 行、和田、寉田、小坪、小島、尾形、山下、山形、山本、山路、川 口、新津、東城、松井、松本、森林、武内、永田、泉、浜田、田中、 福島、米谷、萬川、関、鶴島、鶴田、宮定などがある。
バス停の先には、歴史を感じさせる蓑島神社がある。蓑島神社は 山王社、上宮三皇大神宮を祀る。元禄12年に石の鳥居・華表、昭 和5年に宮殿を新築した。西を向いた鳥居をそのまま進めば、広め の坂道を下り、海に直接降りる道になっていた。明治34年に開設さ れた旧郵便局もここにあった。 ちなみに蓑島にあった小字名は、天神森、東ザキ、サギ山下、東前山、將家保谷、小井嶋、早陣、村ノ上、西山、前平、寺ノ上、ホキ、北平、赤幕、西ザキ、与治ヶ塚、寺ノ脇、西町、小西町、中ノ町、本町、東町、である。 この蓑島神社で毎年5月21日夕刻に行なわれる百手祭という伝統 行事が行われる。これは浄土宗法泉寺・西方寺、浄念寺とともに神 仏が一体となって執り行われる神事である。室町時代後半に、瀬戸 内海の海賊・村上水軍が度々来襲していて(蓑島百手祭碑文には 「古代の蓑島は瀬戸内水軍の根拠地であり」とある)、島を守るため 島民は弓でこれに対抗しようとしたことに由来する。
行橋 蓑島 行橋 蓑島
◆写真は右から、百手祭の碑、と碑文、
まつりのハイライトは2名の若者が海賊の眼に見立てた大きな的に 甲矢と乙矢を対として計百手・200本の矢を射るというもので、これによって吉凶を占い、繁栄を祈 り、無病息災や豊漁を祈願する。的当ての最後は子供たちがこの 的を勢いよく壊し、長寿の夫婦がケーラン団子を奉納し、無病息災 や豊漁を祈願する。
海賊の蓑島への来襲の目的のひとつは、船への水の補給にあった といわれている。海賊が外から攻めてきたか、それとも島に住み着 いた時期があったのか、いずれにしても百手祭はその時代の物語 を伝えていて、いま、市の指定文化財になっている。
行橋 蓑島 行橋 蓑島 行橋 蓑島
◆写真は蓑島神社
蓑島神社の由来には次のようにある。 「本神社の御由来を案ずるにその起因上古神武天皇の御代にあり。天皇筑紫の日向より豊州蓑島に入り賜うや、□に天照大神を斎ひ祭りぬ、後島民その行在所に一祠を建てて天皇を奉祀せり。神功皇后三韓征伐の功を遂げ賜ひ長門豊浦の宮より筑紫宇佐郡に渡御の時御船を蓑島に寄せらるるや島民平地に紅の帷幕を張りて厚く御歓迎し奉れり、後皇后を当島に奉祀し、ついに天照大神、神武天皇、神功皇后の三□の神を一社に合祀するに至れり、本神社を三皇大神宮と称し奉るは以上三柱の神を合祀せるに基づく。(京都郡誌より写す)」 境内には寄進した人たちの石柱が並ぶが、母の実家であ る「宮定」姓もいくつか見られる。さして難しい漢字の組み合わせで ないこの姓はしかしながら全国に608軒しかない。電話帳で調べて みると、全戸が掲載されていないせいもあり、判明している207戸の 全国の分布をみると、京都、大阪、奈良、広島に各1戸、千葉、高 知に各2戸、兵庫に6戸、そしてこの福岡に13戸という具合である。 その連関も興味深い。
蓑島神社の先は、この島一番の人家密集地になっている。西方寺 や小学校付近の蓑島3区はかつて東町と呼ばれ、同様に2区は本 町、1区は西町と呼ばれていた。この西町には、明治22年に新しい 村制の元で役場が設置されている。当時、仲津郡蓑島村、明治29 年からは京都郡蓑島村になり、昭和29年に行橋市大字蓑島になっ た。蓑島神社の鳥居正面には以前は海があった。神社前の右角は床屋(もしくは駄菓子屋)、その隣は永田酒屋、その裏に宮定石蔵の実家があった。小学校6年まで母はそこに住んでいた。床屋の向かいの角は風呂屋。風呂屋の南隣は菓子屋(もしくは食堂)。ここ家の娘は宮定治久の同級生で、蓑島海水浴場の北島に嫁した。菓子屋の先には村役場があり、蓑島に入る道路角が切符売り場の家。役場の道路向かいには小学校があった。また風呂屋から海の方には数軒の家があり、海際には郵便局があった。その手前は大野、郵便局の向かいは大西。ここには松本勝の長女が嫁した。大西の向かいには大野の分家がある。
真宗大谷派の願船寺と隣接した、この島1番の檀家を持つ浄土宗 鎮西派法泉寺は2区、本町にある。この法泉寺の僧侶は、高校の 歴史教師をしていた山下という人だった。沓尾の香円寺に移った 後をその姪に、小坊主であった永田という人を婿を取り後を継がせ た。その永田氏もなくなり、いまはその娘が跡を継いだ。
行橋 蓑島 行橋 蓑島
◆写真は 法泉寺と願船寺
法泉寺の横には、寅よしという屋号の家があって、父親の姉が後妻 として嫁いでいたので、蓑島におけるもう1軒の親戚であった。いず れも年上であった男1、女4という従兄弟がいた。長女は先妻の娘 でとても上品な人であった。この家は伯母が存命していた当時はと ても居心地がよく、蓑島に行くと必ず立ち寄ったし、遊びにも足を 運んだ。伯母はその都度小遣いをくれた。義伯父は船乗りをしてい た人でとても優しかった。先に書いたようにこの伯母が蓑島に嫁し たことによって、伯母の弟である父親に母が嫁いだという縁がある。 この弟思いの伯母は弟である父が死んだ平成3年11月のわずか2ヶ 月あとに亡くなった。叔母は、「食べりー」とか「まんがいい」というよ うな言葉を喋る、この地方の方言の固まりのような人であった。また その4人の娘たちも極端な方言を使用していた。
福岡県内の日豊本線沿線は,言葉は汚いけれど、イントネーション が東京方言に近い。これは別の地方都市に居住すると東京出身者 にも間違われる。だからといって自慢しているわけではない。つまり 単語さえ直せば、九州の出身者だとはわかりにくい。
この地方には次のような方言がある。
○あせる=探る。選び出す
○あんこ=あの人、あいつ。こんこはこの人、こいつ
○いぎす=えご、海藻
○いげ=とげ
○いさぶる=揺さぶる
○いける=埋める
○いけん=いけない。ダメ
○いごく=動く
○いさっちょぅ、いさる=いばってる、いばる
○いたばり=板張り、板の間
○いっちゃん=一番
○いっぱいこっぱい=満杯
○いぬ、いね、いのぉか?=(「去ぬ」のことで)帰る、帰れ、帰ろうか。完全な古語
○いびせい=(虫の卵など、同じ模様がたくさん並んでいるものを見て)気味が悪い
○いっちょけ=(目的地に)行ってろ
○いみる=増える、増殖する
○うっさい=不味い
○うったたく=強く殴る
○うべる=加水して風呂の湯温を下げる
○うんにゃ=いいえ
○えぞる=なぞる
○えもんかけ=衣紋掛け、で和服を掛けていた物。ハンガー
○おい=私。東北地方ではおら、おらい、青森県で「わ」。
○おいい=多い
○おいちょく=置いておく
○おうかん=往還、昔の街道のこと。広い道路。「往還の秋満」
○おうじょうする=往生する、苦労する、困るの意味
○おうちょる=正解している
○おおごと=大事、そんなに一大事でなくとも使う。おおきなおおごと、という場合もある
○おごらるる=叱られる。おごられる、ではない
○おせ=大人のこと。漢字で表すと大背か?「あの可愛かった神木隆之介のおせになったのう」
○おしピン=画鋲
○おちょくる=からかう
○おつけ=汁物
○おばいけ=鯨の尾の白身を晒した食べ物。皮ではなさそう
○おひつ=飯を入れる容器。櫃。名古屋の「ひつまぶし」はこれ。
○おぶる=背負う
○おらぶ=叫ぶ
○おわぁ=「貴方」というより「お前」か。青森県では「な」。
○かいい=痒い
○かいかい=肌のかぶれ
○かいほり=貝掘り、潮干狩りのこと
○かしわ=鶏肉。発祥は奈良地方の黄鶏種の羽の色が柏の木に似ていることから。主に西日本で使用
○かたちんば=不均衡
○かたる=参加する。かたす、など
○かべちょろ=やもり
○(カバンなど)からう=肩に掛ける、背負う
○~かん=(接尾語)疑問をあらわす。人を誘う場合も使う
○がん=分(ぶん)。「千円がん」は、千円分。がと、ともいう
○かんかん=頭髪
○カンカン=空き缶
○~き=(接尾語)~だから。~やき、とも
○きさん=きさま
○きちょる=到着している
○ぎっこんばったん、ぎったんばっこんのどちらか=いずれにしてもシーソーのこと
○ぎっちょん=バッタ
○きない=黄色い、きなは黄色
○(こっち)きない=(こちらに)来なさい
○きびす=急須
○きびる=結ぶ、縛る、括る(くくる)
○きもがこまい=肝がこまい。度胸がない、小心
○ぎょうらしい=やかましい、大袈裟
○きょときょと=目が座らず、落ち着きのない状態
○きりぎり=つむじ
○くど=竈
○くべる=薪などを竈に入れる
○ぐらぐらする=ものすごく腹が立つ
○くらす=殴る。その酷いのが、ぶちくらす、さらに酷いのが、ぼてくりまわす
○くる=(机などを)順次,後ろにずらす、トランプなどを切る場合も遣う
○くわれる=蚊に刺される
○~け=(接尾語)命令。「きさん、いんで、ねちょけ」(お前帰って寝ていろ)
○けぶい=煙い
○けんぱた=地面に図形を描いて石を用いた陣取り遊戯。けんけんぱたぱた、とも
○こいい=濃い
○こかす=倒す。「こける」は倒れる(自動詞)
○こさぐ=掻き取る
○こしい、こすい=狡い(こすい)、せこい
○こそぶる=くすぐる
○こちょばい、こそばい=くすぐったい
○ごっちん=水不足で炊き損なって芯の残った飯
○ごてくされ=なまけ者
○~ごと=(接尾語)~ように。「せんごとせな」は、しないようにしないと
○こまい=小さい
○こまめる=小銭に両替する
○こらえる=我慢する、許す
○こん=この。「あん」はあの
○こんこん=漬物
○さぶさぶ=鳥肌、鶏肌か?
○ざぶとん=トランプゲームのひとつであるダウトのこと。音が似ているので、意味も分からずにそのように言っていた
○さんはいっ、もしくは、さんのーがーはい=さあ、との促しと行動を合わせる掛け言葉
○しいこ=小便。「しいこたご」は小便所
○しきる、しきらん=(することが)できる、できない
○しかぶる=主に下痢などで水便を洩らす。たれかぶるとも。小便の場合は「まれかぶる」というらしい
○しこる=木の枝などが盛んに繁る状態
○したむない=したくない。することに気が進まない
○~しちょく=(接尾語)~しておく(状態)。しちょるは、している。~しちゃろうは、~してあげよう
○しっちょる=知っている
○してもよかろうもん=してもいいじゃないか。反対は、せんでもよかろうもん=しなくてもいいじゃないか
○~しときぃ=(接尾語)~しておきなさい。反対は、~せんときぃ=~しないでおきなさい
○じゃいけんしぃっ=じゃん拳の時の掛け声
○しゃーしい、しゃあしぃ=うるさい。せわしいということで多忙の場合も
○じゃーす=泣かす、いじめる
○しゃっち=わざわざ
○じゅるい=水分でぬかるんでいる様子
○じょう=ばかり
○しょうけ=竹製のざる
○すいい=酸っぱい
○すいばり=スイ針、体に刺さった棘など
○すかん=好きでない。反対は、好いとう
○すける=下に敷く
○ずる=特に床に密着させた状態で移動させること
○(腹が)せく=(腹が)痛い、「頭がせく」とはいわない
○せんちん虫=トイレに生息するハエの幼虫。せんちんは雪隠(昔の便所)から
○そろびく=引きずる
○たいがい=いい加減、大概、沖縄ではテーゲェという
○たく=炊く、つまり煮ること。「ご飯をたく」という
○たまがったけね~=びっくりしたからね
○だんちん=ビー玉
○いける=埋める
○~ち=(接尾語)~と、~て、~ってよ、の意味。人の言葉を引用した時、他の人に伝える場合に使う。 「はぁ?何ち?」など聞き返す時にも使う
○ちきり=分銅式の秤
○~ちゃ=(接尾語)人に行動を(繰り返し)要求する場合、語意を強める場合に使う。「~しなさいっちゃ」「向こう行けっちゃ」、「本当かちゃ?」
○ちゃがんちゃがん=てんででたらめ
○ちゃんする=(幼児語)坐る
○ちょっきし=丁度
○ちょびっと=少し、少量。「ちょぼっと」とも
○~ちょる=(接尾語)~ている
○ちらかす=散らかす
○ちんぎる=千切る、小さくする、ちょんぎる
○つかえる=詰まる。渋滞なども
○つく=筆記具にインクが残っていてまだ書ける状態。外から見える鉛筆などでは使わない
○つぐ=ご飯などを盛る
○つっかけ=サンダル
○つむ=頭髪を刈る
○つやす=(缶などを)つぶす、へこます
○つやつける=艶付ける、で格好をつける
○できもん=吹き出物。ニキビではない
○てれーっと=ぼぉーっと(状態)。「でれーっと」とは違う
○とう=かさぶた
○とういも=唐芋。薩摩芋のこと。食品業界では島津家の家紋から「まるじゅう」。鹿児島では琉球芋。長崎の五島芋は別種
○とうきび=とうもろこし
○どうちこうち=どうもこうも
○どうびる=内臓
○とうまいぶくろ(唐米袋)=米袋
○どける=除く、横に移動する
○(この席)とっとっとー?=(この座席は誰かのために)確保されているのですか?
○とっぺん=頂上。てっぺんのこと
○どべ=泥。順番でびりのこともそういう
○とぼす=灯ぼす
○(背が)とわん=届かない。到わんのこと。北九州地方で遣われる「たわん」とはいわない
○とんぴん=お調子者
○どんべ、どべ=びり、競技などでの最下位
○なおす=元の場所に戻す、仕舞う、片付ける。漢字では「納す」であり、直すあるいは治すと間違えられる
○なかす=泣かす。いじめるもしくは涙を流すほどいじめる
○なし=なぜ。「なしか」とも
○なすび=茄子
○なば=茸
○なんかかる=よりかかる
○なんちな?=なんだって
○なんでんかんでん=なにでもかにでも、なにもかも
○なんぼ=幾ら。金額のほか、「なんぼなんでも」などとも言う
○ぬうせい=ピント外れ、くだらん。「ぬーせいこと言うな」、「ぬーせいのーわーは」など
○ぬくい=(気温など気体が)暖かい、(水などが液体が)温かい
○ぬすと=盗人
○ねばい=粘りがある
○ねぶい=ねむい
○ねぶか=葱のこと。根深
○ねぶる=なめる
○のうなる=無くなる。失くすのはのうなかす
○のける=(脇へ)寄せる。自動詞は「のく」
○のぼせる=(頭がカッカして)調子に乗る
○~ばい=(接尾語)~だよ。~ち言いよったばい
○はがいー=悔しい。歯痒い
○はぐる=めくる
○はさかる=歯の間などに物が挟まる
○はしかい=稲藁などが肌についてチクチクする状態。はじかいとも言う
○ばち=罰、「ばちをかぶる」と使う
○ぱっちん=めんこ
○はっつける=貼り付ける
○はな=最初。「はなから」などという。韓国語から
○ばばいい=日光などで眩しい。本来は、「まばゆい」であろうが、まやぶいと言ったかも
○はぶてる=ふてくされる
○はわく=掃く。拾うを「ひらう」というように、ほぼ「はく」と同じ
○ばる=小便をする。尿(いばり)から
○はんご(う)=都合、体面、具合
○びったれ=だらしない人(これについては不詳)
○ひらう=拾う
○ひらくち=まむし
○ふいきん=布巾
○ふーたらぬーるい=ぼーとして、とろくさい
○ふが悪い=運が悪い
○ふとる=満腹になる
○べべんこ=肩車。びびんこ、とも
○ほいと=乞食
○ほおべんた=頬
○ほぐ=(穴を)開ける
○ほたる=捨てる
○ほとびる=ふやける
○ほろせ=体の表面にできたぶつぶつ
○またごす=またぐ。股越すのこと
○まま=飯。古語。東北地方の古老も遣う
○ままこ=子供の遊びで鬼にならないなど一人前扱いしないで参加できる幼児。本来は、継子で、血の繋がりのない子、仲間はずれにされる者の意
○まんがいい=運がいい。「まん」は「間」が語源で、運が悪い状態から良い状態に移行するためのスペースのこと。映画で有名になった「あげまん」とかは使用しなかった
○みずや=水屋。食器棚のこと
○むげねえ=可哀想、気の毒
○めいぼ=ものもらい、目疣
○めんどしい=恥ずかしい
○もうあんこ=つらら。語源は襲来した「蒙古」から
○もーする=尻を出す、あるいはうんちを出す(幼児語)
○やぁ!=体育会などで行動を起こす時の掛け声
○やいと=お灸
○やおつり=引越し
○やをない=大変とか厳しいとかで(自分が)それなりに追い詰められて困った状態になっている。当惑し、往生しているが、しかし絶望的であるわけではなく、少しだけ手におえない感じで、解決する対策や望みはありそうという精神的余裕のある状況
○やわい=柔らかい
○やんぶし=山伏(不詳)
○よぉ=良く
○よこう=休憩する。「よこい」は休日
○よんべ=昨晩。ゆんべとも
○らんきょ=らっきょう
○~りー=(接尾語)食べりー、見りー、上りー、~してみりーなどと、他人に行動を促す時
○わきあがる=有頂天になる、得意がる、調子にのる。それを非難する言葉
○ワシワシ=クマ蝉。主に栴檀の木にとまる大型の蝉。その鳴き声から
○~ん=(接尾語)~ない。「しきらん」(できない)、「出られん」(出ることができない)、「食べられん」、「眠られん」、など
この親戚と法泉寺の間には、蓑島山と城ヶ辻の間の鞍部越えの小径があって、小井島浜に近道で抜けることができる道だった。村人 も時々この短絡路を利用していた。多くの地図では両方向から途中消滅しているが、現地ではしっかりと続いている。
行橋 蓑島 行橋 蓑島
◆写真は道路からの小径への入口。2枚めの左側に宮定家の墓がある
各地にある海辺の集落と同様、この島も狭い露地を挟んで、家々がひしめき合っていた。階段の先には青い海が横たわっていた。 不思議と猫のいない島であった。おそらく若い頃は漁師をしていたであろう老人が、孫を堤防の上で遊ばせながら、自分はじっと水平 線を眺めていた風景が日常だった。夕暮れ時、ある季節には太陽はカルスト地形で知られる平尾台の方角に沈んで行った。北側か ら長峡川、今川、そして祓川の3本の川が蓑島に向かって東に流れていた。その水面が霞む日は平尾台の姿を靄で覆った。ただ、祖 父母の家のことを考えると、こうした集落の賑わいではなくて、ポンと離れた場所に1軒だけを建てたということ、津和野山中の炭焼 き小屋に住んだということの遺伝子が少年の中にも伝わっていたとはいえないだろうか。
法泉寺の先の恵比寿神社、浄土宗鎮西派浄念寺、地蔵堂を過ぎる。この辺りは字名を蛇巻といい地蔵岬と呼ばれている。その先、苅田方面に 開けた島の北側を回り込んで、本宗落シという難所を過ぎると、現在、蓑島海水浴場になっている小井島浜に着く。
行橋 蓑島 行橋 蓑島
◆写真は浄念寺と、地蔵堂
2 小井島浜
かなり長い間この「こいとはま」を小糸浜と思っていた。これが正しいかも知れない。確かに昭和10年発行の行橋の地図では「小糸浜」としっかり表記されている。市報でも「小糸ヶ浜」と表記されている。「行橋市史」の「明治15年字年小名調」によれば、「小井嶋」という小字地名の表記が見られる。
なお、この浜から北の方角に見える「神島」は「かみしま」ではなく「こうのしま」である。かつては「鴻ノ島」とも表記された。さらにこの島の属する苅田町は同じように「かりた」でなく、この地方の土豪であった神田氏に由来する「かんだ」である。神島の他、苅田沖の北には万葉集にも詠われた笠縫島(異説あり)、毛無島、間島がある。 この小井島浜は、かつては松並木もあった海岸で、土葬の時代あるいはその後にも、この浜辺でも火葬が行われていた。
以前は潮干狩りくらいにしか利用されない浜だった。今では天神浜と並んで海水浴場になっている。またここでは、時々、地引き網の イベントも行われている。
この浜には、個人のログハウスの別荘などもでき、数軒の家が建っている。叔父の工務店資材庫もここにある。浜を眺め下ろす 道の脇には、魚市場で購入してきた魚介類を自由に焼いて食べることができる四阿施設がある。長い間市役所に勤めていた北島さんと いう個人で提供されていたが、2014年に亡くなられた。横の駐車場に掲示している「ゴミをすてない人の駐車場」という立て札も微笑ましい。この浜も台風や、大型の低気圧がやってきた時は、大波で地面が削られる。繰り返す波が少しずつだが、際限なく道の土砂を削り続けるのである。叔父の資材庫も一部ながら底をえぐられ、部屋が中空に浮かんだ。また近くの道が通行不能になったりもした。島の西側の漁港近くでも、ある年の高波で床上浸水の被害をこうむったこともある。
行橋 蓑島 行橋 蓑島
◆写真は北側から見た小井島浜と、駐車場
小井島浜の先は稲荷教会本部の建物、竜宮神社に至り、6キロメートルほどの周回ルートになっていて、これで島を一周したことにな る。
行橋 蓑島 行橋 蓑島 行橋 蓑島 行橋 蓑島 行橋 蓑島 行橋 蓑島 行橋 蓑島 行橋 蓑島

