井上靖 のサイト |
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<井上靖の世界を語るサイトです。> |
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■ 井上靖の世界 | |
■伊豆の旅・1回目 2001年5月 |
下田はGWで大渋滞。駐車もままならず。石廊崎灯台から西海岸を北上、沼津のホテル泊。 翌日、再び沼津、伊豆長岡から湯ヶ島へ。 井上靖邸跡。敷地内の樹木の葉を採取。石碑の裏が訂正されていたのが気にかかる<あれは、何を直していたのだっけ?> 井上靖墓に山道を登って参る。 天城トンネルから踊り子が歩いた旧道を走って下田へ。 その後、伊豆名物金目鯛を食い、東へ走る。 GWの戻りの車の大渋滞を避け熱川温泉にて高磯の湯に入浴。さらに北川温泉で時間つぶし。海岸を散策。そこで仮眠。 夜半、伊東-熱海から鎌倉経由、東京湾フェリー、房総、いわき、会津若松、喜多方-米沢-山形-新庄-大曲-秋田。 ■2005年7月。 品川で甥の結婚式・披露宴出席後、富士新5合目下の水ヶ塚PAで車中泊。 翌朝、5合目まで往復、国道1号で清水港へ。 三保の松原、久能山東照宮経由、静岡市内泊。 翌日、駿府城内、日本平、三保の松原経由清水港から駿河湾フェリーで土肥港へ。 土肥から、戸田で高足蟹を食べ、3時間くらいのんびり過ごす。 戸田から県道18号、西伊豆スカイライン、県道411号、風早峠から県道59号で湯ヶ島へ下る。 湯ヶ島はすでに夜で、道の駅天城越えで車中泊。 翌朝、旧天城トンネルを一旦抜け、引き返して、浄蓮の滝、井上靖土蔵跡地に行く。すぐ傍の店でサルビアを一鉢購入、井上靖墓所へ車でアプローチ。花を献じ、墓石を水で清め、墓参。 県道59・12号、冷川ICから伊豆スカイラインに入り、熱海峠、国道1号。 東京で仕事の打ち合わせ。 夜、東北へ。 というようなドライブを2回やりました。いずれもわが聖地・湯ヶ島への旅でした。 |
伊豆紀行 | |
沼津、西伊豆と中伊豆・2010年6月 |
上人は、戦国時代に伐採されたこの地の松の木を年月をかけて、植栽した人物。 ■沼津・西伊豆・湯ヶ島紀行3。 <pho1は井上靖文学碑説明板、pho2は全景、pho3は碑文> ■上人長円像前にある地図を見て、松林の中に分け入り、しっかりとした案内板に従って井上靖文学碑の前へ。感慨深く碑を見る。 石碑にはこのようにある。 「千個の海のかけらが 千本の松の間に 挟まっていた 少年の日 私は 毎日 それを一つずつ 食べて 育った 井上靖」 いくつかのウェブ上の紹介では、あまり碑の文字が正確には記述されていない。 こましゃくれた小学生なら、「千本の松の間にあるのは999個の海のかけらじゃないんですかぁ〜?」というかも知れない。 海岸にある多くの防風林は、どこでもそうであるように、海からの風によって斜めに育っている。 海岸に戻ると防波堤の階段の途中に身を寄せて、ひとりのホームレスの人が眠っていた。先ほど、マットなどの荷物が若山牧水歌碑前のベンチに無造作に置かれていた。 この16段の階段の防波堤は駿河湾地震による津波用に築かれたもので、もう以前のように千本松の間からは海は見えない。 防波堤の少し離れたところにいた、犬連れの人物としばし話。秋田県二ッ井町出身で、今は近くに住んでいるそうだ。二ッ井の近くの地名、例えば峰浜なんぞの町名を出したら、「おお、峰浜を知ってますか」と喜んでいた。前夜、この千本松海岸駐車場に車中泊して、県外ナンバーゆえに警官から職務質問を受けたそうだ。 ■沼津・西伊豆・湯ヶ島紀行4-妙覚寺。 <pho1は妙覚寺山門、pho2は妙覚寺本堂と赤い鳥居、pho3は狩野川> 千本松公園から、狩野川河口にある妙覚寺を訪問。ここは井上靖が青春時代を送った寺。小説を読んで、予想していたよりも町中にある。寺の横にある専用の駐車場に車を入れる。 