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■小林多喜二関係の資料・秋田県以外

*小林多喜二初め当時の治安維持法犠牲者関係者の動きは「治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟」サイトに詳しい。この項目の情報の多くは「しんぶん赤旗」を主なソースにしたこのサイトから引用している。

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2016年


●2016.10.5・「しんぶん赤旗」→朝の風「多喜二祭と五木寛之の小説」
先月、群馬県伊勢崎市で開かれた多喜二祭で俳人の金子兜太が記念講演を行い、戦中の特高警察による京大俳句事件に触れ、事件の真相を描いた五木寛之の小説を紹介した。
京大俳句事件は、戦前のいわゆる新興俳句運動にたいする治安維持法による言論弾圧事件で、伝統的俳句の刷新をめざす動きを「危険思想」視し、1940年に仁智栄坊、西東三鬼ら京大俳句会の会員15人を検挙した。             
この事件に作想をえた五木は小説「さかしまに」で、既成俳壇の陰の擁護者と特高が内通し北陸で地道な作家活動を続ける一俳人に「転向」を迫り沈黙させ、それを口実に新興俳句運動を崩壊させた顛末を描いている。
金子は記念講演で、俳句雑誌「土上」の師である島田青峰が京大俳句事件に巻き込まれ、留置された警察署で喀血、病死したことをのべ、「優秀な俳人を無力化する」には「中間的な人を獄に入れて黙らせる」と語った。戦争への道は、さまざまな同調者、便乗者を生み、それが自粛と委縮をまん延させる。五木の小説を紹介したゆえんかもしれない。
だからこそ金子は、この風潮にあらがい<梅雨空に「憲法守れ」の女性デモ>の句の掲載を求めて提訴した女性の行動を「私の秘かに喜ぶところ」とたたえたのであった。(烏)(「しんぶん赤旗」2016.10.5より)
●2016.2.19・「しんぶん赤旗」→「20・21日、多喜二の集い(北海道・秋田)」
「蟹工船」などの作品で知られる戦前のプロレタリア作家、非合法の日本共産党員で、1933年2月20日、特高警察の拷問により29歳で命を奪われた小林多喜二をしのぶ集いが20、21日、北海道と秋田県の各地で行われます。多喜二は秋田県下川沿村(現大館市)の農村で生まれ、4歳のときに一家で北海道小樽に移住しました。今年は多喜二没後83年です。
北海道小樽市では20日、「多喜二祭」が開かれます。午後1時から奥沢墓地(奥沢5丁目)で墓前祭、午後3時半から小樽市民センターマリンホール(色内2丁目)で記念のつどいが開かれ、市民劇「この日本がいつまでも平和であってほしい~みのわ登の遺言」(脚本・演出=大山巌道憲法共同センター事務局長)、講演「多喜二は戦争をどう描いたか」(講師=荻野富士夫小樽商科大学教授)があります。
釧路市では「2016年小林多喜二を語るつどい・くしろ」が20日午後1時半から、釧路市生涯学習センターまなぼっと705・706号室で開かれ、「多喜二の時代へ戻さない~野瀬景三郎の獄死から見えてくるもの」と題して、野瀬義昭氏(日本民主主義文学会会員、治安維持法賠償同盟会員)が講演します。
秋田市では「第51回秋田県多喜二祭」が20日午後1時半から、秋田県生涯学習センターで開かれます(資料代1000円)
大館市では「第37回大館市小林多喜二記念の集い」が21日午後2時から、同市中央公民館で(入場無料)開かれます。
秋田市、大館市とも本庄豊さん(立命館宇治中・高等学校教諭、立命館大学兼任講師)が、小林多喜二と山本宣治について講演。混迷する現代の中で、りんとして生きる意味を考えるほか、多喜二作品の朗読も行います。
秋田市では合唱と「秋田県多喜二祭賞」授賞式があわせて行われ、今年は故・富樫耕一さん、協和の鉱山と松田解子文学を伝える会に送られます。
また、大館市川口のJR下川沿駅前にある「小林多喜二生誕の地碑」前では20日(土)午後2時から、同保存会主催で碑前祭が行われます。下川沿公民館には「小林多喜二コーナー」があり、「多喜二文庫」の中に父・末松の手紙が展示されています。(「しんぶん赤旗」2016.2.19より)

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2015年


●2015.7.24・「しんぶん赤旗」→「多喜二が見た飛火野」の催し
治維法国賠同盟・奈良県本部青年部70年フィールドワーク「多喜二が見た飛火野」と題して、奈良市の教育大学で特高月報の閲覧と高畑町にある志賀直哉旧居の見学をおこないました。
田辺実県本部会長が、「歴史認識の問題は現代のものです」と話し、特高月報の説明や、県本部がまとめた「奈良県の治安維持法犠牲者名簿」を参考にすることなどアドバイスし、参加者は月報を閲覧しました。1931年11月に旧居を訪問し、宿泊したという2階の客間などを見学し、志賀直哉と多喜二の交流の様子や多喜二の死に志賀直哉が衝撃を受け、「暗たんたる気持ちになる」と多喜二の母に、手紙を送ったことなどを、日本共産党の宮本次郎県議が説明しました。
参加した、いずみ信丈参院選挙区候補は「自分と同じ世代の人が、命をかけてたたかっていたことがわかりました」と話しました。(「同盟サイト」より)
●2015.5.4・「しんぶん赤旗」→「潮流」
日本が侵略戦争に突き進んでいた最中の1933年2月20日、作家の小林多喜二が特高警察に虐殺されました。29年の生涯の多くを過ごした北海道小樽市にある市立小樽文学館には、関係する蔵書や資料が多数展示されています▼暗黒時代を彷彿とさせるのが、多喜二の死を報じた当時の新聞各紙。見出しは、そろって「取調べ中の心臓麻痺」と、特高警察の発表をうのみに。実際に手を下しながら「栄養不良の結果」だと語る、特高主任のウソも長々と紹介しているのです▼権力の暴虐に目をつむる報道姿勢は、侵略戦争への協力と一体のものでした。前年の32年には、全国の新聞社が「満州国」擁護の共同宣言を発表。太平洋戦争が開戦した直後には、新聞社共催で「米英撃滅国民大会」を開いています▼こうした〝負の歴史〟は、決して消せるものではありません。同時に許しがたいのは、治安維持法など数々の弾圧法と統制で言論機関を追い込んだ戦争推進勢力です▼今はどうか。秘密保護法、盗聴法拡大、戦争立法そして改憲策動…。きな臭い動きと軌を一にして言論機関への圧力が強まっています。テレビ局を「聴取」した自民党幹部は「停波」の脅しまでかけました▼報道への圧力について本紙で語ったジャーナリストの青木理さんは、こう強調しています。「メディアとジャーナリズムの矜持にかけて踏ん張らねばならない」。日本共産党員だった多喜二の遺志を継ぐわれわれも思いは同じです。言論の自由と平和憲法を守りぬくために。(「同盟サイト」より)
●2015.4.24・「しんぶん赤旗」→「没後86周年、山宣しのぶ・東京で集い」
治安維持法と侵略戦争に反対を貫き暗殺された労農党代議士山本宣冶の没後86年をしのぶ集いが、18日に東京都千代田区の東京しごとセンターで開かれました。東京山宣会が主催し、約80人が参加しました。
小樽商科大学の荻野富士夫教授が「戦後70年―改憲への危機と歴史認識」と題して講演。山宣と小林多喜二の関わりを2人の経歴を比べながら紹介し、直接面会したことを示す資料は残っていないが、思想の一致による深いつながりがあったと述べました。
生物学者の視点から戦争がもたらすものを予測・予感した山宣と、文学で社会をえぐり出し、なぜ戦争に反対しなければならないかを追求した多喜二という、それぞれの特徴を述べたうえで「山宣の意思を多喜二は継いでいる。私たちも今こそ覚悟を持って山宣や多喜二の意思を受け継いでいかなければいけない」と強調しました。(「同盟サイト」より)
●2015.3.6・「しんぶん赤旗」→「多喜二の母の入党秘話」国会議員駆けある記(紙智子日本共産党参院議員)
2月20日は、小林多喜二の命日です。各地で多喜二祭が行われています。私も北海道・苫小牧で話す機会がありました。
以前、「多喜二の軌跡を追って」という企画で、多喜二の生家のある秋田県下川沿村、北海道小樽市へ、多喜二ゆかりの場所を訪ねました。戦前、天皇制のもと、治安維持法による弾圧でわずか29歳で生涯を閉ざされた多喜二。人間らしく生きようと、いのちを燃やした姿に胸打たれました。
小林セキ小林セキ<新潮日本文学アルバム28「小林多喜二」より>
後に私の夫から、小樽で多喜二の母セキさんを訪ね、共産党への入党を呼びかけたときの様子を驚きと感動をもって聞きました。
セキさんは「私のようなばあさんでも、若い人が元気になるというなら入ってもいいよ」と入党を決意され、奥の部屋にいったと思ったら、羽織を着て正装して出てこられた。 正座し、入党申込書に名前を書き、ふっと宙をみあげ、「天国に行ったらあんちゃんなんて言うかな」とほほ笑んだそうです。 2月になると、2度と暗黒の時代を繰り返さない決意を新たにします。(「同盟サイト」より)
*セキ(1961.5.10歿、89歳)の葬儀はチマの所属する小樽シオン教会で挙げられた。(「同盟サイト」より)
●2015.3.4・「しんぶん赤旗」→「発見された多喜二虐殺後の写真/受け継がれる不屈のたたかい」(大田努・文芸評論家、多喜二・百合子研究会副代表)
今日の国際テロについて、「テロに屈しない」と声高に言う安倍首相が、一方では称揚してやまない「愛国心」だが、戦前の「愛国心」が国家的テロによってどんなに血塗られていたか、思い起こしてほしいものである。
・時代を超えて無法なテロ糾弾
82年前の2月20日、革命作家で日本共産党員の小林多喜二が特高警察によって虐殺された。この日正午すぎスパイ三船留吉の手引きで逮捕され、東京・築地警察署で3時間以上の惨虐な拷問を受けたが屈しなかったためである。
今年の命日を前に、伊藤純氏によって、多喜二の遺体を囲む従来のものとは違う、母セキや弟三吾を含む枕辺の写真や3周忌の写真などが発見された意義は大きい。弾圧に猛威を振るった治安維持法の誤りを今なお日本政府が認めない時に、これらの写真は時代を超えて無法なテロを糾弾しているからである。
当時は解放運動犠牲者の場合、犯罪者としてまともな葬儀の扱いは許されなかった。多喜二の場合も、後の告発を恐れた官憲が遺体の解剖を阻止し、通夜、告別式も参列者を総検束する厳戒態勢の中で行われている。こうした中で、この写真が多喜二とともにたたかう活動家たちと遺族とを共通の空間の中にとらえ得たところに、かつて作家・広津和郎が「彼の死は犬死ではない」といい、志賀直哉が「彼等の意図ものになるべし」といった未来への希望が託されているように思う。
この写真は伊藤氏の父の当時プロレタリア写真家同盟委員長だった貴司山治の撮影による。
先日市立小樽文学館から、多喜二と同じ日に築地署に収監されていた石井友幸の江口渙宛の手紙2通が公開された。これも、多喜二への権力犯罪を傍証する意味ある資料である。ただし、各紙で「新資料」として報道されたが、これらは日本共産党発行の『文化評論』1962年3月号、67年6月号ですでに公表されていた。
・証言の扱いは慎重な吟味必要
この手紙には「この房には私のほかに築地小劇場の劇団員の若い人がはいっていて、(中略)この若い劇団員は多喜二があの日にとらえられることを知っているようなことを私にはなしていました」と、監房内の流言が記されている。
これは多喜二の検挙はプロレタリア演劇同盟の活動家の供述によるという官憲が流した当時の虚偽報道を反映したもので、「若い劇団員」の供述なるものを使い多喜二逮捕のシナリオをつくり、多喜二を売ったスパイ三船の存在とスパイ政策を巧妙に隠蔽しようとしたものである。(青木笙子著『沈黙の川-本田延三郎点綴』河出書房新社刊参照)
このように、証言についての扱いは、言うまでもなく慎重な吟味が求められる。
今また、特定秘密保護法が施行され、強権によって国民の目、耳、口をふさぐ危険性が現実のものになる時、私たちは先人たちの不屈のたたかいをさまざまな角度から語り、受け継いでいかなければならない。(「同盟サイト」より)
●2015.2.26・「下野新聞」→石井友幸書簡
『蟹工船』などで知られるプロレタリア文学作家小林多喜二(1903~33年)が東京・築地署で獄死する前後の様子を、同時期に隣の監房に収監されていた生物学者の石井友幸(1903~72年)が記した書簡が那須烏山市内で発見され、北海道小樽市の市立小樽文学館で公開中だ。書簡は昨年11月、多喜二と交流があった小説家江口渙(1887~1975年)の旧烏山町の旧宅で、在野の研究者下田太郎さん(宇都宮市)らが遺品整理中に発見。同12月~1月に同館に寄贈した。
書簡は石井が62~67年に江口に宛てた計3通で、400字詰め原稿用紙5枚とはがき1枚。石井は、拷問を受けた多喜二が「口もきくことができないほどに危篤状態になっていた」「苦しさでたゞうなっているだけで、ひとことも口をきかなかったように思います」と記している。
 さらに「容体がおかしいことがわかると(中略)警察医が来て、しばらくのあいだ人工呼吸をしていましたが、そのあいだに恐らく息をひきとつたのでしよう」とつづっている。書簡には留置場内の詳しい見取り図も添えている。
同館の亀井志乃学芸員はこれまで不明だった監房内の位置関係が明らかになったとし、死の前後の様子もリアリティーの高い証言とみている。
死にひんした多喜二と同じ空間を共有した人物の回想は「おそらく非常にまれ」だという。記述は全体に自己劇化がなく、淡々としている。
しかし「極めてリアリティーが高い」と指摘する。「これまでの劇的な証言とはベクトルの方向が逆。理系の学者らしく客観的だと思った。ただ記述されているさまざまな点が事実か否かは今後の検証が必須」と話した。文書の公開期間は決まっていない。 http://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/local/news/20150226/1882302
●2015.2.25・「しんぶん赤旗」→朝の風「あいまいにできない虐待の過去」
小林多喜二の描いた『蟹工船』は、海上の缶詰工場という閉鎖された空間で酷使される労働者とその抵抗を描いた作品だ。
1926年には秩父丸、英航丸、博愛丸、門司丸などで労働者への残虐な事件がおき、新聞も大きく報道した。多喜二は、この一連の事件を綿密に調査し、小説にまとめあげた。
車内誌『THE JRHokkaido』12月号が、「紋別〝鬼監督〟を慕う人々」という記事をのせ、そこで「『蟹工船』で鬼監督のモデルとされた松崎隆一」として「彼は数々の社会貢献をして市民に慕われた人物」と書き、労働者虐待も「人権意識が極めて薄い当時の時代背景からすればむべなるかな」という関係者の言葉を紹介している。
松崎隆一は、博愛丸の船の事業主任として乗り込み、他の蟹工船でたびたび虐待事件をおこしていた阿部金之助やその子分らを雇った。彼らは、病気の労働者を強制労働で死亡させ、かし棒で強打、ウインチに吊り上げたりの虐待をほしいままにした。寄港して漁夫たちが警察に訴えて明らかになった。「当時の時代背景からすればむべなるかな」という問題ではない。
松崎隆一は後に紋別という地域に貢献したかもしれないが、過去の事実を、あいまいにはできまい。(聳)(「同盟サイト」より)
●2015.2.24・「しんぶん赤旗」→「多喜二の視点、私たちに生きる勇気/記念の夕べ」北海道・小樽
北海道小樽市で20日、小林多喜二没後82周年の多喜二祭(同実行委員会主催)が行われ、「講演と市民劇」(記念の夕べ)には、250人が参加しました。
寺井勝夫実行委員長は「平和か戦争か。せめぎ合いの情勢の中、戦前、命をかけて反戦平和の旗を掲げてたたかった多喜二の思いを想起することが今非常に大事だ」と挨拶。
多喜二は作品の中で、労働者や貧農の過酷な状況だけでなく、無権利、低賃金で働かされていた女性労働者の現実も描きだしました。「多喜二の描いた女性像―格差・差別なき公正な世を」と題して講演した文芸評論家の宮本阿伎さんは、多喜二の生い立ち、田口タキとの出会いなどにも触れながら、女性解放の視点を明確に持った作家だったと語り、「多喜二の小説をもう一度読みなおし、今日を生きる私たちの勇気に」と話しました。
多喜二が、自身の階級闘争への最初の原体験を描いた小説「東倶知安行」が、16人の市民による構成劇(作・演出、大地巌)として上演されました。
小樽市の女性(61)は「82年前の日本を改めて考えました。多喜二と同じように生きられたら」と話していました。(「同盟サイト」より)
●2015.2.22・「しんぶん赤旗」→「多喜二の遺体囲む新写真見つかる/母セキ・弟三吾さんの姿」
20日は、作家の小林多喜二が虐殺されて82周年。この日を前に、多喜二の遺体を遺族が囲む新しい写真が発見されました。
特高警察に捕らえられた20日のうちに虐殺された多喜二の遺体は、21日夜、東京・馬橋の自宅に運び込まれます。プロレタリア文化運動の仲間たちが腕組みをして遺体を囲んでいる同日夜の写真はよく知られています。
今回発見されたのは、同じ場所で母のセキさんや弟の三吾さんら肉親が写っているもの。撮影したのは、文化運動のメンバーとして活躍した貴司山治です。息子で、プロレタリア文学研究者の伊藤純さんが、遺品の中から見つけました。
「父は、写真は素人ではなかったので、ブレのあるこの写真から動揺や恐怖感があったことがうかがえます。虐殺は、歴史的、客観的な事実として伝えられていますが、どんなに恐ろしいことだったかを再認識することになればいいと思います」と伊藤さんは語ります。
原板は、大判名刺の大きさのガラス乾板で、没後2年目の2月に開かれた多喜二をしのぶ会や、プロレタリア作家同盟創立大会(1929年2月)などの、これまで多喜二の写真集などに収められていたものと別のカットなどもあります。
多喜二・百合子研究会の副代表・大田努さんは、「当時の衝撃をなまなましく伝える写真で、文学・歴史の証言として意味があります。プロレタリア写真家同盟の責任者だった貴司山治の報道写真としても優れており、82年を超えて深い感銘があります」と語ります。(「同盟サイト」より)
●2015.2.21・「しんぶん赤旗」→「多喜二の母セキさんと亡き夫の交流を語る・入党「あんちゃん何て言うかな」/紙議員が講演」北海道苫小牧
日本共産党の紙智子参院議員は、北海道苫小牧市で、親交のある苫小牧駒沢大学の篠原昌彦教授(3月末で退職)の最終講義「大正デモクラシーと多喜二の文学世界」(1日)で、ゲスト講演しました。紙議員はそのなかで、2012年に亡くなった夫の内山勝人氏(享年72歳)が、小林多喜二の母のセキさんの入党(1960年10月)に立ち会ったことなどについて語りました。その内容を紹介します。
今月20日は、戦前のプロレタリア作家であり、日本共産党の活動家だった多喜二の没後82年にあたる命日です。私は、亡き夫が多喜二の母のセキさんと出会い、セキさんの日本共産党入党の時にも立ち会ったことを、聞いた時の驚きと感動を今も忘れません。 夫は、10代のとき、結核を患い、小樽市内の病院で闘病・療養生活を送りました。入院中に多喜二の小説にふれ、退院したら(『不在地主』のモデルとなった)磯野牧場(富良野市)や小樽の港湾など小説の現場を訪れようと思いをはせていました。
東京に行ってから一度も小樽に帰ってこなかった多喜二は、33年2月20日、絶対主義的天皇制のもと、治安維持法による弾圧で逮捕されました。特高警察の残虐な拷問により、わずか29歳で生涯を閉ざされました。
・アルバム見せて
夫は、入院中に知り合った患者から多喜二の姉のチマさんを紹介され、退院後、小樽市内のチマさんのお宅(豆腐屋)を訪問。そこにはセキさんもいました。
セキさんの部屋には、多喜二の書斎での写真や、絵画が飾られていて、本棚には多喜二の本もありました。セキさんは、夫にアルバムを見せながら、なつかしそうに多喜二の思い出を話しました。しかし、多喜二が惨殺された2月20日のことは話さなかったといいます。 夫が後日、チマさんから聞いた話では、「母は、初対面の人とはあまり話をしなかったが、いろいろ話したのは、内山さんが学生服を着ていたので、多喜二を思い出したのではないでしょうか」とのことでした。
多喜二の母、セキさんのことは、三浦綾子さんの小説『母』に描かれ、前進座の舞台でも演じられてきました。前進座のスタッフは夫からセキさんの入党の経緯を聞き、思いを込めて演じられたそうです。
・元気になるなら
60年10月、「若い人が元気になるなら入ってもいい」と入党を決意したセキさんは、ふと立ち上がり奥の部屋に行き、羽織を着て正装して戻ってきました。その後、正座し入党申込書を書いたのです。
セキさんは記入後、宙を見上げて、「天国に行ったら、あんちゃん(多喜二)は何て言うかな」とにこっと笑ったそうです。
夫は、「セキさんは、息子が命がけで守りがんばりぬいた党に入り、少しでも息子と同じ道を歩むことをうれしく思ったのかな」とその当時のことを振り返り話していました。
多喜二の志は、今日の時代につながっています。多喜二が生きた時代とは大きく変わりましたが、社会全体が大きな激動の時期を迎えています。
これから生きていく私たちがどうあるべきかを考えていく一つの契機になればいいと思い、夫と多喜二にまつわる話をさせていただきました。(「同盟サイト」より)
●2015.2.21・「しんぶん赤旗」→「小樽で多喜二墓前祭/「戦争する国」許さぬ決意新たに」
日本共産党員で、「蟹工船」などの作品で知られるプロレタリア作家・小林多喜二の墓前祭が、没後82周年の命日にあたる20日、北海道小樽市で行われました。小樽をはじめ、札幌、旭川、函館など各地から80人が墓前に集い、赤いカーネーションを供え、安倍政権による「戦争する国」づくりを許さない決意を新たにしました。
小樽多喜二祭実行委員会の菊地よう子実行委員長代理(日本共産党道議候補)は、「戦後70年。平和のために命をかけてたたかった多喜二の生涯は、今も私たちを励ましています。戦前に逆流させる動きを決して許してはなりません。平和への思いを新たに前進したい」と挨拶しました。
日本共産党北海道委員会の青山慶二委員長は「憲法9条をなきものにすることが安倍首相の最大の野望です。侵略戦争と植民地支配に命をかけて反対した歴史と誇りに立って、極右勢力による政治支配を終わらせるために全力を挙げます」と決意をのべました。 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟北海道本部の宮田汎会長は「多喜二の思いをしっかり受け継いでいこう」と呼びかけました。(「同盟サイト」より)
●2015.2.14・「しんぶん赤旗」→「北海道・秋田県の各地で多喜二しのぶ集い」
・『蟹工船』などの作品で知られる戦前のプロレタリア作家、非合法化の日本共産党員で、1933年2月20日、特高警察の拷問により29歳で命を奪われた小林多喜二をしのぶ集いが、北海道と秋田県の各地で行われます。
多喜二は秋田県下川沿村(現大館市)の農村で生まれ、4歳のときに一家で北海道小樽に移住しました。
・北海道
小樽市で20日、「2015年小樽多喜二祭」(同実行委員会主催)が開かれます。午後1時半から奥沢墓地で「墓前祭」、午後6時半からマリンホールで。文芸評論家で日本民主主義文学会常任幹事の宮本阿伎さんが「多喜二の描いた女性像~格差・差別なき公正な世を」と題して講演。構成劇「東倶知安行」(原作小林多喜二、構成・演出大地巌)を市民有志で上演します。
釧路では14日(土)午後1時半から「小林多喜二を語るつどい・くしろ」が釧路市生涯学習センター「まなぼっと」で開かれます。文芸評論家の松木新さんが「多喜二と選挙」と題して講演します。
江別市では「第7回江別の多喜二祭」が3月7日(土)午後2時から、ドラマシアターども(江別市2条2の7の1)で。治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟北海道本部の宮田汎会長が「今、多喜二が呼びかけるもの」と題して講演します。
・秋田
秋田市では「第50回秋田県多喜二祭」が21日(土)午後1時半~午後4時半、秋田県生涯学習センター講堂(山王中島町)で行われます。主催は、同実行委員会。資料代1000円が必要です。
大館市では「第36回大館市小林多喜二記念の集い」を22日(日)午後2時~午後4時、同市中央公民館(桜町南)で行います。主催は同実行委員会。入場は無料です。
どちらも高橋秀晴秋田県立大学総合科学教育研究センター長が、「世界の中の多喜二、多喜二の中の秋田」と題して講演。多喜二作品の朗読も行われます。
秋田市では、秋田合唱団による合唱と「秋田県多喜二祭賞」授賞式があわせて行われ、今年は秋田市の鈴木諄さん、大館市の富樫康雄さん、同市の小林多喜二生誕の地碑保存会に贈られます。(「同盟サイト」より)
●「2015年各地の多喜二祭」
・2015 小林多喜二を語るつどい・くしろ
日時=2月14曰(土) 午後1:00~、場所=釧路市生涯学習センター、講師=松木新(文芸評論家)
・第7回江別の多喜二祭
日時=3月7日(土)午後2:00~、場所=江別市ドラマシアターども、講演=「多喜二の青春パート5」、講師=宮田汎
・2015年小樽多喜二祭
日時=2月20日(金)午後 6:30~、場所=マリンホール(小樽市民センター)、構成劇=「東倶知安行」、 講演=「多喜二の描いた女性像 ―格差・差別なき公正な世を」、講師=宮本阿伎(文芸評論家)、参加券=1500円(高校生以下1000円)、墓前祭=午後1:30~ 奥沢墓地、小樽駅発バ 12:45(往復400円)、 電話=0134-32-8560(事務局・斎藤)
・2015年第50回秋田県多喜二祭
日時=2月21日(土)午後1:30~4:30、場所=秋田県生涯学習センター、講演=「世界の中の多喜二、多喜二の中の秋田」、講師=高橋秀晴(秋田県立大学総合科学教育研究センター長)、資料代=1000円、合唱・多喜二祭賞授賞・講演
・2015年第36回大館市小林多喜二記念の集い
日時=2月22日(日)午後1:30~、場所=大館市中央公民館、講演=「世界の中の多喜二、多喜二の中の秋田」、講師=講師=高橋秀晴(秋田県立大学総合科学教育研究センター長)
・第27回杉並・中野・渋谷多喜二祭
日時=2月20日(金) 午後6:00開場6:30開演、場所=座・高円寺、講演=「時代への対峙、小説の生動―多喜二の方法と今日の挑戦」、講師=田島 一(作家)、参加券=前売1500円(当日1700円)、作品朗読=岡部政明(俳優)、 ピアノ弾き語り=佐藤真子(歌手)、 電話=03-5382-3177(杉並・中野・渋谷多喜二祭実行委員会)
・2015年第14回神奈川七沢多喜二祭
日時=2月21日(土)開場 午後1:30開演午後2:00、場所=伊勢原市民文化会館小ホール、入場料=990円、講演=「多喜二の願いと、この国の今―戦争と「慰安婦」の問題にふれて」、講師=能島龍三(作家)、音楽=泉恵子(ビオラ)・杉本正(コントラバス)・早川愛美(ヴァイオリン)、電話=045-304-5889(事務局=蠣崎)
・2015年第9回大阪多喜二祭
日時=2月21日(土)開会午後1:30、 場所=クレオ大阪東ホール・講演=「世界につながり、ひろがる多喜二」、講師=緒方靖夫(日本共産党副委員長)、歌=ケイ・シュガー、資料代=1000円、電話=06-6772-7555(治安維持法国賠同盟大阪府本部)
・2015年兵庫県小林多喜二記念集会
日時= 2月22日(日)午後1:30開演、 場所=兵庫県民会館、講演=「多喜二・小津・太宰たちの見た『転換時代』」、講師=島村輝 (フェリス女学院大学教授)
・第13回阪神北小林多喜二祭
場所=伊丹市いたみホール(地下多目的ホール)、 日時=2月22日(日)午後1:30~、講師=尾西康充(三重大学教授)
・2015年第8回伊勢崎多喜二祭
日時=9月6日(日)午後2:00~、場所=伊勢崎市民プラザホール、講師=北村隆志(文芸評論家)、歌=ケイ・シュガー
●2015.1.4・「しんぶん赤旗」本立て→「闇があるから光がある 新時代を拓く小林多喜二」荻野富士夫編著
戦前、ペンをとることで時の支配権力とたたかい、特別高等警察の拷問により殺された小林多喜二。彼の命日2月20日を前後して2014年に各地で開かれた「多喜二祭」で、ノーマ・フィールド氏ら6人が語った講演の記録と構成劇の台本を収録しています。
例年に増して予想以上の参加者で熱気に包まれた14年の「多喜二祭」。講演者は多喜二の生き方を通じ、「戦争する国」へ突き進む安倍政権への危機感と克服への希望を語ります。表題の「闇があるから光がある」は多喜二の言葉です。(学習の友社1800円)(「同盟サイト」より)

