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井上靖 のサイト

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<井上靖の世界を語るサイトです。>

■ 井上靖の世界
■伊豆の旅・1回目
2001年5月

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《伊豆へ》
■伊豆半島、わが聖地・湯ヶ島への2度の旅。

■2001年5月、秋田から16時間半かけて、関越経由で、早朝未明に沼津に着いて、数時間仮眠。
起床後、井上靖が都会を感じたという大仁から湯ヶ島へ。しかし湯ヶ島はほぼ通過、そのまま旧天城トンネルから河津、下田へ。

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下田はGWで大渋滞。駐車もままならず。石廊崎灯台から西海岸を北上、沼津のホテル泊。
翌日、再び沼津、伊豆長岡から湯ヶ島へ。
井上靖邸跡。敷地内の樹木の葉を採取。石碑の裏が訂正されていたのが気にかかる<あれは、何を直していたのだっけ?>
井上靖墓に山道を登って参る。
天城トンネルから踊り子が歩いた旧道を走って下田へ。
その後、伊豆名物金目鯛を食い、東へ走る。
GWの戻りの車の大渋滞を避け熱川温泉にて高磯の湯に入浴。さらに北川温泉で時間つぶし。海岸を散策。そこで仮眠。
夜半、伊東-熱海から鎌倉経由、東京湾フェリー、房総、いわき、会津若松、喜多方-米沢-山形-新庄-大曲-秋田。

■2005年7月。
品川で甥の結婚式・披露宴出席後、富士新5合目下の水ヶ塚PAで車中泊。
翌朝、5合目まで往復、国道1号で清水港へ。
三保の松原、久能山東照宮経由、静岡市内泊。
翌日、駿府城内、日本平、三保の松原経由清水港から駿河湾フェリーで土肥港へ。
土肥から、戸田で高足蟹を食べ、3時間くらいのんびり過ごす。
戸田から県道18号、西伊豆スカイライン、県道411号、風早峠から県道59号で湯ヶ島へ下る。
湯ヶ島はすでに夜で、道の駅天城越えで車中泊。
翌朝、旧天城トンネルを一旦抜け、引き返して、浄蓮の滝、井上靖土蔵跡地に行く。すぐ傍の店でサルビアを一鉢購入、井上靖墓所へ車でアプローチ。花を献じ、墓石を水で清め、墓参。
県道59・12号、冷川ICから伊豆スカイラインに入り、熱海峠、国道1号。
東京で仕事の打ち合わせ。
夜、東北へ。
というようなドライブを2回やりました。いずれもわが聖地・湯ヶ島への旅でした。

伊豆紀行
沼津、西伊豆と中伊豆・2010年6月


■沼津・西伊豆・湯ヶ島紀行1。
<pho1は早朝の沼津駅、pho2は若山牧水記念館、pho3は千本松海岸>
■仙台を2010年6月17日午前10時出発。
国道4号、環7、国道246号を走って、前夜、道の駅ふじおやまにて車中泊。
18日早朝4;00に目覚める。道の駅出立時、車止めでマフラーを破損。後部の荷物が重かったかな。何とかいう有名な牛丼屋チェーンの店で朝食のち、駐車場でマフラーを修理する。
国道246号線から、まず沼津駅へ。失礼ながら、沼津は駅前付近を観察するに意外に大きい町である。この時点でまだ早朝5時14分。沼津港の方に走り、案内板に従って若山牧水記念館。そこから千本松公園の駐車場へ。
しゃれた出で立ちの二人組から「おい、宮城ナンバー、そこに駐車するとサイクリングロードに入る自転車に邪魔になる」と注意される。 嫌な奴だと思ったら、 「今、僕の車をどけるから、そこに止めなさい」という。 まぁ、いい人ではあったのだね。
■沼津・西伊豆・湯ヶ島紀行2。

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<pho1は若山牧水歌碑、pho2は増誉上人長円像、pho3は松林> ■車を千本松公園の岸壁横に駐車して、駿河湾を見る。この時期、富士山は見えにくい。とりあえず松林の中に入る。偶然、そこに「行く山河」の若山牧水歌碑。少し離れたところに千本松を植栽した千本松乗運寺の開祖・増誉上人長円の像がある。
上人は、戦国時代に伐採されたこの地の松の木を年月をかけて、植栽した人物。
■沼津・西伊豆・湯ヶ島紀行3。

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<pho1は井上靖文学碑説明板、pho2は全景、pho3は碑文>
■上人長円像前にある地図を見て、松林の中に分け入り、しっかりとした案内板に従って井上靖文学碑の前へ。感慨深く碑を見る。
石碑にはこのようにある。
「千個の海のかけらが 千本の松の間に 挟まっていた 少年の日 私は 毎日 それを一つずつ 食べて 育った 井上靖」
いくつかのウェブ上の紹介では、あまり碑の文字が正確には記述されていない。 こましゃくれた小学生なら、「千本の松の間にあるのは999個の海のかけらじゃないんですかぁ〜?」というかも知れない。
海岸にある多くの防風林は、どこでもそうであるように、海からの風によって斜めに育っている。
海岸に戻ると防波堤の階段の途中に身を寄せて、ひとりのホームレスの人が眠っていた。先ほど、マットなどの荷物が若山牧水歌碑前のベンチに無造作に置かれていた。
この16段の階段の防波堤は駿河湾地震による津波用に築かれたもので、もう以前のように千本松の間からは海は見えない。
防波堤の少し離れたところにいた、犬連れの人物としばし話。秋田県二ッ井町出身で、今は近くに住んでいるそうだ。二ッ井の近くの地名、例えば峰浜なんぞの町名を出したら、「おお、峰浜を知ってますか」と喜んでいた。前夜、この千本松海岸駐車場に車中泊して、県外ナンバーゆえに警官から職務質問を受けたそうだ。
■沼津・西伊豆・湯ヶ島紀行4-妙覚寺。

