最上健造


石坂洋次郎は多喜二をどうみていたか

昨年(2012年)3月、秋田県多喜二祭の50周年を記念して、小林多喜二展が開かれた。全国から369点の貴重な展示資料がよせられ、規模の上 でも質の上でも画期的な展示会となった。
そのなかの一つに小樽商科大学の図書館から提供された、石坂洋次郎の「小林多喜二氏の『東倶知安行』を読む」という批評文があった。脱稿は1930(昭和5)年12月9日となっている。『つばさ』という雑誌(?)に掲載されたものだ。多喜二生存中の批評であり、貴重である。
石坂洋次郎は小林多喜二をどうみていたか、その 後の文章も含めて一考してみたい。
    *

「東倶知安行」がピカ一。だが……

  洋次郎は冒頭「自分が今関心をもつものは、プロレタリア文学と、新興芸術派の少数についてである」、「『改造』小林多喜二の『東倶知安行』がピカ一だ」 と書き出している(※新興芸術派は反プロレタリア文学の集団)。
続けて登場人物一人ひとりをあげ、「マツカリ岳から吹き下ろす猛烈な吹雪が、これ等の人物を白い息窒るやうな情熱で押し包む」と多喜二の描写力を讃えている。
さらに「作者は、正直に、全幅的に自己を対象に投げつけている。例えば、篇中主人公が自分のプチブル性を清算し得ない悩みを叙べたあたりに私は胸を打たれた」と、主人公つまり多喜二の謙虚で実直な自己検討に感銘を受け、「まことに、現在のプロレタリア文学にあっては、この種の自己闘争記録は寥々暁天の星である」と述べている。裏を返せば現在のプロレタリア文学はよろしくないと言っているのであるが。
洋次郎が関心をもつプロレタリア文学とはどんなものか。洋次郎のプロレタリア文学観はかなり批判的である。この書評にもかなり批判的見解を述べている。初期プロレタリア文学は「漫罵、毒舌、怒号、 叫喚、暴露、公式等々の氾濫からなる」とバッサリである。
  さらに「資本家なり宗教家なりを作品に登場させる場合、何故意識的に大衆を欺瞞し、搾取する悪玉のみが選ばれなければならないのであるか、何故感情とマルクス主義倫理の分裂に悩む前衛闘士の登場が禁ぜられて居るのであるか。プロレタリア文学はアジプロの領域を超えると、特殊な客観的事情の下では成立し得ないのであるのか」とちょっと踏み込んで批判している。つまりプロレタリア文学は、人間の感情の機微や心の叫びに否定的だと考えているのである。
1930年ころの多喜二は「恐らく心臓まで赤く染まっている主義者」だろうが、1928年に書いたこの作品には、「『三・一五』や『蟹工船』に示された生彩満ちたレアリスムが溢れている」と評す。 だが「最近の同志小林の作品は断然前衛の文学であ るが、何か気がつまり、何かヒヤリとさせるものが往々に感じられて、読む方も肩が凝る」と、冷めた評価になるのである。ただ多喜二の作品はかなり読んでいることはわかる。
石坂洋次郎の「東倶知安行」読後感は、平たく言えば、プロレタリア文学らしくない作品だから好感が持てる、多喜二の初期作品はさまざまな欠点はあるがある程度評価できる、しかしプロレタリア文学運動、マルクス主義の文学運動は賛同できない、と読み取れるのである。
最後はやや儀礼的に「小林氏へ妄評多謝」で結んでいる。
ただ「特筆すべき今一つのことは、雪の描写の素 晴らしさだ」と3回も絶賛していることは、洋次郎の好意として素直に喜んでおきたい。  

「若い人」にみるプロレタリア文学

  石坂洋次郎は、1932年(昭和7)から「若い人」 の執筆にとりかかる。洋次郎はかなり真面目に共産主義について関心を持ち勉強していた。レーニンの著書『何をなすべきか』も所蔵していた。「若い人」 の前篇では、主人公の真崎慎太郎先生と橋本スミ子 先生とが、魅かれあう若い男女の会話としてはかなり不自然だが、まじめに共産主義について語り合っている。この2人の会話は、石坂洋次郎自身の自問自答である。
しかしプロレタリア文学について真崎先生は、かなり明確な否定的意見を述べている。
真崎に「プロレタリアの作家や批評家は、自分達の陣営に属する作品の本当の良さは陣営外の人間には分かりっこ無い、こんな狭苦しい考え方をしているように思われる」と言わせている。
この考えは、「『東倶知安行』を読む」を書いた頃から持ち続けていた考えと言える。  