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2014年


●2014.12.21・「しんぶん赤旗」→「闇があるから光がある-新時代を拓く小林多喜二」荻野富士夫編著
「今につながるたたかいの生き様」
本書は2014年に各地で行われた「多喜二祭」講演記録である。冒頭で、編著者はこう紹介する。「特高警察の非道な拷問死という、その最期はおよそ『祭』とはかけ離れている」。しかし、「多喜二祭」がめぐってくるたびに、新たな読者をつかんでくるという多喜二への関心の広がり、熱気に包まれる各地の講演。多喜二にはやはり「多喜二忌」をも含む多喜二「祭」がふさわしいのだと。
各地で講演された6人の講演者の記録がつづられている。困難を抱きながらも動物的搾取に理性を対峙させたたかい抜いた多喜二の生きざまが、いまを生きる者たちへつながっていることがそれぞれの形で収斂されている。
私個人は働く現場から語られる希望に関心を持つが、「生活」を「生命」に優先せざるを得ない者たちとの向き合いが問いなおされているというノーマ・フィールドさんの指摘に目をとめた。血や打撲傷をともなわない暴力的搾取にさらされ、生活と生命の乖離を巧妙に利用する勢力に抗しながら、いま、本気で希望が語れるだろうかという彼女の問いかけは胸に刺さった。
資本のもたらす卑劣な人権侵害、不合理な差別や抑圧は、働く者の抵抗によって際立ち、骨絡みの覚悟と階級的自覚は、人間的結びつきのなかで形成されてゆく。
「私はその何かの顕示をうけたように、1つの義務を感じた。この事こそ書かなければならない。書いて、彼奴等の前にたヽきつけ、あらゆる大衆を憤激にかり立てなければならないと思った」「社会をえぐり出すために書く」という多喜二の覚悟を私たちはどのように引き受けていけばいいのだろうか。
執筆者はほかに石川康宏、尾西康充など。評者=神部紅・首都圏青年ユニオン委員長。(「同盟サイト」より)
●2014.4.8・「しんぶん赤旗」→「多喜二とふじ子知るつどい開催、妻・ふじ子出身、山梨・韮崎市で」
戦前の日本共産党員作家・小林多喜二の妻、伊藤ふじ子の出身地である山梨県韮崎市でこのほど、「反戦・平和を生きた多喜二とふじ子を知るつどい」が開かれました。
県平和委員会女性部と韮崎、北杜両市の平和委員会が企画したもので、県平和委員会の桜井真作代表理事が講演しました。 桜井氏は、多くの資料を示しながら、2人が生きた時代と出会い、多喜二の創作活動と「蟹工船」「党生活者」が訴えるものなどを紹介。山梨における治安維持法による弾圧事件や、山梨に引き継がれた多喜二らの精神について語りました。
参加者は「初めて聞く話だった。多喜二の母セキとふじ子の話にも感銘を受けた。ふじ子の地元でも多喜二祭ができたらうれしい。協力したい」などと話し合いました。(「同盟サイト」より)
●2014.3.8・「しんぶん赤旗」→北海道江別で多喜二祭「大いに学び励まされた」
北海道江別市で2日、プロレタリア作家・小林多喜二をしのぶ「第6回江別の多喜二祭」が開かれ、80人が参加しました。 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟(治維法国賠同盟)北海道本部の宮田汎会長が、「多喜二の志を受け継ぐ人々」と題して講演しました。
宮田氏は、戦前、治安維持法改悪に反対し右翼に刺殺された労農党代議士・山本宣治と多喜二が、1928年の3・15弾圧事件を国会と小説で告発した「接点」にも触れ、多喜二の志を受け継いで活動した、反戦運動で命を奪われた戦前の女性活動家の相沢良らについて語りました。
第2部では、神保大地弁護士が、秘密保護法と集団的自衛権について話しました。
最後に全員で「多喜二へのレクイエム」を合唱。「多喜二の体温を感じました」、「大いに学び、励まされました」、「レクイエムでは、涙がとまりませんでした」などの感想が寄せられました。
参加者には、多喜二の大好物だったぼた餅がふるまわれました。(「同盟サイト」より)
●2014.3.6・「しんぶん赤旗」→多喜二祭盛況「函館で40年ぶり開催、満員の310人参加」
プロレタリア作家・小林多喜二をしのぶ「2014年函館・多喜二祭」が1日、北海道函館市で行われました。同市で「多喜二祭」と銘打った行事が開かれるのはほぼ40年ぶりです。310人が参加し、会場は満席となりました。
主催は同祭実行委員会(吉野敏明委員長)。小林多喜二の代表作である『蟹工船』出港の基地・函館で「多喜二祭」を、と準備しました。
第1部の開幕演奏では、うたう会・きずなと函館トロイカ合唱団有志による「多喜二へのレクイエム」などの合唱が行われ、感動を呼びました。
また、ギター演奏をバックに、壺井繁治の詩「二月二十日-小林多喜二のお母さんへ」を吉田喜八さんが朗読し、29歳で特高警察に命を奪われた多喜二を悼む言葉が静かな会場に流れました。
第2部では、小樽商大の荻野富士夫教授が「『蟹工船』から見えてくるもの」と題して講演しました。 『蟹工船』では駆逐艦の水兵が着剣して船上のストライキを弾圧する場面があり『蟹工船』を反戦小説としてとらえる試みや、戦後共産党の議員候補として活躍した村上由氏が函館合同労組のオルグとして小樽に行った時、多喜二から蟹工船について詳しく聞かれ、彼の創作を助けたことなど、興味深い講演に参加者は熱心に耳を傾けていました。(「同盟サイト」より)
●2014.2.27・「しんぶん赤旗」→「多喜二しのび催し/秋田市と大館市で開催」
プロレタリア作家・小林多喜二(1903~33年)をしのぶ催しが、秋田県の秋田市と大館市で行われました。
秋田市では22日、「第49回秋田県多喜二祭」に164人が参加、出身地の大館市では23日、「第35回大館小林多喜二記念の集い」に100人が参加しました。
両日とも尾西康充三重大学人文学部教授が「小林多喜二と石川達三―北海道開拓とブラジル移民」と題して記念講演しました。
尾西教授は2人の執筆活動の原点についての考察を述べ、現在の政治状況を多喜二、達三の時代に通じるものだと批判しました。
参加した男性は「文学と現実のかかわりを深く掘り下げて語られ、多くのことを知ることができました」と感想を寄せ、70代の男性は「いま安倍政権が進めようとしている集団的自衛権の行使容認や強行成立させた秘密保護法など『戦争できる国づくり』の動きと対比され、多喜二のたたかいが現在に通じるものであるということが良くわかりました」と語りました。
秋田市の集会では、近江谷昭二郎治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟秋田県本部会長の特別報告「治安維持法と秘密保護法」と、秋田合唱団による合唱が行われました。
また、今年の「多喜二祭賞」が発表され、湯沢市を中心に長年にわたって平和運動・労働運動に尽力してきた鈴木甚郎さんが受賞しました。(「同盟サイト」より)
●2014.2.25・「しんぶん赤旗」→「多喜二文学から学ぶ/筑西市で茨城多喜二祭開く」
「茨城多喜二祭」が20日、茨城県筑西市の地域交流センター「アルテイオ」で行われ、約50人が参加しました。
日本民主主義文学会の奈良達雄氏が、「小林多喜二と上野壮夫」と題して講演しました。
多喜二の作品『蟹工船』「総選挙と『我等の山懸』」や詩人・上野壮夫の「支那へ行くのか」「ラッパよ鳴るな」などを朗読・引用しながら、自民党の改憲案、安倍政権の集団的自衛権論議や「教育改革」などを批判。現在のたたかいを進めるうえでも、プロレタリア文学から学ぶべきものが豊富にあると強調しました。
参加者からは「もっと多喜二の作品を読まなければ」「山本懸蔵や上野壮夫など、茨城にも優れた先人がいたことを知って、誇らしかった」などの感想が寄せられました。
治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟茨城県本部、日本共産党の鈴木聡県議、加茂さちえ市議、群馬多喜二祭実行委員会のメッセージが紹介されました。(「同盟サイト」より)
●2014.2.22・「しんぶん赤旗」→「反戦・平和継承/多喜二に誓う/小樽で墓前祭」
小林多喜二の命日である20日、北海道小樽市で没後81周年の墓前祭と記念の夕べが行われました。墓前祭は青空の下、多喜二の墓のある雪深い奥沢墓地で行われ、道内外から約90人が参加し、赤いカーネーションを献花しました。
多喜二祭実行委員会の琴坂禎子さん、治安維持法国賠同盟道本部の宮田汎会長、日本共産党北海道委員会の青山慶二委員長が挨拶し、「多喜二の遺志を引き継ぎ、戦争をする国にしないため全力を尽くすこと」を誓い合いました。
記念の夕べの第1部では、市民劇「爺ちゃんは昔戦争に行った」が上演され、小中高生や市民の熱演に400人の観客から温かい拍手が送られました。
第2部で寺田勝夫実行委員長は「多喜二の足跡を学び、生かすことの意義がますます大きくなっている」と挨拶しました。
小樽商科大学の荻野富士夫教授は「『蟹工船』から見えてくるもの」と題して講演。
多喜二の文学は反戦文学という見方もできると指摘し、多喜二の時代の治安維持法、軍機保護法は今の秘密保護法に通じ、「自由・平等・平和という価値観を抑制し、政府にとって都合のよい、従順な国民をつくるものだ」と強調しました。(「同盟サイト」より)
●2014.2.22・「しんぶん赤旗」→「きょう大阪多喜二祭/クレオ大阪東ホール」
大阪多喜二祭が22日午後1時半、大阪市城東区のクレオ大阪東ホールで開かれます。
「現代に生きる小林多喜二」と題したスライド上映では、日本共産党大阪府委員会の清水忠史副委員長が「活弁」で熱演します。
多喜二が学んだ小樽商科大学の荻野富士夫教授が記念講演「『蟹工船』からみえてくるもの」を行います。
会場へはJR京橋駅南口から南へ7分。資料代1000円。クレオ大阪東=06(6965)1200「同盟サイト」より)
●2014.2.22・「しんぶん赤旗」→「多喜二から、現代の青年へ/能島龍三」
小説『蟹工船』の作者である小林多喜二が、特高警察の拷問で29歳の生命を絶たれたのは、1933年2月20日のことだ。「満州事変」の1年半後、「五・一五事件」や「米よこせ闘争」があった翌年である。ヒトラーがドイツ首相となり、日本は国際連盟脱退に突き進む、そんな時代だった。
当時の国家権力が殺したいほど憎んだ多喜二という作家は、どんな人間だったのか。若い頃からの作品や日記、手紙などを読むと、彼が一貫して貧しい人や虐げられた人に心を寄せてきたことがよく分かる。
監獄部屋や北氷洋で死ぬまで働かされる労働者、貧しさから身を売る女性たち、働いても働いても貧困から抜け出せない人々……。多喜二は、どうしたらその人たちが人間らしく生きられるのか、貧困や差別の根源を見つめ、資本や地主の収奪、国家権力の抑圧、侵略戦争に反対して、学びつつ闘いつつ生きた作家なのである。
連帯への願い
『蟹工船』が爆発的なヒットとなった1929年の7月に、新築地劇団が帝劇公演として「北緯五十度以北」(『蟹工船』脚色)を上演した。上演に向けての「原作者の寸言」という一文が残っている。
「『蟹』がノソゝゝ帝劇の『舞台』を歩き出す!」で始まるこの文は、北氷洋で足をもがれ、甲殻をはがれ、煮沸され、「罐詰」にされたのが蟹でなく労働者だったら、笑っていられるかと問い掛ける。そしてこの作品には、ソビエトロシア、労働者、帝国軍艦、丸ビル、代議士、大臣までが出てくるぞと、時代を撃つ内容であることを暗示して、最後にこう述べる。
「労働者に似ている、カムサツカの蟹よ!今こそ、お前は誰が味方であり、『舞台』の上から、ハッキリお前にさしのばされている幾百万の『仲間の手』を知ることが出来るのだ。堅く手を握れ! お前がハルゝゝ『カムサツカ』から出てきたことは、無駄ではなかった!」
自分の作品が帝劇で上演されるという喜びが弾んでいるような文章だが、ここには多喜二が目指した、広範な人々の連帯への願いがあふれている。
「味方は俺達」
それから80数年経った今、この国では恐ろしい勢いで貧困と格差が広がっている。非正規雇用が増大し、正規雇用であっても、過酷な労働を強いられ、若者が使い捨てられる異常な事態が進行している。しかしながら一方では、自己責任論に押し潰されない若者たちが声を上げ始め、闘いの輪も広がってきている。
小説『蟹工船』の中で、味方と思っていた帝国海軍によってストライキを鎮圧された労働者が言う。
「俺達には、俺達しか、味方が無えんだな。始めて分った」
待っていれば誰かが助けてくれるなんてことはない。自分自身で立ち上がらなくてはならない。そう気付いた幾百万もの人々が手を結び合わせた時、社会は変えられる。過酷な労働や貧困に苦しむ現代の青年たちに、小林多喜二はそう呼びかけている。(のじまりゅうぞう=作家、日本民主主義文学会事務局長)
・第26回杉並・中野・渋谷多喜二祭
記念講演=ノーマ・フィールド(シカゴ大学名誉教授)「いま、零時5分前です―世界週末時計と小林多喜二」、ロシア民謡=岸本力(ピアノ・齋藤誠二)、『蟹工船』朗読=川端悠吾。20日午後6時半、東京・座・高円寺2。実行委員会電話=03(5382)3177
・第13回神奈川七沢多喜二祭
記念講演=ノーマ・フィールド(東京と同じ)、北村隆志「世界文学と小林多喜二」。ソプラノ独唱=松本良江(ピアノ・田巻真理)、バイオリン演奏=早川愛美(フルート・近藤香緒里)。22日午後1時半、伊勢原市民文化会館。事務局電話=045(304)5889(「同盟サイト」より)
●2014.2.19・「しんぶん赤旗」→「多喜二しのぶ催し、秋田県各地で。秋田市で22日、大館市は23日」
プロレタリア作家・小林多喜二(1903~33年)・(秋田県大館市出身)をしのぶ催しが、秋田市と大館市で行われます。
秋田市では「第49回秋田県多喜二祭」が22日(土)午後1時30分~4時30分、秋田県生涯学習センター講堂(山王中島町)で行われます。主催は、同実行委員会。資料代1000円が必要です。
大館市では「第35回大館市小林多喜二記念の集い」を23日(日)午後2時~4時、大館市中央公民館(桜町南)で行います。主催は同実行委員会。入場は無料です。
どちらも尾西康充三重大学人文学部教授を講師に、記念講演「小林多喜二と石川達三―北海道開拓とブラジル移民」と多喜二作品の朗読などを行います。
秋田市では、近江谷昭二郎治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟秋田県本部会長の特別報告「治安維持法と秘密保護法」、「秋田県多喜二祭賞」の発表、秋田合唱団による合唱などもあわせて行われます。(「同盟サイト」より)
●2014.2.14・「しんぶん赤旗」→「20日、多喜二祭で市民劇/没後81年/高校生ら稽古/北海道小樽」
北海道小樽市で「没後81年・小林多喜二祭」が開かれるのを前に12日、小樽市民らが市民劇「爺ちゃんは昔戦争に行った」の稽古に汗を流しました。
多喜二祭で劇が行われるのは数十年ぶり。多喜二役を高校生が演じるほか、小学生から79歳まで演劇経験のある人もない人も一緒になってつくり上げています。
作・構成・演出を手掛ける大地巌さん(道憲法改悪反対共同センター事務局長)は「劇や祭を通じて、反戦平和、国民が主人公の時代を求めて命をかけた人たちがいたことや戦争について考えてほしい」と語ります。
物語は、戦争体験者の爺ちゃんが軍国主義の時代、小林多喜二のことを思い起こしながら、「戦争の足音が聞こえてくる」現代に思いをはせます。
主人公の爺ちゃんを演じる藤田尚孝さん(79)は「今の安倍政権の進む方向は戦前のようだと思います。ぜひ、みなさんに見ていただきたい」と話しました。
多喜二祭は20日(木)、小樽市民センターマリンホールで開催。市民劇は午後4時開演(3時半開場)。第2部の講演会は午後6時半開演(6時開場)。演題と講師=「『蟹工船』から見えてくるもの」荻野富士夫氏(小樽商科大学教授)
参加券は1500円。市民劇のみの観覧は500円(中学生以下無料)。主催・問い合わせ=実行委員会0134(32)8560斎藤さん(「同盟サイト」より)
●2014.2.12・「しんぶん赤旗」→「多喜二を語るつどいひらく/北海道釧路」
今年で23回目を迎えた北海道釧路市での「小林多喜二を語るつどい・くしろ」(同実行委員会主催)が8日、開かれました。
フェリス女学院大学の島村輝教授が「21世紀の多喜二像、井上ひさし『組曲虐殺』の人物たち」と題して講演しました。
会場には小林多喜二の写真と赤いカーネーションが飾られ、代表作『蟹工船』の一部が朗読されました。
島村氏は、井上氏の絶筆となった「組曲虐殺」の中で多喜二は、姉チマ、田口タキ、伊藤ふじ子など身近な女性から励ましを受けるとともに、彼女たちに深い思いやりと信頼を寄せる人物として描かれているとのべました。
多喜二虐殺から80年、今日の安倍暴走政権のもと、秘密保護法の成立などの情勢に触れ、多喜二の作品をどう読むか、言論統制から戦争へと進まないように、文学の力を変革の方向に進めようと話しました。
一般参加者を含め、釧路・根室地方から120人が参加し、熱心に講演を聞きました。(「同盟サイト」より)
●「2014年、各地の多喜二祭」
・2014小林多喜二を語るつどい・くしろ
日時=2月8曰(土)午後1時半~、 場所=釧路市生涯学習センター705・706号室、 講演=「二十一世紀の多喜二像 井上ひさし『組曲虐殺』の人物たち」、 講師=島村輝(フェリス女学院大学教授)、 資料代=500円、 電話=0154(91)0794(事務局・天城)
・2014年兵庫県小林多喜二記念集会
日時= 2月15日(土)午後1時半開演、 場所=兵庫県民会館、 講演=「小林多喜二の文学-移民と棄民の相貌」、 講師=尾西康充 (三重大学教授)、 参加費=1000円、 電話=078-351-0388(兵庫多喜二・百合子の会)
・茨城多喜二祭
日時=2月20日(木)午後1時半~、 場所=筑西市アルテリオ、 講演=「小林多喜二と上野壮夫」、 講師=奈良達雄(日本民主主義文学会・多喜二百合子研究会)、 資料代=300円、 電話=0296-24-9073(加茂)
・2014年小樽多喜二祭
日時=2月20日(木)午後6時半~、 場所=小樽マリンホール、 音楽=北海道合唱団、「多喜二の追悼の歌」を含めたコーラス、 講演=「蟹工船から見えてくるもの」、 講師=荻野富士夫(小樽商科大学教授)、 資料代=通し1500円、市民劇のみ500円、中学生以下無料、 墓前祭=13:30~、小樽駅発バス12:45(往復400円)、 市民劇=16:00 小樽マリンホール「爺ちゃんは昔戦争に行った」、 電話=0134-32-8560(事務局・斎藤)
・第26回杉並・中野・渋谷多喜二祭
日時=2月20日(木)18時開場、18時30分開演、 場所=座・高円寺2、 講演=「いま、午前零時5分前です-世紀終末時計と小林多喜二」、 講師=ノーマ・フィールド(シカゴ大学名誉教授)、 チケット=前売1500円(当日1700円)、 ロシア民謡=バス歌手:岸本力、ピアノ:齋藤誠二、 作品朗読=俳優・青年劇場 川端悠吾『蟹工船』、 電話=03-5382-3177(杉並・中野・渋谷多喜二祭実行委員会)
・2014年多喜二・百合子に学び・かたる早春・文化の集い2月1日
日時=2月22日(土)午後2時~5時、 場所=カルチャーパレス視聴覚室(熊本県・人吉市)、 映画=「武器なき斗い」(監督/山本薩夫)、 資料代=1000円、 電話=0966-23-2527(上田)
・2014年第49回秋田県多喜二祭
日時=2月22日(土)13:30~16:30、 場所=秋田県生涯学習センター講堂、 講演=「小林多喜二と石川達三」、 講師=尾西康充(三重大学教授)、 資料代=1000円、 合唱・多喜二祭賞受賞・朗読、 電話=018-833-3117(事務局・富樫)
・2014年第 13 回神奈川七沢多喜二祭
日時=2月22日(土)開場13:00・開演13:30、 場所=伊勢原市民文化会館小ホール、 入場料=990円(当日券も同額)、 講演=「いま、午前零時 5 分前です―世界終末時計と小林多喜二」、 講師=ノーマ・フィールド(シカゴ大学名誉教授)、 講演=「世界文学と小林多喜二」、 講師=北村隆志(文芸評論家)、 音楽=ソプラノ独唱:松本良江/ピアノ伴奏:田巻真理/ヴァイオリン演奏:早川愛/フルート演奏:近藤香緒里、 電話=045-304-5889(事務局・蠣崎)
・2014年第8回大阪多喜二祭
日時=2月22日(土)開会13:30、 場所=クレオ大阪東、 活弁=清水ただし「現代に生きる小林多喜二」、 講演=「『蟹工船』から見えてくるもの」、 講師=荻野富士夫(小樽商科大学教授)、 電話=06-6772-7555(治安維持法国賠同盟大阪府本部)
・2014年第35回大館市小林多喜二記念の集い
日時=2月23日(日)13:30~、 場所=大館市中央公民館、 講師=尾西康充(三重大学教授)、 電話=0186-42-9694(事務局・大山)
・第12回阪神北小林多喜二祭
場所=いたみホール(地下多目的ホール)、 日時=2 月20日(木)午後6時30分より、 講演=小林多喜二の時代と安倍晋三の「美しい国」、 講師=石川康宏(神戸女学院大学教授)、 音楽=ハーモニカ演奏:寺村安雄、 会費=1500円、 電話=072-781-0122(阪神北小林多喜二祭実行委員会)
・2014年函館多喜二祭
場所=函館市亀田福祉センター(美原1)、 日時=3月1日(土)午後1時30分、 講演=「蟹工船から見えてくるもの」、 講師=荻野富士夫(小樽商科大学教授)、 音楽=朗読・合唱、 会費=500円、 電話=0138-42-2327(広瀬)
・2014年広島多喜二祭
日時=3月2日(日)14 時、 場所=広島市南区民文化センター、 講演=「治安維持法と秘密保護法-多喜二の文学作品から」、 講師=尾西康充(三重大学教授)、 文化行事=DVD 上映/群読:多喜二の作品から、 電話=082-263-6499(治安維持法国賠同盟広島県本部)
・2014年第6回江別多喜二祭
日時=3月2日午後2時、 場所=ドラマシアターども(JR江別駅5分)、 参加費=1000円(お茶、おはぎ付き)、 朗読=三浦綾子「母」、多喜二の書いた童話「健坊の作文」、 講演=お話とスライド「多喜二の志を受け継いだ人々」、 講演=「特定秘密保護法について」、 講師=神保大地(さっぽろ法律事務所・弁護士)、 音楽=ピアノと歌「多喜二へのレクイエム」など、 電話=ドラマシアターども 011-384-4011
・2014年第7回伊勢崎多喜二祭
日時=9月7日(日)午後2時~、 場所=伊勢崎市民プラザホール、 講演=「山本宣治と小林多喜二」、 講師=本庄豊(立命館宇治中学校・高等学校教師、立命館大学非常勤講師)、 音楽=田島葉子(メゾソプラノ)ミニ・コンサート