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<pho1は妙覚寺山門、pho2は妙覚寺本堂と赤い鳥居、pho3は狩野川>
千本松公園から、狩野川河口にある妙覚寺を訪問。ここは井上靖が青春時代を送った寺。小説を読んで、予想していたよりも町中にある。寺の横にある専用の駐車場に車を入れる。
山門は閉まっていたが、墓地の方の戸口から黙って境内へ。意外に洗練された敷地と本堂の佇まい。もう少し広いかと思っていた。
妙覚寺のすぐそばの堤防を潜ると、狩野川河口部に出る。当時とは雰囲気は違うであろうが、この同じ景色を井上靖が見ていたのだと思うと、ちょっと感慨深い。
狩野川は、天城を源流としている。名前は、伊豆の豪族狩野氏に由来する。後の狩野派はこの狩野氏の流れである。天城には狩野氏の山城跡がある。
■沼津・西伊豆・湯ヶ島紀行5-三津浜。

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<pho1は淡島付近から沼津の町方向、pho2は釣り人の成果、pho3は三津浜>
妙覚寺を離れて、国道414号線、県道17号線に入り淡島近辺へ。
この淡島は国道414号線・県道17号線分岐から南に走っての、西側に見える位置にある。この地域の人には何でもないことだろうが、慣れないと海岸から見て淡島が北の方向にあるという雰囲気がして、今回もイメージの修整ができなかった。単なる個人的な記憶のプリントミスともいえるが、国道414号線・県道17号線分岐がこの江浦湾の北東部でなく南東方向にあると思うのである。
この淡島のある至近の場所は重寺地区で、井上靖の沼津時代の友人藤尾の親戚があり、土肥への旅行の時に立ち寄っているし、夏の間にも遊んだという。当時、沼津から船出して、この重寺で1泊といわれてもピンとこない。いまでは、重寺は陸上を走ると沼津港からそれほど遠くにはない場所にあるからだ。
重寺のすぐ南にある三津浜の見える岸壁で、釣りをしていた御人としばし話をする。伊豆長岡からやってきたという。釣られていた同じ種類の4匹の魚の名前は忘れてしまった。
この三津浜は井上靖の叔母が嫁した松本家のある集落で、井上靖は「しろばんば」の中で「洪作は今まで彼が知っている場所では、ここが一番美しいところではないかと思った。あるいは日本で一番美しいところかも知れない」
という文を残している。そんな風景を見たかった。
松本家は、森に囲まれた氏神の横を登った寺へ続く坂の途中にあり、立木に囲まれて、白壁の大きな土蔵のある旧家という。
この「一番美しい」風景は、集落の中の狭い小路の階段を降りて来た光景かと想像するが、あるいは山の方からの道でトンネルを抜けて三津浜に下って来た風景かもしれない。このトンネルhttp://kodou.lolipop.jp/mitu-tunnel.htmは廃道になっているようだが、復活は望めないものか?
■沼津・西伊豆・湯ヶ島紀行6-大瀬崎。

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<pho1は西浦付近を走る沼津行きバス、pho2は県道17号から大瀬崎遠望、pho3は大瀬崎を俯瞰する> 三津浜から大瀬崎へ。三津浜のすぐ先の西浦には、5105tのスカンジナビア丸がホテルとして使用されていたことがあった(ホテルは1999年に、レストランは2005に営業終了した)。一番最初に伊豆半島に来た時、船が見える浜で車中泊したことがある。
けれど、後年2006年9月2日、スカンジナビア丸はその後、生まれ故郷のスゥエーデンに戻るため、上海への改修途上、曳航中に潮岬沖で沈没したのだった。
海沿いの道がしばらく続く。このルートは土肥への正規のルートではないので通行量は多くない。
7:30大瀬崎に到着。出発してから510km。突端へ向かうべく、坂を下っていった。最下部の場所で、ちょっと道がわからず引き返す。県道に戻って高台から見下ろすと、どうも行き止まりと思っていた場所から突端方面に道は続いているようではあった。よくわからん。一体、大瀬崎ってどんなところ?
■沼津・西伊豆・湯ヶ島紀行7-井田。

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<pho1は井田の集落と明神池、pho2は煌めきの丘から井田集落と富士山遠望> ■大瀬崎からアジサイが路端に咲いている県道17号線を進み、ほどなくして井田にある煌めきの丘に到着。ここは富士山ビュースポットのひとつ。この時期、靄のせいでもちろん富士山は見えない。写真の富士山の映像ははめ込んだもの。 この付近の道路は、以前逆の方向に走ったことがあるが、秋田県男鹿半島のような雰囲気を感じる。 ■沼津・西伊豆・湯ヶ島紀行8-戸田。

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<pho1は出逢い岬から戸田湾、pho2は戸田から松崎まで42kmの標識、pho3は戸田湾を南から> ■8:00戸田湾を北側から見下ろす出逢い岬に到着。ここには駐車スペースと、綺麗なトイレもある。ここからあの奇異なる砂州の延びた戸田湾を撮影。 戸田はほとんど日本一好きな場所。 かつて戸田には高足蟹を食べに来たことがある。観光客並みに「お食事処かにや」で食べたのである。そして御浜の岬で、ベンチで昼寝なんぞをして半日のんびりと過ごした。 その時は、清水からフェリーで土肥にやって来て、戸田で日中を過ごし、夕刻、霧の西伊豆スカイラインを走り、湯ヶ島に夜、到着して道の駅で車中泊、翌日、伊豆スカイラインを走って東京に向かったのであった。 今回は戸田では、わずか停止しただけで通過。仙台から520 km。 ■沼津・西伊豆・湯ヶ島紀行9。小土肥から土肥へ。

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<pho1は戸田小土肥間の道、pho2は小土肥の海、pho3は旅人岬の親子像> ■戸田から碧の丘を経て、土肥町に入る。 小土肥へ。すぐ先には旅人岬がある。 この岬もまた富士山の眺望の優れたポイントになっている。 海の色も美しい。 ■沼津・西伊豆・湯ヶ島紀行10。土肥1。町中。

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<pho1は土肥の風景、pho2は国道136号線標識、pho3は土肥の町中> ■土肥の町に近づく。土肥からは修善寺への国道136号線が町の中心部を通って、ここで反転するようなかたちになる。8:30土肥通過。仙台から535km、 ■沼津・西伊豆・湯ヶ島紀行11。土肥2、恋人岬へ。