山門は閉まっていたが、墓地の方の戸口から黙って境内へ。意外に洗練された敷地と本堂の佇まい。もう少し広いかと思っていた。 妙覚寺のすぐそばの堤防を潜ると、狩野川河口部に出る。当時とは雰囲気は違うであろうが、この同じ景色を井上靖が見ていたのだと思うと、ちょっと感慨深い。 狩野川は、天城を源流としている。名前は、伊豆の豪族狩野氏に由来する。後の狩野派はこの狩野氏の流れである。天城には狩野氏の山城跡がある。 ■沼津・西伊豆・湯ヶ島紀行5-三津浜。 <pho1は淡島付近から沼津の町方向、pho2は釣り人の成果、pho3は三津浜> 妙覚寺を離れて、国道414号線、県道17号線に入り淡島近辺へ。 この淡島は国道414号線・県道17号線分岐から南に走っての、西側に見える位置にある。この地域の人には何でもないことだろうが、慣れないと海岸から見て淡島が北の方向にあるという雰囲気がして、今回もイメージの修整ができなかった。単なる個人的な記憶のプリントミスともいえるが、国道414号線・県道17号線分岐がこの江浦湾の北東部でなく南東方向にあると思うのである。 この淡島のある至近の場所は重寺地区で、井上靖の沼津時代の友人藤尾の親戚があり、土肥への旅行の時に立ち寄っているし、夏の間にも遊んだという。当時、沼津から船出して、この重寺で1泊といわれてもピンとこない。いまでは、重寺は陸上を走ると沼津港からそれほど遠くにはない場所にあるからだ。 重寺のすぐ南にある三津浜の見える岸壁で、釣りをしていた御人としばし話をする。伊豆長岡からやってきたという。釣られていた同じ種類の4匹の魚の名前は忘れてしまった。 この三津浜は井上靖の叔母が嫁した松本家のある集落で、井上靖は「しろばんば」の中で「洪作は今まで彼が知っている場所では、ここが一番美しいところではないかと思った。あるいは日本で一番美しいところかも知れない」 という文を残している。そんな風景を見たかった。 松本家は、森に囲まれた氏神の横を登った寺へ続く坂の途中にあり、立木に囲まれて、白壁の大きな土蔵のある旧家という。 この「一番美しい」風景は、集落の中の狭い小路の階段を降りて来た光景かと想像するが、あるいは山の方からの道でトンネルを抜けて三津浜に下って来た風景かもしれない。このトンネルhttp://kodou.lolipop.jp/mitu-tunnel.htmは廃道になっているようだが、復活は望めないものか? ■沼津・西伊豆・湯ヶ島紀行6-大瀬崎。 <pho1は西浦付近を走る沼津行きバス、pho2は県道17号から大瀬崎遠望、pho3は大瀬崎を俯瞰する> 三津浜から大瀬崎へ。三津浜のすぐ先の西浦には、5105tのスカンジナビア丸がホテルとして使用されていたことがあった(ホテルは1999年に、レストランは2005に営業終了した)。一番最初に伊豆半島に来た時、船が見える浜で車中泊したことがある。 けれど、後年2006年9月2日、スカンジナビア丸はその後、生まれ故郷のスゥエーデンに戻るため、上海への改修途上、曳航中に潮岬沖で沈没したのだった。 海沿いの道がしばらく続く。このルートは土肥への正規のルートではないので通行量は多くない。 7:30大瀬崎に到着。出発してから510km。突端へ向かうべく、坂を下っていった。最下部の場所で、ちょっと道がわからず引き返す。県道に戻って高台から見下ろすと、どうも行き止まりと思っていた場所から突端方面に道は続いているようではあった。よくわからん。一体、大瀬崎ってどんなところ? ■沼津・西伊豆・湯ヶ島紀行7-井田。 <pho1は井田の集落と明神池、pho2は煌めきの丘から井田集落と富士山遠望> ■大瀬崎からアジサイが路端に咲いている県道17号線を進み、ほどなくして井田にある煌めきの丘に到着。ここは富士山ビュースポットのひとつ。この時期、靄のせいでもちろん富士山は見えない。写真の富士山の映像ははめ込んだもの。 この付近の道路は、以前逆の方向に走ったことがあるが、秋田県男鹿半島のような雰囲気を感じる。 ■沼津・西伊豆・湯ヶ島紀行8-戸田。 <pho1は出逢い岬から戸田湾、pho2は戸田から松崎まで42kmの標識、pho3は戸田湾を南から> ■8:00戸田湾を北側から見下ろす出逢い岬に到着。ここには駐車スペースと、綺麗なトイレもある。ここからあの奇異なる砂州の延びた戸田湾を撮影。 戸田はほとんど日本一好きな場所。 かつて戸田には高足蟹を食べに来たことがある。観光客並みに「お食事処かにや」で食べたのである。そして御浜の岬で、ベンチで昼寝なんぞをして半日のんびりと過ごした。 その時は、清水からフェリーで土肥にやって来て、戸田で日中を過ごし、夕刻、霧の西伊豆スカイラインを走り、湯ヶ島に夜、到着して道の駅で車中泊、翌日、伊豆スカイラインを走って東京に向かったのであった。 今回は戸田では、わずか停止しただけで通過。仙台から520 km。 ■沼津・西伊豆・湯ヶ島紀行9。小土肥から土肥へ。 <pho1は戸田小土肥間の道、pho2は小土肥の海、pho3は旅人岬の親子像> ■戸田から碧の丘を経て、土肥町に入る。 小土肥へ。すぐ先には旅人岬がある。 この岬もまた富士山の眺望の優れたポイントになっている。 海の色も美しい。 ■沼津・西伊豆・湯ヶ島紀行10。土肥1。町中。 <pho1は土肥の風景、pho2は国道136号線標識、pho3は土肥の町中> ■土肥の町に近づく。土肥からは修善寺への国道136号線が町の中心部を通って、ここで反転するようなかたちになる。8:30土肥通過。仙台から535km、 ■沼津・西伊豆・湯ヶ島紀行11。土肥2、恋人岬へ。 <pho1は土肥の宿、pho2は土肥港、pho3は恋人岬> ■清水港からのフェリーで土肥の港に着いたあと、北方向に走り始めると、松の木が並んでいるのが印象的である。 土肥から国道136号線をしばらく南下すると恋人岬に着く。ここは某誌のアンケートによれば「伊豆半島いきたいランキング」で第3位になっている。ここでもちょっと撮影。 ちなみに、「ランキング」は次の様。 1=城ヶ崎海岸、2=伊豆高原、3=恋人岬、4=浄蓮の滝、5=石廊碕灯台、6=下田海中水族館、7=旧天城トンネル、8=竹林の小径、9=松崎のなまこ壁、10=河津七滝。 ■沼津・西伊豆・湯ヶ島紀行12。松崎1。 <pho1は中江病院、pho2は中江病院の待合室、pho3は中江病院の前の日除け> ■かつての賀茂村宇久須を通過、新安良里トンネルを抜けると西伊豆町堂ヶ島。ここには大浜があり、見たことのあるような海岸部の岩山があった。ここでつぐみと不良グループのリーダーが会っていて「鼻血が出てるぜ」と言った喫茶店であり、恭一が松葉杖をついて歩いていた海岸もこの近くにあるらしい。 9:10になって、とうとう松崎に来た。出発してから562km。沼津駅前から4時間。 松崎町は2010年の人口は7550人。2000年の約8500人からずっと減少している。 この松崎は西伊豆の海岸部の町の中では例外的に広い平地のある町になっている。 その松崎の町内は以下のようになっている。 中心部は江奈と松崎。伊那上神社神社のあるあたりが宮内。 町のすぐ西側が伏倉。 西に向うと那賀、桜田、建久寺、南郷、峰輪、吉田、明伏。ここから山の手に入って、船田、門野。 道の駅のある大沢、県道115号線で池代。この道は一般車は通行禁止、一応大鍋越峠を経て湯ヶ野に向う。 一方、道の駅から下田方面に向う県道15号線を走ると小杉原がある。 国道136号を南に行くと、岩科に架かる松崎橋近くは道部、その先に岩地、石部、雲見と続く。 県道121号線で南東に走ると岩科、その奥が八木山で、この道は蛇石峠を越えて南伊豆町に下る。 ところで松崎町は三國連太郎氏の出身地という。ふ〜ん。 松崎、というより伊豆半島は、室町時代北条氏の支配下で、豊臣時代、徳川家康が領有した。三島には代官所があった。江戸時代にはずっと幕府領で、19世紀に入って旗本前田氏も支配に加わった。