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6 蓑島へ
1 行橋から蓑島へ

行橋 蓑島
行橋という町は周防灘に沿って小倉と中津を結ぶ中津街道の要所であった。行橋市内を中津街道は次のように走っていた。まず、二 崎交差点から、ルミエールの西側の道を進む。橋を渡り、行事簡易郵便局の前を通る。国道201号線を横切る。長峡川の橋を渡り、恵 美須神社、行橋大橋郵便局と走り、浅川家具を右折、県道211号駅前通りでみつぎの横を南下、門樋町を抜け、今川橋北から今川 を渡り、京都高校前で東野道を通り、羽根木に出る。ここからしばらく10号線を南下、辻垣橋を渡り、バイパス交差のわずか西側を迂 回して国道10号線を横切り、覗山の際を走る。仲津小学校東横を通り、道なりに進む。再びセブンイレブン前で国道10号線に戻り、 畠田池の間を進み、すこし迂回をするが、ほぼ国道10号線に沿って進む、というルートである。
鎌倉時代、豊後の国の地頭大橋太郎(筑前守のち肥後守平貞能。平清盛の嫡男重盛の次男・資盛の補佐役)は、鎌倉からの帰途、こ の地の下正路地区に着き、漁師の家に一夜の宿を求めた。その時の厚遇に喜び、この地を気に入り、豊後の人々を呼び寄せた。太 郎はその後町興こしを行なった。それでここは開拓者の名をとって大橋村と名づけられた。明治22年、行事村、大橋村、宮市村が合 併して行事の「行」と大橋の「橋」をとって「行橋町」が生まれた。したがって、この地には豊後の人々の血が流れている。
市街地にある正八幡宮は行事村・草野村・長音寺村・大橋村・宮市村・小部埜村の6村の土地の霊魂を、1ヶ所に集めて「産土正宮」と して建立されたもの。 その創建の歴史は古く、859年(貞観元年)に宇佐八幡宮を京都の男山に勧請の際に、神輿の御旅所として当 時何もなかったこの場所に仮殿を構えて安置した。そして翌朝、神輿が出発後に、木綿垂をつけて献納したはずの榊が1本残されて いた。在所の人々はこれを大神の思し召しに違いないとして、その榊を大神の御璽として正宮の祠内に納め、宇佐八幡神を勧請した 。
その他に、町中には大橋神社がある。この神社は寛永年間(1624~44)に京都郡草野村の草野正八幡神社から分社して仲津郡大橋、宮 市、小部野の3村の産神としてこの地に建立されたもの。
日豊本線行橋駅は、小倉から下って来た特急列車が停車する最 初の駅で、明治28年にできた。駅の西側には昭和32年から操業を開始した安川電機行橋工場がある。この場所に国鉄の工場が1時 期造られようとしていた。ここからは国鉄の田川線も分岐していた。そんな要所の地であった。 それほど広くない駅前広場から真っ直ぐ延びた県道211号線は550メートルほどで国道10号線(現、県道28号線)と交差した。その間 が商店街になっていて、途中、魚町とよばれるアーケード街も直角に交わり、長い間、賑わいをみせていた。 学生や生徒には人気のあった信光堂という書店があった(他に鬼木書店というのもあった)。
蓑島へ行くのには普通、この駅前から出発する西鉄バスを利用し た。今は新しくなったが、かつて木造りで風情のあった駅舎の行橋 駅の前には、長井、入覚、稗田、稲童行きなど、市内の各地に向う バスの乗り場があった。
窓口で切符を購入し、出札口があってバスが着く度に、改札口の チェーンが外され、それぞれに乗車している車掌が切符を検札して 人々が乗り込む。 時間が来るたびに次々とバスは出て行った。蓑島行きも当時は日 に何本も便があった。
バス停は駅のすぐ前にあったため、乗客を乗せたバスは、次々と やってくる後続バスのためにすぐに出発しなければならなかった。 いずれのバスも発車したあと、それほど広くはない駅前の丁字路で 方向転換をしなければならない。車掌は一旦下車して、バックオー ライの笛を吹きながら、運転を誘導するのである。長く吹かれた笛 で停止して、車掌が乗り込むとバスがいよいよ出発する。
行橋 蓑島
◆写真は かつての行橋駅舎
バスは駅前通りを進み、当時の国道10号線を横切る。以前は市役所に向かう道が なかったため、ここから 小倉方面に少し北上して、下小路・土木事務所前を経由して 市役所前に出るルートであった。バスは市役所前に 停車、それから今井渡橋で今川を渡り、河岸沿いに走る。今川と江 尻川に挟まれた中州の突端で直角に曲がる。江尻川大橋を渡ると 、その突き当たりを左折、そのあたりに来ると風向きによっては潮の 香りがしていることがある。そして文久の堤防を進む。かつてはこの 堤防上に、江戸末期文久時代に植えられた松並木があった。蓑島 の山を正面にしてバスは走る。
だんだん3つの小山の島が近づいてくると、心がいつもわくわくした 。 青年の家に至る福祉センターのバス停を過ぎると、右手にバッティ ングセンター、左手に魚市場の建物が見えて来る。バスが民家の 間に入り込むと終点の蓑島である。
いまでこそ車で走ればすぐであるが、当時、子供の感覚からすれ ば列車とバスの行程はひとつの旅を思わせた。大人はこの距離感 をどのように感じていたのだろうか。自家用車が普及していない時 代、やはり新田原・行橋1区間片道10円の汽車の切符を購入し、バ スを利用するほかなかった時代、やはり大人も旅を感じるほどの「 遠さ」があったのだろうか?
しかし、このバス路線も2002年9月に廃止された。
当時、バス停からは、多くの乗客はすぐに家に到着しただろうが、島の反 対側にあった祖父母の家は島の中では最も時間がかかり、近いと はいえない道のりを歩いた。天神屋を過ぎると堤防の向こうに周防 灘が広がった。さらにもうひとつの角を過ぎると母の実家が見えてく るのである。
中学生になってからは、道場寺から高瀬を経て、今井祇園の下か ら、沓尾の橋を渡り、干拓地の堤防上の道路を自転車で走って行 った。車もそれほど通らず、いまは立派なコンクリート製になってい るが、沓尾の木橋といえば、道の中に穴が開き、川の流れが見える 、という状態がしばらく放置されているという時代であった。ちなみ に木橋の前は潮の満ち引きで沈下する橋であった。
母親が小さい頃、蓑島から今井の祇園へ詣る時は、満潮の時間が いつになるのかを事前に調べてから行ったそうである。
行橋 蓑島
◆写真は沓尾の沈下橋
ところで、道場寺にあった父の実家は、隣接して本家もあった。地 区周辺には多くの土地が点在していた。定かではないが、先祖に 新5右衛門という人物がいて、この地の山奉行をしていたのかとも想 像される。1849年、豊津の錦原に行ったという記録も残る。これは また別に書かれなければならない物語である。
2 従弟との思い出
母親は長女で、少し年上であった長男は国鉄の職場にいた が、昭和26年の春、31歳の時に急死、母の次に生まれた次男も昭 和11年春、既に8歳の時に夭折していた。唯1、3男にあたる1人の 弟と4人の妹がいて、6人の兄弟姉妹が残った。
次女つまり1番上の叔母の長男は、少年とはひとつしか年が離れて いないため仲がよかった。
夏休みには、その従兄弟と日程を打ち合わせて、祖父母の家で夏 期休暇を過ごしていた。祖父母の家の目の前は海だったから、初 めてやってきた夜は、打ち寄せる波の音でなかなか寝付かれなか った。けれど、2日目以降は、耳が波の音に慣れてしまい、さらに毎 日、遊びで疲れてしまうこともあり、夜になると潮騒の中でも熟睡し てしまうのが常だった。
その従弟とは、小学生の間、一緒に毎年、夏の休暇を過ごした。
従弟の父親は、仕事の関係で福岡県内の土木事務所のある、行 橋、田川、羽犬塚、折尾などの町を転々としていた。
子どもの頃、その従兄弟の住む、いずれの町をも訪ねるか、あるい は春休み、夏休みの休暇に少し長めの日程でひとりで泊まりに行っ た。
炭鉱町の中にあった田川に遊びに行った時には、その従弟の従兄 弟、つまり少年にとっては再従兄弟にあたる、2人を加えて、その1 団で英彦山に登ったりもした。再従兄弟の家は、当時、添田で時 計店を営んでいた。
高台の小山にあった折尾の家では都会の街並を見続けていた。田 舎に住んでいるばかりの少年が、時々、町の生活を体験できる貴 重な機会だった。
ところで、従弟の父親の里は築上郡椎田町 (現、築上町)日奈古 (=ひなこ)という所。日豊線椎田駅から山の方に向かったところで、 もちろん集落への交通手段はむかしから徒歩のみである。従弟は こどもの頃、毎年、夏休みにはこの地に遊んだであろうが、それほ どの遊びの要素はなさそうであった。むしろ母親の故郷である蓑島 の浜辺の方がこども達には楽しそうな場所であったろう。丘陵から 延びて来た尾根が何本も連続して、すべての集落が谷あいにある 地形になっている。おそらくすべての谷間の最下部には山からの川 が流れているのだろう。その水は祖母の故郷上高屋と同じように清 冽な流れに違いない。
現在はその尾根を隧道で貫流して道が敷かれている。
かつてはやはり尾根を越える山道があり、人々が交流したのだろう か?谷向こうの集落から嫁取りもあっただろう。この日奈古の地名 は、ただの「鄙=ひな」にのみ由来するものだろうか。すぐそばには 「奈古」という集落の地名もあるので、日奈古は、日奈+古ではなく、 日+奈古と思われるのであるが。その音韻には、邪馬台国の匂いが する。
さて、祖父母の家は真東側を向いていたので、朝日が正面から上り 、直射の太陽が好天の時は海上がまぶしく輝いた。
潮の満ち引きで、満潮の時、海岸は潮で満たされていたし、干潮の 日は白く輝く砂浜が見えていた。波打ち際には砕けた白い貝殻が 打ち寄せる波によってモザイク模様をその都度創りだした。そして 砂浜は少しだけ傾斜していたので、染みこんだ海水が小さな流れ の筋を毎回違った形で作った。波打ち際に裸足で立つと,寄せ来 る波が足の裏をくすぐりながら、徐々に足元の砂を浚って行った。 昼近くになると、熱い砂を踏み、海で泳ぎ、塩水に咽せた。泳ぎな がら、砂の中を足でまさぐり、アカガイなどを潜って獲った。時々、 手足を傷つけたが、海の中の怪我は治りやすかった。浜辺に打ち 寄せられていた舟底の板をボート代わりにして、海岸部を、岩場に 上陸して探検、おびただしい量のカメノテなどの珍しい動物を採取 したりした。カメノテは当時は見向きもしなかったが、後年これは食 用になることを知った。茹でるとホタテあるいは甲殻類の味がする そうである。泳ぎに飽きると浜辺で砂の山を造ったりして遊び惚け た。海辺には、今は絶滅危惧種に指定されている甲蟹がたくさん 歩き回っていた。岩場に打ち上げられた船の残骸にはフナムシが 這いずり回る。そんな中で、磯遊びをした。
行橋 蓑島
◆写真は従弟と竜宮浜 で
午後には、井伏鱒二の「駅前旅館」、アレン・スミスの「いたずらの天 才」などそのへんにあった本を手当り次第に読み、夏休みの宿題を し、西瓜を食い、好きなだけ午睡をした。毎年長い期間をここで過 ごしたが、退屈などまったくしなかった。日曜日に家にいた叔母た ちは時々「ストリップって何〜んだ?」などと大人の知識を持って僕 たちをからかった。ズボンの裾の縫い目を合わせて逆さにすれば、 きちんと揃ってハンガーにかけられるというようなこともこの叔母たち から習った。
夕飯のあと、この叔母たちと付近の海岸を散歩した。車もほとんど 通らない時間になっていて、祖父母の家付近の道路はほとんど自 宅の敷地内のようであった。道路の角にあった誘蛾灯の紫外線の 蛍光灯が、時々、バチバチと音を立てていた。燈火の下に設置さ れた水を溜めたドラムの中にはたくさんの虫が屍骸の山を築いてい た。
行橋 蓑島
◆写真はその一族郎党
それから、親戚中が麻雀をするという環境であったから、2人は小 学生ながら当時はそれが普通だった竹牌で3筒だけが彫り直してい た麻雀牌で戦争ごっこなどで遊んでいたし、麻雀もしていた。その 時には符なんて知らないから、子は1飜千点、2飜2000点、3飜 3900点で、満貫はとにかく8000点、親はその1・5倍という点数のみ で判定していた。その他の点数も数字は知ってはいたが、その適 用原理を知らなかったから、30符の点数しか当て嵌めることができ なかったわけである。
祖父母の家は山が背後に迫っていたので、午後になると日陰にな り、いつも涼しかった。夕暮れになるとなんとなく魚介類を中心にし た夕食が用意されていた。毎日の食事はすこぶる美味しかった。 子どもたちにとって互いの母親の里での暮らしは、それこそ何の心 配もなかった。
長い休み中、旧盆の時を迎えると、祖母は夕暮れ時、家の前で先 祖を招くための迎え火を焚いた。海からの風で火は暗闇に小さく燃 え上がった。
そうこうしている内に、盆の休暇を迎えて我々の親たちもやって来る 。
そして美人画が見下ろす大部屋で一族の賑やかな宴会が始まるの だった。親たちは久しぶりの再会で近況などを話し続け、人数が揃 っていれば、風通しのいい部屋で麻雀にも興じていた。夏の太陽が ギラギラと輝いていた。一方、こどもたちも、親戚という安心感から 海で遊び、昼寝をし、西瓜を喰らい、そして毎晩、トランプや花札、 花火で遊んだ。
従弟には2つ違いの妹がいた。いつもは男2人でいるのが普通だっ たが、ある夏、その妹もやってきていたことがある。兄たちが遊ぶと ころにちょこちょこといつも付いて来た。蚊帳を吊っていると布団の 定員というものがある。ある夜、新しい部屋で寝ることになって、そこ で誰と誰が眠るかということになった。散々遊んだのち、少年と従妹 がその部屋に眠ることになった。少年は3人兄弟の真ん中で、姉や 妹という存在がなかったので、嬉しいと同時に羞恥の感情を覚えた 。
後年、大学生の頃、帰省をして祖父母の家に遊びに来た。年の離 れた従兄弟たちも集まっていた夏のことである。
ある晩、花火をしていると、当時埼玉に住んでいた小学生の従姉妹 の1人に、1本の打ち上げ花火が首の隙間から妹の胸の中に運悪く 飛び込んだ。小さな花火ながら、それは服の内側でくすぶり続け、 大やけどになった。女の子である。傷が残れば大変だと騒ぎになっ た。
それで、当時、火傷に効く秘薬を法泉寺の和尚が持っていたことを 叔父が知っていたので親戚の誰かがそれを求めて寺に走った。
行橋 蓑島
◆ 写真は小従兄弟たち
この秘薬は何にできているかは分からなかったが、この地域では良 く知られた火傷専用の薬だった。行橋から山を越えた田川の採銅 所か添田にあるといわれていたその病院で作られていた薬は、患 者を連れて行かねば治療されないという本来門外不出の秘薬だっ たが、たまたま、運良く特別に法泉寺に置かれていたのだった。そ の真っ黒な薬を塗ると皮膚はひどく醜い状態になったが、不思議 にその薬は、火傷の痕を残さずに綺麗に皮膚を再生することで知 られていた。
終戦後、祖父と伯父がカーバイトから発生するアセチレンガスで明 かりをとって作業していて、顔面に大やけどを負い、顔の造作のほ とんどを失った時にも、その秘薬のお蔭でことなきを得たこともあっ た。後年、その病院の院長は、残念なことに製法を誰にも残さない で亡くなった。現在その娘さんが豊前市塔田で久永内科皮膚科医 院を開業していて、評判のようである。

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7 魚市場
1  市場の賑わい

行橋 蓑島
ところで、いまでもバス乗り場が蓑島神社の近くにあるが、こ こから県道を北の方に行くと新しい魚市場がある。
蓑島漁協によると、この付近の海で獲れる魚の種類は以下のようで ある。 スズキ(6~9月)、チヌ(4~8月)、こち(10~2月)、アサリ(11~5月)、 マテ貝(11~4月)、ボラ(4~6月)、キッキョ(5~6月)、ワタリガニ(10 ~4月)、なまこ(11~3月)、ウナギ(5~9月)、コショータイ(5~7月)、 キス(6~9月)、カレイ(3~6月、10~12月)、ワタリガレイ(12月)、ア カエイ(4~6月)、キノコエビ(11月)、クルマエビ(5~11月)、シャコ(3 ~6月、11~12月)、コウイカ(4~6)、ホシイカ(5~6月)。 市場では、新鮮なアサリ汁など、旬を迎えた魚介が来訪者に無料 で提供される。毎週、何が何人分あるいは人数制限なしで提供さ れるかは、現地に行ってみないとわからない。それもまた魅力のひ とつだ。
蓑島では、蟹の直売は今治と後藤が、牡蛎は直売所の他、浜田、 永田で扱っている。
宮城県松島海岸では、毎年2月の第1土日曜に牡蛎まつりが行な われ、賑わいをみせる。30分並んで無料の牡蛎を1個貰って食べ るというのも楽しみかも知れないが、多くの人は当日廉価で販売さ れる牡蛎を購入して、実行委員会が用意した炭火で焼いて食べて いる。松島と同じように、各地で秋刀魚やホッキなどを素材にしたま つりがさかんだ。
毎回、違った旬のものを提供することがアピールに繋がると考えて のことだ。
それから、新鮮な魚介を食べさせる漁協経営の市場食堂がある。
店頭では、新鮮なアサリ汁が無料で提供されていて、炭火で魚も焼 かれている。周囲には美味しそうな魚の匂いが立ちこめていて、食 欲をそそられる客で賑わう。
蓑島では、季節によりいろいろな種類の魚介が獲れる。それで、市 場食堂では、その日に揚がった安く競り落とされた魚介で、「漁師 まかない飯」というおまかせメニューが作られて、すこぶる廉価で提 供されている。これが大人気。
市場食堂の隣に、人気のシーフードカレーと海鮮ラーメンの店を営 業している。普通のカレーはなく、この2つのメニューだけである。シ ーフードカレーは、白身の魚、イカ、エビなどをふんだんに入れて いるもので、くせが強い分だけ、何ヶ月か経つとまた食べたくなると いう顧客が多い。こういうリピーターが重要である。
海鮮ラーメンについては島で作っている自然塩を使用していて、小 さいガザミをまるごと1匹、上に載せているし、車エビの他、その日 に市場で揚がった食材の何かが中に入っている。毎回、訪れる毎 に素材が違うので、「今日は何だろう」という期待を持ってやってく る人も多くいる。
新潟の寺泊に海のアメヤ横丁、通称海のアメ横がある。そこでは「 カニラーメン」を出している。小さいものでなく、ほどほどの大きさの ズワイ蟹がまるごと1匹ドンと載っている。それが10年ほど前で当時 750円。ズワイ蟹が入手できる卸の有利な立場もあって、当時のラ ーメンの値段を考えても0分に安さを感じさせる。ラーメンの他、蟹 も味わえて、これはこれで面白い。最初、1軒が始めて、その後何 軒かに広まった。あと、福島県相馬市の中国菜館丸富の相馬カニ ラーメンでも1150円で、蟹がまるごとではないが殻付きで入ってい た。
しかし、載せているだけというのだから、もう1ひねり欲しい。で、考 えたのが、いつも蟹の他、旬の素材をバリエーションとして、季節ご とに素材を変えて、いろいろなものを乗せる。訪問するたびに今回 は何かを期待させる。その日何が食べられるか分からないという期 待感、意外性も楽しいのではないか。
もうひとつ、遊び心だが、海の町のラーメンということで、1緒に魚も 食べさせてあげるという企画。その日揚がった魚介で、安く入手で きる素材を仕入れて、それで籤を作り、籤箱に入れ、客に引かせる 。蟹、クルマエビ、たまにはイワシ、小魚の干し物などもあってもい い。仕入れた素材と数だけの籤を作るから、品切れ御免ということ はない。町内に魚屋があるならそこと連携して、当日のみ有効海産 物割引券をお渡しするといい。
重要なのは、ひとつのことを他に繋げることと、地域からいつも話題 を発信する姿勢・実行力。これらに蓑島で採れる海苔をどう利用す るかに、いろいろのアイデアが必要だろう。
2新グルメメニュー
市場の食堂ではワタリ蟹を利用した料理-開高丼ほどでは ないが、徹底した蟹のドンブリなどのメニューを安く提供するために 、店の造りは本当に素朴。チケット制で、客は出来上がったのを自 分で上げ下げするというセルフサービスになっている。丼物は用意 が簡単なので、各地のメニューが試みで出されている。宮城県の油 麩丼、会津若松・長野で出されているソースカツ丼、愛媛県ではじ ゃこ天をじゃこカツにしたり、我孫子では蕎麦に鶏のもも肉の大きい のを入れたりして人気がある。こういうことを参考にした試みの商品 がこの市場ではどんどん取り入れられているので、訪問客が引きも 切らない。油で揚げるものは大体人気がある。また、場所を活かす ことを考慮すれば、氷見市の番屋の建物を利用した観光客の呼び 込み、のようなことも考えられる。そういう場所や環境がその地にな いかを考えたい。
魚市場はこの市最大のもので、毎日曜日には朝市、午後市、夕市 、季節によっては夜市が開催されている。新鮮な魚介類の販売は もちろん、蟹のダシのおにぎり、揚げ立てのてんぷら、食べやすい 廉価な寿司、豪快な丼物、竈炊きごはん、おこげご飯、かしわ飯弁 当、カレーパンや、コロッケ、肉チャーハン、かきもち、生せんべい などが販売される。また市の日には、炭火が用意されていて、購入 した魚介を少し調理して、焼き物と、煮炊きで、食べることができる 。
子どもたちに大人気なのはかわいい魚の形をしたかまぼことひょう たん揚げ、超大型お握り、それぞれ1個100円という気軽さがいい。 その他、美味しいうどん、そば、冷たい肉そば、冷やかけそば、沖 縄そば、とりもつラーメン、カレーラーメン、渡り蟹ラーメンなどのメ ニューもある。
大津市の錦糸丼は、鰻丼に3個分の玉子焼きを載せて1900円だと 。鰻丼だけだと1500円くらいで、これに原価10円の卵を加えること で付加価値をつけられる。それで見かけがとても豊かになる。
ラーメン店でゆで卵を無料サービスしたり、新鮮玉子でかけご飯を 提供したり、ある物に玉子を加えてメニューを考えてみよう。
こういう中から最近話題のB級グルメが生まれる可能性がある。「B 級グルメ」とは、
「質より量」「庶民的」で、一般に「安くて、美味しい、地域性がある」 というのが特徴。そういう意味では「郷土料理」に同様。伝統的な郷 土料理にはA級もB級もある。
「B級」を決定付けるのは、「廉価な材料」。そして、新しい料理方法 もあってもいいかも知れない。
1、全般的に麺類、炭水化物-粉物、揚げ物が多い。
やきそば、うどん、ラーメン。他にカレー、コロッケ、お好み焼き 2、廉価な材料、素材が多い。
おでん、ホルモン、キムチ、豚の肉カス、牛すじ、やきとり、魚肉ソ ーセージ、おから、卵、麩、ジャガイモ
3、地元の素材、つまり地域の食の歴史を活かしている。
せんべい汁、鯖寿司、作州牛、お茶、3島馬鈴薯、ダルム、エソ、 油麩、焼きうどん、ちゃんぽん
4、2つの組み合わせにヒントがある。
オムライス+カレー、2種のカレールー、まぐろ+拉麺、やきそば+つ ゆ、ジャガイモ+おから
5、形態として、丼物、鍋物が多いかも。
◇全国の代表的なB級グルメ
○富良野市・富良野オムカレー○青森市・青森生姜味噌おでん○ ○和田市・○和田バラ焼き○八戸市・八戸せんべい汁○黒石市・ 黒石やきそば○登米市・油麩○石巻市・石巻焼きそば○横手市・ 横手やきそば○仙北市・あいがけ神代カレー○浪江町・浪江焼そ ば○太田市・上州太田焼きそば○行田市・行田ゼリーフライ○厚 木市・厚木シロコロホルモン○府中市・府中焼き○三浦市・三崎ま ぐろ拉麺○大月市・おつけだんご○甲府市・甲府鳥もつ煮○駒ヶ 根市・駒ヶ根ソースかつ丼○郡上市・奥美濃カレー○富士宮市・富 士宮やきそば○裾野市・すその水ギョーザ○静岡市・静岡おでん ○袋井市・たまごふわふわ○浜松市・浜松餃子○三島市・みしまコ ロッケ○高岡市・高岡コロッケ○各務原市・各務原キムチ鍋○郡上 市・めいほう鶏ちゃん○四日市市・四日市とんてき○高砂市・高砂 にくてん○小浜市・若狭小浜焼き鯖寿司○姫路市・姫路おでん○ 鳥取市・とうふちくわ○出雲市・出雲ぜんざい○備前市・日生カキ お好み焼き○津山市・津山ホルモンうどん○北九州市・小倉発祥 焼きうどん○久留米市・久留米やきとり○雲仙市・小浜ちゃんぽん ○佐伯市・佐伯ごまだし
市場には、捕獲された魚が広めの網囲いの中でいつも保存されて いる。この魚は活魚の提供、釣り堀とイベントで使用される。魚釣り 、餌やりも行なわれている。この生け簀の横では、ガザミの養殖も行 なわれている。また、近年、海水温が上がって生息域が、知られて いる日向灘あたりから北上して来たアサヒ蟹も養殖され始めた。子 どもたちは生きている魚介にとても興味を示すし、大人も見ていると 楽しいものだ。
行橋 蓑島
◆写真はアサヒ蟹
市場には、軽トラックの荷台を臨時の店舗にした野菜販売が同時 に行なわれている。近隣の農家が、季節の旬の野菜を持ち寄って 販売している。
日曜日には、この市場から遊びとして、蓑島の南、沓尾地区にでき た橋頭堡-平和島までの船が運航される。当初、漁船に釣り以外の 客を乗せることについて漁師たちは皆で議論した。最初は「船は遊 びじゃねぇ」と言っていた。漁師は決して観光業を担っているという 気持ちが強いわけではないが、「魚を捕るという仕事が人に誇れる のだ」という認識を持ったことで最終的にこの事業に参加するように なったのだ。仕事の一部分のみを見せ、本来の漁業がもっと厳しい もので、不漁の時の失望感、荒れている海の危険性などは観光客 にはわからないだろうことは、それを認識した上でのことだ。これは 、舞台で見せる演劇も、苦しい稽古を見せるわけではないと同様に 、漁業もすべて見せる必要はないだろうということで結論づけられ た。
それから、、空き家を利用した海辺暮らし体験という企画がある。そ の内容は塩作り、周防灘での漁師体験、魚の干物作り体験など蓑 島での暮らしを体験してもらい、希望者には永住してもらうという試 みである。場合によっては旅館を利用した短期のものも用意してい る。
3 これからの試み
その他、検討していることは、
○上流の常盤橋から魚市場に至る燈籠流しの旧盆行事。
○魚加工、捌き教室。
○漁協経営の魚の釣り堀。
◯親子漁船体験民間臨海学校。
○牡蛎鍋クルージング。
○テレビドラマの舞台になること。
○花火大会。
○光のイルミネーション。
○漁業民具を発掘・展示。
○サンドクラフト。
○四国にある巨大な寛永通宝のような奴。
○紙飛行機飛ばし大会。
○海岸で拾ってきた貝殻で描く貝殻アート。
○磯自然観察会。
○貝殻蝋燭作り。