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<pho1は土肥の宿、pho2は土肥港、pho3は恋人岬> ■清水港からのフェリーで土肥の港に着いたあと、北方向に走り始めると、松の木が並んでいるのが印象的である。 土肥から国道136号線をしばらく南下すると恋人岬に着く。ここは某誌のアンケートによれば「伊豆半島いきたいランキング」で第3位になっている。ここでもちょっと撮影。 ちなみに、「ランキング」は次の様。 1=城ヶ崎海岸、2=伊豆高原、3=恋人岬、4=浄蓮の滝、5=石廊碕灯台、6=下田海中水族館、7=旧天城トンネル、8=竹林の小径、9=松崎のなまこ壁、10=河津七滝。 ■沼津・西伊豆・湯ヶ島紀行12。松崎1。

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<pho1は中江病院、pho2は中江病院の待合室、pho3は中江病院の前の日除け> ■かつての賀茂村宇久須を通過、新安良里トンネルを抜けると西伊豆町堂ヶ島。ここには大浜があり、見たことのあるような海岸部の岩山があった。ここでつぐみと不良グループのリーダーが会っていて「鼻血が出てるぜ」と言った喫茶店であり、恭一が松葉杖をついて歩いていた海岸もこの近くにあるらしい。 9:10になって、とうとう松崎に来た。出発してから562km。沼津駅前から4時間。 松崎町は2010年の人口は7550人。2000年の約8500人からずっと減少している。 この松崎は西伊豆の海岸部の町の中では例外的に広い平地のある町になっている。 その松崎の町内は以下のようになっている。 中心部は江奈と松崎。伊那上神社神社のあるあたりが宮内。 町のすぐ西側が伏倉。 西に向うと那賀、桜田、建久寺、南郷、峰輪、吉田、明伏。ここから山の手に入って、船田、門野。 道の駅のある大沢、県道115号線で池代。この道は一般車は通行禁止、一応大鍋越峠を経て湯ヶ野に向う。 一方、道の駅から下田方面に向う県道15号線を走ると小杉原がある。 国道136号を南に行くと、岩科に架かる松崎橋近くは道部、その先に岩地、石部、雲見と続く。 県道121号線で南東に走ると岩科、その奥が八木山で、この道は蛇石峠を越えて南伊豆町に下る。 ところで松崎町は三國連太郎氏の出身地という。ふ〜ん。 松崎、というより伊豆半島は、室町時代北条氏の支配下で、豊臣時代、徳川家康が領有した。三島には代官所があった。江戸時代にはずっと幕府領で、19世紀に入って旗本前田氏も支配に加わった。ナマコ壁は、耐火性、防湿性、防水性のある家を造ったようだ。 その後、伊豆は江戸・大坂航路の中継地、嵐の際の避難港、通常は漁業の町として発展した。 ■沼津・西伊豆・湯ヶ島紀行26。中伊豆へ。

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<pho1はルート上の風景、pho2はまもなく佐ヶ野というところ、pho3は国道414号線が県道14号線と合流する下佐ヶ野交差点>
■道の駅花の三聖苑を出て、県道15号線を東へ。
娑婆羅峠を越えて、三叉路で国道414号線に入る。この道は下田街道といわれ、南は蓮台寺を経て下田へ、北は湯ヶ野を経て天城に至る。これは伊豆の踊り子の通った道である。それほど広い道幅ではない。
■沼津・西伊豆・湯ヶ島紀行27。七滝ループ橋1。

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<phoは七滝ループ橋1、2、3>
■県道14号線と合流した国道414号線は湯ヶ野を通過する。間もなく、有名な七滝ループ橋がある。その連続写真1、2、3。
■沼津・西伊豆・湯ヶ島紀行28。七滝ループ橋2。

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<phoは七滝ループ橋4、5、6>
■走行しながらの国道414号線七滝ループ橋の連続写真4、5、6。
■沼津・西伊豆・湯ヶ島紀行29。七滝ループ橋3。

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<pho1、2は七滝ループ橋7、8、そしてpho3は旧天城トンネルの道に入った途中>
■国道414号線七滝ループ橋の連続写真7、8。
そして旧天城トンネルへの坂道を上る。意外と長い。途中、南へ下って行く1人の年配男性と行き会う。
トンネル南側に到着。緑濃い中でトンネル付近を撮影。そうこうしている内、さきほど追い越した北に向う2人連れの婦人も到着した。
■沼津・西伊豆・湯ヶ島紀行30。旧天城トンネル。

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<pho1は旧天城トンネル南側入口、pho2は北側出口付近を中から、pho3は北側出口>
■少し雨模様の旧天城トンネル南側。向こうから車の来ないのを確認して、トンネルに入る。
北側に出て、そちらの写真を撮る終えると、突然土砂降りになる。
2人連れの婦人が、こちらにやって来るので、しばし待ってやる。荷物でいっぱいの車内の後部座席を少しだけ片付けた。
旧天城峠への道を歩くのが目的であろうから、余計なことではあったが、あまりにも酷い雨なので、 「窮屈だけど、よろしければ乗っていきますか?」 と声をかける。こういうお誘いは得意で旅先ではいつもやってる。
神奈川から来て、当日は湯ヶ島に泊まるという2人を乗せて、当面の目的地であるという浄蓮の滝駐車場まで一旦走る。
■沼津・西伊豆・湯ヶ島紀行31。道の駅天城越え。

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<pho1は井上靖旧邸外観、pho2は井上靖旧邸裏手、pho3は井上靖旧邸室内>
■浄蓮の滝から引き返し、13:05道の駅天城越え到着621km。
敷地内にある昭和の森会館の伊豆近代文学博物館(300円)の展示物を見る。最初、「撮影禁止」の貼り紙を見なかったから、資料をガンガン撮影した。一旦、この注意書きを見るとやはり気になるものだ。というと資料もブログなどに載せることは憚られるのであろうな。
会館の裏手に移築された井上靖旧邸をようやく見学。この場所にあったことも、伊豆は3回目なのに、今回初めて知ったのである。どういうこと?
井上靖旧邸のすぐそばにも山葵田がある。
■沼津・西伊豆・湯ヶ島紀行32。伊豆紀行のエピローグ。
■道の駅天城越えから、北に走り、14:00温泉会館駐車場に到着627 km。 大雨でもあり、今回は井上靖の墓所には詣でない。
疲れていたので、温泉会館駐車場で17:00まで仮眠。
降り止まぬ大雨の中、修善寺道路(200円)経由、18:00沼津、660 km。
18:30沼津松長店のセイユーで食べ物購入、661 km。
その後は、 19:10ガソリン残量がほとんど空になっていたので、イオンショッピングで給油15.50立、2000円、667 km、 19:45清水IC、700 km、東名道に入る。
20:30牧之原SA、747 km、大雨。車で睡眠。翌日には、東名、名神、山陽道を走って九州へ。