ナマコ壁は、耐火性、防湿性、防水性のある家を造ったようだ。 その後、伊豆は江戸・大坂航路の中継地、嵐の際の避難港、通常は漁業の町として発展した。 ■沼津・西伊豆・湯ヶ島紀行26。中伊豆へ。 <pho1はルート上の風景、pho2はまもなく佐ヶ野というところ、pho3は国道414号線が県道14号線と合流する下佐ヶ野交差点> ■道の駅花の三聖苑を出て、県道15号線を東へ。 娑婆羅峠を越えて、三叉路で国道414号線に入る。この道は下田街道といわれ、南は蓮台寺を経て下田へ、北は湯ヶ野を経て天城に至る。これは伊豆の踊り子の通った道である。それほど広い道幅ではない。 ■沼津・西伊豆・湯ヶ島紀行27。七滝ループ橋1。 <phoは七滝ループ橋1、2、3> ■県道14号線と合流した国道414号線は湯ヶ野を通過する。間もなく、有名な七滝ループ橋がある。その連続写真1、2、3。 ■沼津・西伊豆・湯ヶ島紀行28。七滝ループ橋2。 <phoは七滝ループ橋4、5、6> ■走行しながらの国道414号線七滝ループ橋の連続写真4、5、6。 ■沼津・西伊豆・湯ヶ島紀行29。七滝ループ橋3。 <pho1、2は七滝ループ橋7、8、そしてpho3は旧天城トンネルの道に入った途中> ■国道414号線七滝ループ橋の連続写真7、8。 そして旧天城トンネルへの坂道を上る。意外と長い。途中、南へ下って行く1人の年配男性と行き会う。 トンネル南側に到着。緑濃い中でトンネル付近を撮影。そうこうしている内、さきほど追い越した北に向う2人連れの婦人も到着した。 ■沼津・西伊豆・湯ヶ島紀行30。旧天城トンネル。 <pho1は旧天城トンネル南側入口、pho2は北側出口付近を中から、pho3は北側出口> ■少し雨模様の旧天城トンネル南側。向こうから車の来ないのを確認して、トンネルに入る。 北側に出て、そちらの写真を撮る終えると、突然土砂降りになる。 2人連れの婦人が、こちらにやって来るので、しばし待ってやる。荷物でいっぱいの車内の後部座席を少しだけ片付けた。 旧天城峠への道を歩くのが目的であろうから、余計なことではあったが、あまりにも酷い雨なので、 「窮屈だけど、よろしければ乗っていきますか?」 と声をかける。こういうお誘いは得意で旅先ではいつもやってる。 神奈川から来て、当日は湯ヶ島に泊まるという2人を乗せて、当面の目的地であるという浄蓮の滝駐車場まで一旦走る。 ■沼津・西伊豆・湯ヶ島紀行31。道の駅天城越え。 <pho1は井上靖旧邸外観、pho2は井上靖旧邸裏手、pho3は井上靖旧邸室内> ■浄蓮の滝から引き返し、13:05道の駅天城越え到着621km。 敷地内にある昭和の森会館の伊豆近代文学博物館(300円)の展示物を見る。最初、「撮影禁止」の貼り紙を見なかったから、資料をガンガン撮影した。一旦、この注意書きを見るとやはり気になるものだ。というと資料もブログなどに載せることは憚られるのであろうな。 会館の裏手に移築された井上靖旧邸をようやく見学。この場所にあったことも、伊豆は3回目なのに、今回初めて知ったのである。どういうこと? 井上靖旧邸のすぐそばにも山葵田がある。 ■沼津・西伊豆・湯ヶ島紀行32。伊豆紀行のエピローグ。 ■道の駅天城越えから、北に走り、14:00温泉会館駐車場に到着627 km。 大雨でもあり、今回は井上靖の墓所には詣でない。 疲れていたので、温泉会館駐車場で17:00まで仮眠。 降り止まぬ大雨の中、修善寺道路(200円)経由、18:00沼津、660 km。 18:30沼津松長店のセイユーで食べ物購入、661 km。 その後は、 19:10ガソリン残量がほとんど空になっていたので、イオンショッピングで給油15.50立、2000円、667 km、 19:45清水IC、700 km、東名道に入る。 20:30牧之原SA、747 km、大雨。車で睡眠。翌日には、東名、名神、山陽道を走って九州へ。 |
