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はじめに | |
■蓑島全景 |
蓑島上空より ![]() *グーグルアースより作成 ■本編は、母親の故郷・福岡県行橋市蓑島に移り住んだのを機に 、少年時代に過ごした日々、現在の生活、これからの計画を記したものです。 長い間、観光業界にいた関係から、地域の町興こしのアイデアを盛 り込みました。この中の一部分でも、地元の人が活かすことになって 戴ければ幸いです。できれば、自分でもそのお手伝いができれば いいとも思っています。 基本的に記述には、ほとんどが歴史の事実に基づいていますが、 いずれ、全編にフィクションがちりばめられていることを前提にして お読み下さい。 |
もくじ | |
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一 海辺の小さな家 | |
1 海辺の家 |
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2 小さな家の生活 |
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2 祖父母の家 | |
1 移住 |
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2 宮定家と渡辺家 |
祖父石蔵は、宮定松市の次男として蓑島に生まれた。石 蔵の母サダは神楽で知られる下検地の有松傳作・フイ夫婦から嫁いできた。松市には石蔵のほか、長女エイ、長男小十郎、二女トメ、三女フイ、三男勘治、四男鉄治の3男2女がいた。 「東町のおいさん」と呼ばれた石蔵の兄・小十郎は、宮定家を継ぎ 、蓑島の中心部に家を構え、今井の高辻乙七・タメの長女キセを娶った。行橋へのバス乗り場の 場所に家があったため、後年、西鉄バスの切符を販売もしていた。子のなかった小十郎は三女フイの子フサコを養女にして 今元村元永の山下為蔵・トメの子延男を三男勘治の養子にした後、この二人を夫婦にして跡を継がせた。二人には1男2女があった。 長女エイは田川に嫁して後岡山に移った。二女トメは4歳で夭折した。三女フイは中原善道に嫁ぎ、3男6女に恵まれた。中原は現在苅田町で会社を経営して善道の子進から広海と続いている。三男勘治は、田川郡猪位村の伊東禎三・カリノの長女ヒサを娶り、行橋の市街地で歯科医を開業した。勘治には3男1女がいる。 4男鉄治の係累は長崎に在住している。 長女蝶は田川へ嫁し、後に岡山へ越した。 なお蓑島に多い中原家は、中原君の始祖は皇家の流れであり朝廷に仕えていた中原氏の末裔。鎌倉時代に藤原宋円の二子が、当初中原氏を名乗り、長子中原宗綱は以降姓氏を変えて下野宇都宮氏・武茂氏・伊予宇都宮・筑後宇都宮氏へと続いた。弟の中原宗房は建久6年(1195年)仲津郡城井郷の地頭職として赴任し、築城(築上)郡本城を本拠地としてこの周辺を治めている。行橋の町を興した大橋太郎平貞能の娘・利根局 の姉が中原親能(鎌倉幕府政所公事奉行、源頼朝の部下)に嫁していることからその係累と思われる中原家の出。なお利根局は豊後の大友家初代である大友豊前守能直の母である。能直は一説に源頼朝の落胤ではないかともいわれている人物。宇都宮氏の庶流には他に諫早、肥前、肥後、大隅にもある。なお、筑後宇都宮氏の後裔に柳川城主蒲池氏がいて、歌手・松田聖子は筑後宇都宮氏・三河壱岐守久憲の16代目蒲池鑑盛(宗雪)の三男蒲池統安の子孫で、江戸時代は柳川藩家老格だった旧家。 なお、宮定松市はチヨという妹がいて、二人の父母は勘次郎、トメという。トメは蓑島の門田七兵衛の二女である。ちなみに有松傳作の父は曽七、フイの父は犀川高屋村の村上武吉という。 ◆写真上は若き日の祖父母。龍宮神社下。晩年の祖父石蔵と祖母。後ろの建物は母屋の2階。 石蔵の そして石蔵に嫁いできた、旧京都郡犀川町(現、みやこ町犀川)上 高屋の渡邊万吉・ナツの3女だった祖母タツノには父親違いの1人の姉ムメと1人の兄四郎吉、それに後添いの後に生んだ3人の姉妹、トナ、サダ、トメがいた。 四郎吉の長男は田川郡香春町採銅所鮎返で炭鉱勤めをしていたが 流行性感冒で死亡。採銅所鮎返で生まれたその子治雄は下検地有松六太郎・スヱノの三女良子を娶り、山口県宇部市に住み、吉治、俊治の2男、八重子、節子、百々代、房美、睦子の5女を儲けた。 八重子は堀に嫁し大分市宮苑に、百々代は穴井に嫁し日田市小ヶ瀬町に住んでいる。 。 長女トナは地元上高屋の坂本家に嫁いだ。長男守は苅田町に住み、一政、剛、和子の2男1女を儲けた。戦死した次男種一は近所の岩永家の3姉妹の長女と結婚した。この坂本の家には種一の義妹にあたる岩永家3女のキクさんという人が住んでいた。 母はこのキクさんは幼児遊んだ記憶があり、一緒に犀川の町中 の写真館に行き、記念写真を撮ったこともあるという。キクさんには子ども がなかったが、末娘であったので岩永家を継いで、いま夫の実家 である坂本の家に住んでいる。家の裏には倉庫があり、山からの水 で風呂を沸かしたりもしていた。すぐ裏手にある山からの清水が家 前の溝に流れている。この坂本の敷地の庭先からすぐ隣の神社の 舞台が見える。社殿はいまでも往時の姿をそのまま留めている。岩永家次女のみつ子 さんは今井の陣山に嫁して、近 くでもあるため蓑島の祖母の家に「おばさん」と慕ってリヤカーを引 いて野菜をたびたび売りに来たりしていた。 ◆写真は岩永家、キクさんと母、岩永家庭、隣の神社 キクさんの住んでいる家のすぐ近くにある岩永家には長女の養 子として正人さんを迎えた。キクさんは血は繋がっていないが、この 甥を頼りにして晩年を過ごしていたが、残念ながら正人さんが先に亡くなった。 ◆写真は岩永正人氏、上高屋風景2景、渡邊家付近 ◆写真はかつて渡邊家のあった場所から見た上高屋の風景。 トナの妹2女であったサダは、嘉穂郡穂波村の高橋叶・マサの子成實を養子に迎えてた。