松本礼二


秋田県多喜二祭の思い出など

 1977年秋、金沢の大学を卒 業後、少しして秋田に赴いた。そ の最初の冬、翌年2月に、秋田文 化出版社の吉田朗さんに案内され て、協働社大町ビルで開催された 第13回秋田県多喜二祭に、初め て参加した。その日は映画「蟹工 船」の上映が行われ、記念講演者 は、共に秋田県多喜二祭賞の受賞 者であったぬめひろしさんと、吉 田朗さんであった。
堺利彦の後輩として
小説の「蟹工船」は「セメント 樽の中の手紙」で知られる葉山嘉 樹の小説「海に生くる人々」が影 響を与えたことで知られる。小林 多喜二は、葉山から「襟首をつか まれ…振りまわし、こづきまわ」 されたと書いている。その葉山嘉 樹は私の郷里福岡の豊津高校(旧 制豊津中学・現育徳館高校)の先輩であり、地元 では知られた存在だった。ちなみ に日本共産党の初代委員長だった 堺利彦も同じ高校の出身者であり、 草創の頃の革新運動の歴史が郷土 にあった。
50回を数える秋田県多喜二祭 の歴史の中で、私の参加はわずか 10回に過ぎない。だが、以降、私 は翌年から1987年の第22回ま で、実行委員として加わるように なった。こうした行事の運営は内 容に関わることを主とする人、運 動そのものを得意の分野とする人 などさまざまだが、私は、秋田文 化出版社の全面的な協力もあり、 主に宣伝部門で、ポスター、チラ シなどの作成を担当するように なった。
講師の選定が最大の議題
秋田は多喜二祭の時期が、一番 厳しい寒さとなる。その頃になる と、多喜二祭の仲間が集う。開催 日までに実行委員会が何度か開か れ、テーマの選定、詩の朗読者、 合唱、バイオリン演奏、講師の選 定、実行委員長の決定・受付・講 師出迎え、マスコミ関係者の対応、 参加者の憐認などが行われる。講 師の選定が最大の議題だが、いつ もそれにふさわしい人たちが選ば れていた。
 実行委員は、吉田朗・佐々木信 男・浅野寒風・松田幸夫・工藤一 紘・佐藤好徳・村上耕三・木村 覚・あさあゆむ・木内和香・高坂 裕子・野上百合、それに横手市か ら鈴木清・和泉竜一などの各氏で、 今となっては半分以上が故人であ る。実行委員は各分野・団体を代 表していたから、いつも順調に進 むというわけでもなかった。討議 が白熟し、議論が沸騰することが たびたびたった。それでも数度の 会議の中で多喜二祭の成功に向け て収束していった。
会議を終えて、代表委員の松田 幸夫さんを下新城の自宅にお送り した時の車中の会話も有意義で あった。後年、娘の肖子さんから 松田さんの大事にしていた遺品の カメラを戴いた。司法書士の佐々 木信男(初代事務局長)さんから も信頼され可愛がっていただいた。 佐々木さんは和服の似合う最後の 武士のような人だった。自宅に 伺ったり、実行委員会の仲間と川 反の飲食店で食事をしたこともあ る。
多喜二祭の当日は、ほとんどが 厳寒の雪の日の開催であった。い かにも冬の秋田らしい厳しい天候 だったが、夏の明るい日よりこう した時期の方が多喜二祭にはふさ わしいと思えた。会場は県労働会 館、千秋会館、文化会館だった。 中川利三郎・花岡泰順・藤田励治・ 児玉金友・荻原和子・齊藤栄子・ 高坂昭丁土佐優子・鳥潟つや・ 伊藤ヒサ子諸氏の他、一年に一度 この時にしか会えない人も多くい て充実した集いになっていた。
色紙の展示も
吉田朗さんの収集していた色紙 の展示も会場を豊かにした。この 他、秋田文化出版社や民主運動の 関係で知己になっていた押切順 三・三島亮・菊池臣平・田口勝一郎・ 川原浩・平野庄司・武田亜公・進 藤孝一・黒羽幸司・西成辰雄・茶 谷十六・高橋茂・金野和子・浅野 喜代など多喜二祭賞受賞者も多く いる。当日反省会で参加者の感想 文を読むのも有意義だったが、後 日、ゆっくり読むことができるよ うにと、講演内容のテープ起こし はスタッフにとってとても嬉しい ことであった。これは多喜二祭の 継続と記録という意味で民主文学 の野上百合さんが担当したが、運 動の中心に民主文学秋田支部の存 在があった。