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いろいろな話題 | |
■井上靖・死の直前のエピソード | ■
■最近、あるmixiサイトで、井上靖氏の死の直前のエピソードが紹介されていた。「井上靖氏は91年に83歳で急性肺炎のため死去したが、亡くなる直前、病院のベッドに付きっきりで看病していた奥さんが水分を上手に採れなくなっていた井上氏の口の中に氷のかけらを入れたところ、井上氏は“カクッ”と首を落としたのだそうだ。 その様子を見た奥さんが慌てたところ、井上氏は 『冗談だよ』 と言ったそうである」それで、 「死の直前であってもこういうイタズラができるって……。 オレも死ぬ前に、絶対に似たようなことをするぞ」という引用氏の言葉が続いていた。他の人もこの挿話についての各人の感想を真面目に述べていて好感が持てた。尤も、確か奥方は幼なじみではなかったろうか。こういう場合にそのような背景があると、より理解できそうである。この類のエピソードをぜひお聞きしたいですね。
例えば、土蔵におぬい婆さんと暮していた時に、寝る前か朝起きた時、いずれ床の中の靖の口にいつも飴玉を放り込んでくれた。それは子供にとっては嬉しいことであったが、後に、虫歯で苦労したとか、岩手県北上市にある日本現代詩歌記念館の名誉館長をしていてある講演したとか、あるいは、ある時、旅の途上にあった石坂洋次郎氏の車に湯ヶ島に帰る途中、便乗したとか、のこと。 特に便乗の話では、ある年の正月、修善寺で画家・映画人・文学者の集まりでゴルフをした後、天城峠を越えて下田に向う予定であった石坂洋次郎氏が車を手配したところ、井上靖氏が便乗を願い出たということなのであった。その際、井上氏が湯ヶ島に立ち寄って自分の母親と妹に会ってもらうことを申し出たというのである。石坂氏は「親しい間柄でもない私におかあさんや妹さんを引合わせる。井上靖さんのそのこだわらない、温かい信頼感のようなものが、天城山を越えて南伊豆の今井荘に着くまで、私の胸にうすく脈うっていた」という風に文学者の表現で触れている。「私は根っからの田舎者で酒は一滴も飲めず、交際している文学者は一人もおらなかった」と述懐する石坂氏にとってそれは印象的なできごとだったというのである(集英社「日本文学全集83井上靖」1972.4月報より)。 ■それにしても、お二人とも、小生大好きな作家であり、この時の車中は豪華な顔合わせであるといわざるをえない。 井上靖氏はもとより、石坂洋次郎氏の弘前時代の「草を刈る娘」の後の、横手時代の「山と川のある町」「山のかなたに」は甘いといわれようが、小生若い時代に好んで読んだのである。石坂洋次郎の代表作は「若い人」、「陽のあたる坂道」といわれているが、小生が「山のかなたに」が一番好きであった。 ちなみに秋田県横手市は「山と川のある町」として売り出しているが、この山は「古い因襲」、川は「若い胎動」を象徴していて、それがあの戦後の時期にふさわしい「時代の変化」のテーマであることは、この作品を読んだ人は容易に理解する。 ■ちょっと訂正が、最後、石坂洋次郎氏の話になったが、他の人から見た井上靖氏の描写は、さらに魅力を増すという挿話のご紹介でした。 ■上記5に「ある時、湯ヶ島に帰る途中、旅の途上にあった石坂洋次郎氏を同じ方向だからと便乗させた」と書いた。自宅でちょっと調べたがこれは逆であった。つまり、 |
■井上靖 墓誌「幸せな一生」 |
「明治四十年五月六日、陸軍軍医井上隼雄の長男として旭川に生まれ、湯ヶ島に育つ。第四高等学校、京都帝国大学哲学科に学び、毎日新聞記者を経て作家生活に入る。詩集「北国」「星蘭干」小説「猟銃」「しろばんば」「風濤」「孔子」他多数を発表。シルクロードに惹かれ、日中両国の文化交流に尽す。文化勲章、勲一等旭日大綬賞を受く。柔道六段、お酒大好き、心宏く温かき人 多忙な中にも幸せな一生を終える」
平成三年十一月九日 妻ふみ是を記す |
■「井上靖における少年」福田宏年 |