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いろいろな話題
■井上靖・死の直前のエピソード ■ ■最近、あるmixiサイトで、井上靖氏の死の直前のエピソードが紹介されていた。「井上靖氏は91年に83歳で急性肺炎のため死去したが、亡くなる直前、病院のベッドに付きっきりで看病していた奥さんが水分を上手に採れなくなっていた井上氏の口の中に氷のかけらを入れたところ、井上氏は“カクッ”と首を落としたのだそうだ。 その様子を見た奥さんが慌てたところ、井上氏は 『冗談だよ』 と言ったそうである」それで、 「死の直前であってもこういうイタズラができるって……。 オレも死ぬ前に、絶対に似たようなことをするぞ」という引用氏の言葉が続いていた。他の人もこの挿話についての各人の感想を真面目に述べていて好感が持てた。尤も、確か奥方は幼なじみではなかったろうか。こういう場合にそのような背景があると、より理解できそうである。この類のエピソードをぜひお聞きしたいですね。
例えば、土蔵におぬい婆さんと暮していた時に、寝る前か朝起きた時、いずれ床の中の靖の口にいつも飴玉を放り込んでくれた。それは子供にとっては嬉しいことであったが、後に、虫歯で苦労したとか、岩手県北上市にある日本現代詩歌記念館の名誉館長をしていてある講演したとか、あるいは、ある時、旅の途上にあった石坂洋次郎氏の車に湯ヶ島に帰る途中、便乗したとか、のこと。
特に便乗の話では、ある年の正月、修善寺で画家・映画人・文学者の集まりでゴルフをした後、天城峠を越えて下田に向う予定であった石坂洋次郎氏が車を手配したところ、井上靖氏が便乗を願い出たということなのであった。その際、井上氏が湯ヶ島に立ち寄って自分の母親と妹に会ってもらうことを申し出たというのである。石坂氏は「親しい間柄でもない私におかあさんや妹さんを引合わせる。井上靖さんのそのこだわらない、温かい信頼感のようなものが、天城山を越えて南伊豆の今井荘に着くまで、私の胸にうすく脈うっていた」という風に文学者の表現で触れている。「私は根っからの田舎者で酒は一滴も飲めず、交際している文学者は一人もおらなかった」と述懐する石坂氏にとってそれは印象的なできごとだったというのである(集英社「日本文学全集83井上靖」1972.4月報より)。 ■それにしても、お二人とも、小生大好きな作家であり、この時の車中は豪華な顔合わせであるといわざるをえない。
井上靖氏はもとより、石坂洋次郎氏の弘前時代の「草を刈る娘」の後の、横手時代の「山と川のある町」「山のかなたに」は甘いといわれようが、小生若い時代に好んで読んだのである。石坂洋次郎の代表作は「若い人」、「陽のあたる坂道」といわれているが、小生が「山のかなたに」が一番好きであった。
ちなみに秋田県横手市は「山と川のある町」として売り出しているが、この山は「古い因襲」、川は「若い胎動」を象徴していて、それがあの戦後の時期にふさわしい「時代の変化」のテーマであることは、この作品を読んだ人は容易に理解する。 ■ちょっと訂正が、最後、石坂洋次郎氏の話になったが、他の人から見た井上靖氏の描写は、さらに魅力を増すという挿話のご紹介でした。 ■上記5に「ある時、湯ヶ島に帰る途中、旅の途上にあった石坂洋次郎氏を同じ方向だからと便乗させた」と書いた。自宅でちょっと調べたがこれは逆であった。つまり、
■井上靖 墓誌「幸せな一生」 「明治四十年五月六日、陸軍軍医井上隼雄の長男として旭川に生まれ、湯ヶ島に育つ。第四高等学校、京都帝国大学哲学科に学び、毎日新聞記者を経て作家生活に入る。詩集「北国」「星蘭干」小説「猟銃」「しろばんば」「風濤」「孔子」他多数を発表。シルクロードに惹かれ、日中両国の文化交流に尽す。文化勲章、勲一等旭日大綬賞を受く。柔道六段、お酒大好き、心宏く温かき人 多忙な中にも幸せな一生を終える」  
平成三年十一月九日 妻ふみ是を記す

