北村隆志


最近の多喜二研究から備考三つ

『蟹工船』ブームに代表される小林多喜二への関心の高まりに伴ない、新たな事実や資料がここ数年でいくつも明らかになっている。
 例えば、多喜二の誕生日が従来言われてきた10月13日ではなく、12月1日であることが確認されたのもその一つだ。
 実は多喜二自身、自筆「年譜」(改造社版現代日本文学全集第62編『プロレタリア文学集』、1931年2月)で「ぼくは1903年秋田の田舎に生れた。母は旧暦8月23日だと云っているが、村役場の帳面には12月1日となっている」と書いていた。これが戦後に作られた年譜で、旧暦8月23日を新暦10月13日に直したのが定着し、そのまま受け継がれてきたものだ。
 最近になって、多喜二のいとこの孫にあたる小林信義さん(札幌市の医師、56歳)が、苫小牧市の実家に保管されていた除籍謄本(1951年交付)を調べたところ、「12月1日生」と明記されていることがわかった。さっそく「秋田魁新報」2012年3月18日付がそのことを報じて広く知られることになった。新暦12月1日は、旧暦10月13日にあたり、多喜二の母セキがこれを新暦10月13日(旧暦8月23日)と勘違いしたと考えれば筋は通る。こうした事情で起きた誤りと考えてほ ぼ間違いなさそうだ。(詳しくは本誌拙稿「小林多喜二の誕生日はいつか」参照)
 二つ目に、2013年には、『転形期の人々』に出てくる帝大の学生「松山」のモデルの松岡に関する浩瀚な伝記『松岡二十世とその時代』が出版され、『不在地主』にある農民のビラは、磯野小作争議で松岡二十世が書いたビラをそのまま引用したものだということもわかった。  この伝記の著者の松岡氏は、松岡二十世の長男で、農林水産省国際部長もつとめた元農水官僚だ。本書には、松岡二十世が農民の解放を夢見て北海道の農民組合の先頭に立ってたたかった姿が愛情込めて描かれているが、当の息子が戦後、農水省で実際に農政にあたっていたとは知らなかった。
 將氏が、シベリア抑留で死んだ父のことを、多喜二の『転形期の人々』に書いてあると知ったのは、東大駒場寮に入って、先輩に教えられたからだ。本書の「あとがきにかえて」にこう書いている。
 〈流石は天下の東大、息子が知ってもいないひとの親父の事まで知っているとは、随分博覧強記がいるものだな、と感心しながら、本屋でこの作品を探し出し、買って読んでみた……確かに、「帝大の学生」ということで、父とおぼしき人物が登場する。おまけに、「その学生の名前は、「松山幡也」という、めずらしい名前だった」という文章までもが出てくる。……小林多喜二にケチをつけることになって申し訳ないけれども、「」ならば確かに珍しいかも知れないが、「」となると、何処にでも有りそうな名前だなと思いつつ、かえってこれは父の事を言っているとの確信を深めた記憶がある〉
 なかなか実感のこもった、小説中の父との出会いだと思って読んだ。
 三つ目に、荻野富士夫編『小林多喜二の手紙』(岩波文庫、2009年)で、これまで全集でも弟の三吾宛としてきた手紙を、元恋人の田口タキ宛と大胆に推定変えを行ったことである。
 問題の手紙は、地下生活中の1932年8月20日の、次の手紙だ。

 〈しばらくご無沙汰しました。
 今年は殊の外暑かったので、あの西日のさす室でお母さんがどの位悩まされたことかと同情している。僕の六畳の室も日がさすので、一昨年の夏の留置場よりも苦しい夏だった。だが、まだ僕は無事で、しかもウンと仕事をしているから安心して下さい。何時か一度訪ねて行こう、と思いながら金が無かったり(往復だけで1円かゝるので)暇が無かったりして、とうとう出来なかった。僕は最近タキちゃんと会えば、何んだか話が出来ないのだ。色々な事を沢山話そうと出掛けて行っても。――然しやっばり会いたい。
 こゝ二三日である仕事が終るので、この月末まで是非一度、一日ゆっくり坐って話したいと思っている。  同封の金は、金が生命である僕が贈る金だと思って、(何故なら、時には、なすの漬ものだけで3日も過ごすことがあるのだよ。)暑い盛りをよく我慢して暮した君のお母さんを一日涼しいところで遊ばせてあげるために使って下さい。
 では何より身体を!〉

 『小林多喜二の手紙』は、この手紙の注で〈本書簡は、最初の書簡集であるナウカ社版『小林多喜二書簡集』(1935年)以来、弟の小林三吾宛とされてきたが、「タキちゃん」「君のお母さん」という表記や文面全体および次の書簡156の日付・内容からみて、田口瀧子宛と考えられる〉としている。
 今まで何度も読んできた手紙なので、宛先の推定変更には、大変驚いた。しかし、言われてみれば、三吾宛なら、多喜二が自分の母親を「君のお母さん」と呼ぶのは奇異である。田口タキ宛と言われて、もやもやが一気に晴れた気がした。私も新しい推定に賛成だ。
 そもそも、多喜二の書簡は戦災他で逸失したものが多く、現在全集他で読める176通のうち、「現在保存されているのは60通程度」(新日本出版社版『小林多喜二全集』解題)しかない。問題の8月20日の手紙も現物が所在不明で、三吾宛としてきた根拠は、注にもあるナウカ社版『書簡集』だけだ。
 注にある「次の書簡156」は、「小林の皆のものへ」という宛名で、8月21日と日付が書いてある。「永い間便りもせず、心配していたろう」とはじまり、「四月以来一銭の収入もなく困っていたろうと思う。三月頃約束して置いた小説を中央公論に送っておいたから、金が入ると思う。入ったら今迄の借金を払ったり、妹の学費を送ってやったり、家賃を払ってくれ」とある。前日の二十日の手紙が三吾宛なら、久しぶりの便りだという点も、先の手紙でお金を同封したと書いていたこととも内容が合わない。
 そんなわけで、8月20日の手紙は田口タキ宛と考えるのがいっそう自然だ。
 田口タキは多喜二からの手紙類を、多喜二の死後早くに小林家に渡したと言われている。問題の書簡は、ナウカ社版『書簡集』編集の際に、小林三吾宛の封筒の中にあったことから、三吾宛とされたらしい(以上、関係者の伝聞による)。遺族か編集者が、封筒から出し入れするうちに入れ間違えた可能性がある。
 ちなみに、多喜二の書簡は獄中書簡を除き、ほとんど日付が書いてない。現物で確認できるのを除き、日付は『消印日付のように推定される』(同『全集』解題)。つまり、ナウカ社版編集の時に消印の日付を使ったと推定されるということだ。問題の手紙の8月20日の日付も同様と考えられる。
 一方、「小林の皆のものへ」の書簡は、1953年に新たに発見されたもので、実は消印は東京・京橋局の(昭和)7年12月12日になっている。この書簡は珍しく、日付が書いてあった。発見当時、中野重治が「八月二十一日に書いたハガキがどうして十二月十二日の消印になったか今のところまだわからない」(「新しく発見された多喜二の通信」)と書いた疑問はまだ解決していない。
 ここにも別のミステリーが残されている。


きたむらたかし:「赤旗」記者。記録第3集『小林多喜二・生地からの発信』に「最近の多喜二研究から備考三つ」を執筆
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