尾西康充


「不在地主」―労農の連帯で争議に勝った

異なる立場にある人びとが連帯してたたかう―。 小説「不在地主」は、労働者と農民とが提携して勝 利を収めた磯野小作争議が作品のモデルになっている。
  「目覚めているのだ」
彼らがたたかった磯野進という人物は、富良野市北大沼に農場を所有すると共に、小樽で海陸産物商 を営む〈不在地主〉であった。多喜二の言葉を使えば「上半身が地主で、下半身が資本家」という怪物であった。
  1927年3月14曰午後6時、小樽市色内の本 願寺説教所で糾弾演説会が開かれた。小樽合同労組と日農道連とが共催した。当時、北海道拓殖銀行小樽支店に勤務していた多喜二も演説会に出かけたが、 満員で入ることができなかった。「何十人」もの「武 装した巡査」によって入場を拒否された「何百人」もの人びとが会場を取り巻き、「官憲とブルジョアの横暴」に非難の声をあげていた。
  多喜二は「一労働者のようなものゝ口から『搾取』 などゝいう言葉が常識のように出ていた」のを目の当たりにし、演説会当夜の日記に「時代が進んだことを思った。皆目覚めているのだ」と書き残している。 このときの「興奮」が「不在地主」執筆のモチーフになっている。
「不在地主」の作品としての真価は、労農提携が成 功した小作争議のてんまつが描かれただけではなく、帝国日本による国家的詐欺を告発したところにある。   多喜二は争議前史として、北海道庁と契約して移 住した一家が餓死するなど、「移民百姓」が没落した事実を明らかにした。〈内国植民地〉北海道への国策移民は、満州事変以後には〈海外植民地〉へと転じ、 膨大な数の犠牲者を出すことになった。
 作品のエピローグに当たる部分で、主人公の健は、争議が終わっていったん農場に戻るが、「固い決心」 をして旭川の農民組合で働くようになる。人生を賭して農民解放運動に取り組もうとする健の成長が描 かれる。
実際の磯野農場では、小作人側に有利な条件で調 停案がまとめられたものの、依然として生活は厳しく、農場を去る者が続出した。争議をたたかったリー ダーの大半が退場してしまうと、争議の原因は地主 ではなく農場管理人にあったのだと考える者が増え たという。
  大衆心理刷新も課題
身近な権威には反発を感じることがあっても、上位の権威には媚て保護されようとするという《父 権的温情主義》、これこそ封建的な支配構造が日本社会に温存されてきた一大理由であった。多喜二は国家権力とたたかうと同時に、権威に依存しようとする大衆の心理を刷新しなければならなかった。
 多喜二は、小説で拓銀を名指しにしたという理由で、29年11月16日に依願解職される。「不在地主」には、「拓殖銀行」が「関係大地主」の「土功組合」に「特別低利」で貸し付けをおこなう一方、「監獄部屋」の賃金が「二重にも、三重にも」ピンはね されている実態が暴露されていた。
 銀行を追われた多喜二は、翌30年3月に上京し、日本プロレタリア作家同盟本部で活動をはじめる。人びとの連帯を願った多喜二の胸底には、あのとき の「興奮」がいつまでも残っていた。
おにしひろみつ:三重大学教授。記録第3集『小林多喜二・生地からの発信』に「集団が生み出す暴力」、「『不在地主』-労農の連帯で争議に勝った」を執筆。
inserted by FC2 system inserted by FC2 system