■井上靖の三部作時代に関する評論「井上靖における少年」です。「國文学」(学灯社)1975年3月号が「特集井上靖」に掲載されているものです。ちょっと長いですが、ご紹介します。<学灯社様・福田宏年様、ここで掲載させて戴きました。ご免なさいませ>
■ タイトル「井上靖における少年」 福田宏年 |
■井上靖書斎、旭川に移築 |
■2010.4.16の報道によると、「井上靖書斎、旭川に移築」。 東京都世田谷区の自宅の書斎などが、旭川市の井上靖記念館へ寄贈されることになって、2011年度に蔵書などとともに公開の予定とのこと。 |
■沼津・三津の話 |
■沼津・三津の話 沼津市の内浦三津には井上靖の母・八重のすぐ下の妹・きくえが養女になっていた松本家がある。きくえがこの家の養女になったのは、八重やきくえの母たつの姉がここに嫁していたためである。つまり姪が伯母さん夫婦の子どもになったということで、このような養子縁組は昔はよくあった。 「夏草冬濤」の終わりで洪作たちは伊豆行きの船で西伊豆の土肥へ向かう。その時、狩野川の御成橋から船に乗り、江浦を経て、最初に降り立ち、一泊したのは重寺であった。 沼津市内からは国道414号線を南下して、口野放水路交差点の突き当りを右折して県道17号線に入り、ほどなくして到着する重寺までは市街地からは今では車だとおよそ30分ほどの距離か。三津はこの重寺の北に隣接する。 1955年に沼津市に編入される前に内浦村は、明治期に君沢郡(のち田方郡)三津村、長浜村、重寺村、小海村、重須村が合併して発足した。しかし三津はなぜ「みつ」でなくて「みと」なのだろうか?そして名前からすれば、3つの入江か港が存在する地であろう。地図をみると3箇所の陸の窪みが見えなくもないが「沼津市史」にその地名由来の記述はあるのだろうか。(写真1は三津の街並み) この三津には、洪作少年は長岡から現在の県道130号線で徒歩で三津の町に入った。その手前、今は新三津坂トンネルが通っているが当時は旧道の三津坂隧道を抜ける峠越えの道だった。トンネルを過ぎてこの道を下る途中の場所で三津の街並みと内浦湾の光景が見えてくる。 常々山の景色しか見ていない、いろいろな場所を訪れたことの少ない少年にとって「今まで彼が知っている場所では、ここが一番美しいところではないかと思った。あるいは日本で一番美しいところかもしれない」」と思わせたのは当然だったかもしれない。 この「日本で一番美しいところかもしれない-井上靖」というフレーズはイザベラバードが「日本奥地紀行」で山形県置賜の地を評して「東洋のアルカディア」と言ったように、宿泊施設や伊豆三津シーパラダイス、淡島などのあるこの地の絶好の観光用キャッチフレーズになる。 井上靖はこの景色だけではなくて、松本家(「しろばんば」では松村家)に歓迎されたことや、すこぶる快適な夏休みを過ごしたことで上記のような感想を持ったに違いない。また井上靖は「学生時代、ひと夏をここで過ごしたい」と言っていたという。 松本家は森に囲まれた氏神の横の道を登った寺への坂の途中にある(写真2-学習研究社「現代日本文学アルバム15井上靖」より) ところで、井上靖も通った旧道の三津坂隧道は現在通行不能だが、地元の人の力でトンネルの大改修できないだろうものか。ウェブ上で幾人の人が探索しているこの隧道は歴史のあるものである。路面はなんとかなったとしても、少し費用をかけて天井の改修をしないと当局の通行許可を取るのは難しいだろうが。
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■妙覚寺の雪ちゃん、のこと |
■妙覚寺の雪ちゃんです。僕が長い間、想像していたのはもっと現代的な感じの女性でしたが、昔っぽい感じの人でした。写真は「現代日本文学アルバム15 井上靖」(学習研究社1973)からの引用です。
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■明日くる人 |