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2013年


●2013.9.14・「しんぶん赤旗」→伊勢崎で多喜二祭/群馬
第6回伊勢崎・多喜二祭が8日、群馬県伊勢崎市の市民プラザホールで開かれ、280人余が参加しました。
第1部では、地元のうたごえサークル「かざぐるま」が、小林多喜二追悼の歌や大逆事件で死刑とされた幸徳秋水の無念を歌った「ポスター」を披露しました。
第2部では、大沢勝幸代表代行が参加者に礼を述べ、来賓として、多喜二について研究している藤田廣登氏と日本共産党の北島元雄市議が挨拶。藤田氏は、伊勢崎の多喜二奪還事件再発掘の過程や多喜二への関心が海外にも広がっている状況を指摘しました。北島市議は、八田利重代表の死去について追悼の言葉を述べました。
第3部で教育評論家・宮沢賢治研究家の三上満氏が「宮沢賢治の世界と小林多喜二」と題し記念講演。賢治と多喜二は全く同時代を生きたこと、賢治の2つの転機と多喜二の転機に重なる部分があることを説明しました。賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」という思想に、いわさきちひろが傾倒し、多喜二の生き方にも共鳴したことを紹介しました。 (「同盟サイト」より)
●2013.3.27・「しんぶん赤旗」→朝の風「多喜二のヴァイオリン演奏評」
本欄で以前紹介したように、小林多喜二はヨゼフ・シゲティの独奏したベートーヴェンの協奏曲を弟の三吾と一緒に聴いた話で知られる。その「即物的演奏」に注目していたことも三吾の回想からうかがえる。だが、多喜二が好んだ演奏家はシゲティだけではない。
『全集』第7巻所収の「日記」1926年12月5日の項から。
「四日は図書館主催のレコードの会へ行った。『チゴイネルワイゼン』をひいたハイフェツにびっくりした。誰だって足元にも及ぶまい、そういう気がした」
サラサーテの「チゴイネルワイゼン」は高い演奏技術が求められる。ヤッシャ・ハイフェッツは、その研ぎ澄まされた音色と超絶技巧に定評があった。
31年の論稿「小説作法」(全集第5巻)の1節も興味深い。
「あまり正確な例ではないが、例えば同じ『ユーモレスク』というヴァイオリン曲を、エルマンが奏いたときと、そんじょそこらのヴァイオリニストが奏いたのとでは、段異いにちがう」
同じ題材でも「芸術的カン銘」は別物になるとして、甘美な音色で知られるミッシャ・エルマンが弾いたドヴォルザークの作品を引きあいに出している。
多喜二が多種多様な演奏を評価した事実に注目したい。(弩)(「同盟サイト」より)
●2013.3.25・「しんぶん赤旗」→『小林多喜二選集』ハングル版刊行の意義・韓国初の本格的な紹介/茶谷十六
昨年8月に、韓国の出版社「理論と実践社」(代表・金泰京)から、ハングル版『小林多喜二選集』(全3巻)の第1巻が刊行された。『蟹工船』「防雪林」『一九二八年三月十五日』の3作品が収録されている。
翻訳者朴真秀・黄奉模両氏は、韓国における多喜二文学研究の第一人者たちである。
全3巻の内容
巻頭に多喜二の生涯と作品に関する写真が10ページにわたって掲載され、巻末には、作品解題と年譜のほか、翻訳者黄奉模氏による小論「小林多喜二の文学世界」、さらに多喜二自身による3作品についての解説が掲載され、全体で440ページに及ぶ大冊である。
引き続き第2巻には、『党生活者』を中心として多喜二の生涯の頂点に至る組織生活を取り扱った作品が収録され、さらに第3巻は、多喜二作品の理解につながる文芸理論、多喜二の人間像を生々しくあらわす手紙、母セキの多喜二への回想によって構成される予定だという。
民主化闘争で
金泰京氏から韓国での『小林多喜二選集』刊行の約束をいただいたのは、2008年2月のことであった。この年、第43回秋田県多喜二祭で、「80年代韓国民主化闘争の中で息づいた多喜二の文学」をテーマにパネルディスカッションがもたれ、韓国から李貴源・李相炅両氏を招き私と3人での座談をした。両氏は、1980年代韓国の全斗煥軍事政権下でたたかわれた民主化闘争の中で小林多喜二の文学に接し、『蟹工船』『一九二八年三月十五日』『党生活者』の3作品をハングルに翻訳して、87年8月15日に『蟹工船』の表題で出版した。李貴源氏はその翻訳者であり、李相炅氏は出版社の代表だった。金泰京氏は、共にたたかった同志として両氏と一緒に来訪し、その中で選集刊行を決意したのである。
生き方たたえ
選集「刊行の辞」の中に金氏の次の言葉がある。
「ここに1人の男がいる。絵画と音楽と映画が好きで、虐待されるすべての存在を愛することに自分を燃やしながら、30歳にもならないうちに、天皇制権力によって虐殺された人間がいる。『蟹工船』作者の小林多喜二である。われわれは火のように生きて去ったこの人をほめたたえるために『小林多喜二選集』を刊行することにした」
金氏は計画直後に脳梗塞を患った。半身不随の体で阿修羅のごとくに奮闘したその熱誠に、ただただ感服するばかりだ。
多喜二の文学世界と全生涯が韓国で本格的に紹介されるのは初めてのことである。多喜二の文学を、現代の韓国の若者たちにこそ読んでほしいと切望し、さまざまな働きかけを積み重ねてきた者として、刊行を心から喜ぶと共に、全3巻完結の1日も早い実現を望みたい。韓国での小林多喜二国際シンポジウム開催をめざして新たな行動を開始したい。(ちゃだにじゅうろく=秋田県・民族芸術研究所研究員) 問い合わせ電話・ファクス=0187(44)3903(民族芸術研究所気付)(「同盟サイト」より)
●2013.3.18・「しんぶん赤旗」→朝の風「多喜二に切符を用意した人」
小林多喜二が日比谷公会堂で来日中のヨゼフ・シゲティが独奏者をつとめるベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を聴いたことは、弟・三吾氏の回想で知られている(『小林多喜二全集』月報4)。それが虐殺の2カ月前、1932年12月9日の新交響楽団(現N響)演奏会だったことも、文芸評論家の水野明善氏の一文で明らかにされている(『民主文学』73年2月号)。
水野氏は、2人に隣り合わせの入場券を贈った人物について「三吾氏は今もってその方が誰であるか心当たりないそうだ」としていた。だが後年、三吾氏はそれを宮本百合子と推測している。渡辺和彦著『ヴァイオリニスト33―名演奏家を聴く』(河出書房新社)のヨゼフ・シゲティの項にも紹介されている。
渡辺氏が参照した三吾氏の証言は、文藝春秋編『血族が語る昭和巨人伝』(文春文庫)に収録されている。もともとは89年、同誌に掲載された回想だ。
「演奏会の切符は信頼できる筋から送られてきました。たぶん宮本百合子さんが用意してくれたものだと思います。指定された席は2階席でした。その席に座っていると、中折れ帽と眼鏡で変装した兄が左側の席に座ってきました」
根拠は明らかにされていないが、興味深い証言ではある。(弩)(「同盟サイト」より)
●2013.3.11・「しんぶん赤旗」→「多喜二の言葉、魂の震え」米倉さんが講演・没後80年で集い
作家・小林多喜二没後80年を記念して、「多喜二の文学を語る集い」(日本民主主義文学会、多喜二・百合子研究会主催)が10日、東京都豊島区のみらい座いけぶくろで開催され、参加者は500人を超えました。
日本民主主義文学会・稲沢潤子会長が開会挨拶。青年トーク「現代に生きる多喜二」では、作家の秋元いずみさん、日本民主青年同盟東京都委員長の岩崎明日香さん、首都圏青年ユニオン事務局次長の神部紅さんが、「3・11後、社会のために働きたいという青年が増えているなかで、自己変革と仕事と社会進歩を統一した多喜二の文学は若い世代に勇気を与える」と語り合いました。
多喜二の『一九二八年三月十五日』を俳優の上野日呂登さんが朗読。役者で演出家の米倉斉加年さんは、講演「わたしにとっての小林多喜二」で、「小林多喜二・早春の賦」を演出して全国各地で公演した体験を紹介し、「多喜二の言葉には人間の奥深い魂があり、今もその魂の震えが伝わってくる」「真の文化の中核にいた多喜二を考え続けることは大切なことだ」と語りました。
佐藤真子さんによる多喜二ゆかりの曲のピアノ弾き語りの後、三重大学教授の尾西康充さんが「太陽は総てのものを平等に照らす―小林多喜二の文学」と題して講演。多喜二は、人間が個性を生かしながら連帯することの大切さを伝えたと強調しました。
参加した東京都の大学生・佐藤一馬さん(22)は、「多喜二が描いた労働者のたたかう姿から、団結する力を学んでいきたい」と話していました。(「同盟サイト」より)
●2013.3.10・「しんぶん赤旗」→共産党若手議員がイベント/ゲスト池内さん「多喜二に心打たれて入党」/東京・杉並
矢野狛江前市長「相手の立場で伝える努力を」
東京都杉並区の日本共産党の若手議員が7日、「勝手に日本共産党宣言2013」というイベントを開きました。110人が参加しました。
ゲストは、清水ただし党大阪府委員会副委員長、池内さおり元衆院東京12区候補、矢野裕前狛江市長、1位当選した沖縄県浦添市の伊礼ゆうき市議です。
伊礼氏は〝人の命を救いたい〟思いが看護師と入党の初心であり、「経済的な理由で保険証がないなど身元不明の人がたくさん病院に運ばれてきたこと、待機児問題や基地など実体験から訴えた」と振り返りました。
池内氏は、政治と生活がつながっていると感じられないなか、イラク戦争を機に社会を変えたいと思い、小林多喜二の生き方に心打たれたと入党の初心を話しました。
会場からの「良いことを言ってるけど、選挙に弱いのはなぜ」という質問に、矢野氏は、少数与党の狛江市長を4期16年勤めた経験から「相手の気持ちに立って、共産党を伝える努力が必要。自分の枠から出て市民とつながっていくことが大事」と強調。清水氏は、自身の座右の銘をあげ「楽しくなければ始まらない。まじめでなければ続かない。元気がなければ勝利できない。がんばっていきましょう」と結びました。 ((「同盟サイト」より)
●2013.3.6・「しんぶん赤旗」→「悲しい時代もう来ないで」江別の多喜二祭開催/北海道
第5回「江別の多喜二祭(同実行委員会)」が3日、北海道江別市で開かれ約70人が参加しました。 多喜二が恋人タキさんへ送った手紙や短編作品の朗読・群読、ピアノ、ギター演奏、〝多喜二へのレクイエム〟の合唱が行われました。 宮田さんは、多喜二が農民や労働者の生活と声を直接取材するために、三笠の幾春別炭鉱や美唄の農村など石狩・空知各地を歩いたことを映像で紹介。
多喜二が書こうとして果たせなかった作品の構想について「〝満州侵略戦争〟という時代の大転換の時に、いかにして戦争反対の力を結集させることができるかを〝大河のゆるやかな流れのような〟長編で表現しようとしており、今日の課題にもつながる構想であった」と話しました。
参加者は「過労死、ワーキングプア、ブラック企業。多喜二の時代と何が変わったのか」「多喜二のような悲しい時代が来ないように願いたいです」などと感想を寄せました。(「同盟サイト」より)
●2013.3.4・「しんぶん赤旗」→朝の風「今こそ多喜二の精神を」
大阪と神戸で開かれた多喜二没後80周年記念集会(2月23、24日)では、ノーマ・フィールドさんが講演した。彼女は多喜二への愛情あふれる名著『小林多喜二』の著者だ。そのエピローグで、若者たちが「自分たちの現状を、驚きをもって認識する手がかりであること」となった『蟹工船』から、他の作品にもすすむことを望んでいた。「人々が、団結のために葛藤する姿を見てほしいのです。それは連帯への欲求に目覚めるために、です」と。
講演では、その他の作品『党生活者』「安子」などをとりあげ、3・11以降の個人と社会変革との関連がのべられた。多喜二の時代は戦争とファシズムの時代だったが、今日はそれに「生態系の破壊」が加わった。
この時代を生きる私たちは「一人ひとりの判断・良心」にとどまることなく、「一人ひとり生活も思想も団結を通して確保される闘い」であるという認識へ進まなければならない。多喜二たちの運動が「人間の尊厳を取り戻す闘いそのもの」であったからだ、と。鼎談では小森陽一さん、島村輝さんが、フィールドさんの発言をふまえ、「日常的に大惨事を生きる覚悟」が必要、とまとめていたことも印象深い。困難な時代だからこそ互いに手を差しのべあって闘わねばならない。(平)(「同盟サイト」より)
●2013.3.3・「しんぶん赤旗」→句読点「今に届く多喜二」
作家の澤地久枝さんが、多喜二の妻、伊藤ふじ子を描いたノンフィクション「小林多喜二への愛」を発表したのは1981年のことです。
戦前の共産党非合法下、2人が隠れ家生活を共にできたのは、9カ月でしたが、深い愛情で結ばれていたことを伝え、胸をうつ作品です。多喜二研究に大きな影響も与えました。
2月20日は多喜二没後80年。前日19日に開かれた杉並・中野・渋谷多喜二祭の記念講演で澤地さんは、執筆当時にもふれ、今も届く多喜二の語りかけをじっくり考えよう、と熱く語りました。
10日には、日本民主主義文学会などが東京で、「多喜二の文学を語る集い」を開きます。三重大学の尾西康充教授、俳優・米倉斉加年さんの講演、女性作曲家の草分け・吉田隆子作曲の「小林多喜二追悼の歌」のピアノ弾き語り(佐藤真子さん)、青年トークなど、多彩な出演者に期待が高まります。(紀)(「同盟サイト」より)
●2013.2.26・「しんぶん赤旗」→「遺志継ごう」広島多喜二祭・80人が参加
広島多喜二祭が24日、広島市南区で開かれ、約80人が参加しました。日本共産党員作家で、1933年2月20日に虐殺された小林多喜二の遺志を継ごうと、治安維持法国賠同盟県本部が毎年開いているもの。 山田慶昭会長が講演し「ドイツは『戦犯に時効はない』として、今もナチスを追及しているのに、日本は謝罪も賠償もない。侵略戦争への反省がないからだ」と告発。安倍晋三政権の改憲策動を阻止しようと訴えました。
DVD「ある治安維持法犠牲者の100年・民衆とともに歩んだ医師桑原英武」が上映され、福島生協病院初代院長の中本康雄日本共産党元市議が「治安維持法下で始まった無産者医療活動と戦後の民主医療活動」と題して講演しました。(「同盟サイト」より)
●2013.2.26・「しんぶん赤旗」→小林多喜二生誕110年・没後80年「火を継ぐ」大切さ考える/大阪・多喜二祭
小林多喜二の生誕110年、没後80年にあたる23日、大阪市内で大阪多喜二祭が開かれ、会場いっぱいの480人がかけつけました。
実行委員会の柳河瀬精代表(治安維持法国賠同盟中央本部・府本部会長)が「多喜二の火を継ぐ大切さを考えてください」と挨拶しました。
『小林多喜二』の著書もあるノーマ・フィールド・シカゴ大学名誉教授、九条の会の小森陽一事務局長(東京大学教授)、多喜二研究家の島村輝フェリス女学院大学教授が鼎談しました。
小森氏は、多喜二の小説『地区の人々』から「火を継ぐ」という言葉のベースとなった表現について解明。「私たちの運動は、憲法21条の集会、結社の自由を行使して、みんなが首相官邸前でおかしいと主張できる民主主義にしてきました」と指摘しました。
島村氏は「多喜二は貧しい人たちが苦しい生活のなかでも特高警察の弾圧に屈せず、徹底的に抵抗したことを描いた。『火を継ぐ』というのは、新しい変革の状況を生みだした」と語りました。
講演で、ノーマさんは原発、戦争、新自由主義といった問題に言及し、支え合い、団結していくことが大事だと強調しました。
大阪市西成区の小川律子さん(61)は「一喜一憂しないで、多喜二のような生き方を貫き、私たちが火を継いでいきたい」と話していました。 (「同盟サイト」より)
●2013.2.26・「しんぶん赤旗」→小林多喜二生誕110年・没後80年「一人ひとりが変革の主体」兵庫・記念集会
小林多喜二没後80年生誕110年記念集会が24日、神戸市内で開かれ、会場いっぱいの350人が参加しました。
シカゴ大学名誉教授のノーマ・フィールド氏が「いま だれが社会変革のにない手になるのか」と題して講演しました。多喜二が戦争とファシズムの時代と位置付けた1930年代と現在の共通性を指摘。アメリカで現役兵士や退役軍人の自死・自殺が多いことや、いじめ・体罰問題、原発事故に触れ、「多喜二たちの運動がめざしたのは人間の尊厳を取り戻すたたかい。自分を救うためにも自分のことだけを考えていてはだめ。最底辺におかれた人の尊厳を取り戻す運動を」と強調しました。
ノーマ氏と小森陽一東京大学教授(九条の会事務局長)、島村輝フェリス女学院大学教授が鼎談しました。変革の主体をどのようにつくるか語りあい、小森氏は『党生活者』を引用し、「わずか1、2分の会話の中で変革の担い手に皆がなる。この場面を書けた多喜二の文学感覚と運動感覚を学ぶべき」だと指摘しました。
島村氏は、多喜二が書いた評論を紹介し、「これ以上改憲の方向に進まないよう歯止めをかけよう。連帯し一人ひとりが変革の主体になろう」と呼びかけました。 (「同盟サイト」より)
●2013.2.26・「しんぶん赤旗」→没後80年小林多喜二と現代/宮本阿伎・『工場細胞』/女性への温かい視点
小林多喜二はその初期から積極的に生きる女性を描いているが、『工場細胞』(1930年)において初めて、一企業内の組織的な労働運動に参加し、〝みずからたたかいの組織者となっていく〟女性の工場労働者の姿を描いた。
作品の完成後、編集者佐藤績宛の手紙に、「作品は『工場細胞』と共産党とが結びついた『三・一五』以後の日本の左翼運動を描いて居ります。それは『企業の集中』による一産業資本家の没落を背景にして『工場委員会』の自主化への闘争として描かれています」(30年3月3日付)と多喜二は書いているが、近代的な大工場における共産党の細胞(現在の支部)の結成と活動、および深まってゆく経済恐慌を背景とする「産業合理化」のもとでの、労働者の生活とたたかいを描いた小説である。
多彩な労働者群像
モデルとした北海製罐倉庫株式会社(当時の名称)への丹念な調査をもとに、多喜二が克明に描きだした工場内部の描写は迫真力に満ち、主題を担うオルグの河田と石川、職工の森本、鈴木、女工のお君とお芳の主要人物のほかにも、多彩な工場労働者の群像が描かれている。
女性描写の意義に限り触れるが、第1に、多喜二は女性解放の視点を重視した階級作家であることをこの作品で芸術形象をもち先鋭に示したことである。「資本主義化」された工場における「女工」の扱いへの形象である。「産業合理化」のもとで、テーラー・システムの徹底がはかられ、「賃金の高い熟練工を使わずに、婦女子で間に合わすことが出来ないか」など、「彼等は『世界』と歩調を合せて、方策を進めていた」と例えば描かれている。今日のグローバリズムを思わず想起する。
また「働いているものは機械しかないのだ。コンヴェイヤーの側に立っている女工が月経の血をこぼしながらも、機械の一部にはめ込まれている『女工という部分品』は、そこから離れ得る筈がなかった」という表現、さらに、女工がいつのまにか増加し、「工場一般の賃金が眼に見えない位ずつ低下していた」などの描写にいたると、現代のワーキングプアや非正規雇用の現実にますます思いをはせずにはいられない。
貧困から目離さず
第2は、冒頭に触れた女性像のことである。お君は、コケティッシュな振る舞いで男工の気を引く女工として登場してくるが、お芳が工場のなかで淫売をしていると友達に告げ口されると、「悪いのは一家四人を養って行かなければならない女の人じゃなくて――一日六十銭よりくれない会社じゃない?」とお芳をかばう。 小説を初めて書いて以来、貧困がもたらす女性の悲惨な現実から目を離せなかった多喜二は、ここでもお君の義?心を描かずにはいられなかったのだろう。細胞の仕事を受け持ち、2人はそれぞれの成長を遂げるが、小説の山場である工場大会で、お君はお芳を壇上に上がらせる。それまで「女工」は社内のどんな「集会」からも除外されていたと書くことを多喜二は忘れていない。女性とともに社会進歩への道を歩むことを心から願っていたからに違いない。
(みやもとあき=多喜二・百合子研究会運営委員)(「同盟サイト」より)
●2013.2.25・「しんぶん赤旗」→朝の風・『蟹工船』ブームから5年
5年前、『蟹工船』ブームが起きた。文庫版・漫画本など合わせて80万部が売れ、「新語・流行語大賞」のトップ10に入ったことは記憶に新しい。
周旋屋の紹介で、オホーツクの海で過酷な労働に従事する労働者の姿が、新自由主義のもとで使い捨てされる日雇い派遣やネットカフェ難民と重ねてとらえられたことがブームの背景にあった。
当時、新聞、テレビが大きく報道する一方で、柄谷行人は座談会で、『蟹工船』は勧善懲悪のプロパガンダだと切り捨て、吉本隆明も若い世代の「本当の問題は貧困というより、何か人間の精神的な抵抗力が弱くなってしまった」といい、多喜二の文学が現状打開を求める人びと結びつくことに水を差した。
この5年間、政権交代はあったが、労働者派遣法の根幹は変わらなかった。昨年の「改正」でも、政府案にあった製造業・登録型派遣の原則禁止も削除された。
没後80年の今年、各地で多喜二の集会が開かれている。3月10日の日本民主主義文学会が主催する集いでは、「現代に生きる多喜二」と題した青年トークがある。3人の参加者は、青年運動のリーダーを経験している。今日の青年の状況から、多喜二の文学に新たな光があてられることを期待したい。(筑)(「同盟サイト」より)
●2013.2.22・「しんぶん赤旗」→多喜二没後80年の墓前祭「希望与える命がけのたたかい」北海道小樽
小林多喜二没後80周年の墓前祭と記念の夕べが、多喜二の命日である20日、小樽市で行われました。 墓前祭は悪天候の中、多喜二の墓のある奥沢墓地で行われ、国内外から90人を超える人が集まりました。
小樽多喜二祭実行委員会の寺井勝夫委員長は挨拶で「没後80年、生誕110年、多喜二が目指した社会はいまだ実現していません。しかし、今日の格差社会や改憲などの右翼的反動の動きを見るときに、多喜二が命がけでたたかったその生涯は、現在に生きる私たちに大きな希望を与えるものです」と述べました。
日本共産党北海道委員会の畠山和也副委員長、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟北海道本部の宮田汎会長の挨拶のあと、参加者が赤いカーネーションを献花しました。
夜は講演と音楽の夕べが開催され、250人が参加しました。
同実行委員会の斉藤力事務局長と、来賓として、多喜二の研究をしている米・シカゴ大学のノーマ・フィールド名誉教授とフェリス女学院大学の島村輝教授が挨拶しました。
第1部は詩の朗読、清水紫さんによる多喜二と母の心情をうたった「赤き花燃ゆ」の独唱が披露されました。
参加者の中には、涙を流しながら聞き入る人もいました。
第2部は三重大学の尾西康充教授が「日本はなぜ再びファシズムの道をすすむのか」と題して講演を行いました。
尾西教授は「ファシズムは〝炎の氷〟と言われている。言葉は激しく熱を帯びているが心は冷たい。多喜二は氷を溶かす情熱を持っていました」と述べました。
そして、小選挙区制度などの社会構造や自尊心を否定する自己責任論・能力主義教育がファシズムへ進む道を生み出していると指摘しました。 (「同盟サイト」より)
●2013.2.21・「しんぶん赤旗」→多喜二の思い今に・23日に大阪で「多喜二祭」、24日に神戸で「記念集会」
小林多喜二没後80年、生誕110年を記念して、23日に大阪で「大阪多喜二祭」、24日に神戸で「記念集会」が開かれます。
大阪では「多喜二の火を継ぐ」と題して、午後1時半から大阪市城東区のクレオ大阪東ホール(JR京橋駅下車徒歩7分)で開催。
シカゴ大学名誉教授のノーマ・フィールドさんが「いま、だれが社会変革の担い手になるのか~多喜二の問題提起をヒントに」と題して講演します。
これに先立ち、文化行事「音楽でつづる多喜二とその時代」をテーマに、ケイ・シュガーさんが出演します。資料代1000円。連絡先=大阪多喜二祭実行委員会06(6772)7555
神戸市では「記念集会」が午後1時半から神戸市中央区の兵庫県立のじぎく会館(地下鉄県庁前駅下車徒歩5分)で開かれます。
大阪と同様、ノーマさんが講演し、その後、小森陽一東京大学教授(九条の会事務局長)、島村輝フェリス女学院大学教授と鼎談します。
参加協力券1200円。当日1500円。連絡先=記念集会実行委員会ファクス078(351)0388(「同盟サイト」より)
●2013.2.21・「しんぶん赤旗」→「変革の生き方受けつ」杉並・中野・渋谷多喜二祭開く。作家・澤地氏、記念の講演
『蟹工船』などで知られる日本共産党員のプロレタリア作家・小林多喜二を記念する第25回杉並・中野・渋谷多喜二祭(同実行委員会主催)が19日、渋谷区で開かれました。多喜二の生誕110年、没後80年の節目の年にあたり、約450人が参加しました。
作家の澤地久枝氏が記念講演し、多喜二の妻の伊藤ふじ子や、戦前の共産党幹部で特高警察に虐殺された西田信春らの消息を取材した経験を紹介。「彼らと同じ時代を生きて、妥協せず世の中を変えようとした多喜二の生き方を学び、恐れずに憲法改悪反対に声を上げましょう」と語りました。
日本共産党の小池晃副委員長・参院比例候補と吉良よし子参院東京選挙区候補が、挨拶しました。 小池氏は、多喜二が『党生活者』などで支配層のイデオロギーに反撃しながら粘り強く活動する変革者の姿を描いたと指摘。「社会を変えるには、日本の前途を示す主体的勢力を大きくすべきだという多喜二のメッセージを受け止め、新しい政治へ国民的共同を広げる先頭に立ちます」と訴えました。
吉良氏は、多喜二の生涯を描いた井上ひさし作の音楽劇「組曲虐殺」を見た感動を語り「後に続く者として、働く人が希望を持って生きる社会をつくりたい」と決意表明しました。