子がいなかった サダは上高屋村上幾太郎4男吉輝をその長男として連れて広島に嫁したが、その長男も戦死した。後、妹トメの6女美佐恵を養女に迎え、渡邊家を継いでいる。 タツノの下の4女である末妹トメは嘉穂郡穂波村林廣吉・イソの長男林正雄に嫁つぎ、山口県小野田に住んだ。林家の子どもの7人ともが女で、長女であった 真須恵は的場九一と結婚し、看護師を長く続けた。次女智恵子は国鉄職員であった播磨□□と結婚した が死亡した。智恵子の子、1男2女の内、長女は下関に住んでいる 。林家3女トシエは柳瀬七郎に嫁し、小野田駅前で長い間食堂経営をしていたが、近 年死亡した。4女恵美子は村田敬助に嫁し、5女一枝は森上□□に嫁したが早くに死亡、6女美佐恵は広島の□□俊麿に嫁していた渡邊家を継ぐため、先に書いたように2女伯母サダの養女となった。女ばかりであったので末の娘7女真佐美が養子□□しげるを婿に迎え、家を継いでいる。 そういうわけで、この上高屋にはすでに渡邊家の血筋の者はいない。なお犀川という美しい地名は賽の神がこの地に祀られていたことによる。平成筑豊鉄道に沿って流れる今川 もここでは犀川とも呼ばれていた。 3 龍宮荘 さて、竜宮浜にあった祖父の2階建ての家の話である。今思うとそ れほどの広さの家ではなかったが、当時は子供の目で見ていたこ ともあり、2階の2間続きの広間の存在もあって大きな家だったという 思いがある。祖父はこの家を龍宮神社にちなんで龍宮荘と呼んで いたようである。家の中央には大きな戸口があり、床は広めのコン クリートの土間になっていた。ここが玄関で、きわめて開放的な造り だった。正面には黒塗りの大きな柱時計が架かっていた。この時計 は祖父母の家にやってきた時、見下ろしながらコチコチという変わ らぬ音で歓迎してくれる存在だった。祖母も「○○ちゃん、来たか」 といういつも変わらぬ声で歓迎してくれた。数日の滞在の後、それ ほど本数の多くないバスの時間に合わせて、子どもの足で25分ほ どかかるバス停までの時間を逆算して、出発の時刻を知らせてくれ るのもこの柱時計だった。 ◆写真上は、中央がかつての祖父母の家の本宅、右は新しく建て たコンクリートの家。ここには井戸があった。左は後に建てられた工 務店作業所。この場所には中庭があった。隠居所は作業所の左あ たり。下の写真は2階への階段。 柱時計の右手には2階への黒塗りの厚板でできた階段があった。 その階段を上がると左手には2間続きの、合わせて40畳ほどの大 広間があった。正面には龍宮浜が広がっていた。南側の窓は樹木 の茂る中庭に向いていた。 東側、つまり大広間の海の方は広めの板張りの廊下になっていた。 転落防止のための木の柵のついた手摺のある窓はすべてガラス戸 になっていて眺めがよかった。 2階の部屋には戸袋があったが、いつも使用されているわけではなか った。台風などが近づくと、この戸袋から雨戸を出してしめた。2階 の窓からは正面に周防灘が広がっていた。板張りの廊下の窓の下 には3本の貝塚の木が立っていた。 家の裏手には垂直の崖がすぐ迫っていた。 夏の間は海の家を兼ねているため、この大広間は居室というのでなく、海水 浴に疲れて休憩する客のための部屋であった。眺めもよく、のんび りできる環境がすこぶる好評だった。特にお盆の頃には、街からや ってきた海水浴客であふれた。この時代こそ、海水浴は今から考え られないほど一大レジャーとして人気があったのだった。 旧盆を過ぎると、海水浴は、波間に漂う水母を嫌い、海も荒れ模様 になるために、客足は目に見えて遠のいた。 祖父母の家は旅館業ではなかったので普段からも宿泊していく客 はいなかった。当時、自家用車を持っている家庭は少なかった。夕 方には、皆、バスの時間などを見計らいながら街に戻って行った。それで 海水浴客の席料が売上げの主なものだった。浮き袋などの海水浴 用具を貸したり、販売することでも収入を得ていたかもしれない。他 には、サイダー、オレンジジュースなどの飲みものがたくさん注文さ れた。これらの瓶は、井戸で冷やされた。裏庭には仕入れた瓶が いつも山のように積まれていた。 ある年の夏、行橋の町から料理屋の板前を呼んで、休憩をする人 たちに飲み物の他、簡単な食事を出したことがあった。 その板前は、行橋駅前、旧寿屋近くにあった銀丁という小さな料亭の若い男 だった。修業中ながら腕前はよいらしくて、なんでも上手に捌いた。 その板前は泊まり込みで、夜、仕事を終えると娯楽のないこの島の 唯一の芝居小屋で上映される時代劇の映画に連れて行ってくれた り、隣接した同経営の潮湯にも誘ってくれた。その板前がやって来 てから少し遅れて、都会の匂いのする可愛らしい顔をした美人の姉 妹が数日間板前の兄の仕事場に遊びにやってきた。毎日海で遊 んでいたが、ある日、妹がアイロンで火傷をして、それ以降、海に 入ることをやめて少年をがっかりさせたこともあった。毎晩、庭先で 花火をした。浴衣になった年頃の娘はまぶしいほどに美しかった。 盆が過ぎて海水浴客が少なくなると、彼らはまた街に戻って行った 。家の前で、一行を見送ったが、目にうっすらと涙が滲んだ。 ◆写 真は、祖父の家の前の通りと、竜宮浜 後年、懐かしさで行橋駅前の店を密かに訪ねたことがある。店は確 かにあったし、暖簾もかかっていたが、その時、店に入る勇気はな かった。後年、もう一度訪ねた時にはすでに、店はなくなっていた。 ところで、祖父にはずいぶん多くの家族がいたし、そういう住み込 みの人たちもいた時期もあったのに彼らはいったいどこで眠ってい たのだろう。尤も、いつからかは不明だが、安川電機に勤めていた 2人の叔母たちは、通勤の利便性のため行橋の街中に移り住んで いた。 <母親の兄弟姉妹のこと-略> 2階の大広間北側の角部屋は、落ち間と呼ばれていたなぜか1段 低くなった部屋があった。真下は炊事場で、この部屋の窓のすぐ下 には、深い井戸を真ん中にして、コンクリートで固められた広い洗 い場と、生け簀や鶏舎、小さな畑なども見えた。