■井上靖の小説「明日くる人」の中に、戸田海岸で主人公らが過ごす情景が出てきますね。主人公の一人がカジカを採取するのです。戸田へアクセスする道路事情なども現在とは違っていますが、景色だけは同じようです。土肥より戸田派の僕としては嬉しい内容でした。 |
■「しろばんば・夏草冬濤・北の海」 |
■ご存じの方もいらっしゃるでしょうが、「しろばんば・夏草冬濤・北の海」のサイトが一般WEB上にあります。http://www.eonet.ne.jp/~doky/。少しこみっとしている傾向もあり、また最近ちょっと元気がない様子ですが、湯ヶ島の地図・写真、沼津の地図など大変参考になります。興味のある方はアクセスしてみて下さい。
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[2]2006年05月24日 07:07
私の井上先生への入り口は、しろばんばに始まるこの世界でした。
教科書で本の一部を知り「もっと読みたい」と次々に読み
何度も読み返しました。
そのあと蒼き狼や額田王へと私の中で広がって行きました。
まだ行ったことのない伊豆ですが
情景はまざまざと頭の中に浮かびます。
心と風景の細やかな描写がとても好きです。
ななちゅわん 事実は小説より奇なりではありませんが、自伝(的)小説ほど面白いと思わせるものはない気がします。『しろばんば』久しぶりに読み返したくなりました。幼少期の頃の話であればあるほど、強い郷愁とともに主人公に投影できて、楽しめます。
バラモン 井上靖さんの、幼少から青春時代までの自伝記(三部作)。何度読んでも、何度でも読み返したくなりますね。
場所こそ土肥ではありませんが、毎年長崎港から五島に向かう船上で、空と海に挟まれた洪作になります(笑)
五島に降り立つ時、木部君の詩が頭を過り、いつも新鮮な気持ちになります。
「長く長く、汽笛は鳴りて、
いざ、土肥と、まなこ上げし空に白き雲あり」
いいですね。
井上靖さんの青春は、詩集「星欄干」の中の<わが青春>にも描かれていますね。こちらも好きです。
<わが青春>
青春なんていうものではなかった。俺はいつも、一人で歩いていた。金もなければ、友達もなく、一度、娘なるものと言葉を交じわせてみたいと思っていたが、その機会には恵まれなかった。いつも一人で歩いていた。
街中を歩いたり、川縁りの道を歩いたり、裏町を歩いたりしていた。夕暮れがやって来ても、別段、帰らねばならぬところもなかった。いつも決まったように、薄暮れの坂道を歩き、燈火のはいった町へ入って行った。
俺は今も、あのように歩きたいと思う。凡そ青春なんてものとはほど遠かった。若し何か特別なものがあったとすれば、それは、あのふしぎな、俺をのっけて、ゆっくりと動いていたベルト・コンベアだ。あの初めもなく、終わりもなく、張り廻らされていた動くベルトだ。
そのベルトに乗って、俺は毎日、あてどなく運ばれていたのだ。希望もなく、と言って、絶望なんてしゃれたものもなく、俺は他に何もすることがないので、毎日のように、そのベルトに乗っかって、動いていたのだ。
と言って、何ひとつ取り柄がなかったというわけではない。完璧な夕暮れと、完璧な夜が、あそこにはあったと思う。まるで待ち伏せでもしているように夕暮れが俺を迎えてくれ、その向こうに夜が待っていた。