多喜二と同じ秋田県大館市出身の柴田田鶴子さん(80)は、「『蟹工船』『党生活者』以外の作品も読んで、多喜二の生き方を受け止めたい」と話していました。(「同盟サイト」より)
●2013.2.21・「しんぶん赤旗」→潮流
きびしい寒さがつづいています。冷たい風や雪が身にしみる季節。ゆっくり春に近づいているとはいえ、気分はまだ冬の最中でしょう▼1933年の2月20日もうす曇りの寒い日でした。この日、小林多喜二は和服姿で変装用の眼鏡をかけ、ソフト帽をかぶって会合に出かけます。しかしスパイの手引きによって特高警察につかまり、すさまじい拷問の末に虐殺されました▼天皇絶対の暗黒政治のもとでうばわれた29歳の命。日本共産党員として、プロレタリア作家として、時代と格闘しながら、社会変革をめざした多喜二。没後80年の今年、彼の生き方をいまに問う催しが各地でとりくまれています▼無法労働の告発と団結した労働者のたたかう姿を描いた『蟹工船』がブームになったのは5年前。非正規労働者の増大、リストラ、過労死、追い出し部屋…。多喜二のころとは形を変えながらも、痛めつけられ、しぼり取られている現代労働者たちの共感をよびました▼「満州侵略戦争」が始まると、多喜二の小説も趣が変わります。国民生活への影響、組織活動のジグザグと不屈性、そして人間の成長や発展に重点をおくようになるのです▼多喜二最後の小説『地区の人々』には、副題があります。「火を継ぐもの」。歴史をあと戻りさせる勢力が政治を覆ういま、多くの国民が声をあげ、立ち上がっています。原発なくせ、TPP反対、基地はいらない―。多喜二が命がけで守った党の一員として、ともに進歩の火を継ぎ、逆流に立ち向かいたい。(「同盟サイト」より)
●2013.2.20・「しんぶん赤旗」→多喜二祭が盛況「秋田と大館で開催」
母セキの言葉を紹介「多喜二の仕事は大きなもの、必ず知られるときが来る」
第48回秋田県多喜二祭が16日、秋田市の生涯学習センターで、第34回大館市小林多喜二記念の集いが17日、大館市立中央公民館で、開かれました。
両会場とも、小樽商科大学の荻野富士夫教授が「多喜二と母セキは戦争をどのようにとらえたか~多喜二虐殺80周年の意味~」と題して講演しました。
荻野氏は、セキの「多喜二の仕事は大きなものであって、必ず世間の人々に知られるときが来るでしょう」などの言葉を紹介し、「セキさんは、多喜二らの時代がやってくることを確信していた」とのべました。
また、荻野氏は、「『蟹工船』のもう1つの読み方」として、多喜二が『蟹工船』の中に軍艦を登場させ、労働者を鎮圧する側面だけでなく、「ソ連の海岸線にそって軍艦が存在している役割を描き、軍隊・戦争を大きくとらえた」と話し、現在の自衛隊の「海外派遣」との類似性にもふれました。
秋田会場には、県外からの参加者も含む141人が参加しました。工藤一紘同祭実行委員長は、昨年3月の「小林多喜二展」で韓国の金泰京(キム・テギョン)理論と実践社代表が約束したハングル版『小林多喜二選集』(全3巻)の第1巻が刊行されたことを報告しました。
大館会場には青森県をはじめ、市内のセキ・多喜二ゆかりの人たちなど100人余が参加し、用意した資料が足りなくなりました。
大館会場に参加した女性は、「〝何代がかりの運動〟や〝火を継ぐもの〟など(荻野教授の話を)もっと聞きたかった」といいます。「セキさんの話が新鮮だった」という男性(66)は、「『蟹工船』の漁場での軍艦の役割の話は、いまの自民党・安倍内閣の動きと似ている。重く受け止めた」と話していました。(「同盟サイト」より)
●2013.2.19・「しんぶん赤旗」→没後80年小林多喜二と現代/荻野富士夫『一九二八年三月十五日』/なぜ虐殺されたのか
人道主義的な観点から社会主義に接近した多喜二が、長い躊躇逡巡の時期を経て、「新らしい年が来た。俺達の時代が来た」(「日記」)とまで飛躍する踏み台となったのは、小樽社会科学研究会での研さんと、「驚異」と呼ぶ労働運動の実践家との合流であった。
特高警察の本質突く
その直後、1928年の「三・一五事件」でそれらの友人が「つぎつぎと引ッこ抜かれて行」き、警察署内で「半植民地的な拷問」がなされていくことに、多喜二は「煮えくりかえる憎意」を燃やし、凄惨な拷問の実態をなまなましく暴露した。小説『一九二八年三月十五日』以外にもこの弾圧を題材にした作品はあるが、特高警察の本質を突く多喜二の衝撃力は傑出している。
そのため、見当違いにも特高警察は拷問という違法性を赤裸々に暴露した多喜二に報復の刃を向けた。1930年5月の大阪島之内警察署での検挙では「ようもあんなに警察を侮辱しやがったな」と脅され、「出所後顔面筋肉の一部が硬直」するほどの拷問を加えられた。この延長線上に、33年2月20日の東京築地警察署における拷問の末の虐殺があるといってよい。
 多喜二は32年4月に地下に潜行して以降、早晩の検挙と拷問での死をも覚悟していた節がある。9月に最後に母セキらと会った際、「今警察に捕えられたらどんな目に会うか判らないが、こうした時世に生れ合わせたのが自分の不運」としつつ、「屹度いつかの時代には自分達の考え方が世間の人にも納得出来ることになろう」と語っていたのである(『母の語る小林多喜二』)。「何代がかりの運動」(「東倶知安行」)からいえば、まだ発端に近いところの犠牲の一つであり、「火を継ぐもの」がつづくことを確信していた。
日本帝国主義の脅威
あらためて、なぜ多喜二が33年2月に殺されるのか、と問えば、多喜二自身がつづく『蟹工船』以降も新たな創作課題を設定・実践し、プロレタリア文学の幅と奥行きを広げ、「典型的な、理想的な、左翼の闘士」(多喜二没後の大宅壮一の皮肉抜きの発言)に成長していったことに、特高警察を先兵とする支配者層の脅威が集中したからといえる。
そして、その脅威を現実的なものとしたのは、32年以降の、藤倉工業の毒ガスマスク製造工場労働者の反戦活動を描いた『党生活者』をはじめとする多喜二の小説・評論、そして日本プロレタリア作家同盟書記長として、日本反帝同盟執行委員としての実践活動が、すべて「満州事変」後の反戦・反軍運動に収斂していったことである。
多喜二虐殺の報に、フランス共産党の機関紙「ユマニテ」は「過去数ヶ月間に彼は決然として、極東における帝国主義的略奪戦争および反革命戦争に抗する運動の先頭に立ち続けていたのだった」と的確に記し、「彼の不屈の革命的活動は日本帝国主義の脅威となっていた」と評価した。この再確認こそが、多喜二虐殺80周年の大きな意義であろう。(おぎのふじお=小樽商科大学教授)(「同盟サイト」より)
●2013.2.17・「しんぶん赤旗」→多喜二の歩んだ道「新たな創造への刺激」作家・日本民主主義文学会副会長田島一さん
関東地方が雪に見舞われた1月半ば、ある労組の「文章教室」の皆さんと一緒に、多喜二の短編小説「誰かに宛てた記録」を読む機会があった。
これは、後に短編「救援ニュースNO.18附録」として改作し発表されるのだが、多喜二自身が「一番愛着している」と語った、思い入れの深い作品の原著として知られている。
小学校の傍らの文房具店の前で、誰かが落としたつづり方の紙片を、作者が偶然拾うという設定で作品は描かれる。
学校での医者の身体検査の場面から始まり、からだを「なんびきものしらみが走ってあるいている」恥ずかしさを主人公の女の子は語る。
もらわれていった先でもこの子は、生活のため深夜の2時まで、盛り場で「ちりかみ」を売り歩く。極貧の暮らし、実母を恋しがる胸の内、そして成長すると売られていく運命にある自分のことなどが、素直な言葉で吐露されているのだ。
多喜二が愛し、苦界から救い出した田口タキ一家の切なさがここに重ねられる。「どうしてじぶんたちがこんなくらしばかりしなければならないのか」と少女は問いかけるのだが、過酷な日々をけなげに生きるまなざしの温かさが感動を呼び、読む者に幸せを与えてくれる。
没後80年の節目に私は、久しぶりにこの作品を読み、胸を熱くした。そして思わず、程度の差があるとはいえ、日本社会の現状に対比させていたのである。民意と大きくかけ離れた政権は、まるでこの国を破滅に導くかのように、「貧困の連鎖」拡大への道を突っ走っている。
私はここ数年、非正規雇用の労働者のたたかいを追い、作品化に挑んできた。それはまだ端緒にすぎないのだが、閉塞の社会状況と3・11以後の困難に、文学はもっともっと正面から向き合わなければならないだろう。
多喜二の叱咤激励の声が響き、名作は、新たな創造への刺激を私に与えてくれたのだった。
没後80年多喜二の文学を語る集い
3月10日午後1時半、東京・みらい座いけぶくろ。尾西康充(三重大学教授)、米倉斉加年(俳優)の両氏の講演、トーク、歌など。日本民主主義文学会電話=03(5940)6335(「同盟サイト」より)
●2013.2.17・「しんぶん赤旗」→多喜二の歩んだ道「作品に一目ぼれした」、『蟹工船』のイタリア語版を出したファリエロ・サリスさん
小林多喜二は、学生時代、日本の文学史でその存在を知りました。西洋で一般的に知られている日本文学とは異なる味わいでした。
社会の構造を見抜いて世界を覆うベールをはがす―そんな作家の1人だと、一目ぼれをしたのです。生涯を知る中で、虐殺されたという事実に衝撃を受けました。
『蟹工船』には、「歴史記録文書」としての価値があると思います。暗い時代の残酷な現実をあからさまに伝えようとしています。見ないふりをして通り過ごすことはできない、ぜひイタリア人に読んでほしい、と思いました。
イタリア語版を出したのは、2006年。出版社は中身の厳しさにためらっていましたが、原文通りでこそ意味がある、と主張しました。その結果、翻訳料はわずかの契約になりましたが、全く後悔していません。
『党生活者』も好きですし、多喜二の作品をもっと翻訳できたらと願っています。(98年から日本在住、語学学校講師)(「同盟サイト」より)
●2013.2.17・「しんぶん赤旗」→多喜二の歩んだ道「没後80年・最後の3年間をたどる」
反戦のたたかい憲法に生きてる/不当に屈しない生き方伝えたい
『蟹工船』などの作品が今も読み継がれている作家・小林多喜二。当時の特高警察に虐殺されてから20日で80年になります。多喜二の作品、活動が現代に問いかけるものは―。
「あゝ東京へ、東京へ、東京へ行きたい」と日記に書いた多喜二。念願を果たしたのは1930年3月、26歳のときでした。現代の若者2人が、東京での足跡をたどります。
那須絹江記者
訪ねたのは、岩崎明日香さん(26歳、民青同盟東京都委員長)と神部紅さん(30歳、首都圏青年ユニオン事務局次長)。2人とも、多喜二の生涯を高校の授業で知りました。
岩崎「拷問を受けた遺体の写真を見て、有名な作家が命をかけてまで何を守ろうとしたのか…当時は不思議に思いました」
神部「ぼくは、多喜二のように、間違いは間違いだと、ちゃんと声に出して言える人になりたいと思った」
阿佐ケ谷
最初に訪れたのは、杉並区・JR阿佐ケ谷駅近くの住宅街。上京の翌年、小樽から母と弟を呼び寄せて一緒に暮らした借家が馬橋(=当時)にありました。今は2階建てのアパートに。
岩崎「虐殺された多喜二の遺体が帰ってきたのはここですね」
神部「多喜二の死の衝撃が伝わってくる有名な写真があるね」
ここで暮らしたのは8カ月ほど。留守中に家宅捜索を受けたことを知った多喜二は、母と弟を残し、地下活動に入ります。
南麻布
妻の伊藤ふじ子と一緒に暮らしたのが港区南麻布の称名寺。ここでは住職の話を聞くことができました。
〈住職の話〉 当時、境内に2階屋がありました。その一室を借りたのが小林多喜二でした。それを知ったのは、戦後ずっと後になってからです。母が「きっと、あの人だわ」と話していました。ここにいたのは3カ月ほどの短い間だったそうです―。
官憲の目を逃れ、住居を転々。「ちょんびりもの個人生活も残らなくなった」(『党生活者』)という厳しさでした。
築地
33年2月20日。多喜二はスパイの手引きにより、赤坂福吉町付近で逮捕されます。築地署に連行され、凄惨な拷問の末、虐殺されました。
多喜二の東京の生活はわずか3年足らずで絶たれました。その間、『沼尻村』『党生活者』『地区の人々』などの作品を次々に発表。プロレタリア作家同盟の書記長として活動し、日本共産党に入党しています。 2人の感想は―。
神部「いつ、どこで、何が起きたのか、知らなきゃと強く思った。あの時代と変わらない労働者の現実が今もある。不当なことに頭を下げない多喜二の生き方を伝えないと」
岩崎「多喜二ら共産党員を弾圧し、日本は戦争に突入していった。でも、多喜二が命をかけた反戦・平和や国民主権のたたかいは、憲法に生かされているんですね。その重みを改めて考えさせられました」
こばやしたきじ=1903~33年。秋田県の農家に生まれ、4歳のとき一家が小樽に移住。小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)卒業後、北海道拓殖銀行に勤務。プロレタリア文学運動に参加。31年、非合法下の日本共産党に入党。33年2月20日、拷問で虐殺されました。代表作『一九二八年三月十五日』『蟹工船』『党生活者』など。戦後、映画、演劇、テレビで作品や生涯がとりあげられています。 (「同盟サイト」より)
●2013.2.16・「しんぶん赤旗」→「多喜二を語る」釧路市で集い/北海道
「没後80年・小林多喜二を語るつどい」(主催・同実行委員会)が10日、北海道釧路市で開催されました。
群馬県伊勢崎市の「伊勢崎多喜二祭実行委員会」の長谷部直之事務局長が「群馬の多喜二奪還事件とそれを担った青春群像」と題して講演しました。
長谷部氏は事件について「1931年、伊勢崎町で開催された文芸講演会に小林多喜二、中野重治、村山知義などが講師として出かけたが、開催直前に検束されてしまい、怒った参加者が警察署に押しかけ、占拠し、この事件は互いに公開しないことで検束者全員の釈放となった」と説明。この事件の当事者の証言や時代背景などを話しました。(「同盟サイト」より)
●2013.2.15・「しんぶん赤旗」→没後80年小林多喜二と現代/尾西康充『不在地主』/労農の連帯で争議に勝った
異なる立場にある人びとが連帯してたたかう―。小説『不在地主』は、労働者と農民とが提携して勝利を収めた磯野小作争議が作品のモデルになっている。
「目覚めているのだ」
彼らがたたかった磯野進という人物は、富良野市北大沼に農場を所有すると共に、小樽で海陸産物商を営む〈不在地主〉であった。多喜二の言葉を使えば「上半身が地主で、下半身が資本家」という怪物であった。
1927年3月14日午後6時、小樽市色内の本願寺説教所で糾弾演説会が開かれた。小樽合同労組と日農道連とが共催した。当時、北海道拓殖銀行小樽支店に勤務していた多喜二も演説会に出かけたが、満員で入ることができなかった。「何十人」もの「武装した巡査」によって入場を拒否された「何百人」もの人びとが会場を取り巻き、「官憲とブルジョアの横暴」に非難の声をあげていた。
多喜二は「一労働者のようなものゝ口から『搾取』などゝいう言葉が常識のように出ていた」のを目の当たりにし、演説会当夜の日記に「時代が進んだことを思った。皆目覚めているのだ」と書き残している。このときの「興奮」が『不在地主』執筆のモチーフになっている。
『不在地主』の作品としての真価は、労農提携が成功した小作争議のてんまつが描かれただけではなく、帝国日本による国家的詐欺を告発したところにある。
多喜二は争議前史として、北海道庁と契約して移住した一家が餓死するなど、「移民百姓」が没落した事実を明らかにした。〈内国植民地〉北海道への国策移民は、満州事変以後には〈海外植民地〉へと転じ、膨大な数の犠牲者を出すことになった。
作品のエピローグに当たる部分で、主人公の健は、争議が終わっていったん農場に戻るが、「固い決心」をして旭川の農民組合で働くようになる。人生を賭して農民解放運動に取り組もうとする健の成長が描かれる。
実際の磯野農場では、小作人側に有利な条件で調停案がまとめられたものの、依然として生活は厳しく、農場を去る者が続出した。争議をたたかったリーダーの大半が退場してしまうと、争議の原因は地主ではなく農場管理人にあったのだと考える者が増えたという。
大衆心理刷新も課題
身近な権威には反発を感じることがあっても、上位の権威には媚びて保護されようとするという《父権的温情主義》、これこそ封建的な支配構造が日本社会に温存されてきた一大理由であった。多喜二は国家権力とたたかうと同時に、権威に依存しようとする大衆の心理を刷新しなければならなかった。
多喜二は、小説で拓銀を名指しにしたという理由で、29年11月16日に依願解職される。『不在地主』には、「拓殖銀行」が「関係大地主」の「土功組合」に「特別低利」で貸し付けをおこなう一方、「監獄部屋」の賃金が「二重にも、三重にも」ピンはねされている実態が暴露されていた。
銀行を追われた多喜二は、翌30年3月に上京し、日本プロレタリア作家同盟本部で活動をはじめる。人びとの連帯を願った多喜二の胸底には、あのときの「興奮」がいつまでも残っていた。(おにしやすみつ=三重大学人文学部教授)(「同盟サイト」より)
●2013.2.8・「しんぶん赤旗」→2013年没後80年・各地の多喜二祭
・第48回秋田県多喜二祭
16日(土)午後1時半、秋田県生涯学習センター講堂。荻野富士夫小樽商大教授「多喜二と母セキは戦争をどのようにとらえたか」。合唱、朗読など。実行委員会電話=018(833)3117
・第34回大館市小林多喜二記念の集い
17日(日)午後2時、秋田県大館市中央公民館第1・第2研修室。荻野富士夫さん「多喜二と母セキは戦争をどのようにとらえたか」。実行委員会電話=0186(42)9694
・第3回多喜二祭in所沢 18日(月)、埼玉・所沢市民文化センター・ミューズ。【展示】正午~午後8時半=デスマスク、愛用の文机、オーバーコート(写真)など約260点。【講演】午後6時半=荻野富士夫さん「多喜二虐殺80周年の意味を問う」。実行委員会電話=090(7180)9693(安東)
・第25回杉並・中野・渋谷多喜二祭
19日(火)午後6時半、東京・渋谷区文化総合センター大和田。澤地久枝さん・ノンフィクション作家「多喜二ゆかりの人」。作品朗読。実行委員会電話=03(5382)3177
・小樽多喜二祭 講演と音楽の夕べ
20日(水)午後6時半、北海道・小樽市民センター・マリンホール。尾西康充三重大教授「なぜ日本は再びファシズムの道にすすむのか」。歌曲。実行委員会電話=0134(32)8560
・神奈川七沢多喜二祭
23日(土)午後1時、伊勢原市民文化会館。奈良達雄新日本歌人協会全国幹事「小林多喜二と仲間たち」。記録映画上映、音楽。多喜二ゆかりの七沢を知らせ歴史と文学を広める会電話=045(304)5889
・第7回大阪多喜二祭
23日(土)午後1時半、クレオ大阪東ホール。ノーマ・フィールド・シカゴ大学名誉教授「いま、いかに多喜二と対話するか」。鼎談、音楽。実行委員会電話=06(6772)7555
・小林多喜二没後80年・生誕110年記念集会
24日(日)午後1時半、兵庫県立のじぎく会館。ノーマ・フィールドさん「いま、いかに多喜二と対話するか」。鼎談、音楽。実行委員会電話=078(351)0677
・広島多喜二祭
24日(日)午後2時、広島市・南区民文化センター大会議室。中本康雄元福島病院長「治安維持法下で始まった無産者医療活動と戦後の民主医療運動」ほか。治安維持法国賠同盟広島県本部。電話=082(282)0018(片桐)
・多喜二の文学を語る集い 3月10日(日)午後1時半、東京・豊島公会堂。尾西康充さん「太陽は総てのものを平等に照らす」、米倉斉加年さん「わたしにとっての小林多喜二」。ピアノ弾き語り、青年トーク。日本民主主義文学会ほか電話=03(5940)6335(「同盟サイト」より)
●2013.2.5・「しんぶん赤旗」→没後80年小林多喜二と現代/大田努『党生活者』/侵略戦争に反対する党員像
小林多喜二の『党生活者』(1932年8月執筆)は、日本が中国東北部(満州)への侵略戦争を開始した31年9月の翌年の春を背景に、戦争景気で大増員された軍需工場の臨時工たちの首切り反対闘争と結んで、戦争推進勢力とたたかいながら、反戦・生活擁護闘争を進める日本共産党員たちの非合法下のたたかいと生活を描く。
時代の典型を描く
ところで、多喜二は、戦争開始の翌月に日本共産党に入党していた。その彼がどうして身許を明かすかのように党員を主人公に選んだのだろうか。このころ多喜二は「1つの性格を取りあげることに依って、1つの時代を明かに理解せしめ」るという彼なりの典型論を唱えている(「『転形期の人々』の創作にあたって」)。彼は戦時下のこの時代の典型を描くには、一貫して反戦・平和を掲げる日本共産党員像を取り上げることがもっともふさわしいと考えたものと思う。
こうして見ると、『党生活者』のテーマは、過去の侵略戦争を美化し、自衛隊を国防軍にする復古的潮流が横行する今日、憲法擁護の国民的共同を進める日本共産党の役割に重ねて、現代に響き合ってくる。 小説の終りの方で、つかまったら数年の懲役は免れない党の公然たるビラまきをやることになって、党員の須山が細胞(今日の支部)会議で「それは当然俺がやらなけアならない」と名乗り出る場面が出てくる。また、逮捕されたとき「敵の訊問に対しては一言も答えない」ことを会議で決議し、党全体の決定にするように上級機関に提案する場面がリアルに描かれている。こうした暗黒時代の党員たちのたたかいは、言論・表現の自由や「黙秘」を含む基本的権利として今日の憲法に実現しているのである。
生活での結びつき
同時に、この作品では活動の合法性を求めつつも、非合法的に閉鎖された条件をも生かして「最も大胆に且つ断乎として闘争する」という党員像が描かれる。主人公の佐々木の母親が非合法下の自分に一目会いたいと言付けてきた時、人を介して、佐々木はいまの自分が会えないのはなぜか、党とは何かを説明し、母の理解を助けるやりとりをくり返し行う。これが、母との対面の心をうつ描写につながっていくのである。どんな場合でも生活での結びつきを生かす姿勢は、一部に性急な描写も見られるが、「一日を二十八時間」にした主人公の激務の中で貫かれているように思う。
この作品は発表が作者の没後になり、さらに発表誌の『中央公論』33年4、5月号では表題が「転換時代」に変更、全編の5分の1が削除されるという無残な形にされたが、果たして作品は大きな反響を呼ぶところとなった。
『党生活者』は、党員たちの行動を支えた歴史的任務への深い自覚を示し、暗黒時代を照らす希有な時代の証言として現代に生きている。(おおたつとむ=多喜二・百合子研究会運営委員)(「同盟サイト」より)
●2013.2.4・「しんぶん赤旗」→没後80年小林多喜二と現代/松澤信祐「なぜ今も読まれ続けるのか」
小林多喜二受容・顕彰の歴史は多彩で長い。多喜二の命日にあたる1962年2月20日、秋田県多喜二祭が開催され、現在までほぼ例年行われ、東京、小樽、大館、伊勢崎をはじめ各地でも年々盛んになっている。
大衆化に寄与
1931年多喜二が「オルグ」を書いた神奈川県七沢温泉福元館は、危険人物として手配されていた多喜二をかくまったばかりでなく、戦後も多喜二の記念品を残し、思い出を語り伝えてきた。近年、愛読者によって発掘され話題になった。似た例は他にも多い。
白樺文学館多喜二ライブラリー(佐野力館長)は、2003年多喜二生誕100年を記念して設立され、多喜二シンポジウム開催、多喜二関係出版事業、多喜二研究支援などを精力的に展開して、多喜二文学の大衆化に寄与した。
とくに2003年、第1回国際シンポジウムは、国内外の研究者を集めて東京で開催され、翌年には第2回が行われた。
その後、05年に中国河北大学(第3回)、08年に英国オックスフォード大学(第4回)、12年に小樽商大(第5回)でも行われ、多喜二が国際的にも高く評価、愛読されて、普及していることを実証した。
『蟹工船』化が
近年、新自由主義により、先進資本主義国で「構造改革」「規制緩和」による非正規労働者が激増し、日本でもこの10年間で、正社員440万減・非正規社員660万人増、それに伴う労働現場での無法化、『蟹工船』化が顕著になった。
多年の多喜二文学受容の歴史に加えて、こうした社会状況下で、2007年頃から『蟹工船』ブームが始まり、書店店頭に文庫本『蟹工船』が平積みされ、メディアでも『蟹工船』ブームが大きく報道される事態となった。
2008年小樽商大・白樺文学館多喜二ライブラリー共催『蟹工船』エッセーコンテスト(応募117編)には多様な意見が見られた。①『蟹工船』の世界は昔のことではない。今起こっていることである。②そうした中で「団結」の意味を認識したという2点に集約でき、しかも、現状での「団結」の困難さと、それを打開する意志を表明したものが目立ったとのことである(選考委員会総評)。さらに加えるなら、「(人間として)生きるための必読の書である」とのべた入選作が多かった。
姿がリアルに
多喜二文学の魅力の主だったもの(他にも無数にあるが)を箇条書きしてみよう。 当時の社会状況の下での小作農民、労働者のたたかう姿がリアルに描かれていて、自分もその1人に仲間入りしたように感じられる。まるで映画を見ているように臨場感があり、テンポよく展開して作品世界に入り込む。巧みな比喩表現に加えて、東北・北海道の方言が多用されて、郷土への愛着などが直接伝わってきて親近感を持つ。当時の天皇制権力の醜悪な実態や、社会の諸矛盾を教えられ、社会変革のたたかいへの決意や展望を与えられる。(まつざわしんすけ=文教大学名誉教授・日本近代文学) *今年の2月20日で、作家で日本共産党員の小林多喜二が特高警察の拷問により虐殺されて80年を迎えます。本欄では、多喜二作品の魅力をさまざまな学者・研究者に執筆してもらいます。(「同盟サイト」より)