畑の仕切りにはブ ロックがわりに独特の青色が混じった砂礫岩が使用されていた。 井戸水は山からの地下水が溜まったもので、海水浴客が体から塩 を洗い落とすのにむやみに大量の水を使うことを祖母が時々注意 していた。蓑島は小さな島で、それほど高くない山ながら大昔から 地層の関係であろうが、海に囲まれていながら真水が湧くことでも知られてい た。山の水は冷たく、サイダーなどの他、西瓜などはこの井戸で冷 された。 落ち間の隣、山側にはこぢんまりした部屋があった。この部屋にあ る襖のひとつは押し入れで、もうひとつは隠し階段になっていて、 直接階下の炊事場に降りることができるようになっていた。少年に はいかにも楽しく、不思議に思える部屋だった。 後年、2階の大広間に隣接して、増築がされた。立派な1つの部 屋と便所ができ、さらに新しく浴室へ下りる階段も造られた。それで 、2階から階下に降りるのには、合わせて3つの階段ができて、雨の 日などに子どもたちが家をかくれんぼ遊び場にするのに、さらにぴ ったりの造りになった。 さて、順序が逆になったが、この家の1階の間取りは、次の様である 。 正面の階段横には硝子戸があって、そこに家族が集まる居間があ る。隣接した廊下の前は小さな中庭で、ここにも井戸があり、すぐ奥 の垂直の崖に面し ていた。この崖の山肌は漏れてくる水分でいつもじめじめしていた。廊下の先 は、奥の部屋になっていた。この山際の部屋は陽当りがよくなく、夏 でも1日中ひんやり涼しかった。団欒所の居間は、すぐに広い炊事 場に続いていた。この炊事場は床がコンクリートで、セメントの流し 台からは、魚を調理して、その後を綺麗に片付けて、仄かに清潔な 魚の残り香と海の香りが合わさったよう独特の匂いがしていた。炊 事場の最奥には2つの竃と燃料置き場があった。この置き場には、 裏の山から拾われて来た焚き付け用の松葉がいつも山積みされて いた。 調理場も海の素材を扱うため、広めの流しになっていた。その横に は少し深めの水槽で、ここでは魚介類を下ごしらえした。調理場に も炊事、飲み水に使用する井戸があった。調理場から前の道の方 には、玄関の横から続くコンクリート床で、すぐに家の外になってい た。 まるで料理屋のような広い炊事場の床は全面に水を打って掃除を するのだが、玄関の戸の下にはその水を掻き出す穴があけられて いた。ある年の夏、台風の風で雨水がその穴から家の中に浸水し てきたことがある。その印象が強く心に残り、後年、台風の大波が 打ち寄せて、その穴からはもちろん海水がこの家を襲ってくる夢を 度々見た。ある時は、家の前にあった貝塚の木に登ったり、波の大 きさが酷い場合は裏山に攀じ登るという夢を度々みることになった 。 玄関の左手の部屋には、おそらく雑誌から切り抜かれたであろう美 人画が何枚かの額に入れ飾られていた。当時、もちろん大人は働 いていたため、子供がやってきているこの祖父母の家に、おそらく お盆の休みにだけやって来た時、一族郎党がこの部屋に集まって 大宴会をやるのが恒例だった。その他にも親戚がたくさん集まると 主にこの部屋で食事をした。祖父の葬儀、後に行なわれた祖母の 葬儀もこの部屋で執り行われた。その部屋の奥には一段高くなった 少し薄暗い仏間があった。仏間に隣接した奥の部屋は団欒の居間 から続くさきほどの湿気の多い部屋に続いていた。つまり、昔の大 きな家はほとんどがそうであったように、家の中を一周できるのであ った。 奥の部屋の外側と美人画の部屋も外廊下でつながり、最奥には浴 室と便所があった。便所はいつも樟脳の強い臭いがした。 海で泳いだ場合は心臓が止まるほどの冷たい井戸水を桶でかぶっ たが、海に入った日も入らない日も潮風で肌がべとべとしていたた め、夏休みの間はとにかく毎日この風呂に入ったのだった。炊事や 調理、風呂にもこれだけ水を使っていたということは祖父母の家は 、島にもかかわらず水の量は充分にあったのだろうか。 この浴室は一い番奥の薄暗い空間であったので子どもにとっては 恐ろしい印象だったと思うのだが、大きな五右衛門風呂の浴槽で 入浴はいつも楽しかった記憶しかない。風呂の縁は磨かれた花崗 岩だったようで、子どもの熱い肌には心地よい冷たさだった。薪を くべる焚き口の背後には時々赤い色をした山蟹が歩き回っていた 。この蟹は食用にならなかったのだろうか?いまでもこの蟹は山に 入ると見ることができる。 ◆写真は山蟹。 2階建てのこの母屋の南側は良く手入れされた広い庭になっていて 、躑躅などいろいろな樹木の育っていた築山もあった。庭は道路と 黒塗りの塀で隔てられていた。海の石で造られた土台に、コールタ ールの匂いが漂う黒色とバンガラの朱色に塗られた塀に囲まれて いた。その中央部には、小粋な門が設えられていて、どういう趣味 か知れないが富士、鷹、茄子の彫刻が刳り貫かれていた両開きの 扉があった。もっともこの扉は実用的ではなくあまり開かれることはなかった。 4 隠居所 中庭の先には、離れになっている隠居所があった。玄関というほど 立派な造りではなかったが、入口は南側にあったのだが、僕らはほ とんど、この中庭続きの方から出入りしていた。裏の上がり口の両側 は物置になっていて、いつも薄暗かった。上がり口からすぐに部屋 に入るということになる。ここにはふだん祖父と祖母がふたりで暮ら していた。昔は、齢をとると隠居して、竃を次代に渡すことはありふ れたことだった。 隠居所は簡単な造りで、浴室も、台所も必要なかったので2間の居 室と板張りの仕事場、それに便所だけという間取りだった。 道路に面して、大きな窓のあった仕事場は明るかった。そこで祖父 は面を彫っていた。 後年、叔母は「父彫りし鬼面能面壁にあり塗料ひびわる二十五回忌」(歌集「華」・1998.7・葉文館出版)と詠った。 叔母は、一本買いした公孫樹の木を面作りの幅に切らされたそうである。 そう、祖父は芸術家というわけではなかったが 、ちょっと玄人はだしの彫刻を趣味としていたのだった。