藤田廣登


秋田県小林多喜二展の過去・現在

多喜二が出かけていく!
  労働者教育協会で浜林正夫先生との出会いがなければ、私の多喜二への接近はなかった。その過程で、先生の父・浜林生之助氏が多喜二の英文学の先生であったこと、母校で教壇にたち、大学近くの旭展望 台の小林多喜二文学碑建立の実行委員長など、多喜二を人一倍愛し、その生涯の研究に打ち込まれた多喜二研究の第一人者であることを知った。以来師事して今日に至っている。
その先生から、2003年1月、住まいのある所沢市で「多喜二展」を開くから手伝ってほしいと頼 まれた。これまでの多喜二祭が多喜二とゆかりのある地域を中心に組み立てられて来た流れに二石を投じられた。一つは、多喜二に直接関係のない地域でも多喜二顕彰の運動があってよい事、同時に、講演中心の多喜二祭に「多喜二展」という新しい形態を提起したことである。
この「所沢多喜二展」の開催はわれわれに更に新しい視点を与えた。この展示に小樽文学館から玉川薫氏(現館長)が、わざわざデスマスクや貴重な所 蔵資料をトランクいっぱいもって駆けつけられた。そしてわれわれ素人にていねいに展示の方法、キャプションのつけ方などを教示された。この時、玉川さんは、「これからは小樽まで多喜二を訪ねて来るのを待つのではなく、多喜二の側から出かけていくことが必要だ」という意味の挨拶をされた。衝撃的であった。その言葉がその後の私の出発点・原点になった。
こうして地元はもとより東京、關東近県から1700人もの人々が会場へ足を運んだ。
  秋田小林多喜二展への途
  2003年夏、秋田県多喜二祭実行委員会の佐藤 好徳氏が、全労連会館に勤務中の私を訪ねてこられた。2004年の多喜二生誕100年の節目の秋田 県多喜二祭と結合して「小林多喜二展」を開催したい、1月開催の所沢多喜二展の成功の経験を聞きた いというものであった。
この時、佐藤氏には、展示の組み立てについてまだ成案がなく、模索状態にあるとの印象を受けた。 つまり、どういう「多喜二展」を構成したいのかが不鮮明であったように思われた。私からは所沢展で使用した多喜二関連の写真パネルや『戦旗』『初版本』オリジナルなどを提示、佐藤氏からは展示可能な資料類と所蔵先リスト作成について協力を求められた。
こうして研究者でもない私と多喜二との「格闘」が始まった。浜林先生の教示も含め、関係者への照会などを続け資料の主な提供先が次第に固まった。ついで、資料の借用許諾とその資料をどうやって秋田に集約するか、大切な資料の保全方法は、全労連会館2階ホールに匹敵するほどの広さの効果的なレイアウトは。見終わったらトコロテン方式で会場外へ押し出されるような通常の展覧会方式を排し、参会者同士の交流がはずむたまり場、旧交の温められるコーナー、展示内容への意見応答、関心のある場所へは何回でも足を運べるようになど、現場に着いてからも模索が続いた。
わが国最大級の展示と参会者-生誕100年小林 多喜二展(2004.2)
こうして開催前日の2月17日、展示資料の搬入が始まり、実行委員会メンバー全員が参集した。 小樽文学館の玉川氏、多喜二ライブラリーの佐藤氏らは展示のベテラン。それぞれ定位置に手際よく納まっていくのに、私の分担の時代区分展示の数班は各所で立ち往生。展示写真や資料類の順番、スペース取りに時間がかかり悪戦苦闘。予め「展示リスト」を作成していたが、実行委員諸氏にとっては初めて見るものばかりだから戸惑うのは当然であった。
そして開催初日18日テープカットで開場、デスマスクの前で涙し動けない人々。写真・資料とキャプションを食い入るように見つめる人々。参加者も 実行委員も一体となった交流が続き、会場は終始熱気に包まれた。マスコミ各社も取材に訪れた。