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8 蓑島近郊
1 金屋・浄喜寺

行橋 蓑島
蓑島の西方寺にあった村上水軍の井戸といえば、金屋にある浄喜 寺にも水軍井戸が残されている。
この浄喜寺のある今井は鎌倉・室町時代には、根津浦今居津とい って、鋳物師、大工、瓦屋などのいる職人の町として栄えていて、「 今居千軒・七小路・七池」といわれた。当時の海岸線は明治末期に 陸地になった文久干拓地の淵であるこの浄喜寺付近まであった。 この地の領主であった村上壱岐守良成は、村上水軍の一族で石山 合戦の折りに、直系の村上良慶が九州義勇軍として活躍した。明 応4年、浄土真宗本願寺第8世蓮如上人から寺号と本尊阿弥陀如 来立像を贈られた、といわれている。
浄喜寺は、浄土真宗の九州の拠点となった大規模な寺院で、浄喜 寺の山門に掲示している「浄喜寺の由緒」には次のようにある。
「当寺は福岡県行橋市大字今井1802番地にある浄土真宗大谷派 ・東本願寺の直末寺で、守田山・雲龍院・浄喜寺と呼んでいる。
 村上天皇(第62代、925〜967)の第6皇子昌平親王の孫・村上良 成は、豊前国を領していたが、本願寺の蓮如上人の直弟子となっ て得度し、慶善と称した。その時に蓮如上人自筆の「浄喜寺」という 寺号を授かった。それで、明応4年(1495)9月28日に慶善が浄喜寺 を開基した。
 降って、第三世良慶は、軍学、武術にも秀でていた。たまたま、 石山合戦(現在の大阪城の位置)や、紀州の鷺ヶ森合戦で抜群の 軍功を樹て、本願寺教如上人を危機から救出したので、上人から は「良成はわが命の恩人なり」との賞詞を賜わり、佩刀(3条小鍛冶 の名刀)を授与された。良慶には、小倉藩主細川忠興が帰依し、 寺領として三百石を寄進されたし、小倉城の築城の際には総監督の 大役を仰せ付かったほどである。
 小笠原氏が小倉藩主となっても、浄喜寺へ寄進は続いた。中国 毛利氏の娘が初代・2代住職の嫁に来寺、小笠原第3代藩主の娘 が当寺に嫁したこともあり、家老・宮本伊織(剣聖といわれた宮本武 蔵の嗣子)の娘も当寺に嫁した。また、当寺歴代住職の中には、水 戸藩主の実弟が2代つづいて御養子来寺した者もある。このように 重厚な輝かしい歴史を持った巨刹である。
 開基以来、当寺は真宗の九州最大拠点とされ、教勢拡大に果た した功績は測り知れないものがある。
 天保9年(1838)には配下末寺、末庵は約百ヶ寺であった。現在の 本堂は、第14世良雄が20数年の歳月をかけて、文化14年(1817) に再建したものである」
豊津高校の同級生に村上という好人物が勝山町にいたが村上水軍と関係あるかもしれない。
行橋 浄喜寺 行橋 浄喜寺 行橋 浄喜寺 ◆写真上から 浄喜寺本堂、水軍の井戸、梵鐘
また、境内にある県指定有形文化財になっている梵鐘については 、
「この梵鐘は室町時代の応永28年(1421)、彦山霊仙寺大講堂の 洪鐘として、豊前今居金屋で鋳造されたものである。しかし明治維 新の際、神仏分離令により霊仙寺がなくなったため、梵鐘は生まれ 故郷ゆかりの浄喜寺に帰ってきたと伝えられている。銘文によると、作者は今居の鋳物師大工左衛門尉藤原安氏であり 、「作料助成」とみえることから、梵鐘の製作費用は安氏が彦山権 現に寄進したものと思われる。この地に残る金屋の地名は、鋳物業 を営む職人の集落があったことの名残であろう。今井の鋳物師が活躍したのは15世紀のことで、ここで鋳造された 製品は北部九州から山口県にまで及んでいる。その後、この地の 鋳物師は小倉城下の鋳物師町に移っていったといわれる。この梵鐘は、今井鋳物師の現存する数少ない遺品として貴重である」
とある。 今井については、島津家久の「中書家久公御上京日記」の1575年3月9日の項に「午刻ニ伊摩井を打立、未程にかんたの町を打過、曽弥といへる村、権堂次良といへるいやしからぬニ一宿」とある。
2 沓尾
金屋からさらに海の方に向かうと、祓川の河口部に沓尾地区がある。この海には干潟が広がっている。物の本によると、「現在 、日本には干潟は全国で、約5万平方メートルしか残っていない。 その内の約3万平方メートルが有明海、約1万2000平方メートルが 周防灘、800平方メートルが熊本の八代海」だそうである。ここの干 潟も貴重かもしれないのである。
行橋 祓川
◆ 写真は祓川河口に係留された漁船
沓尾には漁港があり、かつて舟奉行所、藩蔵屋敷、番所などがあ った。沓尾は、かつて根津浦とよばれ、この地が埋め立てられたのは9世紀半ばのこと。以来ここは豊前有数の港になった。戊辰戦争の時、沓尾港から奥羽へ出港した。その後、最後の小倉藩主・豊津藩知事、のち伯爵になった小笠原忠忱が東京に向かったのもこの沓尾からである。
沓尾橋のそばには、大国主神社、常夜燈がある。
この沓尾には、守田家旧居が残っている。築地門に囲まれ、立派な四脚門を持つこの屋敷は現在、東京在住の守田家30代当主守田和之氏から、行橋市に寄贈され行橋市指定文化財になって一般公開されている。この守田氏は、苅田にある松山城に居を構えた大内氏の守護代杉氏の重臣であった。 守田氏は当初、今井の守田地区(守田家の古墓は浄喜寺近くの満願寺墓地にあった)から沓尾に移った。 守田家の前は英彦山を源流とする祓川が流れていて、正面には蓑島がよく見えた。「明治の元勲を感動させた男」として知られる守田房貫(幼名甚右衛門 、精一とも、27代当主、1824~1910)の生家。房貫がこの家を「蓑洲亭」と呼んだのも興味深い。房貫の号である蓑洲は「さしゅう」 というが訓読みでは「みのしま」である。伊藤博文が蓑洲亭と書いた額も残っている。 守田蓑洲は、私塾水哉園初代塾長、後、文久新地干拓、近隣10の村をまとめる平島手永大庄屋、福岡県の県会議員を務めた。地元の漢学者村上仏山や政治家末松謙澄とも交友があった。この守田蓑洲についてはもうひとつの物語が必要である。 黒田家家臣として関ヶ原合戦などに活躍した黒田二十四騎の一人・後藤又兵衛は、嘉穂の地に益富城1万6千石を預かっていたが、黒田勘兵衛の子・長政と宇都宮氏の討伐のやりかたを非難して不和になり 慶長11年(1606年)、黒田家を離れた。その際、小倉藩主細川忠興が召抱えようとしたが 「奉公構(仕官御構)」に遭い、仕官できなかった。 又兵衛は、暫く今井の西福寺に滞在し、のち小倉領を離れる際、愛用の槍、長男伊勢松の掛け軸と共に次女久子を守田家に残し旅立った。後藤又兵衛はその後、大阪冬の陣、夏の陣でも活躍した。 又兵衛の娘久子は、守田家19代房吉に嫁いでいる。墓は蓑洲亭のすぐそばにある沓尾香円寺に残っていて、西福寺には又兵衛の膳が保管されている。中学校時代の同級生に高瀬地区に住む守田という友人が2人いたが、その係累であろうと思われる。 守田家のすぐ近くに千田という旧家の造り酒屋があった。この千田はかつて蓑島にいた杉弘信が豊前の守護であった時、長門の豊田にいて、応永6年、津留の湊に出陣していた武士。その際対岸の蓑島に住む 両親に会いに行ったという話が残っている。醸造酒は「白太華」。 母親が若い頃、仕込み作業の忙しい時期、半年ほど千田家に請われて手伝いに住み込みで働いたことがある。手伝いの女性が2人いて、酒造りの従業員も多くいた。ここの女将は守田家から嫁した鉄子という人で、母は度々実家へ通う女将の供をした。その時に見た守田家の浴室の大きな浴槽が印象的だったそうである。しかし今、見取り図を見てみるとそれほど大きな浴室とは思えないがどうなのだろう。蓑洲亭は敷地面積が約2400平方メートル、建木造平屋一部2階建て約430平方メートルの建物で、奥座敷や広間などを備え、18の部屋があったというので、当時は現在の見取り図以上に大きかったかもしれない。、 鉄子さんは少し耳が遠かった。主人は、行橋の町へ映画を見に連れて行ったりした。母は助手席に座り、荷台には10人ほどの従業員を乗せていたというから、やはりのどかな時代ではあった。千田では行橋の中心部以前の国道10号線沿いに酒屋も出していた。
行橋 蓑洲亭 行橋 蓑洲亭 行橋 守田家
◆ 写真は守田家旧居
3 松山神社
守田家の背後に広がっているのが沓尾山である。沓尾山の 中腹にある、松山神社本殿の場所が沓尾崎城(久津尾崎城とも)の 本丸跡といわれている。沓尾崎城は貞和年間に、後醍醐天皇の皇 子懐良親王を奉じ、筑後で戦死した北畠信親の子顕吉(祖父は北 畠親房次男の顕信)によって築城された。顕吉は本郷を名乗り、以 後、沓尾崎城を居城としている。
沓尾というのは、靴の尻尾という意味だが、沓尾の地名そのものは、「豊前国志」によれば、彦火々出見尊が、竜女宮の宮居沓尾崎に行き、竜宮に入る際、長汀の砂地に沓を脱いだことに由来する。 守田家の裏手にある香円寺のならびに、松山神社の西の鳥居がある。
松山神社は、江戸時代の当初までは小規模なものだったが、明治 22年に杉氏の子孫杉孫七郎と守田蓑洲が大きく造営したもので、 杉弾正大弼興信の子松山城主杉弘信、その子弥太郎光治、杉家 家老守田越中守忠能の三者、すなわち松山神、守田神が祀られて いる(他に宇賀之御魂神、菅原神もありと?)。明治45年には村社 に昇格した。出雲大社宮司からは神鏡を奉納されている。拝殿は昭和32年に焼失している。
行橋 松山神社 行橋 松山神社 行橋 松山神社松尾芭蕉碑 行橋 松山神社 行橋 松山神社江山豁如石碑 行橋 松山神社 行橋 松山神社 行橋 松山神社 行橋 松山神社 行橋 松山神社 行橋 松山神社 行橋 松山神社 行橋 松山神社 行橋 松山神社 行橋 松山神社 行橋 松山神社蓑洲守田翁祝壽碑 行橋 松山神社神勅碑 行橋 松山神社
◆写真は、松山神社の鳥居、上りの階段口、松尾芭蕉碑、その上の階段
2段目が、江山豁如石碑、上り階段、神門、祠
3段目が本殿への鳥居、大正時代初期の境内、本殿敷地、本殿
4段目が、横から見た本殿、本殿敷地から下部、下りの階段口、蓑洲守田翁祝壽碑
5段目が、神勅碑、東側階段
こんもりとした森になっている神社域は東西2ヶ所ある内の西側の鳥居を潜って、石段を上ると、まず右に 曲り、突き当たりを再度右に。そこには「名月や門にさし来る潮がし ら はせを」と刻まれた松尾芭蕉碑がある。これは、元禄5年8月5日 夜、芭蕉49歳の時、新しい芭蕉庵で、名月の夜、川沿いの門口に 上がり潮の波頭がやってくる様を詠んだ句。松尾芭蕉の碑の上に は、「江山豁如」という石碑がある。これは山懸有朋の手によるもの で、「こうざんかつじょ」とは、海と山が豁(=開ける)していて、一望で きること、その風景が心のくつろぎを与えている、心を大きく持ち小 さなことにこだわらないという意味である。ウェブでは、江山を「山野 」という風に書かれているのが多いが、「江」はもちろん水に関係し た言葉で、今は鬱蒼としている松山神社境内も、当時、周防灘側 に観瀾亭が、さらに山を望んで望岳台という2つの展望所が設けら れていた。「江山豁如」はまさに、この地にふさわしい言葉であった 。もっともこの言葉は、もちろん沓尾の景色から生まれたのではなく 、「小田原の大御所」といわれた晩年の山懸有朋の小田原別邸古 希庵からの眺めが箱根山と相模湾を眺める地にあったことから、山 懸有朋の好んだ言葉である。山懸は山口の菜香亭など、他の場 所でもこの言葉を残している。
江山豁如碑の周囲は松の木と夥しい孟宗竹の林になっている。そ の先の分岐正面から大岩を回り込んで、一方通行的に下り降りる道 がある。
江山豁如碑からさらに上に向かうと2本の柱に、石柱が横たわって いる神門がある。神門の上には紋章が彫られていて、上部には石 が置かれている。こういう石の造型の神門は、とても珍しい。
分岐から、神門を潜れば、獅子岩、烏帽子岩を回り込む左右の道 があり、いずれもこの大岩の後ろで合流する。大岩を回り込むと、 鳥居がある。この鳥居は明治22年3月に大整備された際、建立され たもので、裏に従三位子爵杉孫七郎書と刻まれている。
ここから正面にある本殿に向う。ここには素朴な感じに見える本殿 が鎮座している。その挙鼻は龍、木鼻は獏になっている。それぞれ 立派なもの。この本殿エリアは、沓尾崎城本丸の あった跡地だった。沓尾崎城は貞和年間に、後醍醐天皇の皇子懐 良親王を奉じた北畠信親の子顕吉(祖父は北畠親房次男の顕信) によって築城された。顕吉は本郷姓を名乗り、以後、沓尾崎城を居 城としている。沓尾に本郷姓の家は幾つあるのかしらん。かつての この松山神社境内には平尾台方面を遠望する望岳台があった。ま た海側には四阿の観瀾亭もあり周防灘を望むことができた。
行橋 蓑島
◆写真は、松山神社本殿
本殿から踵を返して大岩まで戻り、ここから東側の鳥居口に向う別 の階段を下る。途中には、1874年、古希を迎えた際の「蓑洲守田 翁祝壽碑」と、三条実美の揮毫による「神勅碑」がある。とくに神勅 碑は見上げるような大岩。表面には、明治16年5月1日寳(寶では ない) 祚之隆當與天壌無窮者矣太政大臣三篠實美とある。この 付近にはたくさんの大岩が散見されるが、これは火成岩である平尾 花崗閃緑岩で、大坂城築城の際の石垣が切り出された歴史もある 。
「九州旅行日記」(1896年、原作多田省吾、編集多田宏史) には 次のようにある。「夫れより松山神社に詣づ。社は、今元村の東、沓 尾山の頂上にあり。子爵杉孫七郎氏の建立になり、同氏の祖先を 祀る所なりという。氏の先祖は元豊前国刈田村松山の城主なりしを 以て松山神社と名つけしなりと。鳥居をくぐりて石階を登れば、奇岩 怪石縦横に突出し、翠松之を掩う。途の左に一碑あり、左の句を刻 す。
  名月や門にさし来る潮がしら はせを
頂上に至れば休亭あり。四隅名家の手跡を掲ぐ。眺望甚だ佳なり。 宮は甚だ大ならざるも結構荘厳なり。拝殿の正面に彰仁親王殿下 の御筆あり。額面「不騫不崩 戌子1月 彰仁」と書かれたり。その 他三條公、伊藤侯、長三洲等、諸名家の書は其の側面に懸けらる 。宮を拝して又休亭に至り、座して望めば千里躓蹙して悉く1眸の 中に集まる。祓川其の麓を流れ、海水来て其の裾を洗う。前に蓑 島、鴻の島を臨み、佳致好景到底筆舌の能くつくす所にあらず。茲 に於いて気已に悠々として心亦洋々たり。衆皆茫然として語なく、 帰るを忘れたるものの如し。是柳子厚の所謂心凝り形釋きて冥合 せるものか。世の翩々たる俗流、誰が能く這裡の消息を解するもの ぞ。嗚呼、斯かる好処に庵を結び、浩濤烟波に胸を洗らい、松風 名月に思いを清まし、長く浮世の塵を逃れたらんには等、叶わぬ望 みを起こすも決して無理にはあらず。神社を下りて祇園社に詣ず。 宮の宏大なる遙かに松山神社に勝れたりと雖も雅趣は及ぶ所にあ らず。帰れば恰も正午なり」 (http://homepage1.nifty.com/tada-hp/9td/)
「佳致好景」というからには、この観瀾亭と、さらに望岳台の再建が 望まれる。ちなみに、四阿は「あずまや」と読むが、文字の意味は、 「折れ曲がっている」ものを「4つ」組み合わせて造られた建物を意 味する。それで「四阿」という。「東屋」と書く場合もあるが、もちろん 宛て字。阿は、「隈」「曲」と同じ意味を持っている。それで「隈」「曲 」は河川の形状を表した阿武隈川や千曲川などに使われている。 神勅碑のある場所から、さらに下って行くと、東側の鳥居から集落 になる。ここらは人家が犇めき合っているが、この付近は、かつての 藩蔵屋敷、舟奉行所、番所があった場所になる。
行橋 蓑島
◆写真は松山神社から見たかつての蓑島。
4 姥ヶ懐
松山神社東側鳥居の先には、航海・漁業を守護する龍日売 神社がある。また、漁港の北西部分に鯨塚があり、明治35年、この 沖合に現れたという20頭ほどの鯨を捕獲した際の弔いになった。 沓尾漁港はこれまで車での通行は行き止まりになっていたが、新し い迂回道路ができ、海岸から長寿大橋で結ばれている海に突き出 した埠頭に向かっている。
この迂回道路の橋の上から見下ろす、沓尾山の麓にあたる場所に 、姥ヶ懐というお潮井取り場がある。近年、沓尾海岸も以前より水面 が30〜40センチメートルほど上昇していて、この姥ヶ懐にも打ち寄 せられた砂で、少し埋もれ気味になっている。洞窟の奥には沓尾 山からの水が、往年ほどではないが今でもわずかずつ滴り落ちてい る。
沓尾に流れ込む祓川の源流は英彦山である。英彦山で開催される 松会祈年祭の前夜にお潮井取りが行なわれている。 お潮井採りは、およそ八百年前に増慶上人が始めたといわれ、英彦 山神社は農耕の神様で、今川や祓川流域の人達は「英彦山の水 のお陰で稲の実りが約束できる」「英彦山は郷土の屋根だ」と仰い でおり、英彦山のことを山の神とか水の神様として深く信仰している。
沓尾周辺の海岸を「明戸が浜」と呼んでいる。この日、修験者が今 川上流、犀川、豊津、泉、今井と山を下り、禊祓いの後、潮水を採 取、帰りは今川沿いに遡り、英彦山に供えるというものである。この お潮井取りは「見てはならない」という話がある。地元の人によると そうでもないらしいのだが?
行橋 蓑島
◆写真は姥ヶ懐
なお、お潮井取りについては詳しい観光リーフレットが地元では用 意されている。
この付近には有名な、海彦山彦伝説も伝わる。
苅田の松山城、蓑島城、松山神社、今井祇園社、豊臣秀吉が九州 平定の采配をした際の居城馬ヶ岳城、神籠石、棚田の美しい等覚 寺、日本有数のカルスト台地平尾台を結ぶ歴史の周回ルートは、 この美夜古エリアの観光目玉の主要なひとつになりうると思われる。 行橋ロータリークラブの宮田将英会長は「西の御所ケ谷神籠石(国 史跡)と並んで、東の沓尾松山公園といわれるように頑張りたい」と 語っている。
松山城は、天平12年(740年)に大宰権帥藤原広嗣が築いた。天 慶3年(940年)には神田光員が居城とした。周防大内氏が勢力を 持っていた頃は大内氏の家臣杉氏の居城。応永5年(1398年)頃 は杉弘信が城主で、応永16年(1409年)頃は杉弘重が城主。永禄 5年(1562年)頃は毛利氏の家臣の天野隆重が在城していたが、大 友宗麟に攻められ、その属城となった。天正年間は長野助盛の属 城で、慶長5年の関が原の戦功で、豊前は細川忠興が領有した。 慶長11年(1606年)に廃城となった。
行橋 蓑島
◆写真は松山
馬ヶ岳城は、最初、天慶5年(942年)、源経基によって築かれた。 太宰大弐橘公頼の子筑前守昌頼が城主となった。その後、7代続 いたが仁平元年(1151年)、源為朝によって攻め落とされ城主頼行 は自害し、草野氏が城主となった。
文治元年(1185年)、源平合戦の時、緒方惟義の一族緒方九郎が平 家に叛いて馬ヶ岳城に楯籠った。14世紀半ばから15世紀前半にか けて義基、義氏、義高の新田氏3代が在城したことが記されている 。
南北朝時代から戦国時代にかけて小弐氏、大友氏、大内氏、毛利 氏によって奪い合いが続いた。この時代に馬ヶ岳城は香春岳城、 苅田町の松山城、添田町の岩石城などとともに重要拠点として攻 防の舞台となった。天正年間(1573年〜1592年)の城主は長野氏 であったが、天正14年(1586年)、豊臣秀吉による九州征伐で降り、 豊臣秀吉が九州に下向したときには、小倉城を経て、ここを拠点に した。長野氏については「武家家伝長野氏」に詳しい。高校時代、 長野姓の同級生がいたが、彼もその係累かも知れない。
そして、九州平定後、馬ヶ岳城は京都、仲津、築城、上毛、下 毛、宇佐(妙見、竜王を除く)の豊前六郡を与えられた黒田孝高(官 兵衛、如水)が、拠点を豊前から中津に移すまでの居城であった。慶長5 (1600)年、黒田氏は筑前に移り、豊前は細川忠興の所領となった。 馬ヶ岳城は、元和の一国一城令によって廃城となり、 その役割を終え長い歴史を閉じた。
御所ヶ谷神籠石は、京都郡みやこ町勝山津積からみやこ町犀川木 山に及ぶ山城の旧跡である。神が降臨する磐座のことを意味する「 神籠石」の名称は久留米市高良山にある列石に由来する。663年 、百済救援のために朝鮮半島に派兵した日本は白村江で唐と新羅 の連合軍に敗退した。敗戦後、唐、新羅軍の侵攻に備え防人と烽 場を配置する防衛線として築かれた。 城の外周は3キロメートルで 、土塁をめぐらせている。土塁が谷を渡る部分は排水口を備えてい るのが特徴的。域内には建物の礎石や貯水池の跡と思われる遺構 、未完成の土塁などもある。この山城は6~7世紀のものであるから 、まさか、ここで邪馬台国の金印は見つかるまい。
行橋 蓑島 行橋 蓑島 行橋 蓑島 行橋 蓑島
◆御所ヶ谷神籠石の全域絵図、案内図、中門跡2景
行橋 蓑島 行橋 蓑島 行橋 蓑島 行橋 蓑島
◆中門跡、登山路入口付近分岐、中門上部(人物は同行した元松均君)、登山路北側尾根
行橋 蓑島 行橋 蓑島 行橋 蓑島 行橋 蓑島
◆景行神社の菊紋・拝殿・建物跡、経路途中の廃屋
行橋 蓑島 行橋 蓑島 行橋 蓑島 行橋 蓑島
◆地蔵、社、公園、不動明王
等覚寺は、「とかくじ」と読み、苅田町山口地区に属している。春に なると、スモモの白い花が咲く。この木は、等覚寺応援団の秋山静 美氏が植えたもの。秋にはそばの花も咲く。特産グループがあり、 味噌、柚子味噌、漬け物、柚子胡椒などの商品が作られている。ま たここで開催される祭礼「等覚寺の松会」は千年以上の歴史があり 、弊切り行事などが行なわれる。白山多賀神社で毎年4月第3日曜 日の午後、開催される。白山多賀神社は、奈良時代、東大寺の僧 が創建し、白山権現の祠を祀った。国の重要無形民俗文化財にな っている。
行橋 蓑島
◆写真は平尾台等覚寺の棚田、松会
平尾台は、四国カルスト、秋吉台とともに日本3大カルストと呼ばれ 、北九州国定公園の一角を占め、地表に表れた石灰岩のピナクル やすり鉢状のくぼ地のドリーネの景観を見ることができる。小倉南 区、苅田町、行橋市、みやこ町、香春町の広い地域に及ぶ。水晶 山、偽水晶山、権現山、貝殻山、大平山、岩山、塔ヶ峰などのピー クがあり、羊群原も広がっている。目白洞、千仏洞、牡鹿洞、青龍 窟などの鍾乳洞が点在する。四方台、周防台、見晴台の展望所が あり、上穴、下穴、大穴、小穴、鬼の唐手形というポイントもある。平 尾台の石灰岩は、約3億年前の古生代、赤道近くのサンゴ礁として 堆積したものが、プレート運動によって移動した。約6700万年前の 中生代白亜紀後期、石灰岩はマグマにより熱変成を受けた。貫山 やその東の水晶山は、マグマが固まった花崗閃緑岩で組成されて いる。約160万年前の新生代第四紀になると、平尾台の石灰岩は 雨水や地下水の浸食作用を受け、ピナクルやドリーネができ、地 下には鍾乳洞が発達してカルスト地形ができた。
行橋 蓑島 行橋 蓑島 行橋 蓑島 行橋 蓑島
◆平尾台に入る橋梁、カルスト地形2景、千仏鍾乳洞の茶屋
行橋 蓑島 行橋 蓑島 行橋 蓑島 行橋 蓑島
◆千仏鍾乳洞チケット売り場、洞内地図、同じく洞内地図、入口付近
さて、苅田松山城、蓑島城、松山神社の3つの線は立派な歴史散 策コースになる要素がある。守田家が一般公開されれば、その核 になる。守田旧宅は既に改修方針ができている。
また、松山神社については、境内周辺を地元の有閑人材に頼り、 孟宗竹を伐採、日常的な清掃作業を行なう。それから篤志家の芳 志を仰ぎ、市から予算を獲得、四阿・展望所を再生、できれば本殿 も構築するなどの整備が期待される。
長寿大橋から回り込んだ沓尾山の南側には、金比羅神社、兵庫社 、石切り場跡、庚申塔などもある。ここから南下すると、海水浴場の 長井浜、古墳群で知られる石並地区を経て、覗山の南にあたる仲 津校区の稲童浜に至る。
5 今井・須佐神社
沓尾の隣は今井祇園という愛称で親しまれている須佐神社のある 今井地区になる。
天暦6(952)年にできた元永鎮座今井津須佐神社は建長6(1254) 年、この地に疫病が流行したため、当時の地頭が京都の八坂神社 に参り、祇園社を勧請したため「今井祇園」の別称がある。
境内は、道路際の鳥居から直進すると、大鳥居をくぐり、すぐに急 な階段を上る。正面突き当たりにはまるで江戸時代の城郭を思わ せる石垣が屹立している。この石垣は明治20年代に山口県大島郡 の棟梁・河野佐吉が築いた。左手にはさらに百段雁木とよばれる急 な階段があり、それを登り切ると拝殿のある場所に着く。左手の参 集殿の前からは今井の町並がよく見える。
拝殿は左側が須佐神社と、右側が大祖大神社の2つが並んでいる ため横長になっている堂々とした建物。背後にはそれぞれの本殿 がある。拝殿の向かいには幅広い廊下になっている回廊が巡らさ れている。そして拝殿の右側に神楽殿、神輿庫、絵馬堂があり、急 階段を迂回して、手洗いの脇を通って下る階段へと続く。
行橋 蓑島
◆写真上 から、須佐神社の大鳥居、今井の街並、拝殿
なお、山の上部には生目神社、山神様、地蔵、大師像がある。
ところで須佐神社は、勧請した翌年から早速、疫病退散のために 祇園祭りを始めた。これは現在でも受け継がれ、毎年8月1〜3日に 開催されている。地元では廿日祇園といい、7月15日に社頭連歌 が始まり、連日各種神事が行なわれ、最後に大祭である凡そば、 納幣、お八つ撥という神弊奉納神事、連歌奉納、山車運行の行事 がある。
8月1日夜、祇園山車は、今井西の町内で高さ20メートルの提灯山 車が。2日夜は山車の上下で笠着連歌。3日は幟を靡かせて今井 の大通りを運行する。
今井祇園祭では、かつては、曳山4基(今井東町・今井西町・今井 中須町・金屋)、舁き山2基(元永・真菰)の合計6基の山が巡行して いた。
現在では、今井西町の曳山1基の他、1941年から途絶えていた元 永の舁き山も復活している。
ところで、今井祇園の鳥居前の店では飴を売っていたが、現在、ど うなっているのだろう。
5 神万歳山 私の郷里の道場寺は、行橋市の南部にあり、JR新田原駅を含む広い地域である。この地はかつて長者原、神殿原といわれた。新田原の名はこれに由来する。道場寺の中で本区といわれている地区に標高71.2m・4等三角点の山がある。この山は地元では大山と呼ばれている。その名は、祀られている大山津見神に由来するが、正式には道場寺山という。 また県道を挟んでいささか面積は広いが最上部でも標高39mの小森山と対峙しているからでもあろう。ちなみに小森山の名は、この山を所有していた地元の大地主であった小森家によっている。 大山の名は、祀られている大山津見神に由来するが、正式には道場寺山というが、その他に神万歳山と呼ばれていることは地元民にもあまり知られていない。神万歳の由来は、この山が万歳の発祥の地であるからという。 麓からは北山神社の階段を登る。両側には椎の大木が茂る。実はこの山には数種の椎の木が全山を覆っている。階段の最上部に奉納相撲の土俵と、神楽殿、本殿がある。 この神社は住所とすれば大字道場寺字サギ山444ということになる。高産霊神、高龗神を祭神とする。元禄13年3月の髙橋忠右衛門房利・神主神崎数馬氏貞という棟札が見つかっていることからその歴史は古い。 神社前の広場奥にも椎の木の大木があり、そこから坂道を道なりに直登すると、五分ほどで頂上に出る。 頂上の展望公園付近には巨岩が20個ほども点在し、まるで岩手県遠野市の五百羅漢のよう。高さ2m・4m四方の大きさの大岩がある。東側に岩の割れ目がわずかにあり、これに足をかけて上に登ることができる。上部はほぼ平らになっている。地元では八帖岩と呼ばれ、遊山などで愛されていた。今はこの岩の上に仲哀天皇の記念碑が鎮座しているが、この石碑は以前は少し北側の別の岩の上にあったのを移設したものである。公園内は桜の木が植えられている。この桜の木は地元の小森ハナさんが寄贈したもの。頂上から東方向に眺望が開けて、二崎、北九州空港、蓑島、覗山が見える。西側にも平尾台初め多くの山々が見渡せる。 八帖岩は周防灘が火山爆発でできた古代に噴石として飛来したといわれているが、周囲には同じような岩がたくさんあることからこの1個が飛んできて偶然頂上にとどまったとは思えない。飛来説は信じがたい。岩上から西側を見降ろすとプールのようなセメント造りの3つの水槽があった。この施設は太平洋戦争中、直下の祓川の水を汲み上げて、当時の陸軍築城飛行場まで水を供給しようとした戦争遺構である。今この水槽の1つが、埋められ公園の一部になっている。八帖岩の上であの卑弥呼が祈祷を行なっていたという言い伝えもある この道場寺山には今は祓川を隔ててこの山のすぐ西側にある草場地区にある豊日別神社が以前ある。今は住宅建設で、山容が変わるほど削られてしまい山容が変わったほどになっている。山の北側にあった階段が豊日別神社に関係していたかもしれないが、遺構は果たして失われてしまったのだろうか? なお道場寺には次のような小字がある。欠無、居屋敷、常念松、石仏、壱丁田など。