あるいはど こかから頼まれ、代金をもらいながらその面を納めていたのかも知 れない。島の中の他人の家で祖父制作の面を見たことがある。祖 父の暮していた隠居所に飾ってあったものは、納品できなかった失 敗作か、あるいはお気に入りの作品で手放さなかったものかとも思 える。木で鬼、狐、ひょっとこ、おかめなどの面、布袋、観音などの 立体の彫刻、宮造りの棚などを日長が一日作っていたのだった。も ちろんそれで生計を立てていたわけではない。 ![]() ◆写真は祖父の作 品 鬼の面はまた、市内で行なわれるあちこちの村まつりの際にも使用 されていた。いまでも一族の家々の玄関や床柱にはこれらの面のな にかしらが飾られている。 祖父は時々、余った木の材料で玩具の舟などを孫たちに作ってく れたりしていた。 その祖父は手先の器用な人で自分の髪もバリカンを使用して自分 で刈っていた。近所からよく鋸の目立ても頼まれていたし、海岸の 砂で煉瓦なども作っていた。 祖母は昔の女性の誰もがそうであったようにとにかく働いていた。 そして、休憩の時には、今では見られない百草によるお灸をしてい た。ということは、それなりに体に無理をして働いていたのだろう。そ れは孫達にはわからないことであったが、当時としてはそういう風に 働き続けることは至極当然のことであったのだろう。昔の人は、元 気でさえあれば、死ぬ間際まで働いていたのだ。それでも、ひと休 みした時にキセルで煙草を喫うことや花札、八卦を楽しみにしてい た祖母であった。その祖母はある時、村田英雄だったか春日八郎 だったかが、あまり売れていない頃、困っていたのでいくばくかの金 を与えたということが自慢話のひとつであった。 隠居所の外はそれほど大きくもないが、南側に野菜を育てる畑も作 られていた。この隠居所の玄関の傍らには季節にはレンギョウが美 しい黄色い花を咲かせた。 夜になると、この隠居所や、落ち間や、2階の大広間などその日の 気分次第だったのか、その日に泊まる親戚の家族構成の都合があ ったのだろうが、子どもたちは好きな部屋で眠った。海岸ということ もあり、裏手には山があったこともあって蚊が多くいたため、蚊帳と 蚊取り線香は必需品だった。蚊といえば、母はあまりにも多く蚊に 刺され続けたため、晩年になるまで、いくら蚊に刺されても痒がるこ とはなかった。これは母のすぐ下の叔母も同様でこれは2人とも自 慢事であった。島に棲息している蚊は普通の蚊と比べて1段と痒み が酷いのだったが、それに免疫ができることによって、どんな蚊にも 平気になったのだろう。ところで蓑島山の中には蚊がたくさん棲息 している。できれば蚊取り草ともいわれるローズゼラニュームという ハーブを植えてその環境を変えてみたいと思う。 ![]() ◆写真はローズゼラニューム。 祖父母の家の母屋のような広さの家に住むことは平気だったし、隠 居所が気に入っていたために、逆に小さな家に住むことにもなんら 抵抗がなかった。齢をとって現在の小屋のような家に住むことを選 んだのもこの時の記憶が強かったためでもある。少年時代を過ごす には最適の環境だった。 5 生活 祖父母の家の前には、島を一周できる比較的広めの村道が走り、 海側には高さ1メートルほどの堤防がある。この堤防は子どもたちの いい遊び場であった。その下はもちろんすぐに海岸になっていた。 海辺に降りるには、家の前にあった堤防の切れ目から3メートルほ どの急坂を下り、さらに100メートルほどのところが波打ち際になっ ていた。普段はこの坂の両側にきゅうりなどの野菜を作られていた 。極く、たまに台風などで大波が寄せた後、畑が流されることがあっ た。土は、砂鉄を含んだ砂地だったのでいくらでも作り直せた。 今考えればこの砂浜でキャンプなどをして遊んでもよかったのだろ うが、まだまだキャンプをすることは一般的でなかったし、専用のテ ントを個人所有していて、それを張って、海で寝るなどということを 考える時代ではなかった。またキャンプなどをしなくても浜辺には 遊ぶことがいっぱいあった。 砂浜の両側は岩に囲まれていて、海水浴客にとっても少年にとって もまるでプライベートの海水浴場のように思えた。 海辺の正面には岩場があって、潮が引いてくると、毎度だんだんと その姿を現した。 夏の日の朝、目覚めた時間帯と満ち引きとのタイミングが合ってい ると、朝食前にその岩場で小さな蟹や浅蜊を獲りに行った。 そして、ガサゴソ動いている蟹を持ち帰り、大鍋に入れて蓋をして 茹で、味噌仕立てにして、朝食のおかずにした。浅蜊は砂出しをし て、その日の夕食にした。 海水浴シーズンには、砂浜でバカガイ(潮吹き)が大量に獲れた。こ の青柳ともいわれる貝は、しかし夏には毒を持つといわれ、食用に ならなかった。 ハガメンタマという巻貝も岩場にたくさん付着していた。少し苦みの あるこの貝は茹でて蓋の隙間に針を突き刺して、それを串代わりに して中身を取り出して食べるのである。特に冬場は美味しくて、帰 宅するバスに乗る前、貝のいる岩場が見えていればギリギリの時間 まで獲ってお土産にした。 南側の岩付近の小石の混じった場所にはたくさんの浅蜊がいたし 、夏には海水浴をしながら赤貝や絹貝を取った。魚釣りこそしなか ったが、貝類は豊富に取れた。特に絹貝は生のまま中身を取り出 して、足の先に針金を通して干したものが作られた。これはいまでも この地方の珍味として売られている。 時々、ガザミという渡り蟹や車エビが潮だまりにいた。このガザミに は、今、豊前本ガニという名称がつけられて漁獲が豊富、地元の店 や魚市場でも販売されている。全国的に有名なのは有明海の竹崎 であるが、これに対抗できるブランドになれるのか?竹崎にも送ら れているときく。水産試験場でガザミの幼蟹を放流していて、半年 で15センチの漁獲サイズに生長する。 蝦蛄や牡蛎も有名。他に、砂浜には当時は食用にならないため見 向きもされなかったが、いまは天然記念物として保護されているカ ブトガニがいくらでも動き回っていた。 