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2012年


●2012.9.16・「しんぶん赤旗」→「伊勢崎市で多喜二祭開く」
戦前のプロレタリア作家小林多喜二らが、文芸講演会に訪れた群馬県伊勢崎で警察に検束されたものの、民衆の抗議行動で多喜二らを解放させた「多喜二奪還事件」(1931年9月6日)にちなみ、第5回伊勢崎・多喜二祭(伊勢崎・多喜二祭実行委員会主催)が9日、伊勢崎市内で開かれました。県内外から約200人が参加しました。
小樽商科大学の荻野富士夫教授が記念講演。荻野氏は、多喜二と一緒に捕まった菊池邦作が、終戦直後に治安維持法廃止を主張するとともに、軍部や財閥などの戦争責任を追及したことを紹介し「当時日本人から主体的にこうした要求があったことは意義深い」と述べました。
また、多喜二も、自分やあらゆる革命的組織に加えられた弾圧が戦争を遂行するためのさまざまな事象の中の1つだと認識していたことにふれ「多喜二が生きて戦後を迎えることができたなら、戦争責任や治安維持法について先頭に立って追及していったのではないか」と話しました。
栃木県在住の田中ケイ子さんが「小林多喜二の母セキのひとり語り」を演じました。
会場ロビーでは、各国語に翻訳された『蟹工船』や、多喜二のデスマスク小樽文学館所蔵)などの貴重な資料が展示され、大勢の人が真剣な表情で見入っていました。(「同盟サイト」より)
●2012.8.13・「しんぶん赤旗」→「時代(とき)を撃て・多喜二」の映画カメラマン南文憲さん死去
南文憲(みなみふみのり=映画カメラマン)さん、10日死去。76歳。家族葬を行います。
記録映画「時代を撃て・多喜二」を撮影。(「同盟サイト」より)
●2012.4.1・「しんぶん赤旗」→「小林多喜二の文学と運動・大田努著」評者田島一作家。作品の魅力、丹念に掘り起こす
本書は、多喜二や百合子、プロレタリア文学の研究者であり、それらの全集編集に長年携わってきた著者が、最近発掘の資料も駆使してまとめた評論集である。
本書を読み、多喜二に向かう著者の情熱と決意に触れた私は、末尾に「文学と運動」と据えた表題に改めて目をやり、襟を正される思いでいた。
「『飯を食えない人』が求める文学とは何か?」を絶えず追求してきた多喜二の文学の真骨頂ともいえる「たたかいをとおして成長・発展するプロセス」を独自の問題意識で探究する、容易でないテーマを自らに課した息遣いが伝わってきたからである。
こうした著者の姿勢は、「『蟹工船』の現代性を考える」や、時代と人間の変革を統一的にとらえようとした『工場細胞』の論、そして、当時のプロレタリア文学運動との関わりで解明した「伊勢崎多喜二奪還事件」の考察「非合法時代の遺品から見る『転形期の人々』の意味」などの論考に一貫しているのだ。
多喜二と同時代をたたかった手塚英孝の足跡をたどり、作品が原型に復された歴史を語る本書収録の講演は、著者だから述べられる迫真のドキュメントでもあり、読者の胸を打つだろう。
苛烈な時代状況に抗して描き続けた多喜二の創作態度について著者はあとがきで「文学の存在意義の問いかけに対する回答の一つでもあった」と結んでいる。3・11後の文学創造を考えるとき、この指摘は重く響く。
作品の魅力を丹念に掘り起こし、文学と運動の総体を論じた労作は、新たな多喜二の発見により一層の親近感を抱かせてくれるに違いない。(おおたつとむ=1941年生まれ。多喜二・百合子研究会運営委員)(「同盟サイト」より)
●2012.3.25・「しんぶん赤旗」→本立て「”小林多喜二の文学と運動”大田努著」
編集者、研究者として小林多喜二を究めてきた著者による初の評論集です。
『蟹工船』は、未組織労働者に「人間尊厳の光」を当てたといい「自己責任」論で追いつめられた今日の青年たちとの接点をみつめます。投稿時代の多喜二や、小説『一九二八年三月十五日』の新しさなど、示唆に富む論稿も。多喜二の業績を伝えるために心を砕いた作家・手塚英孝のこと。宮本百合子の思想形成を探求する評論や関東大震災とプロレタリア文学運動など、著者ならではの労作が並びます。(光陽出版社1429円)(「同盟サイト」より)
●2012.3.23・「しんぶん赤旗」→「多喜二の青春と啄木歌、湖北多喜二祭開く。橋下・「維新」の危険性を告発」滋賀
治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟(治維法国賠同盟)滋賀県湖北支部は22日、長浜市内で第2回湖北多喜二祭を開きました。同県本部会長の川端俊英・同朋大学名誉教授日本近代文学)が「多喜二の青春と啄木歌」と題して講演しました。
川端氏は、治安維持法のもとで特高警察により、29歳の若さで虐殺された日本共産党員作家・小林多喜二1903~1933)と啄木の関わりについて、多喜二が啄木の影響を受けて読んだと思われる短歌や、多喜二が好意を寄せた田口タキに送った啄木の短歌を朗読して紹介しました「多喜二が革命的な作家として成長していくプロセスにおいて、タキを愛したことが、彼にとっては大きな力になった」とのべました。
北村富生湖北支部長は「治安維持法と現代―歴史を学ぶ」と題して報告。橋下・「維新の会」の危険性をナチスドイツの台頭と比較しながら告発しました。
参加者からは「多喜二と啄木のそれぞれについては知っていましたが、2人のつながりを知ることができてよかった」などの感想が聞かれました。(「同盟サイト」より)
●2012.3.9・「しんぶん赤旗」→「北海道江別で多喜二祭・伊勢崎での釈放事件などエピソード語る」
第4回「江別の多喜二祭」が3日、北海道江別市の「ドラマシアターども」で開かれ75人が参加しました。
第1部では、あんねんゆうこさんと柏木恵子さんが「ばば漫才・多喜二さんへ」で聴衆を沸かせました。
多喜二の姉チマさんと多喜二が勉強部屋を借りた隣家の上山初子さんをそれぞれ演じて多喜二の墓前に語りかけ、戦後初子さん宅から発見された多喜二の絵「忍路」などのエピソードを語りました。
続いて宮田汎さんが、近年発掘された厚木市七沢温泉福元館に多喜二がこもって「オルグ」を書いた事実や、群馬県伊勢崎で逮捕された多喜二らを民衆が抗議して釈放させた事件、小樽で多喜二の百か日法要のとき、骨箱を縛っていた赤縄を当局にほどかせてお経を上げた僧侶の話などを、現地を訪れた映像を映して説明しました。
第2部では金時江(キム・シガン)さんが多喜二同様、治安維持法で捕らえられ、1945年福岡刑務所で獄死した朝鮮人の詩人尹東柱(イン・トンジュ)の経歴を、植民地支配の中での差別にも触れて紹介し、彼の詩「道」を朗読しました。
宮武玲子さんのピアノと岩永八重子さんの歌で多喜二の愛した音楽を演奏し、ケイ・シュガーさん作詞作曲の「多喜二へのレクイエム」を参加者と一緒に合唱しました。
「劇団ドラマシアターども」の団員らが多喜二の初期短編「健」を群読。沖野光宏さんがギターを演奏し、佐藤由美さんが三浦綾子の「母」を朗読しました。(「同盟サイト」より)
●2012.3.6・「しんぶん赤旗」→「小樽の小林多喜二国際シンポ・国を超え現代に響く多喜二の言葉」
この数年、海外で小説『蟹工船』を中心に小林多喜二の作品が翻訳・出版されています。日本で近年『蟹工船』ブームと評されるほど多喜二が多くの若者たちに注目され読まれたのは、偶然ではありませんでした。
・7カ国から参加
彼の母校、小樽商科大学で開かれた小林多喜二国際シンポジウム(2月21~23日、同大学主催)は、そのことを実感させるものでした。多喜二作品の翻訳に携わった7カ国の研究者・翻訳者も参加したからです。その国々はイタリア、フランス、ノルウェー、スペイン、韓国、中国、アメリカ。多喜二へのさまざまな思いを報告しました。
イタリア語版を訳したファリエーロ・サーリス氏は「多喜二は社会の根底にある構造を見抜き、世界を覆い隠すベールを引き裂いて見せる芸術家の一人」と指摘しました。6年前に翻訳し間もなく3刷が出る予定だといいます。
「頭ではなしに、肌で訳した。『蟹工船』を毛穴で読むような経験でした」というのは、2009年に仏語版を訳したエヴリン・オドリ氏。人間が非人間的に扱われる場面を読むたびに苦しくなり、翻訳作業を中断するほどの迫力があると語りました。
2008年に新訳版を翻訳した韓国の梁喜辰氏は同国でも広がる非正規雇用にふれ「蟹工船という極限の空間で無名の人たちが酷使されている様子を通して、今日の読者は自分たちの立場を見ていたのかもしれない」とのべました。
「現実突き破る」
翻訳の背景には、世界に広がる貧困と格差の問題への批判の高まりがあるといいます。しかし、シンポジウムを通して、社会的題材への共感だけにとどまらない多喜二文学の魅力を改めて教えられました。
「おい地獄さ行ぐんだで!」。21日夜のシンポジウム記念講演会で、7カ国の研究者がそれぞれの母語で『蟹工船』冒頭の一節を朗読したのは圧巻でした。言語がわからなくても、翻訳者の肉声を通して、多喜二のメッセージが迫力をもって伝わってくるようでした。
参加した、『小林多喜二』(岩波新書)を書いた米シカゴ大学教授ノーマ・フィールド氏は記者にこう語りました。
「多喜二は、閉塞した世の中をなんとか変えなければならないと精いっぱい叫んで文学作品にしました。現実を突き破るような彼の信念が、私を研究に突き動かしているのです」
79年前の2月20日、特高警察に虐殺された多喜二。彼の言葉は、時代や国、言語の違いを超えて人びとの胸に響いています。次代に読み継がれていく文学の力強さを目の当たりにした思いです。
シンポジウムは国内外から100人以上が集まりました「多喜二文学の国際性」や「多喜二『ノート草稿』を読み解く」「多喜二研究の諸相」をテーマに、海外を含む20人以上の研究者から多彩な報告がありました。今後も多喜二文学のさまざまな可能性が明らかにされることでしょう。(隅田哲)(「同盟サイト」より)
●2012.3.1・「しんぶん赤旗」→「多喜二没後79年」仙台で講演会
治安維持法犠牲者国賠同盟仙台支部は、低気圧の影響で今シーズン最も多い積雪になった2月25日、多喜二没後79年「小林多喜二と仙台」の講演会を開きました。18人が参加しました。元日本共産党宮城県委員長の本田勝利氏が講師をつとめました。
本田氏は、多喜二研究者の論文や文献を紹介しながら多喜二と仙台の関係について語り、最後に「再び戦争と暗黒政治をゆるさぬ」ために、治安維持法犠牲者に賠償と謝罪を要請する活動を強めましょうと結びました。(「同盟サイト」より)
●2012.2.28・「しんぶん赤旗」→多喜二企画展、来月25日まで/北海道小樽
北海道の小樽市立小樽文学館で、企画展「小林多喜二と小樽高商」が開かれています。小樽商大・高商100周年記念として、3月25日(日)までの開催で、小樽高等商業学校時代の多喜二の活動と教師たちのプロフィルを紹介しています。
小林多喜二(1903~33年)は、1921年(大正10年)に小樽高等商業学校に入学。おじのパン屋を手伝いながら通学した学校の写真(1925年ごろ)や、そのときのテキストなどが展示されています。
小説『老いた体育教師』が『小説倶楽部』の選外佳作第1席に選ばれて掲載(10月号)され、小説家としての生涯が始まったことや、外国語劇「青い鳥」に出演、水彩画をたしなみ、『中央文学』や『文章世界』にカットを投稿したことなどが紹介され、絵の展覧会で観賞する多喜二の写真も展示。
学内で親密な師となった大熊信行氏歌人で経済学者)あてに「あなたも愛された小林さんの全集刊行の仕事について、いくばくなりとも、助けていただきたくよいものを同封。おねがい申します」と、宮本百合子の毛筆による貴重な書簡が展示されています。
『東倶知安行』の扉に、妹にあてた多喜二自筆の献辞や、恋人「田口タキへの手紙」「おい、地獄さ行ぐんだで!」で始まる『蟹工船』を執筆の頃の写真と原稿、母と姉が保存していた、特高により虐殺されたことを報じる新聞記事が張り出されています。(「同盟サイト」より)
●2012.2.23・「しんぶん赤旗」→「多喜二・百合子熊本でつどい」
小林多喜二・宮本百合子に学び語る第24回早春・文化の集いが19日、熊本県人吉市で開かれ、71人が参加しました。
十島英明・前進座元演出部長が「三浦綾子著『母』を舞台化して」と題し講演。多喜二と前進座のつながりなどを紹介し「歴史を学ぶことで、未来を知ることができる」と話しました。
懇談で元教師の宮村宏さん(68)は「橋下徹大阪市長の職員アンケートは、思想・信条の自由を踏みにじり治安維持法時代に逆戻りさせるものだ」と批判。治維法国賠同盟治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟)県本部の小田憲郎副会長は「多喜二をはじめ治安維持法で投獄され虐殺された人たちに、国はいまだに謝罪すらしていない」と指摘「犠牲者の名誉を回復させよう」と呼びかけました。(「同盟サイト」より)
●2012.2.23・「しんぶん赤旗」→多喜二の火を継ぐ志大切に/大阪で多喜二祭
「多喜二の火を継ぐ2012年大阪多喜二祭」が18日、大阪市城東区で開かれ、230人が参加しました。
6回目のテーマは「震災後の日本と小林多喜二」。第1部では清水紫さんの歌、増井順子さんのピアノで多喜二追悼の叙情歌が披露されました。
治安維持法国賠同盟府本部の柳河瀬精会長が実行委員会を代表して挨拶「まもなく大震災・原発事故から1年。震災復興は人間復興でなくてはなりません。多喜二の火を継ぐという点で、橋下『維新の会』の職員基本条例案と教育基本条例案を絶対に許してはならない。多喜二の火を継ぐ志を大切にし、たたかいを進めていこうではありませんか」と訴えました。全国各地の「多喜二祭」から寄せられたメッセージが紹介がされました。
日野秀逸東北大学名誉教授が「人間的復興・人間の健康・多喜二」と題して講演。今年60周年をむかえる日米安保条約に言及し、環太平洋連携協定(TPP)は第2の日米安保条約だと述べました。日本社会の再建は憲法に立脚した安心、安全の社会を住民の主体的な参加によってつくりあげることが大事だと語りました。 大阪市此花区から来た女性は「よかったです。生存権を多喜二の話もおりまぜながら、心強く感じました」と話していました。(「同盟サイト」より)
●2012.2.22・「しんぶん赤旗」→おはようニュース問答「小林多喜二祭や講演会が開かれているね」
のぼる 北海道、秋田、東京、広島など各地で小林多喜二祭や講演会が開かれているようだ。多喜二といえば『蟹工船』の作者だね。
・特高警察が虐殺
ふゆみ そうね。1933年の2月20日は、多喜二が当時の弾圧専門の特高警察によって虐殺された日だから。
のぼる 「虐殺」というのは。
ふゆみ 多喜二は日本共産党員の作家だった。当時の天皇制権力は、あらゆる方法で共産党を弾圧していた。とくに多喜二は『一九二八年三月十五日』などで特高警察の残虐さを鋭く告発していたから、目の敵にされていた。
のぼる 逮捕されたその日に殺されたの?
ふゆみ そう、正午ごろに捕らえられ夜に絶命している。家族に引き取られた遺体には、全身にむごたらしい拷問のあとがあった。太ももは青黒くふくれあがり、指が骨折していたというのよ。
のぼる ひどいことをしたんだね。
ふゆみ 多喜二は、1人の人間として侵略戦争と軍国主義化に正面から立ち向かい、平和と社会進歩の新しい時代を切り開くために日本共産党員として活動した。その時代の激動とたたかいを文学に描こうとした。
のぼる 暗黒時代への挑戦者が多喜二だったんだ。その志を受け継ごうと多喜二祭が開かれているんだね。
・『蟹工船』ブーム
ふゆみ 多喜二の『蟹工船』は前近代的な奴隷労働を描き、そこでたたかう人々を描いている。だから非正規労働で苦しめられている現代の若者の大きな共感を呼んだ。映画、演劇、講談などさまざまな作品になったの。
のぼる 『蟹工船』ブームのことだね。
ふゆみ 国際的にも多喜二の翻訳がすすんでいて『蟹工船』などは、韓国、中国、イタリア、フランス、スペインなどで翻訳されている。スペインでは1万人以上の読者を得て、第2作で『党生活者』もだされた。
のぼる 戦前のたたかいの中から生まれた文学が、21世紀に世界に広がり、貧困や格差とたたかう人々を励ましているんだね。この機会に、もう一度、多喜二の作品を読んでみるよ。