■他のトピにあるとは思いますが、この三部作の世界においての、井上靖氏の墓所関係の写真です。 左は墓所全景、中は墓石アップ、右は、蔵跡地にある「しろばんば」の石碑です。 ■『読んで、行きたい名作のふるさと』(教育出版・清水節治著、2005)という書籍の内容の一部をwebにアップしています。 目次を見ると「しろばんば」は収録されていません。 けれど、おそらく収録できなかったであろう「しろばんば」関係の写真をホームページ・カメラ紀行「名作のふるさと」 http://www.geocities.jp/seppa06/0406rohan/sima1.htmで見ることができます。とても懐かしい風景です。 web上にこういう形で紹介するという方法=活字とデジタルのコラボもいいですね。 ■だいぶん前の書き込みにコメント。 >24 僕も、古本屋へ行くと、井上靖の本を探します。 中学生の時、国語の教科書に「しろばんば」か「あすなろ物語」の文章があったのですね。 >25 沼津の町に泊まりましたが、妙覚寺も、千本松原も行ってません。一度くらいはいけるかな。 ■井上靖の言葉 「子どものとき、狩野川はとても大きく見えました」 ■ 「しろばんば」からの三部作を中学時代に読みました。 20年以上前です。 手元に本がないのですけど、「夏草冬濤」か「北の海」で 「イチノセ ヨウゾウ」 っていう同級生か後輩が出てきませんでしたか? その子の家に行くと、すごく分厚い羊羹が出てきて、 洪作に比べ、年賀状を出す相手がたくさんいるらしいという描写でした。 その少年と知り合う前に、電車で乗り合わせたときに、 母親が彼を「ジュンちゃん」と呼んでいたと思うんですね。 その後、だいぶんたってから、あの電車で乗り合わせた少年ということで、 「ヨウゾウ」が出てきたと思うんですが、 「ジュンちゃんじゃなくて、ヨウちゃんと違うのかい?」と思いました。 この齟齬について、問い合わせたい気持ちでいっぱいでした。 また本を読み返して、確認したいです。 ■一ノ瀬洋三母子は、「しろばんば」で正月に、洪作が、湯が島の伊豆楼に訪ねて行った人物です。三島に在住です。 中学時代に三部作読みました。今も時々、読み返してます。 夏草冬涛の後半、藤尾君達とのやり取りは、何度読んでも楽しいです。 私が難関女子校に入学出来たのは、井上靖先生のおかげです。 ■「あすなろ物語]より。 「加島浜子はどうしている?」 ■ りっぷ _r.i.p._leap 夏草冬波は、NHKの夕方の少年ドラマ枠で、やってましたね。 1972年ころかな。 川に飛び込むシーンを覚えています。 りっぷ _r.i.p._leap >>36 これって土蔵の跡でしたっけ。 10年以上前に訪れた時は、中に入れなかった記憶あります。 おぬい婆さんの葬式の列を 風邪で寝込んでいたこうちゃが見送ったのも ここの2階の窓辺からなんでしょうね。 ■礼9624 36の写真は、道の駅「天城越え」の中にある昭和の森会館・伊豆近代文学博物館に付設されている井上靖旧邸です。入場料300円ですが、展示室から外にでたところにあって間近に見れます。これはもちろん本来のばしょから移築されたものです。土蔵はこの家の裏手・東側にありました。 ご存じとも思いますが、「野良犬少年」のサイトhttp://www1.ocn.ne.jp/~nora2010/に詳しい地図などがあり、参考になります。 ところで、<2012.4.19のニュースより> 映画「わが母の記」(監督原田真人、井上靖の自伝的小説)が2012年4月28日公開される。役所広司(56)・樹木希林(69)が出 ■伯母のまちの写真です。 まちは八重の姉。八重らは9人きょうだい。 「しろばんば」でさき子のモデルになっています。 当時の女性の雰囲気があります。 (「現代日本文学アルバム15井上靖」、学習研究社1973より) ■映画「わが母の記」が上映されていても、このコミが活性化しないというのは、ミクシィの現状を物語っているという感じかな。 写真は、靖と母親。まぁ、気の強い八重さんも昔の人ではあったということでしょうか。 (「現代日本文学アルバム15井上靖」、学習研究社1973より) ■井上家の先祖は、四国地方から流れてきた落人です。 ■19にある妙覚寺の雪ちゃんの写真は、井上靖らと記念撮影した時のものです。 右側に井上靖氏も写っています(旺文社文庫「しろばんば」解説1969より)。 |
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