大山兼司


大館市「多喜二の集い」10周年を迎えて

 早いもので、「大館市小林多喜二 記念の集い」も、今年2月で第10回 を数えることになった。この機会に 一区切りの文をとの佐藤好徳氏のす すめで、主に記憶をもとにしてメモ 風にまとめておきたい。
 第1回は、ちょうど1980年の 2月24日(日)に、旧桂高校を使っ たもとの公民館第1学習室を会場に して行われている。
 その時のチラシには「歿後47周年 小林多喜二記念のつどい。小林多喜 二は1903年大館市で生まれた小 説家です。そして死ぬまで戦争に 反対したもっとも勇気のある芸術家 です。私たちのふるさとが生んだこ の偉大な先人の功績をたたえ、その 名を長く世に伝える「つどい」にぜ ひ、ご参加ください」とある。
 たしかにその前年の秋頃、今は秋 田市に住んでいるM君が私を訪ねて きて、民主文学の大館支部を作らな いかという。同盟結成以来、一応凖 同盟員になっていたし、事務局は M君が担当するというので、支部長 になることをひきうけた。「段丘」 という支部誌も出したが、多喜二の 地元でとりくむべき運動ということ でM君が提唱し、第2回の[多喜 二の集い]開催の連びとなったもの らしい。
 第1回の講演者は松田解子氏であ る。前日秋田市で講演したあと、つ いでに大館まで足をのばしてもらっ た形になっている。この時は秋田支 部からも何人かの人がついてきてく れた。その日の私の日記を兒ると う何人米てくれるか心配だったが、 最終的には70人位来てくれ一安心。 私は別の用事にかまけて、さっぱり 組織もしなかったので、M君や他の 人たちがうんがんばってくれたの だろう。高教組の人たち。秋教組で はS、M、K氏など、あと新婦人。 夫婦同伴の人もかなりいた。あいさ つは私、司会M君、作品朗読Cさ ん「十二月二十何日の話」、講演者 紹介Kさん。講演は、個々の作品を 通して多喜二の人間像、又多喜二の 描いた庶民の姿を生き生きと話して くれた。そして多言二の果たしえな かったことを、私たちが多喜二にか わって少しずつ力を出し合うことに よって、再び戦争の悲劇など起こさ せないようにできると語った。講演 終ったあと座談会。花岡の虐殺、尾 去沢の鉱滓ダム決壊などについて話 し合う。更にそのあと、M君とKさ ん宅(松田さんはここに泊まる)訪ね る。夕食に『きゃの汁』など円舎 料理を楽しんでいた」とある。
 第2回の講演者は昨年亡くなった 津川武一氏。この年は、多喜二のオー バーが大館市釈迦内で発見されたり して話題の多かった年で、NHKの 取材のライトを浴びて、最初の挨拶に立った私も上がりっばなしで あった。又、多喜二のいとこにあた るYさんなども会場で紹介された。
 この年の夏から秋にかけて、支部 誌「段丘」の2号が発行された。編 集は事務局のM君まかせにしてあっ たから、私たちは完成するまで実際 にどんな作品か載っているのか知ら なかった。ところが、M君の作品は、 自分の家庭生活をモデルにしたもの と思われるが、その中で特定の民主 団体を名ざして、一方的に非難する 箇所があった。当然その団体からは 支部長の私に抗議がきて、私は釈明 に冷や汗をかいた。しかし、その頃 当のM君は私たちには一言の連絡 もなく大館を離れ、秋田に行ってし まっていた。そこで、他の支部員と も相談して、事情を問いただす手紙 を本人に送ったが、「あんた方は何 を言っているのか。私には全然悪い 所はない」といった調子の返事が一 度来ただけだった。  こうして仏たちは、支部や多喜二 の集いの創始者の1人であり、なか なかの書き手でもあったM君を失 うという苦い経験をもった。  このあと、「多喜一二の集い」の前 途も危ぶまれたのだが、ここでやめ てしまっては、M君に「ほれ見たこ とか、私かいなけりや何にもできな いじゃないか」と言われそうな気が して、それがしゃくで、残った支部 員だちと力を合わせわせ、なんとか二回 以後も「集い」を続けてきた。
 第3回は及川和男氏。講演前に多 喜二の生家跡を訪ねた後、ちょっと 米代川の方に案内したら、どんより とした冬雲の下、鈍く光る河面や雪 の山並を眺めて、「いかにも多喜二 の故郷らしい風景ですね」という意 味のことをもらされたのを記憶して いる。
 第4回は多喜二没後50周年とい うことで、共産党地区委員会との共 催で、できたばかりの文化会館中ホー ルに300人以上の聴衆を集めて盛 大に行われた。映画「小林多喜二」 を上映し、そのあとの講演は、文芸 評論家でもあり、劇作家でもある西 沢舜一氏。話題が多岐にわたり、し めくくりはどうなるのかなと心配し ていたら、時間内にきちっと、しか も感銘深く盛り上げて終らせたあた りはさすがと思わせた。たしか氏は、 この年の参議院選挙の比例代表候補 にも選ばれたと思う。