■「井上靖における少年」福田宏年

■井上靖の三部作時代に関する評論「井上靖における少年」です。「國文学」(学灯社)1975年3月号が「特集井上靖」に掲載されているものです。ちょっと長いですが、ご紹介します。<学灯社様・福田宏年様、ここで掲載させて戴きました。ご免なさいませ> ■ タイトル「井上靖における少年」      福田宏年
井上靖は極めて特殊な幼少年時代を送ったと言っていいであろう。井上は明治40年5月6日、北海道の旭川に生れ、その後軍医であった父の任地の変るままに静岡、東京などを転々としたが、大正元年数え年6歳の時に、父母の許を離れて、郷里湯ヶ島で戸籍上の祖母かのと二人だけで暮すことになった。
かのは靖の曽祖父潔の妾であったが、潔は自分に仕えてくれたかのに報いるために、孫娘八重(靖の母)の養母としてかのを入籍し、老後の面倒を見させることとしたものである。かのはその頃、湯ヶ島の井上家の土蔵でひとり暮しをしていたが、戸籍上の孫に当る靖を引き取って一緒に暮すことになった。この間の経緯については、井上自身その自伝的作品や随筆で何度も触れているが、実情は、下の弟妹が生れて手がかかるようになった母親が、一時預けるつもりで長男の靖をかのに託したのが、ついそのままずるずると続いたもののようである。
もちろん靖の両親は、何度も靖を自分たちの任地に改めて引き取ろうとはしたが、靖自身すでにかのになついてしまって離れようとせず、かのもまた自分の不安定な地位のために、靖をいわば人質として手許に置こうとして離さなかったということらしい。それだけ靖は、この血の繋がらぬ祖母に溺愛されて育ったということであろう。こうして靖は、小学校を終えるまでのほぼ8年近くを、祖母と二人きりで土蔵の二階で暮すことになる。
かのは、下田の船大工の家に生れたと言われる。家が貧しいために芸者に出され、靖の曽祖父潔の眼にとまって落籍されたものであろう。落籍されたのは、一説には下田とも、また一説には東京とも言われるが、今となっては既に確かめる手段もない。やはり医者であった潔について任地を転々としたが、潔が湯ヶ島へ隠退する時にはじめて湯ヶ島へ姿をあらわしたわけである。この時かのは26歳であった。靖の曽祖父潔は、師の松本順に似て剛腹の人だったらしく、本妻の住む家のすぐ下に新しく一戸を構えて診療所とし、そこに妾のかのと住んだ。いわば妻妾同居に近い生活で、当然村人の指弾の眼をかのは浴ることとなる。靖を引き取った時、かのは既に50を越していて、周囲の人からは「おかの婆さん」とか「お蔵の婆さん」とか呼ばれていたが、村人の白眼視は相変わらずだったようである。
 井上靖には、この湯ヶ島の少年時代のことを描いた作品が多い。「しろばんば」「あすなろ物語」「幼き日のこと」などの長篇をはじめとして、「滝へ降りる道」「晩夏」「白い街道」「ざくろの花」などの短篇がある。井上はことさらに少年時代に愛着を寄せて、これを作品の世界に取り上げるのは、もちろん、世間普通の眼から見て一風変った少年時代を送ったせいであろう。しかし逆に言えば、こういう特殊な少年時代を送ったからこそ、後年の作家井上靖があり得たとも言えるわけである。のみか、井上の自伝的作品の中には、後年の作家井上靖を成立せしめているファクターのほとんどを見出すことができると言っても過言ではない。
 井上靖の少年時代について、評家によってよく「孤児の感情」という言葉が使われることがある。私自身もどこかで使ったことがああるかも知れないが、これは実情にそぐわない。川端康成が孤児だったという意味では、井上は決して孤児ではない。離れ暮してはいるが父母も弟妹もいる。土蔵のすぐ上の「上の家」には血の繋った肉親の祖父母や叔父叔母がいる。決して孤児ではないが、肉親に囲まれながらも、血の繋がらぬ祖母と暮したというところが井上の少年時代の特異な点である。
 肉親の祖父母や叔父叔母も、そうそうかのに暖いばかりの眼は向けなかったであろう。村の人たちに至っては、靖をかのの人質と見て、喰い物になるなとか、碌な物を食べさせて貰えないのだろうとか、あからさまに幼い靖にさなざまな中傷を吹きこんだであろう。「幼き日のこと」の中にも、靖が上の家で実の祖母からおいしいものがあるから夕飯を食べて行けとすすめられても、かたくなに断って土蔵に帰って行くところが描かれている。つまり幼い靖は、周囲の村人だけでなく、肉親に対しても、血の繋がらぬ祖母を守っていたのである。
 後年井上は、この時代のことを回想し、「私の自己形成史」の中で、自分と祖母の愛情の中に一種の取引の匂いのひそんでいたことを認めて次のように言っている。
 <謂ってみれば、私と祖母とはかなり強固な同盟関係にあって、村人や親戚を敵に廻して共同生活をしていたのである。この祖母との同盟は彼女が亡くなってから45年程経った現在もなお、私の心の中では破れていないのである。若しこれが肉親間の持つ多分に無償であるべきだとされている愛情であったなら、とうにもっと他の質のものに変っていたことであろうと思う。>
 井上のいわゆる祖母との「同盟関係」は、井上の自伝的作品の中に余すところなく描かれているが、言ってみれば井上は、世間普通とはいささか異った環境の中で、人生のリアルな一面をあまりにも早すぎて見ざるを得なかったということである。このことはもちろん、作家井上靖を作りあげる上で、見過ごすことのできないファクターとなっているであろう。
 「幼き日のこと」の中で井上は。この祖母との生活を回想して、「多少周囲の人間の気持に対して幼い触覚を振り廻すことを訓練されたかと思う」と言い、さらに言葉をついで次のように言っている。
 <祖母と孫との関係ではなく、世の男女の愛の形のようなものが、私とおかのお婆さんの間には置かれていたのではないかと思う。私は今でも、おかのお婆さんの墓石の前に立つと、祖母の墓に詣でている気持ではなく、遠い昔の愛人の墓の前に立っている気持である。ずいぶんと愛されたが、幾らかはこちらも苦労した、そんな感慨である。>
 この言葉は、幼い靖とおかのお婆さんとの心の結びつき方の、すべてを語りつくしていると言ってよかろう。
 靖が湯ヶ島小学校2年生の時、母の妹である上の家のまちが、沼津の女学校を卒業して湯ヶ島に帰ってきた。まちは寄宿舎に入って女学校に通っていたが、帰省の折に見かけるまちの姿は、「幼き日のこと」の中の表現に従えば、靖には「はきだめに降りた鶴」のように映った。現在残っている写真を見ても、この若い叔母は美しい。その上この美しい叔母は、その性格も容貌も、靖の母である姉の八重に瓜二つのように似ていた。
 郷里へ帰ってくると、まちは請われて湯ヶ島小学校の代用教員になった。その頃、小学校の校長は、靖の父の兄である伯父の石渡盛雄が勤めていた。離れて暮している母親へ寄せる靖の思慕は、当然のことながら、母親に生き写しのように似ている美しい叔母に向けられた。靖もまちを慕ったが、まちもまた靖を可愛がった。「しろばんば」の中にも、さき子(まち)が洪作(靖)を連れて村の共同湯に通うところが描かれている。ただ、まちは姉の八重に似て気性の激しいところがあり、おかのお婆さんにはあからさまに敵意を示した。祖母の悪口を言われればそれを守るのが靖の役目だが、この美しい叔母だけは例外だったようである。幼い靖は、祖母と美しい叔母の間で板ばさみになって、少なからず小さい胸を痛めたことであろう。