岩場にも、当時食用にすることなど考えもしなかったカメノテがいく らでも付着していた。また、漢字では海松と書く、ミルといわれたち ょっと気持ち悪い海藻もたくさん見られた。ところで、このミルは、湯 通しすれば、酢の物で食べられるらしい。水に浸して色を抜いたあ と、乾燥もしくは塩蔵すれば保存できる。 祖父の実家があったこの海岸は、太平洋戦争以前は岩がまったく 見えず、砂浜だけの海岸だったが、昭和18年の夏、大きな台風が やってきて、たくさんの砂を波が1晩で沖に運び去った。その翌日 から、突然、家の前の海岸は岩場が常に見える風景になった。逆 に少し南の天満宮のある海岸に砂が打ち寄せて、天神屋の2階ま でが砂に埋もれた。それまで砂浜から直接続いていたこの海岸に 堤が造られたのはこれ以降のことである。また、この砂の大移動は もう1カ所、沓尾漁港の北側、祓郷川の河口にも砂山を出現させた 。この祓郷川河口の砂山の上には、しばらくして2軒の苫屋が地元 の漁師によって建てられて、いまでも使われている。近年は、低気 圧による高潮被害をのぞけば、台風の影響がほとんど見られない 蓑島も昭和25年9月、鹿児島県志布志湾に上陸したキジア台風、 翌26年10月、鹿児島県串木野市に上陸したルース台風でも大被 害を受けている。 6 龍宮神社 祖父母の家のすぐ北側には、道路脇に海に向かって斜めに延びた 大きな幹の松と大きな岩山があって、ちょっとした景観を造り出して いた。この松や、ちょっと危険な岩はともに登って遊ぶのにちょうど よかった。 ![]() ◆写真上は龍宮浜とかつての龍宮神社社殿。神社境内の大きな 松の木は既にない。その下は神社下にあった斜めに延びた松の木 の風景。 松の山の手、家の敷地に隣接したすぐ北側には神社があった。こ の環境にふさわしく名前を龍宮神社といい、10段ほどの階段の上 に、いまはコンクリートになっているが当時は木造りの大きな拝殿が あった。境内には松の木が2本生えていた。その内の1本は太平洋 戦争中、突然倒れて村道を塞ぎ、1本のみが残った。大木であった ため、松脂が多く採取できた。これは焚きつけに使用したという。 現在の拝殿天井のガラス器の中には竜の彫り物があるが、これも祖 父が彫った物である。山際の階段を上って行った崖の中腹には、 草木に埋もれるようにして小さな石造りの本殿が鎮座している。 氏子の1人だったのか、隣接地ということもあって、この神社は祖父 が面倒をみていた。かつては大きな木造の建物だったが、現在、こ の拝殿は、コンクリート造りになっている。世話人には、尾形洋、中 川清、中原和彦、今井香、和田勝博、尾形俊明、橋本昇の各氏の 名札が並ぶ。 ◆写真は現在の拝殿にある龍の彫り物、左は階段の最上部にある 本殿 大岩のある場所から、長い鉄線に結ばれた網が沖合にまっすぐ延 びていた。あの仕切りは、おそらく漁業のための仕掛けと思われる が、一体何だったのだろう。海水浴の時、足がつかない程の水深に なっている時には、この鉄線に掴まって一休みした。 大岩のある場所は、車が転回できるほどの道幅になっていて、ちょ っとした崖下の広場になっていた。ここはいわば感覚的には行き止 まり的な場所であった。その先は、通常足を延ばさない地域になっ ていたのだ。 ◆写真は転回場所 それでも現在、島一周の道はその先も続き、道に面して昭和31年 に創立された稲荷教会の拝殿が建っている。入口には赤い花の咲 く木がある。大鳥居の先にも赤い鳥居が続き、上部にはこぢんまり した本殿があった。背後には菱形大明神も祭られている。ちなみに 昭和48年に建立されたこの大鳥居は施工した叔父宮定治久と大 坪一利・安田利勝の名が刻まれている。後に、この拝殿に、一時期 しばらくの間、その叔父が住んでいたこともあった。 ◆写真は稲荷 教会の鳥居、遊歩道の案内図 神社の先のカーブから坂道を上がった場所は、今は2段の駐車場 になっているが、かつては野焼きの火葬場があった。町まで行かな いで島の人間はここで火葬されていた。祖父も葬式の後、ここで木 材をかぶせられて焼かれた。今は、この場所は公園と広場になって いて、島の稜線を辿る遊歩道の入口になっている。 7 蓑島の歴史 ところで、蓑島という名前は、農作業着の蓑からではなく、「3つの 山からなる島」に由来するといわれている。この島は北から標高82 メートルの蓑島山を頂上とする)、中央に58メートルの城ヶ辻、南に は標高57メートルの鷺山という3つの山がある。島としては北側に亀 甲島(略して甲島、南に鶴島という2つの島からなり、それに鶴島の 西、天神浜に延びる岬部を伴った菅原神社のある天神島(小島とも )というこんもりとした小山がある。すなわち、蓑島の名称は、現在遠 望する亀甲島・鶴島・鷺山3つの頂上に由来する。その景色から1 名、浮島と美称された。いま、この3つのピークを結ぶ尾根伝いに 縦走する道が走っている。 蓑島の北には神島、毛無島、笠縫島、間島という4つの無人島があ った。神島は、無人島として苅田の沖に浮かんでいる。古の宇佐島ともいわれ、大分県宇佐神宮はこの神島に祭られていた三女神を遷したことに由来している。 毛無島、笠縫島は現在の北九州空港造成の基礎になっている。そして「3つの 山からなる」三ノ島は、この笠縫島の「笠」から「蓑」の文字が美称と して採られた。 豊国のみの島山の郭公(時鳥)かしらや雨にぬれてなくらむ 村雨に濡るる衣のあやにくにけふ蓑島の名をやからまし 五月雨に名をたのみてや蜑船の蓑島にのみ漕とまるらむ などいずれも平安期の和歌で詠われている。 かつて、沓尾と二崎の山を両側に置いて、海に漕ぎ出す正面に蓑 島があった。そして蓑島は、北九州三津の筆頭であり、江戸期には 豊前十八浦のひとつといわれた。 福岡藩の儒者であった貝原益軒の「豊国紀行」で1694年5月5日の項に「是より下はるかに蓑嶋海中に見ゆ。其山三顆あり、潮干ぬれば陸地よりわたり行。みの嶋の南のふもと海辺に漁人多し。