碓田のぼる


小林多喜二の短歌観と佐々木妙二

(1)

小樽商業時代の小林多喜二が、短歌に熱を入れ、 石川啄木を愛好したことは、よく知られています。
多喜二が、田口タキに宛てた1927年3月15日付の手紙は、その一端をうかがわせています。
 「啄木の歌にはいゝものは非常にいゝが、とんでもなく  変なものもある。それで、僕が一番すうと  読んでみて、これならばと思われるものを選んで  みた。歌の肩に印をつけてあるのがそうだ。印の  した歌位は暗記していなければならない。」
多喜二は一緒に送った『啄木歌集』に印をつけ、 そう書いたのでした。
戦前、啄木研究家の川並秀雄が、苦労して田口タキを探し出し、多喜二が印をつけた歌を聞き出し、 多喜二が殺されてから5年後の1938年に『啄木研究』1月号(第5巻・第1号。大阪・啄木研究会発行)に、「多喜二と啄木」と題し、甲東牧人のペンネームで発表しました。『一握の砂』から49首、『悲しき玩具』から15首、合計64首が選ばれ ており、その全歌を記していました。
ところで、1910年(明治43年)12月1日刊行の『一握の砂』には、551首が収録されてい ますが、その圧倒的多数の458首(83.1%)は、 実に明治43年作のものです。この年、日本近代史の重大事件である「大逆事件」と「韓国併合」が起こっています。この大事件に遭遇した啄木が、鋭い感性と自覚によって、自らの立ち位置をこの年に 据えたことは明らかです。
多喜二は、啄木の意図をピッタリ射当てたように、『一握の砂』から選んだ49首は、85.7%が明治43年作のものでした。これは驚くべきことです。なぜならば、『一握の砂』の全作品の作歌年代が明らかとなるのは、戦後の啄木研究によってだったからです。
   

(2)

小林多喜二は1903年(明治36年)の10月13日生まれで、佐々木妙二は、同じく1903年の3月15日生まれ。2人は同年生まれです。妙二の方が7ヵ月ほど先に生まれています。しかし、小樽高商では、妙二は多喜二の1年後輩です。これは佐々木妙二が大館中学卒業後、大館男子小学校の代用教員をしたり、國學院に入学しながら肌にあわずに退学などしていた1年間があって、小樽高商への入学が、多喜二の1年あと、ということになったからです。
佐々木妙二は、自分のことを語ることは少なかったと思います。それゆえ1972年の『新日本歌人』9月号に書いた「短歌的身上話」という6頁ほどのエッセイは、貴重な内容を含んだものです。その中に、「小樽高商の秋田県人会に(多喜二も)出ていたのである。その県人会の新入生歓迎会が市内のあまり上等でない料亭で開かれ、そこで多喜二にあった。」という一節があります。そのすぐあとに続けて、「この歓迎会の折に、多喜二から誘われて私も編集部にはいったのである。」と書いています。そうだとすると、この新入生歓迎会は、佐々木妙二の入学した1922年の話ではなく、翌23年の話ということになります。なぜなら、小樽高商校友会誌の編集部は、2年生2人、3年生2人というきまりだったからです。
多喜二の母セキの生まれは大館の釈迦内大通りであり、佐々木妙二の父祖伝来の地も同じ釈迦内長面であって見れば、秋田県人会では、同県生まれ、同年生まれのよしみだけではない、親近感が2人にはあったように思います。
佐々木妙二の前掲エッセイの中に、妙二が秋田師範の教師をしていた頃、前ぶれもなく多喜二が訪れて来たことについて次のように書いています。このことは、私のこのエッセイの中心問題にかかわりますので、少し長くなりますが引用します。