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9 ふるさと創世
1 商店街復興の試み

行橋 蓑島
さて、海辺の家で生活をしていて、週に1度ほど、市の図書館と古本屋に行くのをついでとしながら、行橋駅前にある邪馬台国ネットの事務所に行く。
ここでは商店街の復興の試みが行なわれている。
駅前に、空き店舗を利用して、「町の駅」が設置され、全商店の案内所として機能している。当初、家賃をかなり安く提供してくれた1軒だったが、事業が拡大して、いまでは案内所がこの事業に理解を示したくれた両隣の3軒に増えた。その内の1軒には囲碁、将棋、麻雀、オセロ、トランプ、花札、昔のパチンコ台ビリヤードなどで楽しめる 場所にした。
町の駅では、商店街のマップが配布され、店舗のバーゲン情報も掲示されている。
また、「行橋への来訪者を主人公に」ということで、県境の入った日本地図、福岡県内、行橋市内の地図が掲示されている。
この案内所を訪問してくれた全国の人に、出身地のカラーシールを貼ってもらっている。来訪者に、ここに来た人に対する興味をくすぐるものがあろうと思われる。「自分と同じ出身地から何人この施設に来たのか」は各人がそれなりに興味を持つところであろう。そのことで話の糸口になる。そうした地元の人との会話が重要である。この掲示板の存在と、それを自分も参加したという意識を持たせることは、お客様を主人公にする、パフォーマンスの1つになるだろう。この地図は、模造紙のような大きな紙と、100円ショップで販売しているカラーシールがあればいいのだから、すこぶる廉価でできる。
加えて、自分の誕生日の月日別のリストなど(生年月日の年はいいかもしれんが、血液型は面白くないと思う)を作っておくのもいいこの地図のことはネット上で話題になっていて、日本一周やドライブする人の中ではよく知られていて、国道10号線を通過する人の多くがここに立ち寄っている。いまでは47都道府県全部の人が、36万4529人がここを訪れた。
その他、観光客には名前を書いたジグソーパズルを1人1ピースずつやってもらっている。
行橋 蓑島
◆写真は行橋魚町のコミュニティ広場
「町の駅」の案内所は、もちろん休憩所としても機能していて、椅子とテーブルを設置。観光情報資料棚、図書棚、ペットボトル回収箱と、缶回収機があって、荷物の無料預かり、雨傘・自転車の貸し出し、買い物の当日宅配引き受け、タクシー案内、季節によりかき餅を焼かせるなど、諸団体・各店舗提供の食材試食が行なわれてい る。
不要品を持参した人は、持って来た個数より1個以上少なく持ち帰る事ができるようにする「不要品交換市場」を設置している。同様のやり方で、不要本交換市場も同じコーナーでやっているまた、1日1台ずつという予定を組んで軽トラック市が開かれている。 その他、日常的にフリーマーケットが開催され、1シーズンに1度、大掛かりな蚤の市を行なう。
なんでも相談では、軽修繕の受付、犬猫交換、柿もぎりなどにも応じている。
時々、ナイトバザールが行なわれる。
案内所には、近所に住む邪馬台国ネットの有閑人材を活用して受付人がいる。この人材を活かすため人材バンク、市内のSNSの事 務所の出先機関がある。2軒目の店では、それに便利屋の派遣受付、月1回の生活困り事・法律相談所が開かれている。それに、雛人形の大量展示などがシーズン毎に開催されている。
また、この案内所では、地域通貨コスモスの両替も行なっている。100コスモスは日本円の95円で購入できる。いま、このコスモスが通用するのは市内の300店舗になっている。なお、貸傘を返すと50コ スモスが貰える。
貸し出し自転車は、放置自転車を修理して、色を塗り、無料で貸し出しているもの。自転車置き場は駅前、ゆめタウン、市役所、百三十銀行、八幡宮の5ヶ所にある。
行橋の商店街には、加盟している全店舗でなんらかの100円商品が置かれていて、店内のわかりやすい入口に置かれている。その 他、各店舗で「1店逸品」という企画が続けられ、その商品を設定した店は、案内所の掲示板、時々のチラシ、ホームページで紹介されている。月に1度、他の店の商品を預かり、格安で販売するミステリーグッズイベント、ヒントを商店の店に展示した商店街クイズが各店舗で行なわれている。
夏になると、日程を決めての打ち水イベントが開催される。これは市民参加のものだが、同時に市の予算で、同時刻に散水車が市街地を走り回る。打ち水による気温低下の試みと、地球温暖化問題へのアピール、それは市の宣伝にも繋がっている。
その後の追加。
○商店街の各店の100円割引券を配布する。

2 町興こし

  この他、町興こしとして、次のようなことが行なわれている。
○産業観光の導入 これは、いうまでもなく自動車工場、電機、セメント採取場、果樹園、漁業など地域の工鉱業、農林水産業などを観光の対象にするもの。
今、コンピューターの知識を持つことや使いこなすことは、もちろん必要で、それはそれでいいことで、さらに創造的に発展させることにも参画することも重要である。しかし、同時に、子供達は自然も、その他の科学も、社会のことも知っている全方向的に発達する、という風に育てることも同様に追究したいのである。
産業とは「人が自然を変える」というところに存在する。その産業そのものを観光の対象にするということであり、行橋に風向明媚な自然、歴史のある景観、大都市、温泉などの観光資源がなくても、人がおりさえすれば、産業があり、それは観光の資源になりうるということなのである。
農業、果樹園芸、林業の伐採・加工、漁業での魚を捕る作業、車を 造るなどの工業、あらゆるものは、子供のみならず、大人にも興味 深い。
同時に有効なのは、補習事業的な、物を分解することだろうと思う。 今、物は多くが分かりにくくなっている。ブラックボックスそのものは 分かりにくいが、物の構造を知ることでそのものを理解できることは 多い。例えば、自動車はどうしてピストン運動を回転運動に変えて いるか、どのようにして車は止まるのかなど。
例えば美術館で収蔵庫・書庫などを特別に見学させる「美術館探 検」なども産業観光のひとつと考えられる。コンピューター、冷蔵庫 などいろいろな物品を分解して、その構造を勉強するミニ産業観光 の試みも人気。
舟に乗る遊びは気軽な産業観光になる。釣りで舟に慣れた人たち は別にして一般に舟に乗ることは子供たちだけでなく、大人でさえ も楽しいもの。川への遡上、軽い釣り、地引き網の投網、舟漕ぎ実 習などの舟遊びはエリアの漁港を利用すれば、産業観光のひとつ として定着できると思う。その上で、魚市場の見学、魚の捌きなども セットにすると1日中遊べる。年配の漁師の人にも大きな生き甲斐 になる。
水遊びは事故の備えが必要だが、充分な装備と、優秀なスタッフ、 天候などの判断ができること、多すぎない募集人員などに注意す れば、港の漁船を活用したいわゆる漁業の産業観光が可能であろ うと思われる。
この産業観光をより豊かなものにするのには、この行程に花見、ぐ るめ、まつりなど別の観光要素を組み合わせると良い。そして、季 節毎に行なって定期化するものいい。
○美夜古デジタル写真館 各地の故郷を慕う気持ちで人々は生活 しているだろう。各地の膨大なデジタル写真を集積する1大映像記 録庫を造ってはいかがだろうか?大きな観光地でなくても、というか 、むしろ例えば行橋市新田原駅上りホーム、うちの村の北山神社と いうようなものの方が、業界でなく、一般的な人には価値がある。イ メージ的なものは全く不要である。具体的景色がいい。もちろん使 用自由。壁紙自由。現在の写真と同じアップシステムで行なう。食 べ物やイベントなどもあるかも。自分の住んでいる町の街角や、田 舎の道や、バス停、店、小学校、橋、河原などの風景を市民の投 稿による、デジタル写真で登録し、保存、ウェブ上で公開する。 下田写真館http://www.izuneyland.com/digital/が参考になる。 佐伯でカイトフォトを撮っている人に依頼しての凧からの写真撮影 記録公開も検討中http://takoage.junglekouen.com/。
○文化講座 各地で市が主催している文化講座というより、主に学 校で行なわれている特別事業の社会人版。人はすべて社会、知識 、智慧についての玄人である。基準は「その道に詳しい人」。印刷 工、弁護士、行政書士、医者、測量士、漁師、大工、絵描き、写真 家、野菜造り、魚売りの玄人、遊びの玄人、販売の玄人、運転手、 電脳技術者、編集者などを講師にする。
○フードバンク店舗の運営 商家・近隣の農家・林業の家から規格 外品、消費期限、賞味期限切れ間近・超過品、規格外の果物・野 菜は、まだまだ食用が可能なのに、廃棄されたりする。それを貰い ・買い受け、必要とする人たちに届ける福祉活動、あるいは常時廉 価で販売する営業活動。他の同業種との競合に注意して行なって いる。一部は車に乗せて田舎を回っている。
○店舗で購入者に大判焼き引換券 1個引換券というのは、伝統 的ファストフードの大判焼きを、とにかく1個食べてもらうということを 店とタイアップするもの。それに店に引き換えに行った時、ついで に購入するかも。
○プランター通り コスモス、サルビア、マリーゴールドなど咲く時 期の長い花をプランターで商店街の通り、店の前に大きさを揃えて 並べている。
○海苔の絵コンテスト 蓑島特産の海苔を活かした切り絵の作品を 募集するもの。
○ゆかたまつり お盆中に、商店街を歩行者天国にする。ワゴンセ ール、オープンカフェなどの取り組みが行なわれ、浴衣で歩く男女 には、各店でそれぞれの特別サービスがある。
○合同チラシ これは商品チラシではなく、観光マップにこの地区 のたくさんの情報を網羅したリーフレットのことである。有料の協賛 金を得て、年に2回改訂する。
○早朝ゴミ拾い。街を美しくというキャンペーンで、遊びも兼ねている。実行委員会では、参加者に参加記念品を贈る。これは各商店が協力して協賛品を出したもの。
○川の活用 5月、鯉のぼりを今川の両岸から張ったロープに吊るす。その他、同時に吊るすもののアイデアを検討中。
○市民へ温泉の配達 あまり温泉とは縁のないこの地方の人に温泉の湯を配送している。
○鶏を飼う 自然飼育の鶏を会員が飼っていて、契約者に配達している。新鮮なため、玉子かけご飯、卵焼きが好まれている。

 