ふゆみ きっと私たちの生き方に響くものがあるわ。(「同盟サイト」より)
●2012.2.22・「しんぶん赤旗」→「多喜二に学ぶ・小樽で国際シンポ、23日まで分科会」
『蟹工船』などを書いた作家・小林多喜二をテーマにした国際シンポジウムが21日、北海道小樽市で開催されました。多喜二の母校・小樽商科大学が主催したもので、中国や韓国、アメリカ、欧州諸国の研究者が集まり、23日まで分科会が開かれます。
21日夜は同市民センターマリン・ホールで記念講演会が開かれ400人が参加。米シカゴ大学のノーマ・フィールド教授が「小林多喜二を21世紀に考える意味」と題して講演しました。ウォール街で始まった貧困と格差拡大に反対する運動や深刻な原発事故をめぐる心配の声をとりあげながら、人間一人ひとりを温かく見つめた多喜二の言葉を織り交ぜ、生命と人権を尊重していくことの大切さを説きました。
近年『蟹工船』を翻訳した各国の翻訳者がそれぞれの母国語で小説冒頭の1節を朗読「多喜二の時代は作家たちが国際的に深く結びついていたと感じます」「現代に指針になると多喜二の作品を広めるお手伝いができてうれしく思います」と語りました。
小樽商大の山本眞樹夫学長が挨拶。同大学室内管弦楽団が多喜二愛好の曲だったブラームス「ハンガリア舞曲」などを演奏しました。(「同盟サイト」より)
●2012.2.21・「しんぶん赤旗」→「多喜二文学の”光”思う・没後79周年の墓前祭」北海道小樽
戦前のプロレタリア作家で日本共産党員の小林多喜二没後79周年の墓前祭が20日、北海道小樽市の奥沢墓地で行われました。多喜二は、1933年2月20日に東京の築地警察署で虐殺されました。29歳でした。
道内と長崎、東京、大阪などから110人が参加。21日から小樽商科大学百周年事業として開かれる「多喜二国際シンポジウム」に参加する外国人らとともに、多喜二の好きだった赤いカーネーションを墓前に献花しました。
寺井勝夫・多喜二祭実行委員長が「東日本大震災と福島原発事故後のいま、改めて日本の政治のあり方が問われている」として、多喜二の日記に「新しい年が来た。俺たちの時代が来た。我等何を為すべきかではなしに、如何に為すべきかの時代だ」と書かれていたことを紹介「多喜二を想起して、新しい社会を共同の力でつくっていこう」と挨拶しました。
日本共産党北海道委員会の青山慶二書記長は「社会はどんどん変わるが、多喜二の文学は、そのつど新しい価値と光を照らし、くみつくせない豊かさを持っている」として、立党の精神である国民の苦難軽減へ、社会を何としても変えなければと深い自覚を持った作品作りであったと強調しました。(「同盟サイト」より)
●2012.2.20・「しんぶん赤旗」→潮流
戦前のプロレタリア文学作家、日本共産党員だった小林多喜二が特高警察に捕まり虐殺されたのは1933年2月20日です。薄曇りの寒い日だったといいます▼文学、党活動の両方で多喜二と行動を共にした手塚英孝が彼の言葉を伝えています「書く人は沢山いるよ、だが、皆、手の先か、体のどこかで書いている」「誰か、体全体でぶっつかって、やる奴はいないかなあ。死ぬ気で書く奴はいないかなあ」(「小林多喜二の思い出」)▼北の荒海で奴隷のように働かされる労働者の悲惨さと決起を描いた多喜二の『蟹工船』は80年以上の時を超えて、非正規雇用や低賃金に苦しむ現代の若者から共感を集めています。対象に全身でぶつかったからこそ書けた作品です▼北海道小樽市で21日から小林多喜二国際シンポジウムも開かれます。多喜二が4歳だった1907年末、一家は秋田から小樽に移住しました。当時、石川啄木もこの町で暮らしていました。新聞編集の仕事に挫折した後、社会主義に関する演説会に参加し、感動を日記にしるしています▼「こころよく/我にはたらく仕事あれ/それを仕遂げて死なむと思ふ」。小樽公園にある碑に刻まれた啄木の歌です。命がけでできる仕事を求める思いが痛いほどです▼今年は啄木没後100年、来年は多喜二没後80年です。社会主義に未来を見いだしつつ貧苦に倒れた啄木。日本共産党員として活動中に殺された多喜二。2人の志を受け継いで歴史を前へ動かすのは21世紀に生きる私たちです。
●2012.2.19・「しんぶん赤旗」→文化「文学館ユニーク展示」仙台
「格差社会」の近現代・変革への志と思想弾圧
仙台文学館では、特別展「文学と格差社会」が開かれています。近現代の文学を「格差社会」という視点からとらえ直す展覧会。明治から昭和までの、庶民の生活の厳しさや変革への志を描いた作家たちの資料を集めています。
樋口一葉の流麗な筆遣いの草稿や、石川啄木の几帳面な字でまとめられた詩稿ノートなど、作家の息吹が伝わる肉筆資料を中心にした展示です。
プロレタリア文学のコーナーでは、小林多喜二の特集もあります。多喜二が尊敬していた志賀直哉あての書簡や『蟹工船』の原稿、多喜二が描いた水彩画などが展示されています。
宮城県ゆかりの作家たちのコーナーでは、明治期の農民の貧しい生活ぶりを活写した真山青果の『南小泉村』関連の資料などを展示。島木健作、久板栄二郎ら著名作家のほか、郷土の文学者たちの仕事を紹介しています。プロレタリア文学運動に参加した小島勗や、無産者歌人連盟で活動した伊澤信平などの資料は、今回の企画にあわせて新たに収集されたものです。
さらに、戦前の思想弾圧を物語る文献も。作家らの思想調査をまとめた内務省の内部文書や、地方紙への記事差し止めを命ずる宮城県警の文書などは、表現の自由の重みを改めて実感させます。(金子徹)・特別展「文学と格差社会」=3月20日まで、仙台文学館・電話=022(271)3020(「同盟サイト」より)
●2012.2.17・「しんぶん赤旗」→「小樽多喜二祭・墓前祭や記念講演、20日から4日間」
戦前の日本共産党員作家で特別高等警察に虐殺された小林多喜二の没後79年「2012年小樽多喜二祭」が20日(月)~23日(木)の4日間、北海道小樽市で行われます。
「墓前祭」は20日午後1時から、同市奥沢墓地で行われますJR小樽駅前12時15分発の墓地行きJRバスを運行します。(往復400円)。
21~23日は、小樽商科大学創立100周年記念事業として「2012小樽小林多喜二シンポジウム」が同大学の多目的ホールで開催されます。記念講演会は21日午後6時30分から、市民センター・マリンホールで行われます。記念講演「小林多喜二を21世紀に考える」ノーマ・フィールド・シカゴ大学教授)、ミニパネル「『蟹工船』の広がりと深まり」コーディネーター・島村輝氏)などの内容となっています(入場無料)(「同盟サイト」より)
●2012.2.10・「しんぶん赤旗」→「古河多喜二祭、定員超え開催」茨城
『蟹工船』などの作品で知られるプロレタリア作家・小林多喜二の命日(2月20日)が近づく中、新日本歌人協会古河支部は3日、茨城県古河市の古河文学館で「2012年古河多喜二祭」を開き、会場の定員を超える参加者が集まりました。
同支部の針谷喜八郎支部長が講演し、多喜二の人柄を示すエピソードなどを紹介しました。民主主義文学会の奈良達雄さんは「多喜二の仲間の詩、多喜二を讃える詩」と題して講演しました。(「同盟サイト」より)
●2012.1.29・「しんぶん赤旗」→涼子のおいしい旅
「神奈川・厚木市、多喜二追想の湯・猪とシロコロ」
神奈川県の中央部にある厚木市で、温かなおいしいものめぐり。
まずは七沢温泉へ。副都心の新宿から、電車で1時間弱。本厚木の駅前はにぎやかな繁華街ですが、そこから車で30分も西に行けば、丹沢山系の東端です。
こののどかな山あいに、都会の奥座敷・東丹沢七沢温泉郷はあります。
冬の名物は猪鍋。温泉旅館での宿泊や食事付き日帰り入浴、または周辺の食事どころでいただけます。
ぐつぐつ煮え立つみそ仕立ての鍋で、いのしし肉は、案外クセがなくてうま味たっぷり。おなかがぽかぽかです。
この日訪れた福元館は、プロレタリア文学の小林多喜二ゆかりの宿です。おかみさんが先々代に聞いたところによれば、1931年3月から1カ月ほど離れに滞在していたとか。
「多喜二さんは、縁側で小説『オルグ』を執筆中、おまわりさんの姿を見ては、原稿をトイレに捨てて裏山に隠れる。そんな暮らしだったそうですよ」
丹前のえり口から見えた、東京の警察で勾留中に拷問を受けた痛々しい傷痕。当時のおかみは野草の湿布を毎日作っては貼ってあげたそうです。
多喜二は、主人が取った山鳥やジネンジョで滋養をつけ、温泉で体を癒やしながら執筆を続ける日々だったといいます。
薄々事情を知った当時のおかみは、家族に口外を禁止しました。そして10年ほど前、多喜二について調べる女性に尋ねられたのをきっかけに、現在のおかみが初めて口を開きました。
お肌がツルツルになるアルカリ性の温泉に漬かりながら、多喜二を追想しました。 温泉場から本厚木駅への帰り道、もうひとつの名物を食べにいきました。その名も「厚木シロコロ・ホルモン」。
いわゆるシロと呼ばれる豚の大腸ですが、通常は開いてゆでたもの。ところが食肉センターが近い厚木では、新鮮な生のシロを、管状のままぶつ切りにしてお客に出します。
これを炭火で焼くと、ぷうっとコロコロな筒型にふくらむのです。そこでシロコロ。みそダレにつけて口に含むと、ジュワッと肉汁がにじんで、おいしいこと! 思わずビールが進みます。
市内には何軒もシロコロを出す店があるので、温泉や大山登山帰りのお客さんも多いとか。他の部位ももちろん大満足の味です。
また厚木市南部の農業地帯では、イチゴ狩りが始まっています。平たんな畑の向こうには雄大な富士山が一望。今年は良い年になりますように。(南田涼子、撮影=南田乗太) 厚木のおみやげ
・とん漬け―自家製みそに漬け込んだ豚ロース肉。市内の精肉店などで買える
・アユ―相模川の漁期は6月~10月。アユ形のせんべいなど菓子類も豊富
【交通】小田急線本厚木駅下車。厚木バスセンターから七沢行きバスで約30分、七沢温泉入り口下車で七沢温泉
【問い合わせ】厚木市観光協会電話=046(228)1131(「同盟サイト」より)
[関連情報]
○多喜二滞在の宿・七沢温泉福元館離れ、保存基金のお願い
小林多喜二が1931年に滞在した七沢温泉福元館「離れ」が築90年を経、このままでは見学不能になる日がやってきます。そのため、「離れ」存続のための基金募集が行われています。私も賛同します。みなさんも、ぜひご協力ください。
・費用概算:建物補修工事費150万円、丹前その他展示品保存ケース購入費45万円、写真再生費用5万円、合計200万円
・協力金:一口1000円、特別協力金:一口10000円
・賛同者(敬称略)  伊豆利彦、大田努、大畑哲、澤田章子、島村輝、津上忠、土井大助、浜林正夫、藤田廣登、増本一彦(2009.9.25現在)
・多喜二ゆかりの七沢を知らせる歴史と文学を広める会(神奈川多喜二の会) 事務局=蛎崎澄子・℡&ファックス045-304-5889
・郵便振替の時は次の口座にお振込み下さい。口座番号=00250-4-53161、加入者(口座名称)神奈川多喜二の会
(「未来-私達の力で歴史を動かそう!」ブログテーマ「小林多喜二」2009.11.5より)
●2012.1.22・「しんぶん赤旗」→語ろう日本共産党・「党名変えない」どう考える「歴史・理想が刻まれた名」
「共産党はいいこと言ってるけど、党名を変えればもっとのびるんじゃない?」。そんな声をよく耳にします。しかし「なぜ党名を変える必要がないか」をぜひみてください。
日本共産党は今年で創立90周年を迎えます。日本共産党は戦前、天皇絶対の暗黒政治の時代から、激しい弾圧に屈せず、侵略戦争反対と国民主権を掲げ続けました。その中で作家の小林多喜二など多くの先輩が弾圧によって命を奪われました。戦後、党議長となった宮本顕治さんは、12年間獄中で不屈にたたかいました。評論家の加藤周一さんは、宮本さんが死去したとき、「反戦によって日本人の名誉を救った」という談話を寄せてくれました。
これに対して今の自民党や民主党の先輩だった保守政党や、社民党などの前身だった社会民主主義政党は侵略戦争を後押しし、太平洋戦争前には自ら解散し「大政翼賛会」に合流しました。だから戦後、党名を変えて再出発せざるをえなかったのです。
戦後も、日本共産党は、日米安保条約をなくして米軍基地のない平和な日本を、大企業や財界の横暴をやめさせ人間らしく働き生きることのできるルールある経済社会を―と、たたかってきました。原発問題でも、当初から未完成の技術だとして建設に反対、抜本的な政策転換を求めてきました。
日本共産党は、社会はいまの資本主義社会で終わりではなく、未来社会―社会主義・共産主義へ発展するという展望を持っています。未来社会では、搾取の廃止や労働時間の短縮で、すべての人がさまざまな可能性を持ち発達できます。
日本共産党という名前には、こうした歴史と理想が刻まれているのです。(「同盟サイト」より)
●2012.1.18・「しんぶん赤旗」→「来月小樽で小林多喜二国際シンポ、研究の進展に期待・荻野富士夫」
20世紀末からの国際的な「格差社会」拡大は誰の目にも明らかとなり、それへの関心と批判は、2008年に至って、ワーキングプアや「名ばかり管理職」などの現状告発とともに『蟹工船』ブームを巻き起こし、一躍、小林多喜二を時の人とした。
3分科会と講演
そうした多喜二への現代的関心の機運醸成に寄与したのが、白樺文学館多喜二ライブラリーの過去4回におよぶ多喜二シンポジウム東京(2003年・04年)、中国・保定(2005年)、オックスフォード(2008年)であった。それらは多喜二研究の水準を大きく引き上げ、とくにオックスフォード・シンポは「多喜二を単一の出発点としながら、池に広がる波のように、時空を貫いて多様な領域に広がる、多喜二研究のもたらす大きな衝撃力」ヘザー・ボーウェン=ストライクの総括)を示すことになった。この開催は、偶然にもリーマン・ショックと重なった。
第3回シンポジウムの準備過程において、関係者の間では締めくくりのシンポジウムを小樽で開催したいと話し合われていた。それを受けて、創立100周年を記念する事業の1つとして、多喜二の母校小樽商科大学の主催で、雪の2月に小樽小林多喜二国際シンポジウムが開催されることになった。3日間の日程で、3つの分科会と記念講演会が企画されている。
近年の多喜二浮上の社会的要因が国際的・構造的なものであることから、欧米・アジアの日本研究者にも注目され、独自の論点が提示されるとともに、中国・韓国・アメリカ・フランス・スペイン・イタリア・ノルウェーなどにおいては『蟹工船』を中心に新たな翻訳書が刊行されている。
第1分科会では、こうした国際的な受容と評価・翻訳のあり方などについて、各国のプロレタリア文化運動研究などとも関連させ、比較文学の観点からの報告と討議をおこなう。7カ国語の翻訳者が一堂に会し、多喜二文学の国際性を論議する様子は壮観であろう。
昨年2月に刊行された「DVD版 小林多喜二草稿ノート・直筆原稿」では、多くの多喜二作品の草稿段階での構想、その修正、原稿への推敲過程などが全面的に明らかになった。
第2分科会では、これを本格的に用い、『蟹工船』や「オルグ」『党生活者』などの具体的な草稿分析を通じて、新たな読みと論点の提示がなされる。
第3分科会では、若い世代の研究者によって多喜二小説への斬新なアプローチがなされるほか、北海道・北洋を舞台とする『防雪林』や『蟹工船』の独自な捉えかえしが試みられる。私自身は軍事的な観点から「北洋漁業」を概観する。
内容濃いものに
2月21日の記念講演会では「小林多喜二を21世紀に考える意味」と題して、ノーマ・フィールドさんが語ってくれる。多喜二文学・思想の現代性や国際性、さらに普遍性と個性などについて、どのような展開がなされるのか、楽しみである。
この小樽でのシンポジウムが、これまでのシンポの成果を確かなものとして受け継ぐだけでなく、今後の多喜二研究をさらに進展させていくような、実質的で内容の濃いものとなることを願ってやまない。(おぎのふじお・小樽商科大学教授)
*2012小樽 小林多喜二国際シンポジウム=2月21日(火)午後6時半~8時45分、記念講演会、小樽市民センター マリン・ホール。2月21日(火)~23日(木)各日とも午前9時~、シンポジウム、小樽商科大学 大学会館多目的ホール。問い合わせ電話=0134(27)5492小樽商科大学創立百周年記念事業推進室(「同盟サイト」より)