「麦死なず」にみる多喜二とロレタリア文学

  時代は、十五年戦争に入って行く。それまで共産党は治安維持法によって何回も大弾圧をうけ、プロレタリア芸術運動も弾圧される。1933年(昭和8)、多喜二が特高の拷問で虐殺される。
政治だけでなく思想・言論、文学の分野で、「転向」が一つの流れとなってくる。
共産党員ではないが、洋次郎もこの流れに乗って行く。共産党員と交流もあり、共産主義についての文献も集め読んでいたと思われるが、共産主義、共産党と決別する。この決別を小説にしたのが「麦死なず」である。発表は1936(昭和11)年だ。
「麦死なず」では、地元の新進気鋭の共産党員作家・牧野(=鈴木清)を「鉄の闘士」と評し「この作家は大ざっぱに言えば小林多喜二型に属する人」と述べている。さらに多喜二を「今をときめく耀かがかしい左翼作家」と言っているが何か軽い。 しかし尾崎士郎の「悪太郎」という小説を読んだ 感想はこうだ。「(牧野ら)左翼文学者たちの高潔な 作家精神に比して何という卑屈な戯 げさく 作者根性であろうか」この読後感を五十嵐(=洋次郎)は「額をやや火照らせて」まとめたのである。ここでは「左翼文学者」にたいする畏敬の思いがある。
だが左翼との決別が主テーマの「麦死なず」で、 なぜ「悪太郎」をこき下ろしているのだろうか。
「悪太郎」が発表されたのが、1933(昭和8)年8月。多喜二が虐殺されたのが同年2月。「悪太郎」にも左翼作家や獄中にいる共産党員が出て来る が、退廃的女性をめぐる男たちの一人にすぎない。
洋次郎は、左翼との決別小説を書きながら、「左翼文学者たちの高潔な作家精神」を切り捨てること は出来なかったのだろう。この時点の洋次郎の「転向」への葛藤ではなかろうか。
「麦死なず」は、津川武一さんによれば「反共主義者として狂乱」しているとまで言いきっている作品であるが、作中の尾崎士郎の「悪太郎」批判の一節は洋次郎の良心と見識が光る真面目な評価だと思う。
 

「颱風とざくろ」の多喜二

  津軽の医師で、共産党の衆議院議員をつとめ、文学活動でも大きな功績を残した津川武一が、同郷の作家・石坂洋次郎に愛惜の情をこめて「石坂洋次郎の文学その光と影」(1982年)を上梓し、同年秋、『弘前民主文学』37号に「石坂洋次郎と共産主義」と題する評論を発表している。以下、津川さんの作品を紹介する形でテーマをすすめたい。
洋次郎の戦後の作品には、しばしば共産主義や共産党に関する記述が登場するという。攻撃的であったり、ときに暖かく肯定的だったりするという。
1965(昭和40)年、洋次郎65歳の作品「颱風とざくろ」のなかに、多喜二に関する次の記述がある。
「拷問で死んだ小林多喜二を、いまの共産党では 神様扱いしているが、作品を読むと、小林はみずみずしく感じやすい神経の持ち主だったし、生きておれば追ンだされるか、中野や佐多と同じ道をたどっていただろうな。プロレタリアはすべて善人で、ブルジョアはすべて悪人であるという、幼稚園児童並みに単純で、しかも好意がもてる強情な主観の持ち主だった宮本百合子にしてもしかりだなあ……」
多喜二を「みずみずしく感じやすい神経の持ち主だった」と好意的だが、もし今も生きていれば、党中央委員会の方針や決定とは相いれず、中野重治や佐多稲子のように除名になっていただろう、というのである。
多喜二の革命や党に対する確固たる信念と行動は、多喜二の作品からもゆるぎなきものとして汲み取ることができるはずである。多喜二の死後30数年たっての洋次郎の多喜二観は、共産党非難ゆえに、多喜二の真骨頂を見失っている。
津川さんは、「こういう見解を述べる石坂さんは、ほんとは、共産党のことは知らないのではなかろうか。共産党の基本的なあり方や活動について研究したことがなく、特高警察流の共産党論をやっている のではなかろうか」とのべている。
その根拠を津川さんは次のように書いている。
洋次郎は「颱風とざくろ」発売の1年ほど前の1964年に書いた「われら津軽衆なり」という文章で、津川さんと共産党の関係を述べた後「いまは、 日本の共産党のものの考え方も、大切な原則には変わりないだろうが、昔にくらべて、よほど幅がひろく、現実的になっているのであろう。それとともに、 国民大衆の共産党に対する考え方も、弾圧時代に較べて、ずっと常識的になってきているようだ……」と。 津川さんは最後に「あれほど共産主義や共産党とはげしく感情的に対決した石坂さんも、時代の流れや国民の共産党に対する考え方とともに変わってき たといえるのではなかろうか。とすれば『麦死なず』での石坂さんは、気の毒であり、かわいそうなのではなかろうか」と結んでいる。
津川さんのやさしい石坂評である。
 