3 今後の計画

邪馬台国ネットでは、これから、
○「出会いの町」イベント
○屋台村
○街灯LED化
○買い物バスの運行
○コミュニティ放送
○キャラクターの設定
○レトロ行橋
○銘菓・ファストフード・土産の創出
○駅弁の販売
○グルメで町興し
○特別店舗
○フードバンク行橋
○収穫イベント
○健康ウォーキング
○平成筑豊鉄道との提携 が予定されている。
それぞれのことを説明するとこうだ。
○若い人対象と同時に単身高齢者対象の「出会い」をテーマに様 々な「出会いの町」イベントを繰り返し開催する。そのためのNPO法 人「なこうどnakoudo」を立ち上げる。
○屋台村 廃業した飲食店を改造して、数軒の小規模な店集団を 造り、それぞれが特徴のある屋台の店を出す。
○街灯LED化 近年、急激に進んでいる省エネ対策。市の援助を 受けて、消費電力1/8〜1/13のLEDに変更することが有効。アピー ルできる要素にもなる。
○買い物バスの運行 運行方法を検討。タクシーとの競合があり、 相乗りで市内を経路自由で回ることはできないだろうか。
○コミュニティ放送 市内の情報を流す地域放送の運営。
○キャラクターの設定 全国的に流行していて、今ではもう遅すぎ るが、可愛い奴の設定。
○レトロ行橋 豊後高田市にある「昭和の町」のようなイメージ。テ ーマはもちろん「昭和30年代の行橋」。「昭和」という元号がみやこ 町勝山生まれの吉田増蔵に関係しているのも活かしたい。当時の 映画のポスターを貼ったりして、雰囲気を造る。廉価で食べ物、飲 み物を提供する屋台村も営業する。
○銘菓・ファストフード・土産の創出 行橋の銘菓には、いちじく想 花、花びら餅、わたってゆく橋などがある。このような銘産品を販売 する老舗があるが、最近の若い人には知られていない。目立つ場 所に単独で店舗を構えるなど資金的に無理。そこで、この案内所 の中で、銘菓を1種類ずつセットにして、それなりの値段を付けて販 売する。このセットは自動車会社、銀行などでの成約プレゼントにも 活用されている。仙台では老舗の店が呼びかけて、本来競合する3 つの仙台土産の店が合同店舗を構えている。さらにこれを真似て 他の店集団も同じような店舗を造り、いずれも成功している。
そして、新しい銘菓を創ろう。「昭和」をイメージするもの、白い落雁 を「香春岳の石」などというのもいい。青森のホタテの燻製、3陸山 田生せんべい、片瀬江ノ島のり羊羮、大館煉屋のバナナ、羽後本 荘のいちじく羊羮、秋田いしもとのあたごせんべい、鶴岡のからから せんべい、今治のみかん大福・いちじく大福などが参考になりそう。 ファストフードとしては、行橋駅前通りの大判焼きの他、ワンコイン で買える蟹のダシのおにぎり、揚げ立てのてんぷら、食べやすい寿 司、カレーパン、工夫さまざまコロッケ、ひょうたん揚げ、魚の形を した揚げ蒲鉾、尻尾が跳ね上がった鯛焼き、じゃこ天カツなど各地 の商品情報から人気商品を考えよう。1個で普通の大きさの5個分 ある津ギョウザなど、大きさ、形を変えた食べ物にも創作のヒントが ある。大体、あるものを極端に大きくしたり、小さくすると面白いもの になる。
○グルメで町興し 行橋のある回転寿司の店で食事をしたが、驚く べき貧弱なネタであった。山の中ならともかく海に面した地方でこの ような商売をしていることが信じられない。これでは評判を落として しまう。各店舗に規制はかけられないが、ある1店が蟹鍋料理、物 凄く新鮮なアラ汁、食べやすい寿司、蟹ワッパ飯、蟹のダシのおに ぎり、海苔、貝加工品を有効活用などグルメで人気を呼ぶほどのこ とをすれば、地域全体のレベルをあげることもできよう。そうすること にとって、この地域の特徴のひとつとして、エリア全体がグルメの町 になれないか?
一般に、人が観光で動く動機には、景色、遊戯・見学施設、食べ物 、温泉、祭り、信仰、人物などである。このうちリピーターになる要 素は主に、温泉、食べ物、人物、信仰であり、景色、祭り、遊戯・見 学施設は、よほどのことがなければリピーターになりにくい。
そして、その地域に景色、施設、温泉などの要素が少ない場合、興 味を呼び込めるのは、グルメ、イベントである。近年B級グルメがマ スコミでも取り上げられている。例えば、カレーライスは、揚げ物と 同じに根強い人気がある。海に面しているこの地方ではシーフード カレーなどは有効と思われる。ホタテ・イカリング・白身魚・エビ・カ ニ・マテガイなど海の素材を活かしたい。あるいは、シーフードカレ ーと揚げ物をセットにしたダブルカレーなども人気が出そう。
他に、参考にできるグルメといえば、山梨の蕎麦店で提供されてい る鳥もつ煮は椎茸、ピーマン、筍を入れた甘さの強い人気メニュー 、これは丼にして出されてもいる。また、会津地方のソースかつどん 、津山市のホルモンうどんなどもある。これについてはTVで毎週放 映されているケンミンショーが参考になる。
イベントの方は各地にたくさんある。各地で開催される鍋まつりや、 高知で行なわれている大鉢まつりなども興味深い。 名物のラーメン店が、例えば、ホテルに売り込みをするとか、ある種 の施設と協力して、無料ラーメン券プレゼントという企画もできるか もしれない。
玉子掛けご飯を、イベントで百円程度で安く提供することもいい。
○駅弁の販売は、行橋駅では、英彦山の近くで作られている小石 原焼を駅弁の器として使用した鶏肉飯の弁当が売られている。小 石原焼は日常の使用されるきわめて庶民的な焼き物である。列車 を利用する客がここで必ず購入するという駅弁になればいい。この ように再利用可能で、消費的に使用される物を活用すれば、相乗 的効果も生まれる。このように2つの物件を組み合わせることは、物 を大きくしたり小さくしたりすると同じようにヒット商品開発のヒントに なる。
○収穫イベント 近隣の大型農家集団と協力して、野菜を1定の袋 を用意して、詰め放題のイベントを行う。野菜はいまのところ、大根 だけだが、種類を増やすことにしている。このイベントは本来、花見 ・摘果・収穫・小枝拾い・施肥などの作業を含めた通年のものにした 方がいい。
○健康ウォーキング 歩くとともに、地域で行なわれているイベント に同時に参加することで企画が豊かになりそう。地域の歴史、景観 を学ぶ取り組みが有効。松山、蓑島、沓尾、石並、豊津、馬ヶ岳、 神籠石、平尾台などがその対象になる。
○平成筑豊鉄道との提携 地方鉄道連合で全国の鉄男・鉄子にキ ャンペーンをすればいい。第3セクターの平成筑豊鉄道(本社:福岡 県福智町)では、1ヶ月限定で懸賞付きの通勤・通学定期券を発売 している(1ヶ月の定期券販売実績は770件程度)。2007年6月で3度 目の試み。7月上旬に抽選を行ない、1等(5人)は定期券1ヶ月分、 2等(20人)は1日フリーきっぷ、購入者全員に1百円分の乗車券が 当る。同時に夏休み期間中に車両内に展示する写真を募集してい る。こちらは応募者全員に同鉄道の1日フリー乗車券(千円)をプレ ゼントする。賞品をこのような自社商品にすれば、実質的な持ち出 しがないため、予算がそれほどなくても実施できる例ではある。告 知なども車内、駅構内でやればいい。コンテスト写真展示もそれな りに有効と思える。ただ「1百円分の乗車券」というのはどうかと思う 。
地方鉄道で、もっと有効にイベントなどを開催する際に、地元の施 設も活用して、取り組みをさらに発展させて行き、楽しいもの、話題 性になるものをいろいろ考えたい。
これまで全国で取り組まれているものは、以下のよう。
ストーブ列車・鈴虫列車・風鈴列車 (津軽鉄道)、赤字煎餅販売・物 産通信販売(三陸鉄道)、沿線温泉施設割引・車の回送サービス( 秋田内陸縦断鉄道)、納涼ビール列車(由利高原鉄道)、7夕列車( 山形鉄道)、お座敷列車・ トロッコ列車・ 展望車(会津鉄道)、車内 コンサート(いすみ鉄道)、薬草列車(樽見鉄道)、展望列車(北近畿 タンゴ鉄道)、サンタ列車(北条鉄道)、ホタル列車(錦川鉄道)、まく らぎオーナー制度・運転体験(平成筑豊鉄道)、ビール列車(松浦 鉄道)、トロッコ列車(南阿蘇鉄道)など地域の特色を生かしたいろ いろな列車を走らせている。
例えば、平成筑豊鉄道沿線には、福智山ろく花公園(直方市)、上 野焼陶芸館ギャラリー、ふるさと交流館日王の湯、ほうじょう温泉ふ じ湯の里(以上福智町)、田川市美術館、田川市石炭・歴史博物館( 以上田川市)赤村トロッコ油須原線、ふるさとセンター源じいの森温 泉、自然学習村源じいの森(以上赤村)みどりの館、みやこ町歴史 民俗博物館(以上みやこ町)などがある。
これら沿線の施設の協力を大々的に仰ぎ、施設利用券、割引券、 無料券を1日乗車券とセットで販売するなどもいい。また、このキャ ンペーンは、各施設自身の有効な宣伝にもなるだろう。
物産的には、いまや全国区になった筑豊ラーメン、行橋の3徳ラー メン、ちょっと遠いが新田原の果樹園狩りなどとのタイアップの方法 もある。また、地域の店や商店街と提携した割引券を作成するのも いい。
国土交通省との兼ね合いもあるだろうが、折に触れて「1日フリーき っぷ」、子ども乗車券を地域のイベント、商店街の賞品に積極的に 行なうのもいいだろう。
この他、日中時間自転車無料持ち込みOK、沿線ウォーキングなど の他、話題作りのためには、平成筑豊鉄道らしい企画を考えるべき かも知れない。
例えば、沿線住民の協力も得て、菜の花を30キロメートルくらい植 えて、世界一長い菜の花ライン造り。秋にはコスモスもいい。
シーズンに農家の協力を得て今川河童駅でのきゅうり配布、東犀 川三四郎駅で夏目漱石記念日の本展示・即売など。
上野焼陶器市、各地の鉄道用品販売などのイベント。
また、最近、鉄男の他、鉄子も増えているということなので、全国に 集客のアイデアを募集するキャンペーンを行なうのもいいと思う。賞 品はもちろん、参加鉄道会社の1日フリーきっぷセットなど。
その他、
○食べることはいつでも需要があるし、継続性がある。ユニークな筑 豊弁当を考えよう。
○石炭にちなんで「破片黒飴」などという黒に特化した食材を活用す るのも話題性がある。
○沿線の人たちが資金を出し合って変わった客室の列車というのは 造れないか?
○2010年春、熊本県多良木町で、寝台特急はやぶさの客車3両を 簡易宿泊施設として第3セクターくま川鉄道の貨物積み込み線跡 地で再生させるという。
こういうのを平成筑豊鉄道内で設けて、キャンプサイトや、BBQ設 備を設置、アウトドアエリアとして充実させるのもいいと思うのだが。 そして、客を鉄道でも送り込めれば面白い。
○聞いてて、とても耳に気持ちのいい車内放送が、奥羽本線の山形駅付近で流れている。それで平成筑豊鉄道で「爽やかなアナウン ス」を募集してみてはどうだろう。その際、放送を地元の言葉でやっ てくれないかな?これを一般公募して、どこか音楽スタジオの協力 を得るなどすると話題になりそうだけど。けど、考えてみれば、いま でも平成筑豊鉄道には車内放送はされてないかも知れないし、さら に言えば車内放送そのものが必要ないかも知れないね。そうだとし ても始める価値はありそう。
  

4 邪馬台国ネットの事 業

  それから邪馬台国ネットでは次のような事業が取り組まれている。
○全国鉄道駅入場券展示
○観光果樹園
○1坪菜園
○棚田の美しい等覚寺での燈火イベント
○産直品通信ネット販売
○イベント企画
○町の駅運営
○田舎暮らし推進の家屋提供
○地図製作
○映像配信
○市内のSNSの事務所
○塾・パソコン教室
○ホームページ・ポスター制作
○日本一周人支援
○観光大使
○全国にアイデアを募集 少し補足して説明するとこうだ。
○全国鉄道駅入場券展示JR行橋駅構内には、全国の駅の路線図 があって、各駅の入場券を貼るスペースを掲示している。提供者の 名前がその下に記入されている。これは全国の鉄道ファンにはよく 知られたことである。既に貼布された駅は、インターネットで発表さ れている。
○観光果樹園 この地域が九州有数の果樹園地帯であることはま だ知られていない。全国に知られていることを活用して全国にアピ ールしたい。例えば「潮田玲子オーナーの木」などの設定をして、 マスコミに取り上げられることを考えたい。果樹園農家はつらいこと がたくさんあるだろう。後継者不足という大きなこともあるし、毎年、 枝の剪定、受粉などの作業の他、病虫害の発生、風雨害の心配も ある。豊作による値崩れは最近の保存技術の向上でまだ救われる としても、収穫期の颱風による落下が最もつらいに違いない。
その果樹園はどのような課題があるであろうか? 果樹園農家は現 在でも、観光果樹園へ移行するという道を追究しているのだろうか 。また、現在、既に観光果樹園をしている農園は今後、どのような 課題があるだろう。観光果樹園をしてもいいが、来園するのはいい 人たちばかりではない。無知ということもあるが、平気で来年の芽を 潰す奴もいようが、多くは良心的に楽しもうとしているのだと信じて、 収穫だけでなく、花見・摘果・収穫・小枝拾い・施肥などの多様な体 験観光を模索したい。果物狩りのシーズンに食べ放題の後、数個 の果樹持ち帰り券を進呈することもいい。
体験観光に訪れる人たちの気持ちであるが、現地で食べるのだか ら、美味しいものを安く、と思っている。果樹園で販売される果物の 価格は多くの場合法外に高い。これはなぜか? 大いに疑問であ る。これを改善して貰いたい。卸や流通には多大なマージンを支払 っているのに。
また、観光客は果物狩りだけで無く、その他のグルメ、遊びもと当 然考えている。であるなら、果物狩りを1日の遊びの1部として、他 の観光要素を組み合わせたモデルを考えたい。これはむしろ観光 行政の課題である。逆にまた、そのシーズンにドライブする人にちょ っと果物狩りにも立ち寄ってもらう工夫を考えたい。
春〜夏の、収穫時期以前にその町で行われる大きな行事のたびに 、観光農園の存在を知らせるようにしたい。これは行政がリーフレッ トを配るか、果樹園が作成したものを行事関係者が配布するとかす る方法である。しかし収穫期に来園して貰うためには、単なる案内 チラシだけでは駄目である。収穫時期は、1度に多くの果物が実る 。また、流通には出せないような、規格外のいびつな形の収穫物が でるはずである。このナシをそのシーズンに街道で販売するナシ店 に立ち寄ってナシと引き換えるというものである。まぁ1部には1個の ナシを引き換えるだけの人もいるだろうが、多くは少しなりともナシ を購入して行くだろう。
宅配便で全国各地に発送する場合、ぜひ町の案内宣伝物をその 中に入れたい。さらに、その中には、自分の果樹園の収穫シーズン に、例えば「自分でもいだナシ味わいお楽しみファミリー券」を入れ たい。これが近くの都市に住んでいる人たちの、この地方に来る動 機になればいい。なお、ナシは「水分を含んでいて、声枯れにいい 、体の熱をとるためにいいので暑気あたりにいい。ナシは肺を潤し 、痰を取り除く風邪の妙薬。ナシとレンコンのミックスジュースは咳・ 痰・二日酔いにいい。ナシの中にあるザラザラした石細胞は便通が よくなる。ナシはタンパク質の消化を助ける、だから肉・魚料理にい い」などのこともぜひ宣伝したい。
新田原地区は有名な果樹園地帯である。シーズンには国道1○号 線に直売店が並ぶ。いくつかの店が合同で、広い駐車スペースに 数軒でもいいから、並んで果物を売ってみるのはどうだ?競争して 客を取り合うのもいいが、客の絶対数を増やすことにならないか。 新田原はナシも有名だが、イチジクの産地でもある。これがやっか い、語源が「一熟」からきたという説があるほど、イチジクは生長が すこぶる速い。日持ちもしない。地元ではイチジクを素材にした菓 子があるようで、それはそれでいいのだが、どうも素材を活かしきれ てない気がする。ジャムもいいかもしれないが、完熟前のイチジクを 甘煮にするか、乾燥無花果にすることも試したい。
○スモモの白い花が咲く棚田の美しい等覚寺での燈火イベント こ ういう特殊なイベントは、その前に市内の写真家に依頼して写真講 座を開催することも。渋滞対策は、一方通行で解決できようか。地 元では等覚寺応援団が活躍している。また、近くにある白山多賀神 社も厳かな雰囲気である。
○産直品通信ネット販売 これは邪馬台国ネットのウェブ上で取り 扱っている地元産品の通信販売。
○100円均一商品 商店街全体の各店舗で、在庫処分品など新規 商品でなくても、店頭に何らかの100円商品を提供する。1度も利用 したことのない店舗で「入りにくい」「入ったら、買わされる」と敬遠し てきた客を、100円商品の買い物で、店の内部に足を踏み入れさ せることができる。その際、その他の商品も売り上げることにつなが る。もちろん、気軽に購入したくなる廉価な商品を用意することが必 要である。寂れた元気のない賑わいの起爆剤として、こうした取り組 みは有効である。例えば、歯科では100円の「子どもの歯診察券」、 自動車会社は「車内クリーン券」を発行するなどの工夫ができる。 0イベント企画 魚つかみ取り・釣り大会・海上歩行大会・遠泳大会・ いかだレース・櫓漕ぎレースなど。他にトライアスロン・無人島体験・ 漁具小屋を改造して寝泊まり可能な集会所造り。参加型。迷路作り 。まつりのイベント会場で、迷路で遊ばせる他に、迷路を造るのを 手伝ってもらうとか。そういうことに喜びを感じる人もいる。これらを 泊まりの作業にするとまた面白い。つまり一般に準備の必要なイベ ントに助っ人をしてもらうのを遠慮しているが、そういう特別の立場 を提供されると、一般人は喜ぶものなのだ。ボランティアをしたい人 はいっぱいいる。かつての雪下ろしツアーなどもそうである。 ○田舎暮らし推進の家屋提供
島根県江津市には「空き家情報提供特別区」、益田市では「空き 家バンク制度」というのがある。
例えば、益田市での生活を望む、都市住民との交流拡大と定住促 進で地域活性化を図るため、市内で「貸し住宅」あるいは「売却」と いう空き家の情報を求めて、それを有効活用すること。
提供されている家屋の情報(写真付)は、例としては、以下の感じ。 所在地 野入西
用途 住宅
建築様式 木造瓦葺平屋
延床面積 67.47平方m
建築年 不詳
程度 極上
水道 公共水道
ガス プロパンガス
トイレ 汲み取り式
その他 敷地内駐車2台
この場合、問題は、トイレだろうな。少なくとも、簡易水洗にするとい うことが、都会人には必要と思われる。
○地図製作 町で行われる大きな行事のたびに、観光資源の存在 を知らせるようにしたい。これは行政、行事関係者がリーフレットを 配布するとかの方法である。そして別の季節にもこの地域に来訪者 があるような仕掛けをする。
○映像配信 映像の多様性の時代はまだまだ続く。いろいろな分 野のものを動画で紹介していくようになるだろう。
○市内のSNSの事務所 各家庭にインターネット網を敷き、非常に 簡易なシステムで老人家庭もSNSに参加できるようにする。関連し て、住んで楽しい海岸別荘地計画。市内に点在する空き家を利用 して、その連帯システムを作る。ハードの家屋だけではなくて、ソフ トを重視した第2の人生ネットワークを構築する。
○塾・パソコン教室 昼間は年配者向けのパソコン教室にして、夕 方以降、塾の経営を行なう。塾は、本当にいい指導内容にしなけ ればならない。パソコン教室も利潤追求でないような経営内容がで きようか。
○ホームページ・ポスター制作 専門家を養成していて、新しいホ ームページの可能性も追究する。いまさらアナログのポスター制作 の部署も設ける。
○日本一周人支援 インターネットを見ていると、長距離ドライブの みならず、九州一周、日本一周などをしている人が多い。そこで、 行橋地区で、それらの人を支援する試み。道の駅に立ち寄ってそ の足跡を残す施設を造る。敷地内に車中泊しやすいような駐車場 スペースの設置。それから、廉価な宿泊施設の提供をする。
○観光大使 近年、かなりの地方で多くの有名人に委嘱されている 。無償だが、各人が各分野で活躍していて、その活動は有用に思 われる。そして担当者の交流会を設けるといい。例えば、鹿児島県 は観光大使の名刺の裏に「この名刺持参者は次の施設の割引利 用が受けられます」などという企画も作っている。もっと活躍できる ように、こういうアイデアの交流が必要かもしれない。
○全国にアイデアを募集 マスコミへの話題提供にもなる。賞品は 、この地方への招待と、物産にすればかなり有効。
 

5 実現したい計画

  その他、いろいろな計画。
○北九州空港の道路に旧豊津高校の蘇鉄が移植された。この道路 を蘇鉄道路にする。毎年、各同窓会で1本ずつ植えるようにして、 並木になるように。別府大分道路や、宮崎の国道220号線などのよ うに、北九州空港に降り立った北からの客に、ほぅ、九州だ!という 感激に繋がる。各高校にも依頼して、この地域の高校の連帯運動 になればいい。これについては、「先日行われた育徳館高校創立 250周年の祝賀会で蘇鉄の話をしました。各高校連携しあい、蘇鉄 街道ができたらいいですね。貴方の意見を参考に、努力してみま す。有難うございます」というI氏から意見があった。
○マルシェジャポンのように、駅前から旧国道10号線交差点までを 歩行者天国にして、商店街の各店舗が店先にワゴンセールと、市 内各地の農林漁業生産者が出店する、ゆくはし市を開催する。蚤 の市も有効。
○写真を主にした市勢要覧を作る
○いまさらだが、タウン情報誌の発行。市内の印刷会社に発注
○文庫本サイズの観光ガイド本
○福岡観光手形発行
○九州観光手形発行
○ホタルの里
○パチンコ博物館
○綱引きイベント。香春町と旧仲哀トンネルを境にして競争
○平尾台で、関係市町村を巻き込んでの平尾台オールナイト、平尾台ウォーク、平尾台周回マラソンなど大イベントができそうな気がする
○産直市場の野菜にキャラークターシールを。意外に人名には注 意しない。商品の見回りチェックを。
○お潮井とりウォーキング。
○イベント「氷の世界」。夏の1日、家庭の氷と、業者の氷を持ち寄っ て、行橋駅前広場を冷たくするイベントを行なう。気温がいくら下が るかが楽しみ。井上陽水氏は飯塚市の出身。
○花の販売。傘立てのようなものに立てて花を売る。
○ふれあい市場で「福袋」野菜。
○かっこいい手提げ袋(市内全域地図、商店街地図、イラスト、古い 地図)。商店街地図はウェブにも掲載。
○駐輪場の屋根に太陽光発電システムを設置して、ソーラー駐輪場 を造る。
○行橋カレーというのができそう。それとも行橋ランチかな。
○廉価すぎる服飾店、面白いというか珍しい物品を売る店、レトロな ものを売る店、全国の名産品を売る店などが、商店街の中にでき ればいいな。そういう店を立ち上げるための援助が行政の側ででき ないものかな。
○道筋には紙が散らかっている、公共物の塗装もかなり剥げている 。心ある人たちが「街を美しく」と行動すればいいのにと思う。ボラン ティアなのに、修繕材料費がかかってはかなわないので、それらは 行政などから補助することで解決すればいい。ある市ではこの改善 すべき市の景観としてウェブで市民からいたずら書き、草ボウボウ などの写真を募集し、改善している。
○今川に魚を放流できないか。
○今、商品販売のあげる利益で、流通が1番儲かっているかとも思え る。まぁ、流通部門も泣く部分も多かろう。生産現場や販売部門も 奮闘しているのには違いない。生産現場=工場で、見込み違い、 キャンセルなどが不可抗力的に発生する。こうした、カステラ、豆腐 、餃子など作り過ぎの製品を格安で、工場直販しているのが話題に なっているらしい。特に、投資をして店舗を設けない、宣伝はしない 。これまで廃棄処分していたから、半額、6割引にして販売しても利 益になるとか。もちろん、美味しいものでなければだめだけど、こう いう試みは町興こしにも繋がりそうである。「もったいない」ということ の延長でもある。この「もったいない」という考え方と、「工場直販」の システムを、フードバンク的なもので展開できないだろうか?賞味 期限の切れた本日の食べ物(仕入れ価格=ゼロ円)と、一般には敬 遠されやすい消費期限間近の商品(仕入れ価格=格安)を販売す る店を採算ベースにのせて運営したいと思うのだが。
○土佐清水市では、マンボウの形をした鯛焼きがある。これはヒント になりそう。
○4つの観光エリアでポイントラリー
○空から見たふるさと-鳥瞰図。
○こたつでトーク。
○組み写真による写真コンテスト。
○行橋をテーマ化した、かっこいい手提げ袋を創ってみたらどうだ ろう? 市民全体に対して(もちろん、全国募集して話題にするという方法も あるが、それは市レベルで本格的なプロジェクトが必要になるので 、時期尚早)アイデアを一般募集して市内全域地図、商店街地図、 イラスト、古い地図などをテーマにしたものを作るとか。同時に、もう ひとつ、女子高校生に限定募集して、すこぶる可愛い奴を作るとか 。年末、仙台では、どういうわけか、「三越百貨店の買い物袋」を下 げた人が大勢、意気揚々と街を歩いている。
○面白い貯金箱を設置してみよう。 「行橋市に関する、観光・歴史・産業百問」というのを、おおっぴら にやるのも、楽しいかもですね。 最初から100問作ってもいいけど、それでは受動的なので、問題の 30問くらいを見本として出題して、あとの70問を、一定の応募期間を 設けて、広く市民から募集するなどすると、話題性が出て来るし、 面白い分野・地区のものが掘り起こされるかも。
そして、市内の会社、店舗に協力してもらい、 飲食店は割引券、タクシー会社だと割引券、歯医者だと無料診断 券、漁業組合だと当日水揚げ品プレゼント券、自転車屋はパンク 修理券、菓子舗や大判焼きの店だと5個以上で1個進呈券、その他 、店により10、5%の割引券なども出すと、それを利用する人、その 店に足を運ぶ人などで活性化に繋がるかも。
○青森県黒石市では毎年2月に「マッコ市」が開催されている。2月 第1日曜日の早朝4時半〜5時くらいから参加する多くの商店で大 売り出しをして、マッコを買い物客にあげるというもの。マッコは「お 年玉」のことだが、本来銭を繋いだ紐の尻が馬の尻尾に似ていたこ とで「馬ッこ」に由来する。江戸時代、金物屋が冬に夏場の商品の 購入予約を受けたときにお年玉をつけたのが始まり。旧正月の行 事だったので正式には「旧正マッコ市」と地元ではいう。早朝始まる のは平日でも、人々が出勤する前に参加できるため。今は、旧正 月近くの日曜日の早朝に行われて、周辺の市町村からもたくさん訪 れる。販売される商品は店毎に0分割引されている。すぐに乗って 帰るというわけにはいかない乗用車や春に購入する学生服のように 「予約」でもマッコが貰える。大体の店が3千円、5千円につき1個の マッコが貰え、千円分くらいの商品が専用の箱に入れられている。 内容物はちょうどお正月の福袋のような感じ。化粧品屋では試供品 を大々的に配るし、菓子店では見本に1個菓子を無料で配ったり する。また午前5時と10時の2回、「福まき」といって、うんぺい餅、 小銭、マッコ引換券、テレビなどの豪華景品割引券、商品券、落花 生、蜜柑なども撒かれる。甘酒、つゆ焼きそば、じゃっぱ汁、餅な ども先着順だが振る舞われる。夢札投票、ダブルマッコ抽選会もあ る。前夜祭として、劇団の興行、足湯ライブ、蝋燭1千本燈火も開催 されている。
福島県会津本郷町にも同じように8月の第1日曜日の早朝4時から 開催される行事がある。この「せともの市」は、瀬戸物の町・会津本 郷で、不具合のある瀬戸物を小遣い稼ぎ的に廉価で販売し始めた とこによるもの。このように早朝開催されるイベントというのは若者だ けでなく老若男女に非日常的であるがゆえに楽しいものである。こ の類の行事は各地で企画して開催すれば楽しい町興こしになりそう である。
○行儀は悪いけれど、町歩きをしながら食べることのできるファスト フードが欲しい。 それを見て、他の人も食べたくなるような感じ。大判焼きもいいけど 、丸いのでなく、他の人にも見えるように、細長いかたちをした何か 。もちろん片手で握れるもの。甘いもので、揚げ物であれば、長持 ちするから、さらにいい。地元の素材を活かすといえば、魚介関係 か、果物活用、里のものでもいい。
○仙台の国分町に蟹の身をほぐしたのを食べさせてくれる店があっ た。 毎日、何人分限定とか、数量は限られていて、予約をしないといけ ない。 もちろん、その他のメニューもある。普通、蟹は身をほぐしながら食 べるから、みんな話もしないでモクモクと食する。本人も、身をほぐ していたんだか、食べていたんだか、食べ終わってみると分からな い、という感想が残る。 作家の開高健は、蟹を食べる時、まずひたすら身をほぐす作業を して、丼いっぱいに溜めてから、まとめて食べるということをしてきた 人だ。根性のある人だ。 開高健が常連だった越前海岸のある旅籠では、それで「開高丼」と いうのをやっている。もっとも、値段は1万円、ハーフサイズでも5千 円するという代物だが。 漁協から、契約漁家に回して、その家のお婆ちゃんが身をほぐす 作業をする、店が夕方取りに行く、限定メニューとして提供、という 感じで居酒屋でこれをやると、人気が出るような気がするが。 行橋の大正町に、従姉が経営していた「みのしま」という飲み処があ ったけど、どうしてるかな?  