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2011年


●2011.12.14・「しんぶん赤旗」→「多喜二虐殺と太平洋戦争・小樽で講演」
北海道小樽市でこのほど「太平洋戦争を語る夕べ」日本共産党小樽後援会とおたる平和展実行委員会主催)が開かれ、58人が参加しました。
荻野富士夫小樽商科大学教授が「多喜二虐殺と太平洋戦争『母の語る小林多喜二』から見えるもの」と題し講演。多喜二の母・セキさんが多喜二の思想について「自分の息子を信ずる如くその思想も信じていた」ことや、戦争については「今度の終戦に伴って思想も、言論も、出版も総て自由になって、何らの拘束も裁判も受けなくなった。これで多喜二も土の中から明るい陽ひ)を浴びて芽を吹き出したことになり、私どももホーッと長い息をついたことになる」と語ったことを紹介しました。
荻野教授は、公表されている著書・資料・統計を用いて、戦争の恐ろしさと残酷さを紹介し「決して戦争を起こしてはならないことを若い世代に伝えていかなければならない」と訴えました。日本共産党の菊地よう子道政相談室長が来賓挨拶を行いました。(「同盟サイト」より)
●2011.11.25・「週刊MDS1208号」→小林廣、小林セキから聞き取り『母の語る小林多喜二』出版へつなぐ。
あ あ、またこの2月の月が来た。
本当にこの2月という月が
嫌な月、声を一杯に
泣きたい。どこへ行っても泣かれない。
ああ、でもラジオで
少し助かる
ああ涙が出る
眼鏡がくもる
多喜二の母セキの有名な文章です。秋田県の釈迦内村の小作農の娘・木村セキは、1886(明治19)年頃に、大館町の近くの農家・小林家に嫁ぎ、1906年に小樽に移住しました。長女ちま子、息子は多喜二と、後にバイオリニストになる三吾、妹のゆき子を育てた平凡な幸せな母親でした。多喜二がプロレタリア作家として知られ、特高 警察に追いまわされるようになるまでは。
多喜二が逮捕・勾留されると差し入れをし、手紙を書かなくてはならなくなり、読み書きを学びます。そうして書いたのが上の文章です。
セキが語った多喜二が、つい最近出版されました。治安維持法・特高警察研究の第一人者である荻野富士夫氏(小樽商科大学教授)が、1946年に出版されるはずだったのに日の目を見なかった『母の語る小林多喜二』を発掘し、出版にこぎつけたのです。セキから聞き取りをして執筆された文章です。編著者は小林廣といいます。1895(明治28)年、北海道東遠浅生まれで、旧朝里村育ち、正規の学歴なし、17歳で鉄道員、24歳で村役場書記、30歳より水産団体職員で、朝里郷土研究会創設。著書に郷土史『定山と定山渓』『朝里郷土史概観』があり、1955(昭和30)年、60歳で亡くなっています。
小林廣は、多喜二の姉・佐藤ちまとその夫・藤吉と同じ町内に住み、藤吉とは幼馴染でした。ちまの親友・鍋山キミヨと結婚しています。佐藤家で老後を過ごしたセキから話を聞き、記録を残し、出版を企画しましたが、果たせませんでした。それが65年目に出版されることになりました。
小林廣の手が加わっているとはいえ、自慢の息子への母親の優しいまなざしが痛いほど伝わってきます。多喜二が 家族に宛て出した多くの手紙は、特高警察の手に渡ることを恐れてすぐに焼き捨てていたので、ほとんど残されてい ないこと。上京後の多喜二の獄中生活や地下生活の日々をどのような思いで暮らしていたかが語られています。「多喜二の信念通りさせるのこそ多喜二の本望であろう」。多喜二の死を知らされ築地署に駆け付け、変わり果てた遺体に面した時の嘆きと悲しみ、お通夜や、解剖や葬式さえも妨害された苦しみも胸に響きます。
多喜二には戒名がつけられていました。小樽新富町の龍徳寺の「過去帳」によると「物学荘厳信士」といいます。住職は子どもの頃から苦労した人物で、多喜二に同情し、セキにも慰めの言葉をかけ、世間体をはばかりながらも法要をいとなみ、戒名を付けたということです。「物学に唯物論者という意味が込められているとすれば、宗教とは矛盾するものの、多喜二にふさわしい戒名といえよう。荘厳も、多喜二の文学と生き方をみれば、よく当てはまる」(荻野富士夫)と言えます。
<参考文献>小林セキ『母の語る小林多喜二』(新日本出版社、2011年)(MDS支援センターhttp://www.mdsweb.jp/doc/1208/1208_06m.htmlのサイトより)
●2011.11.4・「しんぶん赤旗」→日曜あさいちばん「多喜二『蟹工船』金子昇が朗読」6日NHK①
NHKラジオ1早朝の情報番組「日曜あさいちばん」(前5:10)は6日、日本共産党員のプロレタリア作家・小林多喜二(1903~33)の代表作『蟹工船』のあらすじを朗読します。
古今の名作文学を、いま旬の俳優が朗読するコーナー「文学のしずく」で紹介。金子昇が、『あらすじで読む日本の名著』中経出版)に収録されている『蟹工船』の世界を語ります。午前5時30分ごろから約14分間の放送予定です。(「同盟サイト」より)
●2011.9.6・「しんぶん赤旗」→「”奪還事件”から80年・多喜二祭に400人」群馬・伊勢崎
小説『蟹工船』で知られるプロレタリア作家の小林多喜二らが1931年9月6日、文芸講演会に訪れた群馬県伊勢崎で講演を前に警察に検束され、治安維持法下でも民衆の力で解放させた「多喜二奪還事件」から80年。事件を記念する第4回伊勢崎・多喜二祭(八田利重実行委員長)が4日、伊勢崎市内で開かれ、400人以上が参加しました。
多喜二・百合子研究会の大田努副代表が、多喜二と群馬の関係について、群馬県出身の金子満広(元党書記局長元衆院議員)が、自らの人生と多喜二への思いなどを語りました。
多喜二の証言に基づく文書が発掘され、伊勢崎署から太田署に移送されていたという新事実が判明「しんぶん赤旗」(日曜版8月28日号で大田氏が紹介)したことを受け、長谷田直之事務局長は「多喜二本人の証言が出てきたことは重要。これから新たな証言を見つけていきたい」と述べました。
元党衆院議員の松本善明氏が「菊池邦作の先駆性といわさきちひろ」と題して講演。松本氏の妻で絵本画家のいわさきちひろさんが伊勢崎の文芸講演会を主催し検束された一人、菊池氏の推薦で1946年、日本共産党に入党していたことを話すと会場はどよめきました。
「絵筆をもった革命家」と、ちひろを評し、現在ベトナムや韓国などでも展覧会が開かれ国際的な広がりを持っていることを紹介「邦作氏との出会いと入党がちひろの画家としての出発点であり、人生の広がりをつくった」と述べました。
展示室では、多喜二のデスマスク小樽文学館所蔵)や草稿ノート共産党中央委員会所蔵)などの貴重な資料を真剣に見入る参加者でにぎわいました。日曜版記事を読んで参加した森美枝子さん(66)=埼玉県東松山市=は「すごい資料ですね。仲間から3年前に多喜二の奪還事件の話を聞いて、今回伊勢崎に来られてよかった」と話しました。(「同盟サイト」より)
●2011.8.28・「しんぶん赤旗」→文化/「多喜二奪還・伊勢崎事件80周年に寄せて・大田努、コラムに残る息づかい」
本年は、革命作家の小林多喜二らが講演に訪れた群馬県伊勢崎で検挙され、その釈放のための「多喜二奪還事件」が起こされてから80周年を迎えます。この事件は、戦前の日本が中国東北部への侵略戦争を開始した「満州事変」の前夜に当たる1931(昭和6)年9月6日のことでした。
80周年を前にして、私は多喜二らの消息を伝える新しい事実を発見しました。それは、別項のように、日本プロレタリア作家同盟機関紙「文学新聞」31年10月10日創刊号の第3面「文壇ゴシップ」欄に掲載された「昔の牢屋」というこの事件に触れた記事です。そこには多喜二本人の生々しい声も初めて伝えられていたのです。
この事件は作家の稲沢潤子が『自立する女性の系譜―お母さん弁護士平山知子の周辺』一光社、77年)で平山氏の父菊池邦作とこの事件との関係に触れたことから、知られるようになりました。
当日の講演会を主催したのは全農青年部とされますが、伊勢崎地方にはプロレタリア文学運動の影響を受けた広範な読者層もあり、講師の多喜二や村山知義、中野重治を招くだけの十分な条件が存在しました。
講演会の開始前にもたれた「茶話会」で多喜二が語ったと伝えられる「台所と文学」という演題も、この頃彼が「我々の芸術は飯を食えない人にとっての料理の本であってはならぬ。」と書いた色紙が残されているように、その文学観から見て興味深いものがあります。
多喜二は長編小説の「安子」や『転形期の人々』を書き始めるとともに、作家同盟の書記長としては各地の講演会なども精力的にこなし、プロレタリア文学を多数者のものにするために先頭に立っていました。
ところが、伊勢崎署は講師団を事前に総検束し、この講演会の開催を妨害したのでした。すでに会場に詰めかけていた聴衆は講師団の釈放を要求して大挙して警察署に押しかけ、乱闘となり、一時警察署が占拠される状態になります。そうした最中に、隣町の太田署に移された時の多喜二の感想が「昔の牢屋」というものでした。
この問題では、警察当局との釈放交渉の結果、事件については公にしないという条件が交わされていたために講演会の主催者側では沈黙を守っていました。
ところが一部新聞が不確かな情報を流したりした中で「文学新聞」が事件の経過についていち早く正確な記事を載せていたことは大変注目されます。この記事からは、多喜二らが釈放されたのがこれまで伝えられていた伊勢崎署ではなく、太田署からだったことも新たに判明しました。
また、記事は留置場にありながらも意気軒高な若き日の多喜二の姿を生き生きと伝えています。彼はこの事件の翌月に非合法下の日本共産党に入党を果たしたのです。
この頃は、全国的に都市でも農村でも革命的民主的運動が大きな高揚期を迎えており、伊勢崎事件は東京にも波及しています。9月20日に東京上野で開かれた大衆的啓蒙雑誌『戦旗』の「防衛の夕べ」で多喜二がまたしても講演中に検挙されたさい、労働者らが上野の坂を駆けおりるデモを敢行し「多喜二奪還」の抗議集団を組織していたことも忘れることはできません。(おおたつとむ=文芸評論家、多喜二・百合子研究会副代表。
・昔の牢屋
去る9月6日に作家同盟の中野重治、小林多喜二、村山知義の3人伊勢崎市の全農青年部の講演会へよばれて行き、途中から伊勢崎署に3人とも検束、それと知つた全農青年100人あまり、警察へおしよせ乱闘となつたので、警察では3人を裏口から自動車にのせて太田といふ田舎の警察へ送つた。
東京へ帰つた小林曰く「太田といふ警察の留置場は丸太ン棒で作つた荒莚じきの、江戸時代の牢屋そつくりだつたよ。あそこは実に物凄くて珍らしかつた」何もそんなに感心せんでもよい。
・第4回伊勢崎 小林多喜二祭
9月4日午後2時、伊勢崎市境総合文化センター。記念講演・松本善明「菊池邦作の先駆性といわさきちひろ」、挨拶・金子満広、バイオリン演奏・早川愛美、多喜二奪還事件の概要・長谷田直之。参加券1000円。主催=伊勢崎・多喜二祭実行委員会
・小林多喜二=1903~33年。小説の代表作に『一九二八年三月十五日』『蟹工船』『党生活者』など。(「同盟サイト」より)
●2011.7.31・「しんぶん赤旗」→「母の語る小林多喜二、小林セキ・述」荻野富士夫・解説/評者三浦光則多喜二・百合子研究会会員
/ 楽天的性格は母から受け継いだ
小林多喜二が人一倍母親思いであったことはよく知られている。その母セキが、戦争が終わった後の1946年、13回忌を機に多喜二を語ったものが本書の原型である。
原稿にまとめられた後、2度にわたって出版が模索され、雑誌に広告まで掲載されたが、いずれも刊行までにいたらなかった。今回、本書の校訂者である小樽商科大学の荻野富士夫の力により、60年余を経てようやく日の目を見たということになる。
多喜二の母セキといえば、三浦綾子の描いた『母』またそれを原作とした一人芝居で親しんだ読者も多いと思う。そうした読者の、秋田なまりのぼそぼそ語るというイメージからは、本書の語り口はややとまどいがあるかもしれない。たしかに表現には編者の手が加わっていると思われるが、語られている内容は、これまで明らかにされた多喜二の人間像を、母親の目から見たものとして再発見、再認識させるものになっている。
多喜二という命名が学問好きの祖父の名にあやかっていることや、百か日の法要のときに多喜二に戒名がつけられていたことなど、本書により新たにわかった事実もある。
多喜二の家庭の雰囲気がたいへん明るいものであったことがしばしば語られている。多喜二の明るく楽天的な性格が母から受け継いだものであることが改めて確認できる。また、初期の作品に描かれる「赤貧を洗う」生活という多喜二の認識を「錯覚」とする点に注目したい。若き日の多喜二の気負いを母の目から指摘したものとして興味深い。
その他、セキの多喜二に対する信頼の強さや、多喜二の恋人田口タキにたいする親愛のこもった回想、さらに多喜二の没後小樽に戻った後のセキの暮らしぶりなど、その語りは多喜二を深く知る上で興味は尽きない。(こばやしせき=1873~1961年。秋田県生まれ)(「同盟サイト」より)
●2011.7.6・「しんぶん赤旗」→小林セキ述『母の語る小林多喜二』よみがえる、「太陽は総てのものを平等に照らす」荻野富士夫
「それ、もう一度立たぬか、みんなのためもう一度立たぬか」と、息子多喜二の頬に自らの頬をすり合わせて叫んだ母小林セキのことは多くの人に知られている。そのセキは、敗戦直後の1946年2月から3月にかけて、多喜二虐殺以来の13年間の「毎日々々重い荷物を肩にしているような辛さ」を一度に払うかのように「お天道さまを仰ぐような明るい気持」で、肉親から見た多喜二を語っていた。
晩年に身を寄せていた長女チマの嫁ぎ先佐藤家と親しかった、北海道朝里村の郷土史家小林廣による聞き書き『母の語る小林多喜二』である。4月10日付の小林廣「編者の言葉」とともに、口絵として「あーまたこの二月の月かきた」というセキの詩やセキとチマの写真が用意され、札幌の出版社から近刊の予告が出されていたが、おそらく経済的な事情により、刊行に至らなかった。編者小林廣はこの「蹉跌」に苦慮し、さらに聞き取りを加えて2年後に東京での出版を模索したが、これも実現せず、2つの原稿が未完のまま残された。
・より細やかに温かにセキ像
編者小林廣による文章の選択や表現という事情を考慮しなければならないが、三浦綾子『母』が形象した秋田弁・なまりの「ボツボツ語る」というイメージからは、かなり離れた口調で語られる。セキと暮らしたご親族によれば、日常は北海道弁であったという。
その語りの内容は、これまでのセキ像を逸脱するものではなく、母としての思いをより細やかに、温かく伝えてくれる。セキの実家の木村家のこと、多喜二虐殺後にその遺骨とともに小樽に戻ったセキが百か日法要を営み「物学荘厳信士」という戒名をつけてもらったことなど、本書によって明らかになったことも多い。また、多喜二および兄多喜郎の命名が読書好きの祖父多喜次郎(多喜二の年譜上では多吉郎とされる)に由来するとセキが語っていることも、新たな問題提起となる。
多喜二への無償の愛と絶対的な信頼は本書全体を貫いている。拓銀を馘首された多喜二が東京に出ることを決意すると、セキは三星パン支店の経営を次女夫婦に任せ、当然のように多喜二を中心に東京で一家を持とうとする。多喜二の入獄のため1年ほど遅れるが、三吾とともに「親子3人同居の東京生活は和やかなもの」であった。1932年4月以降、多喜二が地下に潜行すると、セキは小樽に戻るが「私の家は多喜二の家、三吾のいる東京の家だと気付」き、まもなく東京に帰ってくるのである。
セキが秋田と小樽の生活を通じて感得した「太陽は、総てのものを平等に照」し「天は自ら助くるものを助く」という信念は、多喜二の文学や生き方を思いつづけることによってさらに確固たるものとなった。それゆえに、敗戦によって到来した新日本において多喜二を大っぴらに語れることを喜び「今日になって多喜二の考え方は正しいものであったとはっきりと認識させられます」と断言する。
・民衆・女性の生き方力強く
仮名ながら田口タキについての語りも親愛に満ちている。初対面から「本当に綺麗な、そして無邪気で、心持ちのさっぱりした」タキを「娘のように」好ましく思い、タキもセキを「親のように」慕いつづけた。また、多喜二と地下生活をともにした伊藤ふじ子に対して「日陰の生活をしながらも、多喜二を愛し」てくれたことへの感謝が述べられる。
本書の意義は、日本近代の民衆・女性の1人としてのセキの生き方を力強く伝える点にもある。満13歳で嫁入り後、家の没落・北海道への移住、そして小樽の新興労働者街での小営業などという、近代化や都市化の流れに翻弄されながらも、働くことに喜びを感じ、いつか多喜二らのめざした時代が必ずやってくるという信念を持ちつづけた「世間の人が幸福になって自分も幸福を受け」るというセキの生き方は、多喜二に受け継がれた。
最初の語りから65年、そして1961年5月のセキの死から50年を経て、多喜二とセキはさらに豊かな人間的な魅力を増してよみがえる。(おぎのふじお・小樽商科大学教授)『母の語る小林多喜二』は、15日に新日本出版社から発売されます。(「同盟サイト」より)
●2011.3.18・「しんぶん赤旗」→断面・DVD版「小林多喜二草稿ノート・直筆原稿」/権力の破壊から守り続け
小林多喜二の草稿ノート、直筆原稿を写真で収録したDVDが発売されました(雄松堂書店・10万5000円)。これには、草稿ノート(全14冊)「析々帳」と表紙に書かれた(日記1冊)『蟹工船』『転形期の人々』などの直筆原稿、関係者によって守られた『党生活者』の完全なゲラ、草稿ノートに対応する25作品の初出誌の誌(紙)面が収録されています。
草稿ノート12冊と「析々帳」1冊は日本共産党中央委員会の提供です。共産党中央委員会はこれらのノート稿を管理するようになった2008年から閲覧希望者には公開してきましたが、より広く多喜二研究に役立ててほしいと提供。DVD版は市立小樽文学館、日本近代文学館などの提供資料とあわせて充実したものとなっています。
[関連情報]
○「折々帳」
【多喜二の日記のタイトルは「折々帳」ではなかった】
多喜二の草稿ノートはそのほとんどが細かい書き直し、訂正、推敲のあとで一杯になっているのですが、日記帳にはほとんど直しが見られません。
その日記帳は「折々帳」というタイトルで知られ、ぼくもそう信じてきましたが、ノートの表紙には「折々帳」ではなく「析々帳」と書かれています。「折」ではなく「析」です。
そのことを踏まえて、改めて日記の中身を考えてみると、なるほどただ単に「折々」のことを記した漫然たる日記ではなく、自分の読書や創作、生活についての「分析」的な記述が大半を占めているという気がしないでもありません。
まぁ単なる書き間違いかもしれませんが、いずれにせよ「折々帳」ではなく「析々帳」であるということは事実です。
○「タッキー」
【多喜二は「タッキー」と署名していた】
この日記ノートの裏表紙に、彼の英語の署名があります。そこに、多喜二は「Takiji Kobayashi」 ではなく「Tacky Covaiashy」と記しています。
そう、多喜二は「タッキー」だったのです。これは自筆署名で、ぼくが面白がって勝手に呼んでいるわけではありません。若き日の多喜二の、カッコつけの茶目っ気が、この署名に現れているような気がします。「タッキー・コヴァイアシー」。。。うーむ、若い!! (「未来-私達の力で歴史を動かそう!」ブログテーマ「小林多喜二」2009.4.4より)
・業績全体が抹殺対象
天皇制権力に虐殺された小林多喜二は、その業績全体も抹殺の対象となりました。ノート稿、ゲラなどが今日に伝えられるのは、多くの人々によって長い年月守りつづけられたものであることを想起させます。
共産党所蔵のノート稿についていえば、1946年につくられた全集編纂委員会が長い年月をかけて蒐集したものです。編纂委員のひとりの手塚英孝氏は、戦後まもなく発掘調査のために、戦後の混乱の中、青函連絡船の甲板でDDTを体に吹きかけられたりしながら、小樽の小林家を訪ねていった様子を書いています。多喜二の姉から「原稿帳」と書かれたノートを6冊ほど渡されます。これは強制疎開で荷づくりの時、ごみ箱に投げ込まれていたのをお母さんが見つけ、拾い上げていたものでした。
「原稿帳はいま13冊ほど刊行会で保管されているが、13冊になるまでには10年近い年月がかかった。小林多喜二の作品は、いまはほとんど完全に復元されているが、これはたくさんの人たちが、長い年月にわたり、いろんなかたちで権力の破壊から守りつづけてきたことと、お母さんに拾いあげられたこのノート稿によるものである」(「二人のお母さん」)
DVD版のリアルな映像をみると、この手塚さんの言葉がよみがえります。
それぞれの資料には、専門家による解説が付されています。インクの濃淡による執筆日時の違い、ノートの欄外にあるメモ、カット、新聞記事の切り張りなど多喜二の息遣いが伝わります。作品が作り上げられていく過程を研究する上でDVD版は得難いものです。
・全集未紹介のメモも
ノート稿の「一九二八・三・一五の続」をみると、余白上部に「(鈴本、工藤の性格が案外描けてゐない)」「お恵、工藤の妻、佐多の母などを最後に於いて生かすこと)」という全集では紹介されていないメモや、蔵原惟人あての原稿送付に際した手紙の下書きが書かれていることがわかります。荻野富士夫氏の「解題」では、この「(手紙は現存せず)」と説明されています。
各地の文学館などに散在する資料を可能な限り収録していますが、存在が確認されていながら収録できなかったものもあるといいます。また、1932年の・「しんぶん赤旗」に掲載された「高山鉄」名による小説「村の事件」を多喜二「未発掘」作品として「認定」して収録しているのも興味深い。(牛久保建男)(「同盟サイト」より)
●2011.3.15・全国で多彩に多喜二祭「小林多喜二没後78周年、全国で多彩に多喜二祭開く」
・深雪ついて小樽・墓前祭、記念の夕べに280人
小樽多喜二祭は2月20目(日)午後1時半から、前日からの深雪をついて奥沢墓地で墓前祭がおこなわれ94人が参列、宮田汎同盟道本部会長があいさつしたあと参加者が献花しました。 同日夜開かれた「記念の夕べ」ではノーマ・フイルド氏のあいさつの後、島村輝フェリス女学院大教授が「草稿から見る文学の生成-小林多喜二と井上ひさし」と題して、多喜二の草稿ノートに見る苦闘と成長について講演。280人が参加しました。
・秋田県多喜二祭、生誕の地碑前祭と講演会
第46回秋田県多喜二祭は2月19日(土)午前、「小林多喜二生誕の地」碑前で献花。午後からは、韓国の李修京(イ・スウギヨン)氏が「韓国で多喜二がどのように受け止められているか」をテーマに講演、170人が熱心に聞き入りました。翌20目には、大館市において同氏による記念講演が行われ70人が参加しました。
・ことしも満員の盛況、杉並・中野・渋谷多喜二祭
第23回杉並・中野・渋谷多喜二祭は2月18目(金)杉並区で開かれ、300人が参加。蠣崎澄子氏の「多喜二の足跡を訪ねて」の後、岡部政明氏の朗読「蟹工船」と村上弦一郎氏のピアノ独奏が耳目を集め、文芸評論家の三浦光則氏が「反戦平和と小林多喜二の文学」と題して講演。とりわけ反戦文学の先駆性を語りました。
・講演会に250人、大阪
多喜二の生き方に光あてる大阪多喜二祭は2月26日(土)石川康宏・神戸女学院大教授が「小林多喜二の生き方と現代の探究」と題して講演、多喜二が戦前切り開いた闘いの火が戦後の日本に引き継がれたこと、同時に遅れた思想など、私たちが引き継がねばならない課題があると強調。250人が参加しました。
(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟和歌山橋本伊都支部ウェブサイトhttp://itohasmoto.exblog.jp/14539271/より)
●2011.2.26・「しんぶん赤旗」→「多喜二を語るつどい・松永道議候補挨拶」釧路
「小林多喜二を語るつどい・くしろ」同実行委員会主催・福浦寛委員長)がこのほど、北海道釧路市で開かれ68人の市民が参加しました。
国際啄木学会道支部長の北畠立朴さんが「時代閉塞の現代と啄木」と題して講演「啄木は、1910年の大逆事件が国家権力によるでっち上げであることを知っていた。彼の歌は新しい時代が来ることを常に歌っていた。啄木は『一を聞いて十を知る』以上の天才で思想的なことでも常にその先を見ていたと思う」とのべ、釧路時代なくして啄木はなかったが、釧路時代の研究はまだまだこれからであると話しました。
続いて治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟道本部の宮田汎会長が「多喜二の青春」と題して、多喜二の人間性や、どのような契機を経て優れた作家、革命家に成長したのか、解明しました。
つどいには、日本共産党の松永としお道議候補も駆けつけ「多喜二の遺志を受け継ぎ地方選でも頑張りたい」と挨拶しました。(「同盟サイト」より)
●2011.2.25・「しんぶん赤旗」→「不屈の多喜二を語る・墓前祭と集い」小樽
北海道小樽市の奥沢墓地で20日、大雪を踏み固めてつくった雪道を94人の人々が歩き、小林多喜二の墓前にカーネーションを供え、多喜二の業績をしのびました。
日本共産党道委員会の青山慶二書記長、道治安維持法犠牲者国賠要求同盟の宮田汎会長のメッセージに続き、挨拶に立ったフェリス女学院大学の島村輝教授は「組曲虐殺を書いたのち、亡くなった井上ひさしさんとともにここに来たかった」と述べ、不屈を貫いた多喜二を語る夜の集会にのぞみました。
集いには280人が参加。来賓のシカゴ大学教授ノーマ・フィールドさんと九条の会の小森陽一東大大学院教授も連帯の挨拶をしました。
島村氏は、スライドを使って、多喜二の「草稿ノートから見る文学の生成…多喜二と井上ひさし」と題して講演。ソプラノ歌手の清水紫さんの熱唱とあわせ、参加者は共感の拍手を送りました。(「同盟サイト」より)
●2011.2.16・「しんぶん赤旗」→ひと「18日に開かれる杉並・中野・渋谷多喜二祭の事務局長高木典男さん(58)」同多喜二祭の3代目の事務局長、今回で8年目
「最初のときは石井(大三郎)が正式というより、自分で事務局長といっていましたが…。昭和天皇がなくなるとき日本中がそれ一色になりました。そのとき石井は天皇制の時代と平和を呼び覚ますのは多喜二だと考えたんです」
11年前に亡くなった元都議の石井さんは高木さんの義父。〝大ちゃん〟と呼ばれた石井さんは、持ち前の馬力で運動をけん引しましたが、高木さんははにかむような人柄「もちろん、多喜二の家があり、遺体が運び込まれ、革新の伝統のあるこの地で、多喜二祭がないのはおかしい」という思いがありましたが、3年前は不破哲三さんが講演し話題に「よく引き受けていただけたと思います。今思うと相呼応した感じでした」と笑顔で語ります。
東京ならではの取り組みで弁士も多彩。1回目は多喜二を直接知る松田解子さんが熱弁をふるい、島田正策さん、風間六三さんなど多喜二とともにたたかった人々の参加も印象深い。
「小樽などに比べて後発ですが、東京の利点を生かしていろんな方に語ってもらっています。若い人にもと、民青同盟の委員長や青年のシンポなどもやりました。シンポに参加した1人は今回の区議選に立候補するんですよ」
福島出身。現在、東京土建どけん共済会常務理事。会場は「座・高円寺」「例年より狭いので」と心配そうです。(文=牛久保建男)(「同盟サイト」より)
●2011.2.8・「読売新聞」→「小林多喜二国際シンポ、母校・小樽商大で開催へ」
プロレタリア文学作家・小林多喜二(1903~33年)の母校である小樽商科大は、2012年2月21、22の両日に、小林の研究成果を発表する「2012小樽小林多喜二国際シンポジウム」を同大で開催する。
日本や米国、英国など計9か国から約50人の研究者が集まる予定。国際シンポジウムは過去に東京、中国、英国で計4回開催されているが、小林が育った小樽での開催は初めて。
小林は小樽高等商業学校(小樽商大の前身)の出身。同校の開校100周年を今年迎え、同大が記念事業として主催する。
シンポジウムでは、研究者が21日に「多喜二文学の国際性」、22日には「社会経済史的観点からみた多喜二文学」「多喜二『ノート草稿』を読み解く」の計3分科会を開いて報告する。
国内外の第一線の研究者が、小林作品がどう受け止められているかを報告したり、米英のプロレタリア文学との比較研究を発表したりする。
開催に携わる小樽商大の荻野富士夫教授は「小林の母校で開催する意味は大きい。一般の方にも足を運んでもらえるようにしたい」と話している。 (mixi「web多喜二祭り」コミュ・「小樽2012年小林多喜二国際シンポ開催へ」トピック2011.2.10。投稿者=空哉)