洋次郎「晩年」の多喜二

最後に、洋次郎が没する10年ほど前の1976(昭和51)年ころの随想を見る。多喜二没後33年目の回想記である。
「老いらくの記」のなかの「人間とは―」の一節。 これは洋次郎自身の戦争協力について触れたものである。
「戦争が、哲学者であるハイデッガーや三木清を不幸にしたことでは、東西変わりがないもののようだ。日本の場合、小説家の小林多喜二などは、当局の拷問で亡くなったとされているが、それが事実であるとすれば、彼の残した作品が『蟹工船』などの短編だけであるのが、ややもの足りない気がする」 と書いている。
洋次郎は、かつては多喜二は拷問で死んだと明記しているが、「事実であるとすれば」などととぼけ気味の表現だ。なぜだろうか。一方、もっと長生きしてしっかりした長編作品を書かせたかったと惜しんでいる様な気がする。
続けて「読者というものは、作家の私生活よりも作品にひかれるものなのだ。太宰治なども、その例であろう。しかし一番多いのは、私のようにその時々の権力に調子を合わせて暮らした連中であろう。 個人だけではなく、雑誌、団体などみなしかり」と書いている。戦争協力の真摯な反省とは言えないが、ちょっと自嘲的反省である、その対極に多喜二の影を見ていたのかもしれない。
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石坂洋次郎は、共産党員でも左翼的作家でもなかったのだから「転向」とは言えないかもしれない か「転向」の流れのなかに身を置いた。作品上も共産党やプロレタリア文学の批判・非難を繰り返してきた。小林多喜二への評価もわずかではあるが輝いたり、曇ったりである。
洋次郎は、多喜二の拷問死にたいしでは、怒るわけでもなく、同情するわけでもなし、洋次郎は、多喜二の作品を闘う文学としての意義を見ることはなかった。
洋次郎は戦後においても、共産党には批判的である。多喜二が作家人生を続けることが出来れば、やがて共産党とは相いれなくなっただろうと推測している。多喜二評もなんとなく斜に構えている。
だが、洋次郎の心には忸怩たる思いが消えなかった。時代は前後するが1956(昭和31)年、洋次郎56歳に書いた「ほんとうの強さ」という随筆がある。その中に次の一文がある。
「戦前の例をとると、共産党員が、警察で過酷な拷問にあわされるという記事などをよむと、自分だったら、あっけなく裏切り的な自白に及び、百ぺんでも二百ぺんでも転向を誓うだろうにと、烏賊の墨のような劣等感に犯されてしまうのだった」と。 (1971年講談社「記憶の旅の中で」収録)
だから洋次郎は、小説や随筆、回想記で、小林多喜二を何回か登場させている。多喜二の作品だけでなく、時代に挑戦し峻烈に闘いぬいた多喜二の生き方を忘れ去る事ができなかったのではあるまいか。(2013・3・2)


もがみけんぞう:国賠同盟秋田県本部長。記録第3集『小林多喜二・生地からの発信』に「石坂洋次郎は多喜二をどうみていたか」を執筆
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