6 蓑島地区での計画

  その他、蓑島地区でのいろいろな計画。
○「男はつらいよ」のフーテンの寅さんに出て来る団子屋とらやのよ うな海の家を造る。
○名所造りの考え方。「ひとつ屋根の下」の主題歌で知られる、チュ ーリップ「サボテンの花」の素材になったサボテンは、福岡県志免 町の財津家にいまでも育っている。このサボテンは、財津和夫氏の 7つ年上の兄・三郎氏が修学旅行で宮崎に行った時、土産に買っ て来たものを母親が育てていたものらしい。それを見て「これは歌( の素材)になる」と思ったという。このサボテンを分けて戴いて、蓑島 で育てて、名所にする
○「蓑島カレー」というのができるな。3つの山をライスで造って、その まわりをカレーで満たす。ライスをバジルライスにするか、上にパセ リを載せて山に見立て、道を何かの食材でラインを引く、というと面 白くなりそう。 カレーはどうしてもターメリック色になるかな?白いカレーというのも なかったかな?それに青い色を混ぜると面白いが、それではカレ ーにならんか?いずれ、カレールーの中に魚介を散らすと、海鮮カ レーにはなるわな。マテ貝はあるといいな。同じように、行橋をテー マにしたカレーというのもできそう。それとも、この場合は「行橋ラン チ」かな。
○半チューブを造って、台車のようなもので遊べる施設はどうだろう 。
○大カルタ大会。
○凧揚げ大会。篭を載せて、空から菓子の引換券、商店街の割引 券・贈り物券を撒くとかの工夫が必要であろう。
○蓑島-金屋-沓尾-干拓地-島一周の24時間マラソン。しかし、マラ ソンより歩くという方がもちろん参加者は多くなる。応援する人は、 そのコース上で、食べ物・飲み物を用意することになる。
○丼に温かい好きな具材を5つのせて好きな丼飯にする。値段は千 円。米は飛び切り美味しいものを用意する必要があるか。
○インターネットで魚介類を全国に販売せよ。
○島一周道路の中で、ちょっとした駐車が可能な、風光明媚な場所 にベンチを設置したい。魚市場、苅田を見晴らす北海岸、小井島 浜、竜宮浜、天神浜、それに蓑島山の縦走路などが候補地になる だろう。海風に強いというと、鉄製ではなく、木製かあるいはコンクリ ート製がいい。寄贈者のプレートを貼り付けるということで費用を賄 うことにする。
○岡山県玉野市の渋川海水浴場で、 毎年「すいか流し」という人気 イベント行なわれている。 沖合で2隻の舟の上から、海水浴客に西瓜とメロンを投げ入れ、一 方、泳げない人のために、浜から菓子やジュースと交換できる木札 を流すということで、ファミリーで楽しめるイベントにしている。こうい う行事はどこの海水浴場もできる。 渋川海水浴場では、西瓜とメロンの数はそれぞれ80個というが、客 の数からして、多くの人が喜べるように、メロンなどの高級青果でな く、廉価なきゅうりやトマトなどもいい。それらを海岸で食べると美味 しいということを子どもたちに教えてあげれるし。 投げ入れる物の内容、方法もいろいろ工夫できるし、毎年、マンネ リズムに陥らないように変化をつければいい。それを検討すること は実行委員会での論議の楽しみになるだろうし、来場者にとってイ ベント内容の意外性があれば、期待に繋がることになる。 抽選で、何人かの子どもに舟の上からの配布役をまかせるなども工 夫するなどして、マスコミの話題になる。
○単なるマラソンというのでは面白くないし、話題性もないので、天 神浜から泳ぎ始め、島をほぼ半周して、蓑島漁港に上陸、その後、 島をマラソンで一周、そして最後に干拓地を一周するという「みのし まトライアスロン」というのもよさそう。「鉄人」という限られた体力の持 ち主でなくても、これだと気軽に多くの人たちが参加できそう。
○東京湾-木更津で行なわれている簀立て漁というのは観光的にも 面白い。生きた魚を捕まえるのは、大人にとっても興味深い。 適当な場所を探して、漁協に申請、検討して許可が出れば実施で きるかも。 まず、実験が必要だけど。   

7 道の駅ゆくはし美夜 古

ついでに「道の駅ゆくはし美夜古」の話。
国道10号線は小倉から大分、宮崎を経由して西鹿児島に至る国道 だが、現在も並走する東九州自動車道が建設中である。この行橋 地区にもJRの線路の西側に2車線の高速道が走る。かつて10号線 は行橋の街の真ん中を通っていたが、その渋滞たるや尋常ではな かった。それで、海側にバイパスができた。いまでは辻垣から金屋 を経て、苅田2崎までを迂回する道路はわずか10分でこの間を通 過できる。このバイパスにあるのが道の駅ゆくはし美夜古である。 道の駅は、多くの耐久消費財や、食材が市内で消費されても多く は中央資本にもっていかれる中で、最低食費関係の売り上げの多 くが地元に残るであろう地域仕入れの店としても、有効である。
この道の駅の名称は全国に公募されたもの。賞品は直売所の商品 購入券。当選者はその後も、この道の駅に通っている。
道の駅には最近の傾向でコンビニエンスストアも併設されている。 また、車中泊がさかんになったいま、かなり広い駐車場があり、その 1部に山陽道三木SAや、道の駅おがちにあるように樹木に囲まれ たスペースがあって大人気である。
この地方の特産物である葡萄、梨、無花果などの果樹、近隣の漁 港から魚介類も持ちこまれる。
もちろん、観光の核としての機能も果たすため、観光協会の事務局 も置かれている。
風光明媚な土地柄でもなく、温泉もないこの地域で、これから必要 とされ、かつ可能性の大きいには「産業観光」の拠点にもなるであ ろう。その産業観光の受付窓口も観光協会事務局にある。ロボット 産業の最先端を走る安川電器、農業、新田原の果樹園芸、林業の 伐採・加工、蓑島の漁業、車製造業などの産業観光素材がある。 しかし、道の駅だけが潤うのはだめだと考えて、このエリア内、全域 での繁栄に取り組む。施設内には軽食、レストランもあるが、市街 地の食事処に導入する方策を立てる。すなわち、市街地域の綿密 なマップ「詳細観光地図」を作成して道の駅で配布している。これ には、郵便局、銀行はもちろん、薬局、毛糸店、文具店、書店など ありとあらゆる小規模店を載せている。市内の店舗の売り上げに貢 献する道の駅になっている。各店の特長を語り、特典を与えるチラ シを配っている。この「詳細観光地図」作成の経費は、各店舗のほ んのわずかの協賛金で賄われている。詳細マップは1度作れば、 後は経年変化をわずかな費用で改訂できる利点がある。
各地の生産者、いろいろな業種に従事する人の協力を得て、シー ズンの旬を活かした産業祭などの年間イベントも道の駅をメイン会 場にして行なわれている。
なお、道の駅ゆくはしでは、JR行橋駅と同じように全国の道の駅を 掲示して、そのスタンプを集めて来訪者が貼り続けている。提供者 の名前がその下に記入されている。こちらも既に貼布された道の駅 は、インターネットで発表されている。
○一部で話題になっている「道の駅弁」も考えたい。簡易的なパック 弁当はふれあい市、コンビニでも扱われているが、特に「道の駅弁 」と銘打った弁当というステータスを持った弁当のこと。JR駅弁のよ うに、限定された空間ゆえに許される8百円、千円という高価格が 設定できるなら、いい素材の物が作られる可能性がありそうである。
○スタンプラリーで、スタンプ帳を販売する際、地図の他に「道の駅 スタンプラリー挑戦車20XX」というステッカーをつけるのも面白い と思う。それを喜ぶ人もいよう。それから、期間限定でいいので、「 スタンプ帳を提示すれば、レストラン・売店5%割引というキャンペー ンも、このスタンプラリーがもっと人気がでると思われる。
○「パソコン・ひげ剃りの電源、デジカメ・携帯電話の充電」のため の電気はご自由にお使い戴けます、という道の駅があれば、人気 がでるだろう。そのことに、道の駅側として電気代がいくらかかるか わかりません。無制限だと予算措置が困るので、「毎月百キロワット だけに制限してご利用戴いています。○日現在百キロワットです」と いうような表示を駅の中にしておきます。長距離旅行者・日本一周 人は、無料で電気が使えるという有り難さが理解できるので、ムダ に使うことを自粛してくれるという期待もして、実施します。
○それから、道の駅に関しては、利用者の要望に応えて、 ・樹木で日陰ができる余裕のある駐車スペースを設置する。
・七輪の貸し出し、炭販売もして、調理OKの簡易キャンプスペース を造る。
・防犯カメラの設置。
・ライブカメラの設置。
・高速無線LANが24時間自由に繋げられる。
・初心者・女性が利用しやすいように広めの駐車スペースにする。
・コインランドリーがあればいい。
・高速道のSA・PAのようにガソリンスタンドがあるといい。
・1時間300円くらいで仮眠ができる場所があれば良い。
・コンビニエンスストアの併設。

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10 観光振興のために
1 地域活性化の担い手 行橋 蓑島 地域活性化の担い手は2つある。ひとつは、地元で第3者視点を持 つ人もしくは他の地方から来た企画者・夢見人。かれらは全国との つながりを持ち、地域再生の具体的事例、他の自治体の状況、企 業の社会的貢献の事例、国の助成支援策の可能性などの専門知 識ノウハウがあり、やる気・技術、情報収集力、PR力・マーケティン グ力を持つ人である。しかし彼らはコーディネーターとしては評価さ れるが、取りかかりの際、もしくは最終的に排除される場合もある。
そこでこの事業には行政の協力が必至。優れた地元の行政マンが 必要である。彼らにはNPOボランティア活動の情報、住民の地域に 対する意識状況、主要企業の先進技術情報なども要求される。
もうひとつは実動部隊である。これは現在の地域の求職にも応えら れる面もあろうか。継続的で、自主自立の気風のある有閑人材、老 人力も含めた民間人と、行動力のある若者が必要である。テーマに 従ったチーム編成が重要。その中で自主性、恊働性が生まれ、郷 土愛も育つ。事業が進んだ段階で後継者育成の課題がある。
なお、地域のことを考慮していくには、その地域の気質・コミュニテ ィ利用、市民団体NPO・ボランティアとの連携システム、商業施設・ スポーツ大型施設・拠点施設の活用、中心市街地の活気対策など の課題がある。
これらの課題を構築していく作業工程は、
1、行政が関与して、プロジェクト立案・専門家に委託
2、市内からスタッフを募集、専門部会(町内の有識者、専門家の 他、観光協会、観光関係経験者、宿主人・農業者・漁業者・店舗経 営者・主婦・若者など、個人推進者と各プロジェクトのワークショッ プ・グループが必要)を結成、部会を継続開催。
3、調査、課題明確化
4、リサーチ(現地調査・有識者聴取・先進地見学)、企画立案
5、事業計画(場、予算)・材料など確保して事業提案
6、実行。この際、継続的に話題を発信し続けること
7、事後検討・検証
といったところ。  
2 専門部会

行橋 蓑島
○特に[専門部会]について
・いろいろな職業についていて、その他の人生・世界も経験したい 、同じ世代や共通の関心事を持った人たちと交流したいという気持ちがある。
・住民は、地域を知っている。継続的である。郷土愛がある。住民 同士の繋がりが広く、強い。フットワークが軽い。
・市内と周辺地域に住んでいる人たちで、いくつかの専門部会を作る。これは住民の力を活かすことと、住民自身の生き甲斐に繋がる 。
・スタッフは、町内の有識者、専門家の他、観光協会、観光関係経 験者、宿主人・農業者・漁業者・店舗経営者・主婦・若者など。募 集のために、市・商工会の告知、ハローワーク、SNSなども活用す る。
・テーマは、・地元民のための観光・対外観光・生活(環境、子育て関係)・農業・漁業・商業・情報・グルメなど、各専門部会で、各プロジェクトのワークショップ・グループを結成。ボランティアで会合・見 学・試行を行なう。その責任者会議を月1回開催、年1回全体会合を行う。年度別の報告書を作成。
平尾台、棚田などはすこぶる貴重な観光資源になる。
川と、海も、果樹園も、まず、地元民が楽しむ企画を行なう。生活していて楽しい地域。住みたくなる地域にする。

3 ピラミッド理論

行橋 蓑島
  観光に訪れる人たちはどんな人たちであろうか。観光地誘客の考 え方はピラミッド的に考えられる。誘客の宣伝をするのも、近くに対 しては大きく、遠くなるにつれて小さく、のピラミッド的な視点が必要 。
1 まず、町内の住民が、域内の観光地や、食事処、温泉などいつ も出歩きたくなるように画策すること。次に隣接町村の人などに対し て行ない、そして次に互いにそれぞれの地域を訪ねあうこと。
2 近くの「都市」の人たち。そして少し遠い大都市の住人(例;黒川 温泉を育てた福岡市民。北九州市民が行橋を育てることになるかも ) 3 遠くの巨大都市の住人。例えば、関西圏、首都圏で美味しい物 、パンフレットを無料で配布してもピーアールの費用対効果は極め て小さいだろう。
 

4 観光要素の構築

  1 誰かがその1点だけに来て、そして帰るというのは、通常、余程 の観光要素の揃った観光地か、その場所にその人にとっての特殊 な目的がある場合だけである。その地域が観光の目的地になるに は、現在ある観光要素の量が弱い場合、その質を上げるための工 夫が必要。それは、グルメ、イベント、ある種インパクトの強い何か。
2 客観的に見て、自分の町だけだとか、ひとつの地域のみに観光 客を呼び込むのは難しい。観光要素の量が少ない場合・単独では 要素に乏しい場合、周辺の広い地域目的になるだけの「満たされる 質あるいは量」の絶対数値が必要。つまりその地域をエリア、ライン 、ルートの全体の中のひとつと位置づける。
主要観光(大観光地、大イベント)の際に立ち寄らせる仕掛けも有効 。 なお、産業観光は、行政視察観光にも結びつけることができる。
 

5 マスコミとの提携

  雑誌社の立場から市町村観光関係部署、宿泊施設へ。
雑誌の読者プレゼントの依頼を施設にした時、遊戯施設に入場招 待券を依頼しても、「見合わせる」と返答してくる地元の施設がある が、この判断は疑問。わずか10枚の招待券を断るという広報方針 が分からない。経営がうまくいっている、客足が減っていない施設 はこの申し出に迷うことなく応じている傾向がある。逆に、「御社で は、本年も情報誌を発行なされると思います。招待券を準備してい ますので、ご検討下さい」くらいのことを雑誌の発行時期の前にお 願いしてでも、入場券などは提供する申し入れをしてもいいのでは ないか。個々の宿泊施設も宿泊券の提供に応じるがいい。温泉組 合があるなら、全ての加盟旅館の宿泊券を取りまとめて一気に送っ てやる。
最近の傾向は、ある業界人によると、「行政側などから招待旅行を 仕立てないと取材の申し込みがほとんど無いとか。今や多くの記者 クラブ会員は、報道・掲載の確約の無い接待、つまり仕事を離れら れる遊びだけの大名旅行なら受ける。遠方なのにバスでは疲れる からダメだとか、大部屋に幹部を大人数で泊めるのはけしからんと か、それは目に余る状態。日帰りで少しきつい取材などほとんど参 加者が無いのが現状」ということもあるらしい。これらの態度も言語 道断だが、現実はこうなのだ。
近郊のタウン誌を初め、中央の旅行雑誌社たとえば「旅の手帖」「 旅行読売」などに対して「取材招待」を毎年、何社かに対して実施 することが有効だと思われる。
招待をしても、人を動かすことそのものに経費がかかるため、かなら ずしもすべての社が、その招待に応じるかどうかはわからないが。 来てくれればむしろ感謝という風に考えるべきだと思う。招待は、宿 の暇な時にして、当日は2名であろうと1つの部屋でなく、それぞれ の部屋を用意しよう。彼らにとって気持ちが安まる出張になる。取材 者が、風呂に入り、料理を食べ、夜廊下を歩き、蒲団に眠り、朝目 覚め、送り出されるという体験をしてもらえば充分である。
翌日、彼らが、どこに取材に行こうと構わない。その際、「いつ載せ てくれるの?どんな大きさで載るの?」などの質問はやめよう。そん な小さな気持ちなら、むしろやらない方がいい。そんな招待先の行 政団体が実際にある。掲載内容や時期は相手にまかせればいい。 それより彼らの印象に残るいい施設造り、いい企画作成に気を遣い たい。招待した雑誌社が酷い奴らならば、次回から断ればいいのだ から。もちろん事前に周辺の情報を提供していて、要望があれば、 その情報収集に協力をすることも有効である。
取材者の記憶に残れば、そしてその時の写真が雑誌社の社内スト ックとしてあれば、すぐにでなくても、何かの機会に掲載をすること になるかもしれない。
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11 再び海辺の家で
1 海辺の家で過ごす

行橋 蓑島
移り住んだこの小さな家では、寝転んで本を読み、インターネットで 情報収集し、麦藁帽子を頭にかぶり、岩場で釣りをし、情報発信を し、野菜を作るというようなことが日常の生活だった。
○そして潮の満ち引きを考えながら、適度な岩場の溜まりを見つけ て、簡易的な囲い込み漁を試みている。漁協に加盟するほどのこと ではないし。これくらいの遊びの範囲であれば漁違反にはならない だろう。海から揚がる魚は、実にいろいろな種類があった。近年は 南の海に泳いでいた魚も増えて来た。これは地球温暖化のためで 、網を揚げる度に漁師が日常的にそのことを感じている。
○知り合いの漁師が時々、雑魚を持って来てくれる。それを濃い目 の塩に浸して、さらに塩をまぶして開きにすれば、しばらくの間は保 存できた。味醂干しもいい。
小さな魚がたくさんあった場合は、新鮮な内に、魚、砂糖、醤油、 味醂、それに水飴も加えて鍋で佃煮にする。水飴は入れると魚の 表面に照りが出る。
それから、ハタハタの塩汁のように、どの種類のものが、どれくらい 漬けるといいだろうか、いろいろな魚で魚醤を作ってみている。
最近、薫製器を作ったので、いろいろな魚、鮑などの貝類の他、鶏 肉などいろんなものを試してみている。燻製に使う桜のチップは常 時集めている。
○野菜についていえば、野菜をふれあい市場に出せない、小規模 で、車のない農家がある。これらの農家を回って、手数料を戴いて 、かわりに野菜を出す仕事で生計の1部をなしている。このネットワ ークを広げて行き、かなり大規模のものにしていけば、雇用も増や すことができるだろうと考えている。
○それから海岸で集めた貝殻と漁協から貰い受けた牡蛎の殻を集 めて潰している。これを砕いて畑に入れるためで、あまりにたくさん あるものだから、中くらいの袋に詰めて、ふるさと市場の店に置いて 1袋100円で販売するとよく売れる。貝殻には、主成分は消石灰と 同じ炭酸カルシウムを主に、カリウムやナトリウム、銅、マグネシウム 、マンガンなども含んでいる。カルシウムは細胞分裂にいい。カリウ ムは根の生長に効果があり、耐病性も高める。より細かく砕くためミ キサーかあるいは風車を利用した杵搗き装置を検討中である。