会場には小樽文学館所蔵のデスマスクをはじめ、小樽商科大学、日本共産党中央委員会党史資料室、小林多喜二著作刊行委員会、白樺文学館・多喜二ライブラリー、関西勤労協、戦前の出版物を保存する会、小樽多喜二祭実行委員会、大舘先人顕彰会実 行委員会、浜林正夫、蔵原清人、小口(藤田)廣登などから260点の展示品が寄せられ、参観者は4日間2800人を記録し質・量ともにわが国最大 級の記念展となった。寄せられた感想は、多喜二の生きざまを示す展示品が多くの参観者の心をとらえ、 明日をたたかう力の源泉たり得たことを示した。
「多様な資料で、多喜二の生涯、文学、その時代とたたかいがよくわかった」「つらい2月に思いをはせた人々が群れをなした多喜二展に圧倒された」 など。
多喜二生誕の地・秋田の自負をかけた「小林多喜二展」を支えた実行委員会は、その総括文書『記録生誕100年記念小林多喜二展』に展示全資料を収録して発行した。ワープロ打ちの今日に残る貴重な「記録集」である。
情勢と研究の進展反映-秋田県多喜二祭50周年 記念「小林多喜二展」(2012.3)
第1回多喜二展から8年を経た2012年3月 「秋田県多喜二祭50周年記念展」が企画され、前回、県外者からの「移入展示」に頼らざるを得なかった 教訓から「秋田県実行委員会主導企画」による自力 展示方式を確立する画期をつくりだす努力が行われ た。その上で、前展の260点に下記の約100点の資料が追加された。
(1)この間に惹起した情勢の激変を反映した企画展示
@「非正規・ワーキングプア、貧困と格差」に反逆する「蟹工船ブーム現象」の反映-「蟹工船」ブーム検証チームによる展示。
A世界12か国での「蟹工船」翻訳出版。前年の3・11東日本大震災後の閉塞感を打破する希望を表現する
(2)多喜二遺品の展示オーバー・コート、文机など戦災を免れて守りぬかれた遺品展 (3)この間の多喜二研究と事跡発掘の長足の進歩を余さずくみ取り反映する。
@多喜二一家の除籍謄本の公開と「生年月日」の特定
A多喜二「草稿ノート」の公開(コピー)、DVD
B小樽高商図書館本への多喜二の書き込み
C日影国太郎氏(釈迦内在)宛の多喜二直筆書簡(母セキさんの借金返済の礼状)
D「工場細胞」直筆原稿(改造社・山本実彦遺族 から鹿児島県川内まごころ文学館寄贈)
E「党生活者」の舞台となった藤倉工業の当時の 工場内部写真(パラシュート工場、毒ガスマスク、工場全景)の初公開
F多喜二が愛した麻布十番―非公然活動展開の多喜二
G君の二月を忘れない-築地小劇場、虐殺の築地署、前田(築地)医院
H七沢鉱泉と多喜二
I伊勢崎多喜二奪還事件
J亀戸事件・南葛労働会・渡辺政之輔と多喜二
K「母べえ」の主人公新島繁・大衆書房と多喜二
L多喜二と山本宣治
M田口タキ追悼
N多喜二と山本懸蔵・伊藤千代子-『東倶知安行』をめぐって
O特別展示・宮本百合子未公開書簡(戦中)の公表など
(4)国際的評価の進展と研究の反映
@小樽商科大学創立100周年記念「小林多喜二国際シンポジューム」成果
A韓国の非合法時代の活動家群とその継承者たちの多喜二研究、ハングル版『蟹工船』(『党生活者』含む)、『三巻選集』出版と多喜二展への参加
(5)秋田県多喜二祭50年史特設展示コーナー
こうして、わが国における「小林多喜二展」の最高の峰-量・質共-に到達した展示が、秋田県実行委員会の総力を挙げて展開された。在京からは佐藤三郎氏と私が展示・設営に協力したが、裏方に徹した。
記録集『秋田県多喜250周年記念・小林多喜二展』がその全体像を余すところなく伝えている。
秋田県小林多喜二展が、開催毎に着実に充実・前進していることを示すことができた。この土台の上に秋田県実行委員会による、秋田県民のための多喜二展の新たな地平と未来を切り拓くことが可能となっている。
 
ふじたひろと:労教協理事、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟常任理事、伊藤千代子の会。記録第3集『小林多喜二・生地からの発信』に秋田県小林多喜二展の過去・現在を執筆。
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