 第5回は、地元秋田からというこ とで鈴木清氏にお願いしたはずだが、 どうも細かい事を忘れてしまった。 氏には多喜二との地下活動の経験な ど生の体験をもっと語ってもらうべ く、再度講演者にとの企画もあった が、氏の病気その他で実現しないで いるのは残念である。
 第6回からは秋田支部と提携して 中央から講師を呼び、一日は秋田、 一日は大館で講演してもらうという 形がほぼ定着してきている。  第6回の講師は劇作家の津上忠氏 で、ちょうど4月の大館で上演され た「早春の賦小林多喜ニ」 の前宣伝をかねた形の講演となった。 多喜二の活動した昭和初期の頃の東 京の風物を、実際に肌身で感じて再 現できるのは、自分たちの世代以上 の者だけなのだから、そういった意 味でもがんばっていきたいと話され た。
 第7回は文芸評論家佐藤静夫氏。 氏は、私か大学を出てまもなくまだ 秋田市にいて、秋田リアリズム文学 会に籍を置いていた頃、秋田市の多 喜二祭に講師として来ていただき、 古本屋の2階でくつろいでもらった 記億かあるが、それ以来。22年ぶ りの再会であった。
 講演は啄木から始まって、多喜二 の文学史的位置を明らかにしたあと、 昨今の天皇や戦犯政治家を免罪して、 日本は今や豊かになり、「民主主義 文学」などは無意味になったなどと いう俗論を手厳しく批判された。ちょ うど隣の室で宴会があり、せっかく の話によくききとれない部分があっ たのは残念であった。
 第8回は女流作家の吉開那津子氏 で、自己の文学体験から、どうも日 本の私小説の狭い世界になじめなかっ たのが、多喜二の「蟹工船」などを 知り、日本にもこんなスケールの大 きい作品があったのかと感動を覚え た経験を話された。
 第9回は、山村聡が監督した1953年の独立ブロ映画一蟹工船」の 上映を中心に行った。かなりフィルムが傷んでいると聞いていたが、思っ ていたよりよい状態で、白黒画面か かえって独特の重厚さと迫力を生み 出しているすばらしい作品だった。 なかなか見られない映画ということ もあってか、例年の倍以上、約150 人の参加者で、椅子を何度か追加 しなければならなかった。なお、秋 田支部に講演者として招かれていた 評論家の小林茂人氏も出席されて、 少し長めの挨拶をしていただい た。
 さて今年1989年は、一区切り の10年ということで少しアイディア をねったが、格別よい案も浮かばず、 映画「宮本百合子」の上映と右遠俊 郎氏の講演ということになった。し かし、いかにも実作者らしい右遠氏 のとつとつとした語り口のなかに、 真実をじっくりかみしめるような味 わいがあり、今まできいた講演者の 中で一番よかったという支部員もい た。東京の駅のホームにいて、「ま もなく暗い電車が入ってまいります」 というアナウンスにどきっとして、 よくきいたら「下りの電車」のまち がいだと知りホッとしたという話の オチも、いかにも昨今の作られた天 皇フィーバーの世相を風刺していて 気がきいていた。
 さて、大館「多喜二の集い」は10 回目を迎えたとはいうものの、ほん の少人数の支部員と、あとはそれに 協力してくれる何人かの有志で細々 と続けてきたものだから、この後何 回続けることができるかは疑問であ る。しかし、純粋に文芸的な催しが ほとんどない大館の地で、小規模と はいえ、中央から第一線の民主的作 家、評論家を講師に迎え、毎年無料 で提供してきた事は、いささかでも 大館の文化水準の向上に寄与したも のだと自負している。
 そして、今ある小林多喜二生誕の 地碑とは別に、多喜二の文学碑を建 立したいものだとは支部員たちの秘 かな願いであるが、実現するのはい つの日になることであろうか。
 
おおやまけんじ:大館市小林多喜二文学碑建立の会。民主主義文学会大館支部長.。記録第2集『読本・秋田と小林多喜二』に「多喜二文学碑、生地大館市に完成」エッセイ「大館市多喜二の集い10周年を迎えて」を執筆。記録第3集『小林多喜二・生地からの発信』に「木村勇二(多喜二の従弟)さんを訪ねて」「初期の頃の思い出から」を執筆。→参考:ひと「小林多喜二の生誕地ですべての作品を読もうと燃える大山兼司さん
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