2 海辺の家・春

  四季の移り変わりは次のようだった。
○3月の農作業
[種蒔き]パセリ、人参、サラダ菜
[植え付け]馬鈴薯、葱
[追肥]柿、山椒、蕗、茗荷、アスパラガス、分葱、春菊、小松菜
[収穫]春菊、分葱、大根、葱、小松菜
○海の荒れた日のあと、海岸の漂着物を見に行く。角のとれた色ガ ラスの破片を探したりする。もうバケツに6杯ほども集めた。これらは 島で行なわれるイベントでガラス細工に使うのだ。
○4月の農作業
[種蒔き]レタス、パセリ、インゲン豆、枝豆
[鉢蒔き] ミニトマト、南瓜、ゴーヤ、アスパラガス、種生姜(乾燥防 止と保温のためビニールの覆いをかけた)
[植え付け]葱、里芋、サラダ菜、トマト、獅子唐、セロリ、レタス、唐 辛子、南瓜、ピーマン、ミニトマト、プリンスメロン、西瓜、胡瓜
[収穫] 春菊、分葱、葱、三つ葉、韮、キャベツ、エンドウ
[その他] 馬鈴薯を植えるのち馬鈴薯の1番大きく育った芽を残し、 剪定1本化、人参間引き
○この地方では春の馬鈴薯は2月末から4月始めまでがその期間 である。春は芽のある部分を選んで、いくつかに切ったものを使用 するため、1個の種芋をいくつかに切り分け、切り口に消毒のため に灰をまぶして植える。灰にまぶすのは湿気を呼んでよくないので 、切り口を乾燥させたあと植えるのがいいという人もいる。春は土の 温度が低いために切ったもので良いのだが、土の温度が高くなっ ている秋の時期の馬鈴薯の場合は1個丸のまま植えないと芽が出る 前に腐ってしまうからである。そこで春は種芋の数が少なくてもいい 。なお里芋と違い、馬鈴薯は浅く植えるものである。そして少しして 、芽がでた時に掘り直して、出た芽を上の方に向けるという作業を することもある。さらに手入れとしては、10センチメートルくらいにな ったら、芽かきといって勢いのいい2〜3本を残して他の芽の大部分 を根元から引き抜く。そして、土寄せといって根元に土をかき寄せ る。この土盛りが芋の育つ場所になる。これは1度にやると生長が 遅くなるので1週間に1度ずつ2〜3回行なう。何とも手がかかる奴で ある。
行橋 蓑島
◆写真はジャガイモの植え付け
馬鈴薯の他、薩摩芋、玉葱なども黒ビニールを被せて栽培するといい。世間では、マルチ栽培といっているか。黒ビニールには穴あきのものもある。なお馬鈴薯は日陰で干した方がいいらしい。
○5月の農作業
[種蒔き]玉蜀黍ピュアホワイト種、モロヘイヤ、オクラ
[植え付け] ピーマン、茄子、パセリ枝豆、インゲン豆、ミニトマト
[追肥]ヤーコン、生姜
[収穫] エンドウ、大蒜、空豆、韮、キャベツ、サラダ菜、玉葱
[その他]トマト脇芽摘み取り、人参・紫蘇・インゲン豆・モロヘイヤ・ 玉蜀黍間引き。西瓜と南瓜の行灯覆いを外して、それを定植した 胡瓜の苗の方に移した。これは風よけ、保温のためである。行灯式 の覆いは何度も転用できる既成のものがあるのか?それを作って みよう。
○そして知り合いの竹林で筍を収穫する。食べるためのものは数 本でいい。同時に生長した竹を切り取る。竹は生長が速く、直径10 センチメートルほどになったものを1・5メートルの長さに切って生け 垣などに使う。本当は竹炭を作りたいのだが、その設備は難しいだ ろう。誰か邪馬台ネットの人に依頼しようと思う。本当は缶詰にする 装置が欲しいのだが、本格的に販売をするのでなければそうもいか ない。
○大量に獲れるバカガイ、一般的にいえば青柳なる貝を採取して、 シソ、ネギ、みょうが、生姜を加えて、味噌でたたいた、さんが焼き で調理する。そして残りを佃煮にも加工する。さらに余った物は干 物にした。これはこの地方の珍味といわれている。この干物は本来 キヌガイを使用して姫貝というのだが、バカガイの場合は偽物にな らないのか?
○柿の木は、春、葉がまだ生えない時期に剪定をする。剪定は1度 にやるのではなく、毎年少しずつ剪定していくのが良いらしい。そ れから地元では「柿の木から落ちたら死ぬ」といっているが、特に柿 の木について注意を喚起しているのは、柿の枝が裂けやすいため である。だから柿は大規模に果樹経営をする農家でなく、数本しか ない家でも高い場所での収穫を避けて平棚栽培をするのがいいだ ろう。
○平棚仕立てあるいは平棚栽培は、針金で平棚を張り、高さを1定 にし、枝の1本1本を結び、これにより樹全体のバランスと、1つひと つの果実に太陽の光が充分にあたるように枝を整えた栽培法。矮 化栽培になるが、果実の生育もよく成熟する。梯子に上ることなく摘 果や収穫ができ、作業性も良い。平棚へは1度に移行せず、樹勢 調節のために下枝を半分程度残し、翌年に平棚整枝を完成させる 。
○一般に果樹は、石灰硫黄合剤で消毒する。散布し終わったあと 、強アルカリ性の液を洗い流し、水で薄めた酢を入れて中和させ、 容器に水で洗い流せば、腐食を防げる。
○無農薬がいいというが、果樹はJA農薬散布の指針の薄めの1/3 ぐらいの農薬を散布する。ふれあい市場に出すため、農薬の散布 月日・種類・希釈倍数、肥料についてはその種類と施肥量などを栽 培管理履歴表に記録しておく。
○トマトは植物成長調整剤トマトトーンを使う。トマトやナスの連作 障害を防ぐため、接ぎ木の苗がある。野菜には、防鳥ネットを張る のは有効。鳥は眼がいいのでこれを張っていると近づかないのであ る。
○エンドウがたくさんできる。生のまま、パックに入れて冷凍すると新鮮に保てる。
他に検討中の野菜は、きゅうり、トマト、大蒜、茄子、菠薐草、葱、牛蒡、シソ、大根、蕪、苺、西瓜、薩摩芋、唐辛子、ピーマン、落花生、花豆、アロエ、白菜、山椒、オクラ

3 海辺の家・夏

   ○6月の農作業
[種蒔き]胡瓜、人参
[収穫] キャベツ、胡瓜、玉葱、サラダ菜、茄子、馬鈴薯、胡瓜、獅子唐、ピーマン、インゲン豆、韮、人参、セロリ、レタス、春菊
[その他]葱坊主種取り、玉蜀黍・オクラ間引き移植、春菊の種収穫、モロヘイヤ間引き
○梅干しを作る。例年、梅のある家に連絡をもらって採取に行き、持ち帰った梅を天日で干す。塩で揉んだ紫蘇を入れる。出来上がった後でもいいが、生姜も好きなので瓶の中に漬け込む。ただ、その時注意しなければならないのは、生姜を塩で揉んでから入れること。そうしなければ黴が生える場合がある。
○畑で収穫したトマトは、本当に美味しい。ちなみに、トマトは、房付きで収穫することにより、鮮度を1定程度長めに保つ事ができる。 ○ブルーベリーが成り始める。熟れたブルーベリーは毎朝収穫し た。
これでいつでも食べる事ができる。毎日まいにちの収穫量を記録してみると次のようだ。
2+10+5+0+18+11+0+20+9+0+20+5+0+6+6+10+7+8+22+3+10+6+5+8+10+3+3+5+3+1+2+4+5+5+1+1+2+0+0+2+1+0+3という感じ。つまり1本の木から1夏で43日間、238個の実が味わえた。冷凍庫で保存すれば、長い間食べる事が可能だ。
行橋 蓑島
◆写真はブルーベリー
○野菜も果物も、もぎとった後、急激に味が落ちるものだ。特に、玉蜀黍は収穫してすぐに茹でて食べる方がいい。ただ、宮城県村田町で購入した生でも食える、白い玉蜀黍ピュアホワイトを主に栽培した。この糖度18度という甘いピュアホワイト種はこの地方に数年をかけて広がりをみせている。
○7月の農作業
[追肥] ヤーコン、オクラ、茄子、ピーマン、モロヘイヤ、ミョウガ、スイカ、メロン、トマト、青葱、生姜、サトイモ、オクラ
[収穫]獅子唐、胡瓜、ピーマン、レタス、セロリ、人参、大角豆、ゴーヤ、茄子、ミニトマト、オクラ、モロヘイヤ、インゲン豆、インゲン豆、トマト、ゴーヤ
[その他] 人参間引きニンジン間引き
○カンカン照りの日差しを見ながら、海水からニガリの入った塩を造る。以前、蓑島と沓尾の間の浜では入浜式で潮造りがされていた。販売目的ではなく、自家消費だけであるため、細々と、枝条架式、つまり流下式の採塩をやっている。これは愛知県美浜町の「食と健康の館」で行なわれているものを小規模にしたもの。
○そして時々、山に自然に生えている苺を取りに行く。
○販売しているドライフルーツ野菜はずいぶん高価格だが、これ、もっと安くできないものかな?
○8月の農作業
[種蒔き] ブロッコリー、大根、白菜
[追肥]茄子、青葱、ブロッコリ、人参、韮、ヤーコン
[収穫] トマト、人参、胡瓜、モロヘイヤ、茗荷、玉蜀黍、ゴーヤ、茗 荷、パプリカ、獅子唐、枝豆、小玉西瓜、大玉西瓜、南瓜、インゲン豆、オクラ、ささげ、赤色ミニトマト、黄色ミニトマト、赤色ナス、ピーマン、赤ピーマン、紫蘇、モロヘイヤ
[その他] 赤色ミニトマト・大角豆・ゴーヤ・トウモロコシ種採取。それにしても完熟したゴーヤの中は異常な赤い色になる。
○8中旬/ホワイトピュアを少しずつ収穫する。歪な出来の物は種を採る。
○8中旬/花豆を収穫。
○桃、梨、葡萄、枇杷、グミが成る。
  

4 海辺の家・秋

○各月の農作業については略。
○時々、山にアケビ採りに行く。
○南蛮柿ともいわれる無花果の実が毎日なり始める。イチジクは、痔疾に効く。胃腸にいい。イチジクの白い汁は、肌の弱い人にはダメだけど、疣、水虫にいい。一旦熟し始めると、次々に成っていくし、痛みが速い。そのために無花果の木は、生食用には本当に1本で十分である。この地方では無花果はそのまま食べることが多い。せいぜいジャム に加工するくらいだ。
そこで色づいた実が開かない前、摘み取って、水洗いしたあと、ヘタを取り、短時間熱湯で茹でアク抜きする。それから水分を拭き取って、砂糖がよく沁み込むように竹串で穴をあける。最初重量比25%の砂糖を用意して4つに分けておく。最初は、砂糖の1/4を入れて煮る。火を止めて冷ます。1/4の砂糖を振りかけて1晩置く。2日目に煮たあと、再び1/4の砂糖を振りかけて1晩置く。3日目に最後の1/4を入れて煮る。砂糖には水飴や白ワインと、極く少量の酢(蜜柑の汁も可)、蜂蜜、生姜のどれかを選択して加えてもいいらしい。無花果が大量にある場合は、いろいろな料理法でやればその違いがわかるかも。砂糖の量によるが、無花果の甘露煮はこのようにすると、相当の間保存がきく。
それから、さらに乾燥無花果に挑戦する。無花果を半分に割り、天日で1週間干す。熱湯か焼酎で消毒して、最後に超弱火で焼く。これでうまくいくか?
なお、新しく開発する菓子であるいちじく大福のためには、特に甘い品種が必要だろう。
○小雨が降った日は翌日、大雨の場合は翌々日を待ち、馬鈴薯、大根、玉葱、菠薐草の種、苺の苗、分葱を植える。
○ついでに金柑に加えて、デコポンと温州蜜柑の苗木も植える。同時に虫害の予防もしておく。
○白菜は、種の蒔きのタイミングが重要。時を誤ったら、きれいに巻かない。
○ニンニクは、植える前に1日水に浸し、そのあと冷蔵庫に1晩おいてから植えるといいいらしい。
○1本の蔓からだろうか、驚くべき量の隼人瓜が成っている。これは炒め物、味噌和え、味噌汁の具、さらに奈良漬けにする。
○紫蘇の穂をしごいて種を落とす。そして土をかき混ぜておく。こうしておけば、翌年の春先、芽が出てくる。
○柿を収穫した。早めに食べる分は渋抜きをする。干し柿作りよりもまったく手間がかからないためである。35度の焼酎をお椀に入れて、蔕部分を浸す。そして新聞紙を敷いた段ボールに並べる。綺 麗に並べた方が良い。封をする前に全体に焼酎を振りかける。10 日ほどで食べられるようになる。アルコールは焼酎でなくブランデ ーでもいい。
行橋 蓑島
◆写真は柿
それから保存期間が長くなるため、残りの半分を干し柿にした。皮 を剥く際に、やはり菌というものが付着するのであろうか。以前は、 そのまま軒先に吊るしていたが、ある年、福島県伊達地方のあんぽ 柿をみならって、皮を剥いた後、こちらも35度の焼酎を霧吹きして 殺菌をした。これをアルコール度数96度のスピリタスでやったら、ど うだろう。それらを軒先に吊るして干した。殺菌作業をすると黴が発 生せず、売り物にもなりそうな美しい皮の干し柿ができるようになっ た。蠅の付着には最大の注意を払った。雨模様の日は扇風機を回 して風を当てた。
市内、特に郊外の田舎家に柿を採取できない1人暮らしの老人が 多く、柿の地図を作成している。柿もぎ隊の活動を行ない、変わり に干し柿を作る。このように加工して、何割かを老人に返して、残り をふれあい市場に持ちこむ。
○10中旬、種蒔きをした青葱と玉葱の畝に籾殻を施した。これは乾燥防止のためである。
○道場寺山に椎の実を拾いに行く。子どもの頃は、20mほどの 高木にも登っていって、鋸で大枝を切り落とすなどもしていたが、い まはもうそんなことはしない。地面に落ちている椎の実を拾い集める 。椎は慣れていれば白い実を生でも食べる事を好むが、火で煎る と実が透明になり、そうすれば誰でも美味しく食べられる。保存して おけるが、一部は、芽を育てる。植木市で苗木として公孫樹ととも に販売して、余った苗はどこかの山に植えよう。
○蜜柑、金柑、キュウイ、檸檬が成り始める。
○それから、薪割りをする。炊事用 には灯油の円形ストーブがとて も便利で使い勝手がいいので、薪の量は少しでいい。ただ少しだ け、冬の1時期、いわば薪を燃やす行事というべきもののために薪 ストーブの薪も用意しておきたいのだ。
木が燃え、炎がともるのを凝視めていたい夜もある。
加えて山に小枝を拾いに行く。薪は小屋の裏に雨のかからないよう にして、軒先を少し延ばした壁際に積んでおく。小枝と松葉は縄で 大雑把に結んで作業小屋に入れておく。
海岸に流れ着く流木は塩分を含んでいるので、薪ストーブが傷むと いうわけで、浜から引き上げて適当な大きさにして1年雨ざらしにし 、その後1年乾燥させている木もある。ただ、この流木は、ほとんど 夏の夜、海辺のバーベキューの際に使用している。
○鉄と炭の固まりを海に入れることで鉄イオンの供給と、海の浄化 が行なわれることの真似事を始めた。これは山口県で行なわれて いることである。鉄はカイロを利用しているということだが、鉄工所で 鉄屑を貰い受け、丈夫な布袋に3kgの鉄に、1kgの炭を1緒に加え て入れて沈めた。炭は別の袋に入れてもいいのだが、こちらの方が 個数の管理をしやすい。小さな湾口部にこれを置いて、その効果を みている。以下は、最近の記事。
カイロ再利用の「鉄炭団子」で藻場再生!2010年1月8日(読売新 聞)
 山口県立水産高校(長門市)の水産科学部の生徒らが、使用済 みの使い捨てカイロの中身を再利用した「 鉄炭団子」を作り、磯焼 け被害に遭った藻場の再生に効果を上げている。
 水産科学部は2006年度から海洋生物の生育や産卵の場として、 海藻類を群生させる取り組みを行っている。特に石灰藻が岩の表 面を覆い、岩礁から海藻がなくなる磯焼け対策の研究に力を入れ ている。
 磯焼けは全国で深刻化しており、地球温暖化に伴う海水温の上 昇や、アイゴ、ウニなどによる食害、河川から供給される鉄イオンの 減少などが原因として考えられている。
 生徒らは、同部顧問の安部豊教諭から同県宇部市の農業、杉本 幹生さん(当時61)が、水質汚濁を改善するために約30年かけて考案し たという鉄炭団子を河川にまいて植物プランクトンの生育を促して いる活動を知った。これを応用できないかと考えた。
 杉本さんに相談したところ、使用済みの使い捨てカイロの中身と、 おかゆ、少量のクエン酸を混ぜ、直径約5センチの鉄炭団子を作る よう指導を受けた。カイロは鉄と炭が主な原料で、おかゆは団子状 にするためのつなぎとして、クエン酸は海藻の栄養の吸収性を高め るために混ぜている。
 同校前の岸壁で16年11月に30kg分の団子を投入したところ、09 年5月には投入していないところと比べて豊かな藻場が形成された という。また海藻のアオサを使った実験では、成長の速度が2倍に なった。海水が電解液となって団子から鉄イオンが溶出され、アオ サの成長を促したとみられる。
 2年生の伊藤祐希さん(17)と森本由香里さん(17)は「藻場再生 プロジェクトを全国に広め、魚介類の豊富な海になるよう取り組んで いきたい」と張り切っており、安部教諭も「地元の小中学生らにも団 子を作ってもらい、地域に貢献する喜びを感じてもらいたい」と話し ている。
○行橋市では、生活排水に微生物を同時に流すことによって、河 川の浄化をしている。
 

5 海辺の家・冬

  この地方では、冬はそれほど寒くない。
○白菜の漬け物を作る。白菜は、2日干す。これくらいだと甘みが 増す。干しすぎるとかえって白菜が傷む。白菜に漬物用の適量の 粗塩をふりかけて、揉む。1時間ぐらいおいて水気を出す。昆布、 鷹の爪、それにユズの皮を振る。重しをして、2日ほどで食べごろと なる。ふれあい市場にも時々出す。
○毎年、大寒を迎える頃、餅を搗く。九州の最も寒い2月の寒の入 りを待って干すことで黴が生じない。餅は食生活の多様性のためで ある。搗き立ての餅を、柔らかいまま冷凍すると、解凍した時には 柔らかいが、固くなった餅は解凍しても固い。つまり、餅も冷凍した 時の状態がそのまま戻って来るというわけだ。
この地方では、東日本の切り餅と違い、餅を丸くする。 餅の1部で、かきもちとアラレを作る。これは「掻き餅」と「霰」のこと だろう。それぞれに砂糖を混ぜる。かきもちは、黒豆、白胡麻、青 海苔、昆布をそれぞれ混ぜる。蒸籠盆に搗いたままのものを固める 。アラレは、赤、緑色は、色粉を使うが、黄色はクチナシの実を潰し たものを混ぜる。
○2月の厳寒期、北風はそれほど寒くは吹かなかった。潮が引く昼 間、タオルで頬かむりして、長靴を履き、鍬を持って海辺に出た。 海辺の干潟は遮るものなく、吹いてくる潮風はさすがに肌を刺した 。鍬を持っていたのは、馬蛤貝(=マテガイ、馬刀貝・虫扁に聖ある いは魚扁に伏)を獲るためだった。夏は海水浴場になる起伏のある 干潟を適当に鍬で砂を掘ると直径8ミリメートルほどの菱形形の穴 がある。その穴に割り箸の先に付けた塩を入れ、10秒前後待つと、 鮴貝が飛び出して来る。塩を入れるのはマテ貝の殻だったり、割箸 だったりするが、マヨネーズの空きチューブに塩を入れたのがすこ ぶる便利。掴むタイミングは、出て来る勢いに乗じて引き抜くこと。 慣れてないと、馬蛤貝と引き合いになり、足がちぎれてしまうのであ る。
この馬蛤貝漁のもうひとつの方法は、潮が満ちて来ると頭を出して くるので、それを狙うと1網打尽にできるという。
この馬蛤貝はそのまま焼くか、茹でて分葱を加え、酢味噌であえて 食べるのがいい。そのほか、塩、胡椒におろし大蒜、白ワインを加 えてのバター炒め、醤油で煮るか、天ぷらにすることもある。もっと 珍味の加工ができればいいのだが。
潮の満ち引きは日に2度ある。太陽の引力が加わる大潮の日はか なり遠くまで干潟ができる。海底は起伏があるため、沖の方へ連続 して干潟が続く。蓑島は遠浅で知られている。夏、海水浴の格好を している場合はいいが、そうでない時期は、潮干狩りをしていて夢 中になるとそこまで歩いてきたものの、服が濡れるほどの深さになっ て引き返せなくなることがある。
○海苔をもらう。これで佃煮を作る。
 

6 車の別荘

   海辺の家の生活をしていて、目的というものはないが、考えている 計画はある。
その内の、大きなことといえば、
○すぐ裏山に取得した空き地に自動車を利用した別荘を造ってい ること
○もうひとつは日本一周のための車の改造ということである。
最初、この2つの実現にそれぞれ軽自動車を使用することが予定し ていたが、別荘の方については、車を一旦設置したあとは、それを 固定してしまうため、別に大きさが制限されたものでなくていいと思 い直した。
といっても大型バスというのではもちろん大きすぎる。
家の近くの少し高台の森の中に100メートル4方の敷地を格安で入 手できた。
そこで、まず知り合いの自動車屋からマイクロバスを1台、只同然の 廉価で購入した。これは車検が切れてしまっていたものを運び込ん でもらった。
自分の敷地内ではエンジンなども生きていて、自由に移動させるこ ともできたが、動き回る必要はなかったので、木々の間から海の見 える場所に車を設置した。タイヤの空気が抜ける前に、平衡を保つ ためのすこぶる丈夫な台を6ヶ所、車の下に置いた。そして、この自 動車を核にした別荘の建設を始めた。時間をみつけては、家から 別荘地に通った。
むかし畑に本格的な作業小屋を母親と建てた経験があったので、 材料さえあれば、いろいろな工夫をして、楽しみながら別荘造りが でる。
マイクロバスの横には、物置を設置した。防寒用には発泡スチロー ルと断熱ウォールの2つの断熱材を、床や天井も含めて張り巡らし た。本棚とベッドをここに置いた。車と同じように換気と、ヤブ蚊の 完全防御に0分注意を払った。これは手づくりでなければ「イナバ の物置」というものがある。定価38万くらいのが28万くらいで入手で きる。設置費用は4万くらいかかるが、自分で施工できる。物置は 窓付きである。もちろん錠がかかるのがいい。
そして、マイクロバスの方である。車も施錠できるのでいい。ただ、 いたずらや、本格的にターミネーターなどに襲われることになれば それはもう防ぎようがないが。
設置した場所は大きな木の陰になっているので、夏もそれほど暑く はない。こちらは冬季の寒さ対策はしなかった。日中に、車の中で 過ごし、夜は物置に眠るからである。吹き上げてくる海からの風に は塩分が含まれているので、車にしっかりとワックスを塗った。
そして次に、寝床のある方の車の入口を、ちょうどテントの前室か宇 宙船の空気室のような感じにして、2重の網をくぐって入るようにし た。こうすればヤブ蚊も入ってこない。ガソリンを入れるとエンジン がかかるため、夏の酷暑と厳寒期の一時利用で冷暖房を活用できる
。また駆動車の回転を利用して何か食品加工に使えないかとも考 えている。
車内は、座席を利用して、余裕を持たせた。居間の感じにした。昼 寝には丁度いいのである。
車のサイズに合わせて厚さ8ミリメートルのボードを購入した。そして 、明かり取りとして必要とする以外の窓はコンパネで壁を造るように 設計図に従って囲いの作業を進めた。ちょっと要塞のようになった 箇所もある。これはこれで楽しかった。車を直角に配置、L字型にし た後、もう1角には車と同じ高さのほどほどの大きさの物置小屋を建 てた。
そして、南側の両側には木を植えた。これで最終的には建物部分 が全体でロの字形になる。そうすれば囲みの部分が、周囲からの 目を遮るプライベートの空間になる。囲まれた3メートル4方の空間 の中央にテーブルを配置、長い棒を4本立てて、布をタープのよう に張った。これは雨と日除けになった。そばでは、焚き火ができる スペースも確保した。
物品は敷地内にもいくらでも置く事ができたが、それでは見た目が よくないので、できるだけ光景を単調な感じにまとめた。
人が住んでいる家であることを主張する必要があり、門を設けて、 周りを柵で囲った。
このような小さな生活空間を造ったが、本当はベルリンのモダン・ジ ードルングを小さくしたような、子どものいない、あるいはいなくなっ た親族がひとつ場所に集まった集合住宅。ちょうど中国の客家土 楼の小規模な方楼のようなものを造りたかったのではあるが。