 まちは、やがて同僚の教師である中島基(「しろばんば」では中川基)と恋をし、妊娠し、学校を退いて子供を産んだ。当時の因襲にしばられた山間の村では、当然それは人の噂に上ったであろう。身二つになってから、まちは既に学校を退いていた中島の郷里、湯ヶ島から2里離れた青羽根部落に移っていったが、その時すでに胸を侵されていた。「しろばんば」の中に、さき子が夜中に人目を忍んで人力車で婚家に向うところが描かれているが、一番美しいところである。「しろばんば」の中に、洪作が作文のコンクールに落ち、教師に嫌味を言われて、心うちひしがれ、山を眺めながら、死んださき子を思い出すところがある。
 <右手に眼を移すと、遥か遠くに天城が見えた。すっかり冬の山といった冷たい感じを身に着けてしまっている。天城の稜線には綿をちぎったような雲が、きれぎれに浮かんでいたが、それも冬の雲といった感じで少しも動かなかった。洪作はさき子のことを思った。いくら思っても若い叔母は若いままで他界してしまったので、会うことも話すこともできなかったが、しきりにさき子のことが思い出された。このように気持の挫けている時、若しさき子が居たら、彼女の傍に居ることだけで自分の心は慰められるに違いないと思った>
 もちろん靖は、無意識のうちに若く美しい叔母の中に、母の面影を求めていたのであろう。この夭折した叔母への思慕は、靖の胸の中で育まれ、浄化され、一種の永遠の女性像にまで成長して行く。この母性思慕は、「射程」「黒い蝶」から「氷壁」を経て、「桜蘭」「蒼き狼」などの作品の中で生き続けて行く。
 井上靖の作品の中で、劣等感は非常に大きい要因として働いているが、その萌芽は既に自伝的作品の中に認めることができる。それはまず、田舎者の都会的なものに対する気おくれという形であらわれてくる。「しろばんば」の中に、洪作がはじめて沼津の親類の「かみき」を訪れて、美しくて、こましゃくれた二人の少女、蘭子とれい子に洪作がすっかり魅了されてしまうところが描かれている。
 <湯ヶ島へ帰ってから、洪作は沼津のかみきの家で過した一日を、夢の中に於けるそれのように思い出していた。蘭子もれい子も、小母さんも、それから小父さんも、兼さんも、現実の生きている人ではなく、夢の中の人たちのような気がした。>
 また、「少年」という短篇では、湯ヶ島から数キロ離れた大仁の親戚で、同年輩の子供が、「今度の上り」とか「今度の下り」(軽便鉄道のこと)とかいった言葉を口にするのを聞いて、ひどく都会的で、しゃれたものに思え、「到底太刀打ちできないものを感じた」と書かれている。さらに、「滝へ降りる道」「晩夏」「白い街道」などには、夏になって湯ヶ島を訪れる都会の避暑客に対する、まぶしいような戸惑いと興奮とが描かれている。
 井上自身、「私の自己形成史」の中で、「このような伊豆の山村に育ったために、私の幼少の頃、都会というものや、そこに住む少年少女たちに対して、都会の子供たちの想像もできないような劣等感を抱いていた。そしてこの劣等感は、いろいろな形を変えてかなり後年まで私という人間を支配した」と言っている。この劣等感に更に拍車をかけたのが、相次ぐ乳入学試験の失敗である。井上の作品の中では、「ある偽作家の生涯」「澄賢房覚書」「霧の道」「敦煌」などの作品に、劣等感は深い影を落としている。
 晩秋から初冬に伊豆を訪れると、夕暮れ時、白い綿毛のようなものをつけた虫が飛んでいるのをよく目にする。夕陽を受けると、白い綿毛は美しい輝きを発する。この虫が、井上の自伝的作品の題名に選ばれているしろばんばである。しろばんばの漂う夕暮れになると、野山を駈けずり廻っていた少年の靖は、煮物の匂いに吸いこまれるように土蔵の中に帰っていったのであろう。田舎の子供には都会に対する劣等感がある反面、独自の自然感覚を持っているものである。特に靖の場合は、両親の許を離れて祖母と二人きりで暮していただけに、はっきりと意識しないながらも、相応の孤独感があったであろう。家庭の団欒に恵まない少年が、好んで伊豆の野原に出て自然に親しんだであろうことは、充分想像できることである。
 「しろばんば」や「幼き日のこと」の中にも、蜂の子を食べたり、ツバナを抜いて食べたり、木の実で唇を赤くする話などが語られている。恐らく少年の靖は、春は若草の匂いを嗅ぎ、夏は草いきれにむせ、秋は枯れ葉を踏み、冬は木枯らしに肌をさらして暮したのであろう。こうして次第に、生きものの嗅覚にも似た鋭い感覚が養われたのであろう。元来井上靖の作家的資質は、論理的、社会的というよりは、むしろ詩人的な直観と感覚に支えられている。このような詩人的資質は、幼い時の孤独の感情と、おおらかな自然感覚によって育まれたものと言っていいであろう。
 作家井上靖を成立せしめているファクターのほとんどは、その自伝的作品の中に見出されるのであるが、その点で一際意味深く思われるのは「幼き日のこと」である。これは時期的には「しろばんば」とは重なり合うが、「しろばんば」が一応小説として時間的な脈絡を追っているのに対して、「幼き日のこと」は、前後の関係は一切抜きにして、いわば幼時の薄明の記憶の中にぽっかりと浮んでいるイメージを随筆的な形で追っている。井上自身これらのイメージを「一枚の絵」という言葉で表しているが、それらの「絵」は、ひとつひとつが極めて鮮かで、しかも単なる概念規定では整理しきれない深さをたたえている。
 たとえば、「上の家」の実の祖母の葬式の日に、近所の内儀さんたちの中に混って勝手もとで立ち働いているおかのお婆さんの姿が、一枚の絵として捉えられている。つまり、本妻の葬式の日に、家の内部に籠っている肉親とは別に、勝手もとで立ち働いているおかのお婆さんの姿に、少年の靖は、彼女の辛さと、悲しさと、淋しさのすべてを見ている。
 また、美しい叔母のまちについては、彼女が本家の奥の薄暗い部屋の中で、しどけなく横たわっている姿が、やはり一枚の絵として捉えられている。それは子供心にも。「けだるく、もの憂く、幾らかは淫ら」なものを感じさせる。この絵もまた鮮かである。薄闇の中に浮び上ったようなイメージであるが、この美しい叔母の秘密を照らし出しているような気がしてくる。
 父については、4歳の頃、どことも知らぬ六畳間で、幼い靖と父ともう一人の女が坐っている場面が、やはり一枚の絵として捉えられている。「父はその女のひとと話しており、私は皿に入ったアイスクリームを当てがわれて、それをスプーンで口に運んでいる。アイスクリームがひどくうまいものだということと、一体父と話している女のひとは誰であろうかというそうした詮索の思いが、その時の私の幼い心を揺すぶっている」
 「幼き日のこと」では、このような鮮やかな絵が、前後の脈絡もなく、次々と並べられて行く。これらの絵は、井上靖が何十年間胸の中に持ち歩き暖めてきたものである。それらは、既に安易な解釈や説明を許さぬものを持っているが、実はこれらの絵が、井上靖の文学の世界を構成する礎石の如きもの、原イメージとでも呼ぶべきものとなっているのではなかろうか。
(ふくだひろとし氏は文芸評論家・ドイツ文学。文中縦書きの数字の多くをアラビア数字に改めさせて戴いた。傍点はいくらかあるが特に注意しなければならないものはないので省略している)

