佐々木米三郎


孤高の詩人・佐々木米三郎氏のこと

■秋田県に佐々木米三郎という詩人がいた。県北の藤里町に1931年に生まれ、1998年11月8日、不遇の内に世を去った。彼は、以下の詩集を残した。

1956詩集「一縷の糸」(私家版)
1957詩集『感情』(私家版)
1958『假縫』(北国発行所)
1959詩集『翌年』(北国発行所)
1960詩集『忌中の水中花』(私家版)
1961詩集『花神輿』(私家版)
1975詩集『印刷船』(詩の星座同人舎)

■その彼の詩に「首途の盃かどでのさかづき」というのがあるので紹介したい。

「首途の盃」

城址のうら山
きょうが見おさめか、と思ったらあそこの石陰に
ワキ水があったなあ、と思ってなあ

いつかの日は
フキのはのコップで咽喉をうるおした、この樹下だよ
きょうは木の椀が
水受けの函に浮いていた
朱塗りのはげたわんのまるみは
妙になつかしかったな
ここからはありありと見える、花の山
花の冠の下
浮かれるばかりの盃を
なんで羨むことがあろう
差しつ差されつの盃が
なんで私に餞となろう

それよりも ご覧
木のわんに水をすくい
静かに口へ注ごうとして、ふと目が正気に返ったな
水のおもてに
空の青さが映っていたな

■この詩は、かつて彼が一時住んでいた横手市の中心部にある横手城で詠ったもので、県内の地方紙「秋田魁新報」のある年の新年詩壇で一席に選ばれている。
彼は、生涯、孤高の精神に生き、生業的な印刷業に身を置いていた。死の前年の1997年5月、秋田市川元小川町の十和田壮アパート製材工場跡長屋に故あってRという女性と居住していた。性格が几帳面で、ある年の「秋田県詩人年鑑」に数年にわたる生活費の数字を書き連ねたものを発表した。当時の審査員は詩として認めることに嫌悪感を表明していたが、小生、これこそ詩といえるものであると歓迎した。
さて表記の「首途の盃」であるが、彼の、世に同調することを拒否する姿勢を如実に表現した代表作である。もちろん、できることなら豊かな生活を送り、皆と一緒に宴席に座して酒を酌み交わすということも、彼にとってひとつの選択肢であったが、それができない不遇の位置に自らを置かざるをえない状況もあったのだ。「なんで羨むことがあろう」という言葉を詩文に連ねなければならない心情には、羨望感が含まれていよう。本当に、羨みがなければ、全くその存在を無視できたはずであろうから。宴会の人々を介さなくとも、この詩は成立していたに違いない。
「斜に構える」という生き方に執着しながら、孤高に生きる彼の基本的な感性は「フキのはのコップ」「わんのまるみ」「空の青さ」などの言葉、語りかけるような口調にみてとれる。歯の浮くような美文を連ねる、嘔吐感を催す文章が横行する中で、この首途の盃」は、人生の小生にとって、「秋が来た カチリ 石英の音」と井上靖が紹介した三行詩、『あすなろ物語』で「寒月ガカカレバ キミヲシヌブカナ 愛鷹山ノフモトニ住マウ」と詠った短歌などとともに、心に残る爽やかな短詩系のひとつになっている。
なお、小生は、かつて彼の同僚であった。会社から雄物川を隔てた新屋比内町の市営住宅に住み、冬の日も自転車で通勤していた姿、また毎日昼食を皆と共にせず、一人で活字棚の谷間で静かに食べていた、そんな姿が思い出される。生涯独身を貫き、一人の女性詩人に尽くした事情を社内の同年輩の人は知っていたようだが、私は最後まで詳しくは訊かなかった。この詩碑が横手城内に建立されないかと願っているが、実現する可能性は大きくはない。

ささきよねざぶろう:詩人。1931年・山本郡藤里町生まれ。1998.11.8歿。本名=登喜夫(米三郎は父親の名前)。「七人の会」メンバー。秋田文化出版社。<2006年06月25日礼9624記>
inserted by FC2 system inserted by FC2 system