此浦にて魚を多く取て、隣国につかはし売」とある。 島であった当時、文化7年の伊能忠敬による測量は一周23町9間3 尺という数字で表されているが、明治14年発行の「蓑島村誌」には 、「東西8丁20間、南北18丁20間、周囲53丁20間、家数3百01、人 口千2百709」とある。1間は6尺で、1・8182メートル、60間で1丁だ から、1丁は109・092メートル。これに従えば、東西約900メートル ×南北2000メートル、周囲5800メートルということになる。こちらの 方が正しいようだ。そうすると面積は1部でいわれているような0・5 平方キロメートルではなく1・8平方キロメートルということになる。 ◆ 写真は伊能図。当時は離れ島。下は沓尾方面から蓑島 尾根伝いにある縦走路には、今でも石垣が残るが、ここには蓑島 城があった。この蓑島城を語るにはすぐ北の苅田町にある松山城 の歴史を語らねばならない。 松山城は、常に北九州における戦いの要地だった。その攻防は紆 余曲折を経た。 最初、740年(天平12年)に大宰権帥、藤原不比等の3男・宇合の 長子である藤原広嗣が築いた。ちなみに朝廷と戦った藤原広嗣は 、敗走して肥前国松浦郡値嘉島長野村(現、長崎県宇久町)で死ん でいる。 940年(天慶3年)には神田権少進光貞が居城とし、1157年(保元2 年)、平判官康盛に滅ぼされるまで、18代続いた。なお現在の苅田 (かんだ)の名前はこれに現在由来する。平康盛は、左大臣・平時 盛の6男で、1157年(保元2年)豊前国司となって下向し、企救郡長 野に城を築き、長野氏を称した。 ところで、神田氏を滅ぼした後、松山城には平康盛の3男信盛が入 った。信盛の子・小平大夫吉盛は「壇ノ浦の戦い」で源氏と戦って 入水している。 一方、応安年間(1368-74年)に豊前国を支配した大内義弘の守 護代であった杉興信以降、杉氏が城主になっていた蓑島城も松山 城と関連してたびたび戦いの舞台となった。 1386年(享徳3年)に、蓑島の五郎なるものが求菩提山護国寺に舎 利塔を奉納した記録が残る。この名はもちろん地名の蓑島を姓に 戴いた実力者である。 周防大内氏が盛んであった応永の頃は大内氏の家臣・杉氏の居 城だった。1398年(応永5年)頃の蓑島城主は杉弘信であった。 1399年(応永6年)には、大内配下の千田九郎豊房は津留に布陣 している。後に沓尾にあって名主を勤めた千田家の先祖である。豊 房は蓑島に生まれ、両親もその当時、島に在住していた。戦いのさ なか、ある日二崎(蓋崎)から蓑島に渡り、父母と再会した話が次のように 伝わる。 「千田九郎豊房は豊前国蓑島の人也、‥‥杉弾正弘信、豊前の 守護たりし時、追従して長門国豊田にありしが、近年相続いて軍役 暇なければ父母の対面も叶わず。心憂くておりたりしに応永6年正 月内藤又次郎に伴ないて鶴の湊に在陣す。よき折節なれば蓑島に 渡り、父母に対謁せばやと思いけれど陣令厳ければ、かりそめに 往くべきにもあらじ。空しく光陰を送りけり。或る時海辺を警固する 事ありて、幸いと思い、便船を求むれど漁夫は厳法を畏れて肯わ ず。時しも正月十日の黄昏に夕潮の湛えたれば,鹵地を往かむも 叶わで、蓋崎の海岸に休らい、島の方を眺めやりていたり。宵潮の 頃なるに、忽ち潮渇きて平沙漫々たり。九郎即て乾潟を思ぎ往きけ るに、宵月朦朧として、遠近定かならざるに蓋崎の方より猛火忽ち 潮の上を飛びて島の方へ往きて、又沖の方より火団来たりて、龍女 宮の辺にて入り違い双方に飛び去りぬ。九郎此の火をしるべとして 、父母に対面し、年月の物語りに夜も闇に及びければ、父母に暇 乞いして立ち帰る。されども潮も来らず、九郎も奇異の思いをなし、 本の陣所に帰着す。陣所の人に何の刻ぞと問うに戌刻と答う。九郎 余り不測さに傍らの人に然々の由を語りければ、年老いたる人云い けるは、かようなる事誠に汝が孝心を天神地祇も感応ありてこそ、 潮もはや乾き不知火も道しるべせしなるべけれ‥‥」(「応永戦乱」) この話は伝説というより、おそらく年に2度巡ってくる大潮の日であ ったからに違いない。この中に出てくる「蓋崎」は現在の2崎であり、 また「龍女宮」は、祖父母の家に隣接していた龍宮神社のことであ ろうと思われる。 1409年(応永16年)には、杉弘重が蓑島城主となった。 1468年(応仁2年)頃には、蓑島城は藤原不比等の流れを汲む藤 原朝臣邦吉がいた(後述)。 その後、1551年(天文20年)、当時、大内氏の家来であった陶晴 賢が長門において主君大内義隆を裏切り、大内氏を滅ぼした。こ れは大寧寺の変と呼ばれている。 1554年、大寧寺の変の後、杉隆重は、正式に蓑島城に拠点を移し た。蓑島城に杉因幡守が寄進した菩薩神像が後に、行橋市街地に ある大橋正八幡神社で発見されている。 その後1555年、その陶晴賢も厳島の戦いで毛利元就に滅ぼされる 。そのおよそ1年後の1557年(弘治3年)に大内氏は滅んだ。翌 1558年(永禄元年)、その大内氏を滅ぼした毛利氏が門司城を攻 略した。一方、大友氏は門司城の支配下にあった小倉・長野城に いた長野氏を配下にしていた。 1561年(永禄4年)毛利・大友が豊前北部で戦い、この時蓑島も戦 場になり、大友の船が毛利方が奪った記録がある。 1562年頃は、元大内氏の家臣で、その後、毛利氏の家臣になって いた天野隆重が在城していたが、大友宗麟に攻められ、大友氏の 属城となった。 1575年(天正3年)、薩摩の島津家久はこの地を通過している記録 が 上京日記に見える。 1579年(天正7年)、北九州に勢力を延ばす毛利氏の命により、馬 ヶ岳城主長野三郎左衛門助盛(助守・祐盛とも)は、高橋宗全、宝 山城の安東氏とともに、蓑島城で毛利氏に反旗をひるがえした杉 重良(長門高倉城主杉因幡守重昌の子・幼名千代丸)を攻略した。 その長野氏もほどなく、島津征伐に来た豊臣秀吉勢によって、攻め 落とされている。 天正年間にはこの長野助盛の属城だったが、慶長5年の関が原の 戦いの戦功で、豊前は細川忠興が領し、1606年(慶長11年)には 松山城も廃城となった。 