■井上靖書斎、旭川に移築

■2010.4.16の報道によると、「井上靖書斎、旭川に移築」。 東京都世田谷区の自宅の書斎などが、旭川市の井上靖記念館へ寄贈されることになって、2011年度に蔵書などとともに公開の予定とのこと。

■沼津・三津の話 ■沼津・三津の話
沼津市の内浦三津には井上靖の母・八重のすぐ下の妹・きくえが養女になっていた松本家がある。きくえがこの家の養女になったのは、八重やきくえの母たつの姉がここに嫁していたためである。つまり姪が伯母さん夫婦の子どもになったということで、このような養子縁組は昔はよくあった。
「夏草冬濤」の終わりで洪作たちは伊豆行きの船で西伊豆の土肥へ向かう。その時、狩野川の御成橋から船に乗り、江浦を経て、最初に降り立ち、一泊したのは重寺であった。
沼津市内からは国道414号線を南下して、口野放水路交差点の突き当りを右折して県道17号線に入り、ほどなくして到着する重寺までは市街地からは今では車だとおよそ30分ほどの距離か。三津はこの重寺の北に隣接する。
1955年に沼津市に編入される前に内浦村は、明治期に君沢郡(のち田方郡)三津村、長浜村、重寺村、小海村、重須村が合併して発足した。しかし三津はなぜ「みつ」でなくて「みと」なのだろうか?そして名前からすれば、3つの入江か港が存在する地であろう。地図をみると3箇所の陸の窪みが見えなくもないが「沼津市史」にその地名由来の記述はあるのだろうか。(写真1は三津の街並み)
この三津には、洪作少年は長岡から現在の県道130号線で徒歩で三津の町に入った。その手前、今は新三津坂トンネルが通っているが当時は旧道の三津坂隧道を抜ける峠越えの道だった。トンネルを過ぎてこの道を下る途中の場所で三津の街並みと内浦湾の光景が見えてくる。
常々山の景色しか見ていない、いろいろな場所を訪れたことの少ない少年にとって「今まで彼が知っている場所では、ここが一番美しいところではないかと思った。あるいは日本で一番美しいところかもしれない」」と思わせたのは当然だったかもしれない。
この「日本で一番美しいところかもしれない-井上靖」というフレーズはイザベラバードが「日本奥地紀行」で山形県置賜の地を評して「東洋のアルカディア」と言ったように、宿泊施設や伊豆三津シーパラダイス、淡島などのあるこの地の絶好の観光用キャッチフレーズになる。
井上靖はこの景色だけではなくて、松本家(「しろばんば」では松村家)に歓迎されたことや、すこぶる快適な夏休みを過ごしたことで上記のような感想を持ったに違いない。また井上靖は「学生時代、ひと夏をここで過ごしたい」と言っていたという。
松本家は森に囲まれた氏神の横の道を登った寺への坂の途中にある(写真2-学習研究社「現代日本文学アルバム15井上靖」より) ところで、井上靖も通った旧道の三津坂隧道は現在通行不能だが、地元の人の力でトンネルの大改修できないだろうものか。ウェブ上で幾人の人が探索しているこの隧道は歴史のあるものである。路面はなんとかなったとしても、少し費用をかけて天井の改修をしないと当局の通行許可を取るのは難しいだろうが。

■妙覚寺の雪ちゃん、のこと

■妙覚寺の雪ちゃんです。僕が長い間、想像していたのはもっと現代的な感じの女性でしたが、昔っぽい感じの人でした。写真は「現代日本文学アルバム15 井上靖」(学習研究社1973)からの引用です。
 妙覚寺の雪ちゃんは、ウェブによれば、 1985年7月26日に82歳で死亡なさっているんですね。静岡市清水区興津中町の理源寺に「今井幸」として墓があるそうです。
井上靖氏の「初恋の人」あるいは「初接吻の女性」ともいわれているらしいですが、本当でしょうか?

■明日くる人

■井上靖の小説「明日くる人」の中に、戸田海岸で主人公らが過ごす情景が出てきますね。主人公の一人がカジカを採取するのです。戸田へアクセスする道路事情なども現在とは違っていますが、景色だけは同じようです。土肥より戸田派の僕としては嬉しい内容でした。