この10年の間に、多喜二祭に関 連していくつかの思い出がある。 1979年秋、秋田から全国集会に バスで参加した時、松田解子さん の大盛小学校時代の教え子であっ た柳人・境田稜峰さんの『いちま いの空』の序文を戴きに中野区江 古田在住の松田さんの自宅に伺っ たこと。文筆家としては質素な階 段下の小さなスペースの書斎で松 田さんと話をした。そして「時間 だわね。でかけましょうか」とご 一緒して、民主団体の集会に出か けた。
当時、74歳の松田さんは、 名の通った人という雰囲気を微塵 も感じさせないで、日射しを避け る夏の帽子を被り、軽やかな足取 りで会場の日比谷公園に向かった。 会場では日本共産党の宮本顕治委 員長が元気に挨拶をしていたこと なども貴重な想い出となっている。
『記録集』の思い出
1983年に、これまで関係者各人 が個別に保存していた資料をでき るだけ収集して、年譜をまとめ、 秋田文化出版社の協力も得て、「秋 田県多喜二祭の記録」を刊行した。 これが最初の記録集ということに なり、私は第1集に関わった。
 この間、秋田文化出版社で秋田県北 の書店を担当していたこともあ り、幼少時の多喜二が遊んだとい われる松の木が立っている生家跡 に立ち寄ったり、下川沿駅のホー ムにあった多喜二生誕の地碑を撮 影したりした。1957年に建立 されたこの生誕の地碑は、現在駅 のホームから駅前広場に移設され ている。秋田市の多喜二祭の講師 が、そのまま大館多喜二記念の集 いでも講演する習わしであったの で、講師とともに人館に行き、秋 田巾の多喜二祭からの連帯の挨拶 をしたことも懐かしい限りだ。
 また、同好の士といえた佐藤好 徳、土佐優子、野上百合さんと連 れ立って、大館の小林周さん、角 館町学法寺の平元義雄さん、酒田 など各地の観光地を訪ねだりした ドライブも楽しいことだった。」 11年を経て、仕事の関係で秋 田の地を去り、1988年に仙台に 移った。仙台に移ってから、一度 だけ機会があり生涯学習センター で開催された何回目かの多喜二祭 に参加したことがある。福島県相 馬市が故郷であった佐藤好徳さん と仙台郊外の作並温泉に遊んだこ と、近年30年近く経って白河市 在住の紺野節子さんから連絡をも らったりしたこと、などがその後 の多喜二祭との関わりといえるか もしれない。紺野さんは当時、短 大生で小林多喜一。を卒業論文の課 題にし、その年の秋田県多喜二祭 に遠く福島から参加した女性で あった。
小説家・革命家としての小林多 喜二のことを考えると、いつも思 うのは健康な青年が正午過ぎに捕 捉されて、築地署に連行された後、 わずか7時間に命がなくなってし まったこと。これほど尋常でない ことはあるまいと思われる。
多喜二の願った真実
多喜二は『蟹工船』の執筆意図 の中で「プロレタリアは帝国主義 戦争に絶対反対しなければならな い…どういうワケでそうであるの か…これは知らなければならない 緊急のことだ」との趣旨のことを 書いている。
「戦争法」が示すように、時代 が大きな変化を迎えそうな昨今だ。 多喜二の願った真実の歴史を力強 く拡げていくことが現在の私たち に課せられた使命だろう。松田幸 夫さんも「命を捨てる程の活動を、 われわれもやらねばならぬ」と色 紙に書き残されている。
福岡に生まれた私は、金沢、秋 田を経て、現在、仙台に住んでい るが、「秋田県多喜二祭」のホー ムページを作り、その中心に、「多 喜二祭賞の人々」の項目を加えて みたい。伊多波英夫氏らの尽力で 建立された大館市釈迦内の文学碑 を訪問すること、小樽の小林家墓 所・文学碑訪問、多喜二文学をで きるだけ読むことなど多喜二に関 して、やり残した人生の課題が いっぱいあるように思っている。

まつもとれいじ:編集者。1951年・福岡県生まれ。第14〜22回秋田県多喜二祭実行委員。
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