江戸時代、蓑島は細川氏小笠原藩の領内・元永手永にあった。こ の手永は小笠原藩が施いた制度であり、郡と村の中間にあたる行 政区分である。 元和年間(1615~23年)には、家数133戸、住民数363人(男190、 女173)。庄屋、肝煎、の他、神主、坊主、加子などがいた。 1665年(寛文11年)の春、海豚117尾が揚がった記録がある。 その後、蓑島について触れた記述は以下のようである。 1694年(元禄7年)、貝原益軒の著「豊前紀行」に、 「津積を通過‥、是よりしたはるかに蓑島、海中に見ゆ。其山三顆 あり。潮干ぬれば陸地よりわたり行。みの島の南ふもと海辺に漁人 多し。此浦にて魚多く取て、隣国につかはし売」とある。 1696年(元禄9年)、江間氏親は「両豊海上行嚢抄」に「蓑島4里、 比島ノ内、何風ニモヨシ。スヘ湊ナリ。大沼ナレ共ニセズ」とある。 享保年間(1716~35年)の飢饉では552人(大島409、小島143)が 餓死した記録がある。 1783年(天明3年)、古川古松軒の「西遊雑記」に「大橋より近一里に 蓑島といふ名所有り、風景の地なり。今は地つづきとなりて塩浜とな る。古歌などに郭公のよみあはせをす。卯月の比はほととぎす多し と云」とある。この「大橋」は後に行事と合併して、[行橋」の名前の 元となった大橋村のこと。「古歌」とは「豊国のみの島山の郭公(時 鳥)かしらや雨にぬれてなくらむ」の和歌。郭公は「時鳥」とも詠まれ ているが、ホトトギスのこと。 1802年(享和2年)菱屋平七は「筑紫紀行」で「漁浜にて家居四、五百 もあるよしなり。道より西にあたりて山中に、南原村、尾倉村なども 見ゆ」と記している。 東日本を調査して将軍家直参に登用された伊能忠敬は、引き続き 西日本の地図作成を命じられ、1809年(文化6年)の末、小倉に到 着。翌年1月から九州の海岸線を測量開始する。その際、行橋を通 過した。19日の日誌に「蓑島半周(11町23間3尺・・天神島3町遠測 )を測る。渡海、汐干乗船難成、砂地を駕籠にて渡る」と記している (前述参照)。なお伊能忠敬は九州の測量を終えて、中国、信濃、 甲州を経て5月江戸に一度戻り、11月再び九州に赴き。壱岐・対馬 ・5島の島嶼部を測量、年末姫路を経て、文化11年江戸に戻り、翌 年江戸府内を精密測量。4月に74歳で死亡している。死後、弟子 たちが「大日本沿岸輿地全図」を完成させた。 1813年(文化10年)、野田成亮の「日本九峰修行日記」には「美野 島と云ふに渡る。此島に神変菩薩勧請ある由、因て詣る。当島三 百軒計あり。豊前十八浦の一と云ふ」とある。豊前十八浦とは門司 の柄杓田浦から東吉富浦の間にあった18の浦、すなわち入り江の ことである。 藩政時代、蔵屋敷があり、米穀・農産物を運んだ。 文久3年に監視所ができて御番所の浜と称された。 慶応2年、浄喜寺の村上良春が僧兵150人を連れて防備のため蓑 島に渡海している。 明治22年、市制町村制施行で「仲津郡蓑島村」となる。明治29年 に京都郡に所属を移す。 大正9年には大島地区で50戸を焼失する大火があった。 昭和29年、行橋市に編入。 昭和48年に蓑島漁民センターができた。 ところで蓑島はいまでは陸続きだが、大正元年10月に蓑島橋が架 かるまでは、文字通りの離島であって、舟を利用するか、高めに築 かれた岩の上を干潮時に渡るかしなければ島には渡れなかった。 江戸時代末期、1862年に干拓された文久の地に植えられた松並 木が続く堤防を延ばす形で突堤を築造した。築造には、山口県徳 山市の御影石が石船で運ばれたという。突堤の先端から1回2銭の 渡り賃が徴収されていたのである。 ちなみに橋が架かって2年後の大正3年には島内に電灯が点って いる。 1953年、50町歩という広さの蓑島干拓が完成して、行橋平野と面 で結ばれ、完全な陸続きになった。 ![]() ◆写真は、蓑島城ヶ辻からみ た文久の松、かつての蓑島橋 現在、蓑島山と城ヶ辻の鞍部には集落中心部と小井島浜を短絡す る山越えの小径があり、生活道路としても比較的頻繁に利用されて いる。また、中央の城ヶ辻から南の鷺山にももうひとつの鞍部があり 、ここには集落の西方寺からの小径が合流し、旧火葬場を経て、小 糸浜に降りるもうひとつの短絡路になっていた。但し、こちらの道は 島民のほとんどが利用することのない道ではあった。その長閑さは 、松尾芭蕉の「山路きて何やらゆかしすみれ草」の句が似合いそう な山道である。 島の南端に位置する鷺山からは樹木の間から国東半島が見える。 この縦走路には、山茶花、馬酔木、薮椿などの他、現在は、御衣 黄、公孫樹など、いろいろな樹木や草花が植えられ始めていて、数 0年先にはこの島は花の島になるだろう。 また、中央の嶺・城ヶ辻の一角では石に自作の俳句を彫り込んで 設置する事業が続けられている。30万前後の費用で、自分の作品 を残すことができるということで、市内の短詩型文学者に好評のよう である。これによって市内の石材店の商売に継続的な需要が見込 めている。青森県津軽の外ヶ浜町蟹田では、太宰治の作品に由来 する「風の町川柳大賞」を募集していて、大賞は碑にして観瀾山に 建立している。蓑島でも毎年、短詩型文学を募集し、その1席作品 を、石屋さんの費用で設置したい。碑を建立した人も、友人などと 連れだって何度も蓑島を訪れることになるだろう。なお蓑島山の散 策路には金比羅神社もある。 |
8 叔父とガザミ | |
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三 岬の宿 | |
1 図書室のある宿 |
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4 天神浜 | |
1 天神浜 |
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5 小島から大島へ | |