■「しろばんば・夏草冬濤・北の海」 ■ご存じの方もいらっしゃるでしょうが、「しろばんば・夏草冬濤・北の海」のサイトが一般WEB上にあります。http://www.eonet.ne.jp/~doky/。少しこみっとしている傾向もあり、また最近ちょっと元気がない様子ですが、湯ヶ島の地図・写真、沼津の地図など大変参考になります。興味のある方はアクセスしてみて下さい。 ■ [2]2006年05月24日 07:07 私の井上先生への入り口は、しろばんばに始まるこの世界でした。 教科書で本の一部を知り「もっと読みたい」と次々に読み 何度も読み返しました。 そのあと蒼き狼や額田王へと私の中で広がって行きました。 まだ行ったことのない伊豆ですが 情景はまざまざと頭の中に浮かびます。 心と風景の細やかな描写がとても好きです。 ななちゅわん 事実は小説より奇なりではありませんが、自伝(的)小説ほど面白いと思わせるものはない気がします。『しろばんば』久しぶりに読み返したくなりました。幼少期の頃の話であればあるほど、強い郷愁とともに主人公に投影できて、楽しめます。 バラモン 井上靖さんの、幼少から青春時代までの自伝記(三部作)。何度読んでも、何度でも読み返したくなりますね。 場所こそ土肥ではありませんが、毎年長崎港から五島に向かう船上で、空と海に挟まれた洪作になります(笑) 五島に降り立つ時、木部君の詩が頭を過り、いつも新鮮な気持ちになります。   「長く長く、汽笛は鳴りて、     いざ、土肥と、まなこ上げし空に白き雲あり」 いいですね。 井上靖さんの青春は、詩集「星欄干」の中の<わが青春>にも描かれていますね。こちらも好きです。 <わが青春> 青春なんていうものではなかった。俺はいつも、一人で歩いていた。金もなければ、友達もなく、一度、娘なるものと言葉を交じわせてみたいと思っていたが、その機会には恵まれなかった。いつも一人で歩いていた。 街中を歩いたり、川縁りの道を歩いたり、裏町を歩いたりしていた。夕暮れがやって来ても、別段、帰らねばならぬところもなかった。いつも決まったように、薄暮れの坂道を歩き、燈火のはいった町へ入って行った。 俺は今も、あのように歩きたいと思う。凡そ青春なんてものとはほど遠かった。若し何か特別なものがあったとすれば、それは、あのふしぎな、俺をのっけて、ゆっくりと動いていたベルト・コンベアだ。あの初めもなく、終わりもなく、張り廻らされていた動くベルトだ。 そのベルトに乗って、俺は毎日、あてどなく運ばれていたのだ。希望もなく、と言って、絶望なんてしゃれたものもなく、俺は他に何もすることがないので、毎日のように、そのベルトに乗っかって、動いていたのだ。 と言って、何ひとつ取り柄がなかったというわけではない。完璧な夕暮れと、完璧な夜が、あそこにはあったと思う。まるで待ち伏せでもしているように夕暮れが俺を迎えてくれ、その向こうに夜が待っていた。 ■他のトピにあるとは思いますが、この三部作の世界においての、井上靖氏の墓所関係の写真です。
左は墓所全景、中は墓石アップ、右は、蔵跡地にある「しろばんば」の石碑です。
■『読んで、行きたい名作のふるさと』(教育出版・清水節治著、2005)という書籍の内容の一部をwebにアップしています。 目次を見ると「しろばんば」は収録されていません。
けれど、おそらく収録できなかったであろう「しろばんば」関係の写真をホームページ・カメラ紀行「名作のふるさと」
http://www.geocities.jp/seppa06/0406rohan/sima1.htmで見ることができます。とても懐かしい風景です。 web上にこういう形で紹介するという方法=活字とデジタルのコラボもいいですね。
■だいぶん前の書き込みにコメント。 >24 僕も、古本屋へ行くと、井上靖の本を探します。 中学生の時、国語の教科書に「しろばんば」か「あすなろ物語」の文章があったのですね。 >25 沼津の町に泊まりましたが、妙覚寺も、千本松原も行ってません。一度くらいはいけるかな。
■井上靖の言葉
「子どものとき、狩野川はとても大きく見えました」
■ 「しろばんば」からの三部作を中学時代に読みました。 20年以上前です。 手元に本がないのですけど、「夏草冬濤」か「北の海」で 「イチノセ ヨウゾウ」 っていう同級生か後輩が出てきませんでしたか? その子の家に行くと、すごく分厚い羊羹が出てきて、 洪作に比べ、年賀状を出す相手がたくさんいるらしいという描写でした。 その少年と知り合う前に、電車で乗り合わせたときに、 母親が彼を「ジュンちゃん」と呼んでいたと思うんですね。 その後、だいぶんたってから、あの電車で乗り合わせた少年ということで、 「ヨウゾウ」が出てきたと思うんですが、 「ジュンちゃんじゃなくて、ヨウちゃんと違うのかい?」と思いました。 この齟齬について、問い合わせたい気持ちでいっぱいでした。 また本を読み返して、確認したいです。
■一ノ瀬洋三母子は、「しろばんば」で正月に、洪作が、湯が島の伊豆楼に訪ねて行った人物です。三島に在住です。
中学時代に三部作読みました。今も時々、読み返してます。 夏草冬涛の後半、藤尾君達とのやり取りは、何度読んでも楽しいです。 私が難関女子校に入学出来たのは、井上靖先生のおかげです。
■「あすなろ物語]より。
「加島浜子はどうしている?」
■  りっぷ _r.i.p._leap 夏草冬波は、NHKの夕方の少年ドラマ枠で、やってましたね。 1972年ころかな。 川に飛び込むシーンを覚えています。 りっぷ _r.i.p._leap >>36 これって土蔵の跡でしたっけ。 10年以上前に訪れた時は、中に入れなかった記憶あります。 おぬい婆さんの葬式の列を 風邪で寝込んでいたこうちゃが見送ったのも ここの2階の窓辺からなんでしょうね。
■礼9624
36の写真は、道の駅「天城越え」の中にある昭和の森会館・伊豆近代文学博物館に付設されている井上靖旧邸です。入場料300円ですが、展示室から外にでたところにあって間近に見れます。これはもちろん本来のばしょから移築されたものです。土蔵はこの家の裏手・東側にありました。 ご存じとも思いますが、「野良犬少年」のサイトhttp://www1.ocn.ne.jp/~nora2010/に詳しい地図などがあり、参考になります。
ところで、<2012.4.19のニュースより> 映画「わが母の記」(監督原田真人、井上靖の自伝的小説)が2012年4月28日公開される。役所広司(56)・樹木希林(69)が出
■伯母のまちの写真です。 まちは八重の姉。八重らは9人きょうだい。 「しろばんば」でさき子のモデルになっています。 当時の女性の雰囲気があります。 (「現代日本文学アルバム15井上靖」、学習研究社1973より)
■映画「わが母の記」が上映されていても、このコミが活性化しないというのは、ミクシィの現状を物語っているという感じかな。 写真は、靖と母親。まぁ、気の強い八重さんも昔の人ではあったということでしょうか。 (「現代日本文学アルバム15井上靖」、学習研究社1973より)
■井上家の先祖は、四国地方から流れてきた落人です。
■19にある妙覚寺の雪ちゃんの写真は、井上靖らと記念撮影した時のものです。 右側に井上靖氏も写っています(旺文社文庫「しろばんば」解説1969より)。

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