「この頃、突然に小林多喜二が三浦強太と一緒に秋田の私に立ち寄った。なにかの用事で秋田市に来たついでに立ち寄ったのだろうが、小樽高商以来の再会であった。(すでに40年前のことだがこの頃のことを三浦強太に聞きたいものだと思っている。)そのとき、どんな話をしたのかも覚えていないが『君の歌はまだ駄目だな』と言われたが、それがどういう意味だったのか、いろいろと考えられる。これが多喜二に会った最後である。」

田中収は、『新日本歌人」1972年3月号の「佐々木妙二研究(1)」で、「多喜二は、後に、秋田師範の教員をしていた佐々木妙二を、昭和5年頃、『不在地主』を書いている時に、訪ねてきたことがあるという。」と書いていますが、ここには叙述の混乱があります。もし「昭和5年頃」を動かないものとすれば、「不在地主」執筆中というのは間違いです。 また、「不在地主」を動かないものとすると、その時は「昭和4年」でなければなりません。しかし、「不在地主」執筆の時期の多喜二には日記はなく、書簡などを読むと多忙をきわめ、秋田などにくる必然性はないように考えられます。『大館市史』第3巻は 「『不在地主』の執筆中というから4年(昭和)夏から秋にかけてか」と書いています(306頁)。どんな資料からのものか不明ですが、この部分は不正確です。田中収の「不在地主」を書いている時という推測は、誰かからの伝聞か、出所は何も明示されていないので、執筆者の誤った想像だった可能性もあります。
佐々木妙二が前掲文章の中で、「三浦強太に聞きたいものだ」と言っている、その三浦強太は、多喜二の上京は「1930年の春」として、『多喜二と百合子』(第7巻第4号。1959年4月号・岩崎書店)に、「小林多喜二のこと」と題した次のような文章を書いています。これも資料的に大事と思われますので、少し長いのですが、書き出し部分を引用します。

「小林多喜二と私は短い付合いであった。小樽商業、小樽高商とも私は小林の4年後輩である。小林は武田置や斉藤次郎等と一緒の時は全く私を少年扱いにしかしなかった。
1930年の春、秋田の土崎にいた私が札幌からの帰途、上京する小林と南小樽駅で待合わせ秋田まで同行した。その車中で、太目の書きやすそうな万年筆を見せて『或る女性から貰ったんだ。』 など、初めて田口たき子さんの話を聞いたに過ぎない。」

三浦強太のこの一文から、多喜二が佐々木妙二を訪れたのは1930年(昭和5年)の春ということがはっきりとします。多喜二の最後の上京は、よく知られているように、1930年3月末ですから、 多喜二が妙二を訪れたのは、1930年3月末とみるのが正しいと思います。
さきに引用した三浦強太の一文「小林多喜二のこと」は、前述のところで終わり、あとは別の話になっていますので、佐々木妙二を訪れたことなど、全くふれていません。妙二が「三浦強太に聞きたいものだ」と言っても、三浦強太には思い出せなかったかも知れません。
ただ、「不在地主」は一1929年の『中央公論』 11月号には発表され、翌年2月の田口タキへの手紙で「『不在地主』は9000冊出ることになっています」 と知らせていることから、3月末の時点で、多喜二と後輩の佐々木妙二との間で、『不在地主』が話題になったかも知れない、と想像することは出来るように思います。
佐々木妙二は、多喜二と出会ったことを述べた、さきに引用した文章の直前に、当時、大熊信行の『まるめら』に発表した歌を7首あげています。その中から3首ひきます。
 あぶないことをずばり言いきって そのあとは大声で笑ってにごしてしまう
 次に学校から追われる俺を 誰も 口にだけは出さずにいる
 危険をまともに感じつつ 今は やっておかねばならぬ仕事に 魂をぶちこむ
多喜二が「君の歌はまだ駄目だな」と言ったのは、 妙二から『まるめら』の最新号を見せられて、そこにのった妙二の歌を見ての感想と考えるのが自然のなりゆきのように、私は想像したりしています。
   

(3)