1 大島 |
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6 蓑島へ | |
1 行橋から蓑島へ |
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7 魚市場 | |
1 市場の賑わい |
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8 蓑島近郊 | |
1 金屋・浄喜寺 |
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9 ふるさと創世 | |
1 商店街復興の試み |
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2 町興こし |
この他、町興こしとして、次のようなことが行なわれている。 |
3 今後の計画 |
邪馬台国ネットでは、これから、
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4 邪馬台国ネットの事 業 |
それから邪馬台国ネットでは次のような事業が取り組まれている。
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5 実現したい計画 |
その他、いろいろな計画。 |
6 蓑島地区での計画 |
その他、蓑島地区でのいろいろな計画。
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7 道の駅ゆくはし美夜 古 |
ついでに「道の駅ゆくはし美夜古」の話。 |
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10 観光振興のために | |
1 地域活性化の担い手 | ![]() そこでこの事業には行政の協力が必至。優れた地元の行政マンが 必要である。彼らにはNPOボランティア活動の情報、住民の地域に 対する意識状況、主要企業の先進技術情報なども要求される。 もうひとつは実動部隊である。これは現在の地域の求職にも応えら れる面もあろうか。継続的で、自主自立の気風のある有閑人材、老 人力も含めた民間人と、行動力のある若者が必要である。テーマに 従ったチーム編成が重要。その中で自主性、恊働性が生まれ、郷 土愛も育つ。事業が進んだ段階で後継者育成の課題がある。 なお、地域のことを考慮していくには、その地域の気質・コミュニテ ィ利用、市民団体NPO・ボランティアとの連携システム、商業施設・ スポーツ大型施設・拠点施設の活用、中心市街地の活気対策など の課題がある。 これらの課題を構築していく作業工程は、 1、行政が関与して、プロジェクト立案・専門家に委託 2、市内からスタッフを募集、専門部会(町内の有識者、専門家の 他、観光協会、観光関係経験者、宿主人・農業者・漁業者・店舗経 営者・主婦・若者など、個人推進者と各プロジェクトのワークショッ プ・グループが必要)を結成、部会を継続開催。 3、調査、課題明確化 4、リサーチ(現地調査・有識者聴取・先進地見学)、企画立案 5、事業計画(場、予算)・材料など確保して事業提案 6、実行。この際、継続的に話題を発信し続けること 7、事後検討・検証 といったところ。 | 2 専門部会 |
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3 ピラミッド理論 |
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4 観光要素の構築 |
1 誰かがその1点だけに来て、そして帰るというのは、通常、余程
の観光要素の揃った観光地か、その場所にその人にとっての特殊
な目的がある場合だけである。その地域が観光の目的地になるに
は、現在ある観光要素の量が弱い場合、その質を上げるための工
夫が必要。それは、グルメ、イベント、ある種インパクトの強い何か。 |
5 マスコミとの提携 |
雑誌社の立場から市町村観光関係部署、宿泊施設へ。 |
11 再び海辺の家で | |
1 海辺の家で過ごす |
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2 海辺の家・春 |
四季の移り変わりは次のようだった。 |
3 海辺の家・夏 |
○6月の農作業 |
4 海辺の家・秋 |
○各月の農作業については略。 |
5 海辺の家・冬 |
この地方では、冬はそれほど寒くない。 |
6 車の別荘 |
海辺の家の生活をしていて、目的というものはないが、考えている
計画はある。 |
7 日本一周計画 |
もうひとつの計画は、日本一周のための、車中泊をする際の車両
の改善である。近年、車中泊が流行していて、今後キューブ2ルー
ムなどのポップアップカーがこれから増えるかもしれない。 |
8 周辺の家の増築 |
海をもっと眺められるように、住んでいる家の真っ正面に海に面し
た部屋を増やすことにした。ここは少し高台になっているから、道路
から覗くことはできないので、窓の外は開放的な造りでいい。 |
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蓑島物語・別巻 | |
1 再び観光の動機、 食のイベントについて |
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とりあえず実現可能なこと | |
1 とりあえずとりかかる 食のイベントについて |
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奥付 | |
1 |
周防灘豊前蓑島物語 |
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