7 日本一周計画

   もうひとつの計画は、日本一周のための、車中泊をする際の車両 の改善である。近年、車中泊が流行していて、今後キューブ2ルー ムなどのポップアップカーがこれから増えるかもしれない。
しかし、1人旅なので複数の寝床は必要ない。そして、長距離の移 動、使い勝手や燃費を考えて、軽のダイハツハイジュットを使用す る。最近のハイジェットはスモークガラスが標準仕様なので、特に窓 の目隠し加工はしなくてもいい。
まず運転部の上には、助手席も含めて頭上に棚を作った。
次に運転部と後部の間には、突っ張り棒に透明のビニールシート を下げて仕切った。これで最も寒い時期の冷暖房が効率的になる 。不透明シートだと運転がしづらくなる。
後部の荷台部分は床全体に保温用のキャンプマットを張った。そ れから12個のプラスティク製の蓋つき、高さが低めの収納BOXを敷 きつめた。収納BOXはあまり高さのあるものを使うと、窮屈になる。 これに少し厚めのフローリングの板を上に被せる。裏には廉価な銀 マットを張る。なお、銀マットは重ねて使用すると断熱効果が大きく なる。フローリングの床面はむき出しにしたままにした。そうすれば 家のワンルームという雰囲気になるし、掃除も楽だ。
フロア加工の1例。後部全面に、ベニヤ、新聞、キャンプ用の厚目 の耐熱アルミマット、模造ウッドカーペットを敷く。
折りたたみ椅子はよさそうだが、車には坐る場所が充分だから思っ たほど使用しないはずだ。それより、2人掛けのカウチを設置する のも面白そう。屋根の天井に置くジェットバックは、そもそもハイジュ ットそのものの車高が大きいため設置しない。フローリングの板の運 転席側の半分は、大蓋はすぐに開けることができるように、前半分 の手前、つまり全体の1/4のスペースをすぐに開けられるようにして 、日常的に使用する物はここに置いた。
床の後ろの方に、滑り止めにゴム板を敷いた収納BOXをひとつ置 いた。この中には頻繁に使用する物品を入れておいた。その上に 板を置き、作業や食事用の台にした。別に、時々使用する折りたた みテーブルも用意していた。
側面と、後部の窓にはすべて厚めのカーテンを取り付けた。こうす れば、かなり寒さを凌げるし、遮蔽された空間になる。
助手席側の後部全体の左1/3には細長い棚を設置。棚の下は、昼 間は、マット、毛布と寝袋の置き場にしていて、側面をカーテンで覆 っておく。夜はここに体を半分潜り込ませる形で眠る。
天井部の後半分には、鴨居桟の造りになった引っ掛かりを利用し て、強い板を渡し、天井様にした。この引っ掛かりのあるのは最新 型のハイジェット仕様である。
この天井裏には屋根裏部屋風になった。その取り出し口の1番手前 は運転中、物が滑って落ちてこないように受け板を当てた。
虫除けは、ドアに被せて使用出来る網は容易に作れるが、素材が 厚いとドアの密閉度に支障ができる。それで、窓の大きさに切った 網に磁石を縫い付けて、内側から貼付けるように加工。至極便利な のはインナーテントで、これはシルバー地の1百均で売っているバ イク用カバーを活用した。とてもいい。大型クリップがあれば車内の 随所に固定できる。夕方に車中泊の場所に到着し、寝るまでするこ とがないことが多い。車内照明には消費電力の少ないLEDのランタ ンがいい。
さて、車内の装置であるが、シガーソケットから12V→100Vの AC/DC電源に変換するPC使用可能のインバーター3150円のもの を購入。最近、車に生活を持ちこむ人もいるので、このAC電源コン セントを、車の中に標準装備している車というものはできないであろ うか。もっとも、電気自動車が日常的になれば、システムも簡単にな り、標準装備する車が普通になるかもしれないけれど。
イレクターパイプ、メインバッテリーを守るサブバッテリチャージャー を設置。120A予備バッテリー1個で、ほどほど日常生活に問題ない くらいの量の電気が使える。
車内に電子レンジがあれば便利だが、当面、旅行中はスーパーマ −ケットの自由使用のものをその都度利用することにした。ただし、 湯沸かし用には電気ケトルを用意した。就寝前は冷蔵庫を切る。 次の日にある程度走行すれば、バッテリーは電気補充できる。
ネットにはAirH"(Willcom/プロバイダはPlala)またはAir Mac(無 線LAN/Free Spot)で繋ぐ予定。
装置を床や壁にボルトや溶接で固定した場合は、改造扱いになる 。それを積載物と見なされるように搭載すれば良い。これら内部の 造作は日本一周の時だけの話で、普段も、車検の時にももちろん それらを1時全部降ろす。ちなみに4ナンバー貨物は1年車検、8 ナンバーは2年車検。
ここで、日本一周と、とても関係のある道の駅での飲食行為につい て。
本来、道の駅は、「国土交通省により登録された、休憩施設と地域 振興施設が1体となった道路施設。道路利用者のための「休憩機 能」、道路利用者や地域の人々のための「情報発信機能」、道の駅 を核としてその地域の町同士が連携する「地域の連携機能」という3 つの機能を併せ持つ」という位置づけのもの。従って、休憩とトイレ で利用する他、物品購入・食事で利用するためのものというのが基 本である。
それを「道の駅は宿泊する施設でもある」という風になったのは、昨 今の風潮に過ぎない。道路走行は24時間なので、夜中に道の駅を 利用する事にも正当性があるが、それでも数時間休憩=仮眠する 程度がふさわしい。だから仮眠以上の宿泊をする場合は、節度をも って利用したい。
車中泊については、例外的な少し長めの休憩ということで、控えめ に利用する節度を持ちたいし、当局の方も、まぁ度を過ぎなければ 大目にみようという姿勢があるといい。
車中での飲食は、専門もしくは弁当や持ち帰りの牛丼、寿司、菓子 パン・スティックパン、魚肉ソーセージ、さつま揚げなど、調理済み 食品が適当ということになる。珈琲、カップヌードルのため車中で湯 を沸かすのは許されるだろう。
車の外では、火を使った行為は避けるべきかと思われる。それでも 最大、危険を避けるため、せいぜい、ハッチバックの下に納まる範 囲とし、終了後は、早めに片付けるとすれば許される範囲かもしれ ない。
ところが、昨今、利用者で混雑している場合でも、駐車した隣のス ペースにテーブルを設置、バーベキューで煙を出して、音楽を鳴ら し、賑やかに宴会をする。いつまでも騒ぎ続け、あげくの果てに、辺 りにゴミを散らかしたまま立ち去るなどモンスターファミリーが見受 けられるという。
こういうマナー無視の人が増えて、夜間利用禁止を検討している道 の駅もあるといわれている。他の車中泊者に迷惑が及ぶことは止め たいものである。
[それでも車中泊者が道の駅で自炊をする際の話]
キャンプ場か、あるいはどこか影響のない場所で自炊をする方がい いのだが。それでも道の駅で自炊をする際は、周囲の迷惑を考慮 に入れて、状況判断をしたい。
カセットコンロ、鍋を準備。パックご飯(無洗米を炊飯した方が経済 的だと思うけど)を常備して、各種ふりかけ、梅干し、お茶漬け、味 噌汁、レトルトのカレー・ハヤシ・中華丼、即席ラーメン、パックおで んなどが考えられる。
この場合、味噌汁、即席ラーメン、おでんはご飯にかけてもいい。 カップラーメン、うどん、そばもできる。アルミ式の鍋うどんも有効だ が、高価。他に、スーパーで値引きになった豆腐・フライなどの惣 菜、刺身、サラダなどを購入。それをそのままお菜にして食べるか 、牛丼・マグロ丼・イカ丼などの丼物にする。テフロン加工の小フラ イパンがあれば、焼きそば、チャーハンというのもできる。
車内調理には臭いの出るものは換気が必要。乗用車の場合、内張 りに臭いが沁み込む。それでも後ろのハッチを開けて調理するくら いにとどめたい。
残飯や調味料などの汁は紙でできるだけ拭き取った上で、鍋・食 器を洗うなどできるだけ迷惑をかけないようにすべきであろう。
ところで、「以前は、私もコンロ積んでカップラーメン食べていたの ですが、どこにいってもコンビニがあって、必ずポットのお湯がある 。スーパーには電子レンジもあるし。自販機であったかいコーヒー も買える。だから余程自炊に徹底しなければ、想像するほど必要な いもの。でもそれは私の事情なので、自炊派の人を否定する気持 ちもありませんです」という体験的意見がある。
その上で、 既にホームセンターなどで1万2千円くらいで販売されている、火鉢 型の石油コンロが便利だと思う。ただ、これが少し大きすぎるのであ る。メーカーで小型サイズの新製品を開発してくれないかなと思う。 価格は店頭で5000円くらいにして。
車中泊の際、車に搭載する用具・備品リストは次のようである。
○サンダル、ズック、長靴、カメラ、寝袋、毛布、ゴミ箱、S字フック、 ハンガー、飲み物用ポット、ペットボトル、蛇口付き水タンク、発泡 スチロール、案の定不要の2○立携帯用ガソリンタンク、ウエットテ ィッシュ。
○筆記用具、目覚まし時計、セロテープ、両面接着テープ、マジッ クインク、修整用ホワイト、ガムテープ、軍手、A4ファイル、マッチ、 ライター、輪ゴム、地図、ノート、携帯ラジオ、乾電池、ノートパソコ ン、USB、はさみ、クリップ、カッターナイフ。
○耳かき、リバテープ、傷薬、目薬、携帯電話充電器、髭剃り、シ ェーブローション、ブラシ、櫛、爪切り、尿素膝クリーム、歯ブラシ、 煉り歯磨き、シャンプー、リンス、お針セット。
○ウォッシャー液、エンジンオイル、クーラント液、バッテリー液、機 械油、ドライバー、氷落とし、日本一周マグネットステッカー。
○焼く・炊く・沸すをひとつでこなすテフロン加工中華鍋、包丁、ま な板、ラップフィルム、無洗米、ピーラー、割り箸、ストロー、コップ 、塩、砂糖、醤油、7味唐辛子、粉末カレー、ごま油、胡椒などの調 味料、コーヒー、マリーム、紅茶。
なお、使用頻度の少ないものは、BOXのひとつに詰めておく。
旅先の知恵=コンビニのレシートは捨てるな。日時の記録になる。
 

8 周辺の家の増築

海をもっと眺められるように、住んでいる家の真っ正面に海に面し た部屋を増やすことにした。ここは少し高台になっているから、道路 から覗くことはできないので、窓の外は開放的な造りでいい。
ところで、雪国のように玄関を二重にするなどはもちろん必要ない 気候の土地であるが、もうひとつ空間があれば楽しくなるような気が する。
基礎-土台さえ造らなければ、建物の増築は自由にできるだろうか ら(違うかな)、縁台にくっつけて、6畳間くらいの部屋を造った。窓 はサッシでは情緒がないので、木枠にした。材料を購入すれば、こ れくらいの部屋は自分でできる。
かつて韓国ドラマ「遠い道」でヒロインの帰郷した家が海沿いの高 台にあって、しかしながら濡れ縁があるだけの直接部屋に入るよう な素朴な造りが気になっていた。2001年のドラマなので、ああいう 風景は今でも韓国では普通の風景なのであろう。ちなみに「春のワ ルツ」での青山島の家もそうだった。
機会があれば韓国の田舎をレンタカーで走って検証してみたいと 思う。
それから、最近の変わったことといえば、フードセーバーを購入。こ れで、少し長く食品を保存できる。説明書では5倍程度という。3サ イズの容器(別売5300円)をセットして2万3510円だった。
   9 最後に 夜、満天の星をみながら眠る。朝日が昇る、潮騒の中、雨が降れば 寝床で読書。晴れていれば起きて働く。山を歩いて、木の実を集め 、公孫樹を植える。
周防の海に面した地で、尊敬する作家井上靖の父君隼雄氏のよう な暮らしが、こうして続いている。
                 (終)

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蓑島物語・別巻
1 再び観光の動機、 食のイベントについて

行橋 蓑島
「観光は目的ではなく、結果だ」というようなことを言ったのは、某金 沢市長でしたか。
そこが観光地でなければ、「観光、観光」と騒ぐ必要もないけれど、 普通に生活していて、それが観光に繋がって行くのもいいでしょう。
「一般に、人が観光で動く動機には、景色、遊戯・見学施設、食べ 物、温泉、祭り、信仰、人物などである。このうちリピーターになる 要素は主に、温泉、食べ物、人物、信仰であり、景色、祭り、遊戯・ 見学施設は、よほどのことがなければリピーターになりにくい。そし て、その地域に景色、施設、温泉などの要素が少ない場合、興味 を呼び込めるのは、グルメ、イベントである」(「蓑島物語」6-5)
というわけで、
テーマなどで参考になりそうな、東北地方の主な「食のイベント」は 、
○青森市+鶴岡市+村山市+尾花沢市+白河市+猪苗代町+山都町・ 新蕎麦まつり ○盛岡市+花巻市・わんこそば選手権-全国大会 ○宮古市+相馬市・蟹まつり ○花巻市+鶴岡市+南陽市・ワインまつり ○石巻市+東松島市+松島町・牡蛎まつり ○大館市・きりたんぽまつり ○由利本荘市・りんごまつり ○山形市・日本一の芋煮会フェスティバル ○米沢市・牛肉まつり ○鶴岡市+酒田市・寒鱈まつり ○天童市・鍋合戦 ○東根市・種飛ばしグランプリ ○東根市・おばけかぼちゃコンテスト ○尾花沢市・スイカまつり。 その他、高知市の大鉢まつりなど「食のイベント」も数多い。
   2 産業観光について
例えば、冷凍庫体験というのも、ひとつの産業観光になる。
その問いかけ「先日、冷凍庫なるものに入ってみました。空気が乾 燥しているせいか1分もしないうちに、息苦しくなりました。もちろん、 寒さは普通ではなく、ここに閉じ込められたら15分もすれば死ぬだ ろうな、と思いました。映画「バーティカルリミット」の世界が少し分か る気がしました。冷凍庫のある港町では「冷凍庫探検ツアー」を、魚 市場見学ツアーに組み入れてやってみたら?」
これに対して、「冷凍庫探検、面白そうですね。あったら参加してみ たいなぁ。<中略>魚市場見学ツアーに冷凍庫探検が入っていたら 、迷わず参加するでしょう。だって、面白そう。普段絶対入れないし 。でも、お仕事の邪魔になったりしないのかな?」というのと、「ああ 、超低温冷蔵庫、マグロとか保管しているね、私も入ったことありま す。短時間。あれ、確かにいいんですけど、見ごたえ、体験しがい あると思いますが、保管している魚に悪影響があるらしいです。開 けたり閉めたりするだけで、温度が上昇するらしいし、人間がまとめ て入るとそれだけ温度高くなりますしね。氷の水族館で、見せるた めに入場料とってというのが、いいところの選択なんでしょうね。マ グロ1本、普通に数十万円ですからね。うん、でも、なんか、やり方あ るかもしれないな」
というような意見がある。
この興味深い「冷凍庫体験ツアー」が、どうすれば実現できるかの 可能性を考えてみたい。
○温度が変わっても支障のない物品の倉庫、温度の影響を受けると 都合の悪いものとは、遮蔽布などで分け、影響のない場所を倉庫 内の一部に作る。
○それで、冷凍の体感だけでなく、花弁を凍らせるとか、中でラーメ ンか何かを食べるとか、自分でやってみたいことを事前に考える。 それらを纏めてみるのも面白い。
こういうのが、体験観光になる。
   3 工場直販グルメのこと
今、商品販売のあげる利益で、流通が1番儲かっているかとも思える。まぁ、流通部門も泣く部分も多かろう。生産現場や販売部門も奮闘しているのには違いない。生産現場=工場で、見込み違い、 キャンセルなどが不可抗力的に発生する。こうした、カステラ、豆腐 、餃子など作り過ぎの製品を格安で、工場直販しているのが話題に なっているらしい。特に、投資をして店を設けない、宣伝はしない。これまで廃棄処分していたから、半額、6割引にして販売しても利益 になるとか。もちろん、美味しいものでなければだめだけど、こういう 試みは町興こしにも繋がりそうである。「もったいない」ということの 延長でもある。
○この「もったいない」という考え方と、「工場直販」のシステムを、フ ードバンク的なもので展開できないだろうか?賞味期限の切れた本日の食べ物(仕入れ価格=ゼロ円)と、一般に は敬遠されやすい消費期限間近の商品(仕入れ価格=格安)を販 売する店を経営的に運営したいと思うのだが。
   4 地域百科
インターネットのホームページにいろいろのものがあるといっても、 例えば、自分の住んでいる地域の情報が充実しているとは決して 言えない。
そこで、「○○地域百科」みたいな、物凄く充実した百科事典のような ホームページを誰か、個人でも団体でもいいので、創らんかな。
そこには、地理、歴史、文化、経済などもちろん、街角情報なども ふんだんに盛り込むのだ。
そして、そこに写真も充実させるというわけだ。
   5 その他
○蓑島では特産の海苔を使って、長い海苔巻きを作り、とかの話題の提供。いまさらというが、いろんなことをやって、それを続けることが重要。
○2275人が参加した、2016年1月31日に開催された「ゆくはしシーサイドハーフマラソン」。
○「日本一周ウォーキング仮想体験」もとてもいいと思う。
○広島県神石高原町では紙飛行機飛ばしの専用エレベータータワーを造っている。入場料は300円。入場の際、飛行機を作る紙を渡してくれるが、これに使用している紙は自然に帰る素材。
○町の人口対策として、1733人(2015.3現在)しかいない徳島県上勝町で年間500万円の予算を捻出して学習塾を無料で開催してます。足がない生徒のためにバスも運行しているほど。家庭における教育費は重要な部分で、塾にやれない家から喜ばれ、居住定着の一因にもなっています。若い人が都会の学校に行って、町に戻ってくるかどうかは別にして、行橋のことを一生思い続けるのは変わらないでしょう。「教育立市」というのも重要な政策だと思いますが、どうでしょう? もちろん、塾営業への民業圧迫という面もありますが、それはそれで解決すればいいことで。
○フードバンク行橋 各地ですでに行われている、消費賞味期限真近の食品、へこんだ缶詰、包装破損商品、季節はずれ食品、余剰在庫品など余剰食品を必要とする個人、施設、ホームレスの人たちの元に届ける活動。市町村レベルだと活動しやすい。2002年から東京では「 食品ロスをお預かりし、食べ物に困る方へお届けするフードバンク活動 」として、セカンドハーベスト・ジャパン http://2hj.org/が代表的な活動をしている。2016年から福岡県では、7-11の廃棄食品を必要な人に届ける実験がNPOにより開始された。食品メーカーや農家漁家林業家の寄贈食品など、提供食品を連絡してもらい、引き取りに行く。活動費や食品仕入れのためのお金の寄付を募る。不要になった車両やパソコン、事務用品をもらい受ける。ボランティアの募集。仕事の内容は、配送、梱包、事務処理など。ボランティアの配達者が、登録している法人・個人会員に届ける。
○1坪菜園 余っている畑を個人から個人に貸すことが危惧されて いて、充分に土地の有効活用がされていない。これを信用のおけ る組織で管理すれば可能。地元で野菜作りをしている人の協力を 得て、指導者付きの菜園にしよう。素人は指導なくして野菜なんか作れない。

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とりあえず実現可能なこと
1 とりあえずとりかかる 食のイベントについて

行橋 蓑島  
○築上町に菓実(このみ・かじつ)神社というのがある。この神社は、昔、宇佐神社への勅使街道上にあって、道端に果実を植えて、旅人に無償で木になった果物を提供した。これに倣い、あちらこちらに実のなる樹木を植える。これを誰にでも自由に食べてもらえるようにする。そのために、計画立案、苗木に金をかけないため、苗を育てる人を確保する。地権者に許可をもらう係、植える係、記録したりする広報などを配置する。同時に道端だけでなく、山の中にも植える。どこかの山などからその山の迷惑にならない程度に木を戴いてくる。花のなる木のほかに、実のなる木を植えて、生った実は誰にでも提供する。福岡県築上郡築上町坂本地区に「ベリーガーデン菓實(このみ)」というのがある。そのホームページhttp://www.berrygardenkonomi.com/gaiyoo.htmlによると「奈良時代、宇佐神宮には毎年勅使が使わされていた。それは日本統一に大きな役割を果たしたこの地域(「豊の国」)の人々や戦いにより亡くなった多くの人々の霊を鎮めるためであり、現在の神輿やお祭りの原型となった。その勅使が通られる路が勅使街道であり、その街道に沿って多くの果樹(「どんぐり」など)が植えられ、休憩の際にはその実(菓實)が提供された。勅使休止の際に提供された木の実にちなんで菓實神社が創建された。勅使街道はベリーガーデン菓實農園(福岡県築上郡築上町坂本396-1・電話0930-56-5417・mail:bg_konomi@yahoo.co.jp・面積40a)の真ん中を通過している」。
○畑の脇に生えている1本だけある公孫樹に毎年夥しい数の銀杏ができる。まだ枝に残るものは1度土に埋めて、しばらくして掘り出す。木から自然落下したものは、充分に熟しているので、そのまますかさず皮を剥いて、洗い、干して保存する。それで、秋から冬にかけて、この地域の各所に公孫樹の種を埋めに行く。公孫樹は銀杏を植えると、栗と同じように尖った先から芽が出始めて、1年で30センチメートルほどの高さになる。公孫樹の種は蓑島の他、もう市内2、300ヶ所以上のあちこちの場所に、秘かに公孫樹を植え続けている。あと50年もすれば、この地方は夥しい公孫樹の里になるだろう。
行橋 蓑島
◆写真は、銀杏
○2009年8月21日にNHKの番組「秩父山中-花のあとさき」が放送された。秩父近くには母のすぐ下の妹が住んでいるので身近に感じた。ドラマは秩父市北西部・吉田太田部楢尾地区に住んでいた小林公1・ムツ夫婦のお話。「住んでいた」というのは、寡黙 な夫は数年前に亡くなり、妻のムツさんも2009年に亡くなったからである。2人は晩年、この地に住む跡継ぎがいなくなるため、段々畑を元の林に戻し続けた。結局、桜、楓、連翹など花の咲く木を夫婦で1万本植えたそうである。草ではなくで、木というのがいい。
これを見て、もしかして実のなる植物があったほうが面白かったのではと思った。そして、蓑島の山を果物の山にしたいと思った。これに山に棲む鳥のためと杣道を通過するハイカーのために、「この先、0キロメートル間の道沿いの果物は自由にお取り下さい」という風に、案内の板に書いておく。モンスターファミリーは、まだ実らない前の果実も平気で取っていくだろう。または、この道は1度しか通ることはないので、青い実をわざと叩き落としていくかも知れない。それはそれでいいのだ。
○行橋を中心に京築の山に樹木を、それも果実のなる木を植えたいと思っているけど、 まぁ、苗木に1本800円~1500円くらい費用がかかる。 それで、どこかの年輩の人で(若い人でも構わないけど)自分の畑で苗を育てて 無償で提供してくれるくれる人がいないかな? 種類も豊富な方がいいので、30人くらいいればいいね。 ちなみに私は、山から持ってきた公孫樹の木が畑にあって、公孫樹を増やすことができる。 1人でやるのは心が折れるし、最低3人同志がいれば(つまり 1人がやる気がなくなっても2人いればいい)活動は続くと思うけど。
○同時に、この時期、ほうぼうの山歩きをする。その際、マジック、ホワイトペン、釘と金槌の他、数本の果樹の苗木を必携にしている。これらは案内板の補修に使うのだ。新規に案内板を立てることは準備や責任上できないが、既設のもので、文字が薄れていたり、支柱から傾いている案内標識を補修するのはできる。これまでも登山や町歩きの際には、ずいぶんとやってきた。それから、1回の行動に3本ほどだが、植生を変える心配はないほどの1本の、実のなる樹木を適当な道筋に植えている。明らかに他人の土地というのは原則避けているが、ほどほどの山中に植える。もう1度、この場所に来るかどうかはわからないが、とにかく植え続けている。記憶は薄れて行くはずなので、一応、その場所と、植栽年月日と、果樹の種類は記録する。これは梶井基次郎の小説「檸檬」のようであるので、「檸檬作戦」と呼んでいる。実際、檸檬の木もしょっちゅう植える。
この檸檬作戦が全国に普及すれば、日本の山は素敵なものになるだろうと思われるが、違うか?

○とにかく町をきれいにする。地域住民の協力を得て、気づいた破損個所などの情報を、画像添付メールで受け付ける。
○地域の蚊を少なくする。水たまりをなくすなどの対策を進める。蚊の嫌いな草、例えば、レモンの香りのするシトロネラゼラニウム(蚊連草、蚊嫌草)、モス キートブロッカー、ミラクルニーム(印度栴檀)などの蚊除けに効くハーブ類を植える。
○岐阜県関市にある「モネの池」のような池がどこかに作れないだろうか?
○これらの活動を、順次ウェブで公開し、記録する。後に、出版する。
あとがき
本編を記述するのに、ウェブ上の情報、写真をかなり自由に引用・掲載させて戴いた。本来、引用先を、その都度掲載すべきであったが、公刊するものではないため、省略した。情報をかなりアレンジしている。ちなみに冒頭の航空写真はグーグルアースから作成した。

奥付
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行橋 蓑島  
○あとがき
本編を記述するのに、ウェブ上の情報、写真をかなり自由に引用・掲載させて戴いた。本来、引用先を、その都度掲載すべきであったが、公刊するものではないため、省略した。情報をかなりアレンジしている。ちなみに冒頭の航空写真はグーグルアースから作成した。

周防灘豊前蓑島物語 
                                         定価 2000円+税
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    発行  2016年 6月7日
      著者  松本 健二
    発行所 日本観光情報
    〒824-0026 福岡県行橋市道場寺1420-6
    TEL0930-55-ⅨⅨⅨⅨ
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                                                          web出版

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