『まるめら』第11巻第4号(1937年)は「佐々木妙二歌集」となっています。この中で、佐々木妙二の研究では誰もとり上げてはいないけれども、すぐれた口語体の長歌「どぶろく」があります。「どぶろく といふは  濁り酒のこと 秋田は 日本一   どぶろく つくる くに」という序歌がついています。
「むらはずれの だんごやまの ふもと、みちばたから ちょこりはづれたきりかぶねっこに、   おら みつけた かれはっぱ もっくり かぶって つちのなかさ うんづくまってる  どぶろくの かめ、でっかい かめだ、……」
全体が23行の歌です。この作品のリズムは、 語と語が引き合う緊張感が連続しながら、口語の美しさをつかみ出しており、私はなかなかすぐれたも のだと思います。官有林の山中での密造が見つかれ ば、半年寝て暮らせるほどの罰金をとられる。だが 罰金を恐れてどぶろくが呑めないなら、「――おらもう しんだがましだ――」と云うわけです。土俗的で、飄逸とした内容です。しかし、この長歌には、いちばん下積みの小作人の哀しみと抵抗の思いが流れています。
佐々木妙二の前述のエッセイ「短歌的身上話」の中に、妙二の父が、山桜の幹の皮をいろいろの器物に貼りつける、樺細工の職人時代の話があります。 父は時に「国有の山林にはいって禁制の桜の幹をはぎとるので、役人に追いかけられた」といった話も書かれています。佐々木妙二の口語長歌「どぶろく」 は、樺細工の職人であった父の姿を重ね合わせていたのではないかと思います。1992年の『民主文学』1月号に、佐々木妙二は短歌「上級生・小林多喜二」10首を発表しています。
 「駄目なのは短歌ではない、君の生きざま」と上級生多喜二は容赦しなかった
 九十歳の私に上級生多喜二が居る「君の生きざまはそれでいいのか」
多喜二が妙二に「まだ駄目だな」と云ったのは、人間の生き方の甘さが、表現の発展を妨げて居ると云いたかったのかも知れません。妙二は長い時間をかけながら、若い多喜二に「まだ駄目」と言われた意味を考え続けたのでした。
手塚英孝編の写真集『小林多喜二―文学とその生涯』(1977年)の中に、小樽高商校友会編集部の写真があります。顧問の糸魚川教授をかこむように、前列に小林多喜二と高浜年尾がおり、後列多喜二の後ろに佐々木妙二がいて、その隣に安野安平が写っています。この写真は、小林多喜二と佐々木妙二を考えるとき、きわめて象徴的な感じがして来ま す。佐々木妙二は、小林多喜二の背中を見ながら、多喜二の「容赦」のない「生きざま」への叱咤を、生涯かけて聞き続けていった人でした。
佐々木妙二の長男で、『大館市史』の監修者でもあった、佐々木潤之介(当時早稲田大学教授)は、『新日本歌人』1997年10月の「佐々木妙二追悼」号の中で、「父が、文学上のことのみならず、あらゆる点で、意識し影響を受けたのが小林多喜二であっ た」と回想し、「父は常に自分の位置を多喜二を基準にして測定していたように思えます。」と語っていることは、きわめて重要です。
佐々木妙二は、1997年2月14日、93歳で亡くなりました。佐々木妙二の長い生涯において、小林多喜二が、いかにゆるがない導きの星であったのか、について、佐々木潤之介は明らかにしたので した。
このことは、佐々木妙二にとってだけでなく、社会の進歩と発展を切望しつつ、たたかい生きるすべ ての人びとにとっても、小林多喜二の思想と文学は、 私たちの立ち位置をさし示す北極星であることを、 あらためて明らかにするものです。


うすだのぼる:歌人。第26回、44回秋田県多喜二祭で講演。記録第3集『小林多喜二・生地からの発信』に「小林多喜二の短歌観と佐々木妙二」、短歌「雪熱し-回想の墓前祭」を執筆
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