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2010年


●2010.11.7・「しんぶん赤旗」→赤旗まつり「”多喜二ノート”に釘づけ・戦前の群像〝勇気でた〟」日本共産党展
「込むといけないと開館1時間前に来て待っていました」。一番乗りは、小林多喜二が大好きという、東京都羽村市から来た石田正男さん(66)でした。
日本共産党展は「一目でわかる 現実政治を動かす日本共産党」をテーマにした写真やグラフを使った展示と、特別展示として戦前の・やビラ、弾圧に屈せずたたかった先輩党員のゆかりの品を展示しています。
今回初めて党員作家・小林多喜二『蟹工船』の「ノート稿」複製)が出展されました。
メモを取りながら食い入るように「ノート稿」を見た石田さんは「多喜二が、大幅な削除や書き直しなど、推敲を重ねて作品が生まれたことがよくわかりました。弾圧にめげず、節を曲げずに生きた多喜二はすごい」と言いました。
「こころざしつつ たふれし乙女よ」と題したコーナーでは、伊藤千代子、高島満兎、田中サガヨ、飯島喜美が、いずれも24歳の若さで、言語に絶する弾圧の末に亡くなったことに、若い女性の参観者から「私と同じ年で…」と驚きと怒りの声が上がりました。
東京都文京区から父親と参加した高橋明子さん(25)は、現実政治を動かしてきた日本共産党の活動のパネルに見入っていました「雇用問題をはじめ、国民一人ひとりの声をしっかり受け止めてくれる党だと思った」と話しました。
友人とともに参加した埼玉県桶川市の坂本なつ子さん(56)はこう語りました「先人が弾圧に屈せずたたかったから今の社会や共産党があると感じた。『党名を変えたら』という人がいますが、歴史ある日本共産党としてぶれることなく頑張っていきたい」(「同盟サイト」より)
●2010.10.27・「しんぶん赤旗」→「多喜二”蟹工船」”筆ノート稿・「赤旗まつり」特別展示への期待」島村輝
・血のにじむような文学的営みの痕跡
11月6、7日の2日間にわたって東京・夢の島公園で催される第40回「赤旗まつり」に、小林多喜二の小説『蟹工船』の自筆ノート稿が展示されることになった。今回「複製」とはいえ、1983年10月の「赤旗まつり」での「没後50年記念小林多喜二展」で初公開されてから27年ぶり、2回目となる。2008年に社会現象にまでなるほどの注目を浴びた『蟹工船』の草稿部分が、多くの人々の集う場に出展されるのは、まことに喜ばしい。文庫本などの整えられた本文とは違って、多喜二のノート稿類には、普段一般読者の目に触れることのない、作家の血のにじむような文学的営みの痕跡が、赤裸々に残されているからである。このノート稿を多くの人が見ることで『蟹工船』という作品についての従来の読み方が、変わってしまう可能性もあると考えられる。
・登場人物には名前があった
扉の『蟹工船』というタイトルの直下には、社会主義思想の象徴としての「鎌とハンマー」による図像が描かれ、署名の強い筆圧から作者の込めた思いが読みとれる。メモや本文の一部には登場人物の名前が見られ、最終ページには「浅川」の姓の人物の名があるなど、手塚英孝作家)による『全集』解題では触れられていない情報は多い。構想では一人一人を描き分けようとの意図があったのだろうが、おそらく稿を進める間に、労働者たちを「集団」(グループ)としてとらえ、名前を書かないという方法にいたったものと思われる。
また、完成稿では削除されてしまった冒頭の「新聞記事」の後に、当初の段階では、蟹工船に乗って争議を経験し帰ってきた漁夫の1人小樽時代の恋人・タキの姓「田口」が冠されている)がこの記事を見て、それが真実を報じていないことに憤慨し、自分が見聞きしたことを手記として書くのだという「枠物語」が設定されていたことも分かる。
・構想の深化と「語り」の変化
この「枠物語」は、執筆を進めていく段階で「手記」であるが故の記述の不自由さを感じた作者の判断で、現在のような語りに変更されたものと思われる。そのことによって映画的な視点移動や、五感を駆使した語りの言葉が可能になったといえるだろう。その他にも下書き段階にあって、完成稿では採用されなかったいくつものエピソードが、草稿には見出される。全編にわたっての、ほとんど原形をとどめないほどに行われた推敲のあとも一目瞭然である。
・自筆草稿公開社会的な意義
作家のノート稿、下書き、浄書稿、その編集者手入れ、ゲラ、その手入れ、初出、初版、その後の収録本などを精密に追いかけていくことは、研究上「社会的テクスト生成論」とでもいうべき、未踏の領域に入っていくことになる。そこには作家個人の内面の問題だけでなく、文学作品が、人間関係などを含めた広義の「メディア」を通じてどのように社会化するのか、そのメディアにどのような「力」が加わってテクストが変形していくのかといった、歴史の力学の解明へのルートがある。弾圧下で執筆した多喜二の場合にはその過程全体がひとつの典型的なケースとして研究の対象になると考えられ、探究の意義はきわめて大きい。多喜二の自筆稿等については、保存と活用のためにデジタルでの複製プロジェクトが始まっているが、今回の『蟹工船』ノート稿展示が、その研究の画期的端緒となることを期待する。(しまむらてる=フェリス女学院大学教授)(「同盟サイト」より)
●2010.10.25・「しんぶん赤旗」→朝の風「『蟹工船』のノート稿を展示」
赤旗まつりの日本共産党展で、小林多喜二「蟹工船」のノート稿の全ページが複写され展示されます。多喜二の小説執筆は、まずノートに書き、完成したら原稿用紙に清書するというスタイルでした。
「防雪林」『工場細胞』など多くの名作のノート稿が残っていますが『蟹工船』もその1つ。これまで研究者やメディアの要望があれば閲覧できましたが、今回のように全ページを多くの人が直接目にすることができるのは初めてです。
手塚英孝氏の研究などで『蟹工船』冒頭の部分が大幅に削除され、今のように「おい、地獄さ行ぐんだで!」という印象的な漁夫の言葉から始まるようになったことが知られていますが、ノート稿をみれば、そのことがリアルに分かります。また『蟹工船』の登場人物たちは「学生上り」「威張んな」「吃りの漁夫」など固有名をもちません。そのあたりがノート稿はどうだったのか、実際の漁夫虐待事件のニュースの新聞切り張りなども。多喜二の作品昇華への試行錯誤の跡が読みとれます。 多喜二の作家としての苦闘は、閉塞した時代をどう生きるかということと密接にかかわっていました。ノート稿からそのことが伝われば、今に生きる人々への励ましとなるでしょう。(聳)(「同盟サイト」より)
●2010.10.21・「しんぶん赤旗」→「多喜二の集い・足立で110人」東京
東京都足立区で17日、作家・小林多喜二の活動を知る第5回「あだち多喜二のつどい」実行委員会主催)が開かれ、110人が参加しました。
多喜二研究を続けている長谷田直之氏と藤田廣登氏が講演。ピースフラワー合唱団が「蟹工船」をコーラスしました。参加した70代の女性は、「多喜二虐殺までの経過や戦争の恐ろしさを改めて知った」と話していました。(「同盟サイト」より)
●2010.8.10・「しんぶん赤旗」→「原爆写真展、平和のつどい各地で・多喜二の母の「一人語り」公演」栃木・日光
栃木県日光市の今市平和委員会(池田正光会長)は8日までの3日間、市内山間部の小来川で原爆写真展を開きました。原爆写真に見入っていた女性70)は「初めて原爆による被害を見ました。ニュースで聞く以上にショックでした。核兵器をなくすために活動している人たちの気持ちを知ることができました」と話しました。また8日には、原爆の悲惨さや核兵器廃絶を求める姿を伝えた写真を背に日本共産党員作家・小林多喜二の母、セキの「一人語り」の公演が披露されました。
「一人語り」を演じたのは地元の田中ケイ子さん(67)。これまでに関西方面を含め全国15カ所を回り、地元では初めてです。作家三浦綾子の小説「母」に描かれた多喜二の死に接したセキの思い、治安維持法制定8年後の1933年に多喜二が虐殺された当時の時代背景などを交えて語りました。参加した約50人は真剣なまなざしで約40分の熱演に聞き入っていました。(「同盟サイト」より)
●2010.6.20・「しんぶん赤旗」→読書「書国探訪・井上ひさしさんと多喜二」
4月に死去した井上ひさしさんは、戯曲「組曲虐殺」(単行本は集英社)を書きあげ、これができたから死んでもいいと家族に語っていたといいます。
登場するのは、小林多喜二と、彼の愛した女性たちや姉、2人の特高警察の計6人。特高が多喜二の住む家に下宿するなどの意表を突く展開で、虐げられる者のために命をささげた多喜二の像を浮き上がらせます。
いつか多喜二を、と20年来願い続けた井上さんには、5歳の時、35歳で病死した父・修吉さんへの思いがありました。それを「ETV特集」(6日、NHK教育)が報道。『戦旗』に原稿を載せ、三・一五事件で検挙された、作家志望の人でした。若くして人生を断たれた父や多喜二の無念さを今日に「組曲虐殺」はその思いの結晶でした。
非合法の地下生活、権力による虐殺という厳しい事実を含みながら「笑いと涙の音楽劇」に仕上げたわざ。
チャプリンの扮装をする多喜二。ものを書くということは「胸の映写機」が「かけがえのない光景」を原稿用紙の上に燃え上がらせていくことだ、と語る多喜二。映画好きだった多喜二への愛に満ちた仕掛けです「絶望するな」「あとにつづくものを信じて走れ」という戯曲のメッセージ「体全体でぶつかって」書くことを訴えた多喜二の思いが作者・井上ひさしさんの心と重なってきます。(紀)(「同盟サイト」より)
●2010.6.4・「マイタウンクラブ」→「小林多喜二と七沢温泉」
小林多喜二が全日本無産者芸術連盟誌「戦旗」に小説「1928年3月15日」を発表したのは1928年のことでした。それから5年間、本格的に作家として活躍しましたが、1933年に特高警察に逮捕され非業の最期をとげました。
あっという間の5年間ですが、書き上げた作品はプロレタリア文学の代表作となり、多くの方に読まれています。
多喜二はプロレタリア文学の旗手として活躍していた1931年3月頃に厚木に滞在したことが知られています。
わずか1ヶ月間ではありましたが、警察による逮捕、投獄と釈放を繰り返した日々の中に生まれた平穏のひとときであったと想像されます。
厚木に滞在することになった経緯や当時の多喜二のことを知るため、滞在先であった七沢の福元館さんを訪ねました。
福元館さんでは、大女将の小根村喜代子さんが以前に先々代の女将ヤヱさんや義姉初子さんからお聞きになっていたことなどをお話くださいました。
当時の多喜二は、2ヶ月前に豊多摩刑務所を保釈されたばかりでしたが、なぜ、厚木の七沢温泉福元館に滞在することになったのかは、何も伝えられていないということでした。
滞在している「小林さん」が、「小林多喜二」であることは、家族にも知らされていなかったようですが、とても気さくな逗留客であったということです。
小高い場所にある福元館の離れに滞在し、夕方には旅館のドテラの袖をパタパタとさせながら温泉に入りにきたそうです。当時、女学校を卒業して家にいた初子さんは、障子の隙間から見た多喜二のことを「とてもきれいな人」とお話になっていたといいます。
温泉に入りながら、いつも同じ歌を口ずさんでいたそうですが、ときには福元館の方に「ぼた餅が食べたい」などとお願いされることもあったようです。
「北海道で過ごした方なので、ぼた餅というより、小豆が食べたかったのかもしれないね」と大女将が笑いながらそんな出来事を紹介してくださいました。
離れは、福元館本館と道路を隔てた向かい側の小高い場所にあり、一見すると普通の民家が建っているように見えます。 見城山の登山口にある建物は2002年ころまで、福元館にお勤めの方が使用していたということで、玄関まで通じる小道の脇には祠が祭られていました。
この離れに滞在した多喜二の世話は、先々代の女将に指示を受けた福元館の従業員のお一人が専従でされたそうで、この方はその後も当時のことをご家族にも語ることがなかったそうです。
多喜二の泊まっていた離れで、大女将から福元館に多喜二の滞在したことが知られるようになった経緯についてお聞きしました。
福元館に、最初に問い合わせをされたのは蠣崎澄子さんとおっしゃる方ということです。
蠣崎さんは、プロレタリア文学を研究していらっしゃる方で、小林多喜二の研究者が書かれた本に「七沢」の記述があることを見つけられました。
そこで蠣崎さんは、七沢で営業している旅館の1軒ずつに電話をかけられたのだそうです。
探しあぐねていた蠣崎さんが七沢の観光協会に連絡したところ、「福元館さんなら何かご存知かもしれない」と教えられたのだということです。
今から10年前の出来事です。
蠣崎さんからの電話を応対したご家族の方から、「小林多喜二のことで電話が入っている。」と聞かされたときの事を大女将は次のように振り返っていらっしゃいます。
「電話の向こうから"小林多喜二について・・"の声が聞こえたときは、頭が真っ白になってしまいましたよ」
「先々代の女将から、小林多喜二の話は決して他言しないように」と言われ、50数年間、誰にも話したことはなく、ご家族の中でも話題になることがなかった出来事だったのだそうです。
「でもね」大女将の話は続きます。「もう50数年前の出来事でしょ。時代も変わったのだし、こうして尋ねてくださる方があるのだもの。きっと先々代も多喜二さんも許してくださるに違いない。そう思ったら、つい"はい、うちです"って答えてしまいました」
この出来事をきっかけに大勢の方が多喜二の滞在した場所を尋ねてこられるようになりました。福元館さんでも多喜二が滞在した当時の様子をできるだけ復元し、尋ねてこられた方に多喜二の過ごした当時を思い浮かべていただけるようにしようと離れを整備されたということでした。
大女将の「お茶を飲んでいきませんか」の言葉に、気がつくとお話を伺い出してからもう2時間が過ぎていました。
お茶と一緒に出てきたのは、大女将手作りの「ぼた餅」でした。「多喜二さんを尋ねてこられる方にお出ししています」
お話の中に出てきたぼた餅を再現されたのだそうです。ちょっと甘くて、ちょっと塩気のあるおいしいぼた餅です。
多喜二は、新しい小説を書き上げながら、七沢の風景やぼた餅に故郷を思い、別れを決意しなければならなった恋人、田口タキさんを思ったのではないでしょうか。
厚木に滞在していた時期は、タキさんが自分の母親や妹弟の生活を支えるため多喜二の下を去り、小樽の帰ることを決心した時期でもあったようです。
獄中にあった多喜二を支えてきたタキさんとの別れは、多喜二にとってもつらいものだったと思われます。
多喜二にとって、厚木は休息の場所であり、別れを決意するための場所でも有ったようです。
多喜二の話を聞き終え、お別れのため福元館の玄関に立ったとき、大女将は多喜二が口ずさんでいたという歌を披露してくださいました。
「折らずにおいて来た山かげの小百合。人が見つけたら手を出すだろう。風がなびいたなら露こぼそものを。折ればよかった遠慮がすぎた」
注1:小林多喜二とその時代
1930年代に入り、特高警察はその活動の軸を、それまでの非合法組織の壊滅から非合法組織の思想的基盤の壊滅へと移しているところでした。
それまでは、組織の中心人物の摘発と組織の壊滅に力を注いでいた活動を、思想を壊滅することで非合法活動を根絶やしにすることを狙っていたようです。
このため、プロレタリア文学の旗手、多喜二の存在は特高警察にとってそれまで以上に大きなものとなっていきます。
1931年に、日本プロレタリア作家同盟の書記長となり、プロレタリア文学の牽引車となっていた多喜二は、その著作を通して労働活動を支えていると映ったのだと考えられます。<参考資料:特高警察関係資料集成第5巻『共産主義運動』(荻野富士夫/不二出版)>
注2:小林多喜二と田口タキ(龍子)さん
小樽で女給をしていた田口タキさんを引き取るため、多喜二は自分のボーナスに友人からの借金とタキさんの貯めていたお金を加えて費用を工面したそうです。
タキさんは無事、身請けされますが、それまでなんとか続けていた母親や4人の弟妹への仕送りが出来なくなったばかりか、一家は家族が1人増えたことによる生活に苦しむことになります。そこで多喜二は実家にタキさんを迎え入れますが、多喜二の母セキさんは赤飯を炊いて迎えたそうです。多喜二は足手まといになりたくないと、何度も姿を消すタキさんをそのたびに見つけ出し、励まし続けたようです。豊多摩刑務所に収監されていた多喜二が小樽に向かうタキさんに宛てた手紙の中には「ババチャン(多喜二の母セキさんのこと)には、ぼくよりも、お前のほうがお気に入りだし、ババチャンがどの位気強くなるかわからない」と云う文面が見えています。社会の底辺で生きる女性を描いた「瀧子もの」や多くの「田口瀧子あての書簡」には小林多喜二のタキさんに対する思いがあふれています。<参考資料:『小林多喜二の手紙』(荻野富士夫/岩波文庫)・『老いた教師』・『瀧子其他』(小林多喜二初期作品集/講談社文芸文庫)>
注3:小林多喜二の最後
1ヶ月の滞在の後、東京に移った多喜二が地下組織に参加し、築地警察に逮捕され死亡したのは、これから2年後のことでした。多喜二の死を知った、志賀直哉、魯迅、ロマン・ローランなど世界中の文化人が哀悼の手紙を出したり、抗議を行ったそうです。(「マイタウンクラブ」啓明http://www.mytownclub.com/sns/index.php?guest=true&command=getarticle&asid=4000&aid=9118002003サイトより)
●2010.6.2・「しんぶん赤旗」→「多喜二・山宣会」道南で設立総会
「道南多喜二・山宣会」の設立総会と記念講演・音楽の夕べがこのほど、北海道函館市で行われ、小学生を含む110人が参加しました。
設立総会で、斉藤幹雄会長、大田正春事務局長ら10人の役員を選出。斉藤会長は挨拶で「全国でも多喜二と山本宣治をともに顕彰する会は初めて」と語り、会員が135人になったことを明らかにしました。
治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟中央本部の宮田汎副会長が講演。1927年の最初の普通選挙で2人とも庶民の身近な問題と国政を結びつけユーモアたっぷりに演説したことや、山宣の北海道遊説と多喜二との出会い、3・15大弾圧を多喜二は小説で、山宣は国会で国家権力の犯罪として鋭く告発したことで、特高と右翼に虐殺されたと述べました。また、治安維持法犠牲者に対する国家賠償法制定を求める国会請願や沖縄のたたかいに触れ「このたたかいが多喜二と山宣のメッセージに応える道です」と訴えました。
関西などで音楽活動をしている歌手ケイ・シュガー(佐藤圭子)さんが、自ら作詞作曲した「YAMASEN―山宣」「多喜二へのレクイエム」「ひとりひとりがHERO」など8曲をキーボードを弾きながら熱唱し、感動を与えました。(「同盟サイト」より)
●2010.5.9・「しんぶん赤旗」→読書「文庫・小林多喜二著『防雪林・不在地主』」
悪徳地主に抵抗する青年像が鮮やかな「防雪林」。未定稿状態で、戦後、発見されました「防雪林」を改稿した『不在地主』。多喜二の思想の変遷を考えさせるユニークな組み合わせです。(岩波書店・760円)(「同盟サイト」より)
●2010.4.29・「しんぶん赤旗」→井上ひさしさん追悼番組2本/100年インタビュー/多喜二描いた舞台「組曲虐殺」
・100年インタビュー/きょう再放送
NHKは、75歳で亡くなった井上ひさしさんをしのぶ番組を放送します。
きょう29日は衛星ハイビジョンで(前8:00)「100年インタビュー」をアンコール放送します。番組は2007年に放送されたもの。波乱に満ちた生い立ちや、井上さんの創作の原点、作品にあふれる「笑い」について話します。
・多喜二描いた舞台「組曲虐殺」放送
5月1日(土、後10:45)は衛星ハイビジョンのプレミアムシアターで井上ひさし作のこまつ座・ホリプロ公演「組曲虐殺」を放送します『蟹工船』の作者・小林多喜二の生涯を描いた音楽評伝劇です。多喜二を演じるのは井上芳雄、ヒロインには石原さとみ。音楽は小曽根真が作曲、生演奏で参加しています。演出・栗山民也。「組曲虐殺」は9日(深夜0:40)にも衛星2で放送されます。(「同盟サイト」より)
●2010.4.28・「しんぶん赤旗」→文芸時評「宮本阿伎・小林多喜二の新小説めぐって、高齢化社会をどう生きるか問う平瀬作品」
小林多喜二の最初期の全集未収録作品「老いた体操教師」『小説倶楽部』1921年10月号に選外(佳作第一席)が曾根博義日大教授によって発掘されたのは2007年のことだが、その1カ月後に書かれたと推定される、同素材を扱った原稿用紙6枚半の「スキー」という新聞投稿作が発見されたことが報じられた。
小樽市立小樽文学館の発表だが、発見者は政治思想史を専攻している岡山大学の大学院生である。『国民新聞』1921年10月30日付を閲覧していて多喜二の作品が掲載されているのを見つけ、小樽文学館にコピーを送ってきたという「スキー」を収録した「市立小樽文学館報」(33号3月31日発行)に詳しいが、同号には曾根博義の「もう1つの『T先生』もの」という文章もある「老いた体操教師」が知られている現在「スキー」はその「付録」か「副産物」の価値しかないかも知れないが、実在した教師への小説的関心の強さ、おそらく先に書いて雑誌に応募した「老いた体操教師」への自信のほどがうかがえるという感想を述べている。
日露戦争で傷を負った校長のお情けで雇われた廃兵同然の体操教師T先生が、生徒の嘲笑を受けながらスキーを練習するぶざまな姿を描いた「スキー」は、曾根も指摘するように「老いた体操教師」に近く、社会や軍隊批判が顕在する「二つの断稿」全集収録)の方向性をもたない。1つの素材に複数の方法を試していることがこのたびの「発見」によって明らかになったが、どういう動機に基づくものか今後の検討課題である。
・どの家も抱えるきしみを刻んで
本紙に昨年10月26日から連載されていた平瀬誠一「人、立ち枯れず」が先月の28日をもち完結した。全150回。主人公溝口遼一が、私教連の「2009年新春の集い」に出席する場面から始まるが、下町の私立女子高校を定年退職してすでに11年が経つ。20代で教員となり、労働組合員となったことを理由に解雇され、5年半におよんだ解雇撤回闘争の後、職場に復帰したのは解雇者16名のうち5名だった。しかも1人やめ、2人やめてついに組合員が遼一ひとりとなったのが1989年のことで、それから10年を経て退職の日を迎えた。
小説が追うのは父と母、妻の連れ子である娘、遼一の闘争をささえてくれた共働きの妻、遼一の姉や弟との確執と克服の過程である「昭和60年」ころ父親に老化が始まり、長男である遼一は父親の希望を受けて家を解体し、二階に遼一の家族が住む大きな住宅を拵える。だが父親の死後、母親の清が亡き父親の言葉を反古にしてローンを払っている遼一の名義ではなく自身の名義にするべきだと主張する。
家族崩壊が始まる。どの家も抱えているきしみを実直な筆さばきと的確な文章で刻み、人物像も彫り深く、細部を楽しみながら読者は身につまされて読み進む。際の際までそうなのだが、最後が物足りない。遼一も妻の夏海も自己抑制が利き、またそれを貫く知性と経済的な条件をもっている。それは努力の成果であり、小説の人物がそうした規範を示して悪いはずはない。
何が問題なのかについて作者自身が「高齢化社会を生きる」連載を終えて/本紙(20日付)で、見事に自己批判している。高齢の主人公が地域で社会的存在として「立ち枯れず」現代の閉塞状況を生き抜いてゆく姿をより深く描きたかったが、それは現在進行形の政治的課題であったために「充分に書きこむことができなかった」と。老いや介護の苦労話ではなく、高齢化社会をどのように生きるべきかを普遍的な課題として描きだそうとしたこの作品は、緒についたばかりのところと言うべきだろう。遼一と夏海の物語が書き継がれることを期待したい。
・新しい作品世界挑戦する意欲作
『民主文学』の櫂悦子「螺旋の向こう」は製薬会社のMR医薬情報担当者/かつてプロパーと呼ばれていた)の職にある小椋篤史を主人公として、新しい作品世界に挑戦している意欲作である。老健施設では認知症の高価な薬剤が使用できないなどの日本の医療制度の貧困や、数字で成果を問われる労働強化、医師と対等の関係をもち得ない非近代的な医薬業界の在り方などを構造として描きだしている。医者の質問攻めにあって休職に追い込まれている一鉄を復帰させようと努力する篤史を軸に小説は展開する。人物の掘り下げをいま一つ望みたい。
(同誌『民主文学』)のたなかもとじの「片っ方の靴」は、いかに生きるかを巧まずして示唆する精神の高さが伝わる得難い作品である。タクシーの運転手となって4年になる主人公中山一木は、1カ月に一度郷里の倉敷に81歳の母親を見舞う。くも膜下出血で倒れ、病院を併設した老人ホームで暮らしているが、癌で死んだ父親に母子はさんざん苦労をかけられたから通常より絆が強い。父は一木が小学校に上がるころから畑仕事に身が入らなくなり、数年間放蕩の限りをつくし覚醒剤にまで手を出した。それでも八重はうわごとで、寂しいからそばにいてくれと父を呼ぶ。一木も女優を続ける別れた妻に尊敬と愛情を失っていない。
『新潮』の中森明夫「アナーキー・イン・ザ・JP」に最後に触れる「500枚一挙掲載」の長さだが、17歳のパンク野郎の少年の頭にイタコおばばに呼び出された大杉栄が取り付き、さまざまな場面で語り出す趣向によって、大逆事件から、関東大震災時の大杉殺害までの歴史的事象がたどられている。膨大な参考文献が巻末にリストアップされているが、新しい史伝小説の在り方を模索している。(みやもとあき)(「同盟サイト」より)
●2010.4.25・「しんぶん赤旗」→背表紙「『防雪林・不在地主』多喜二文学の発展を深める」
岩波文庫から小林多喜二の『防雪林・不在地主』(760円)が刊行されました。岩波書店では昨年から新書でノーマ・フィールド著『小林多喜二』、文庫で荻野富士夫編『小林多喜二の手紙』と刊行してきました。
今回の文庫は1953年の旧版をもとにしたもので、作家・江口渙の解説を再録し、さらに島村輝氏の書き下ろしの解説をつけています。
島村輝氏が指摘しているように「防雪林」は多喜二の日記などからその存在は知られていましたが、没後14年目の1947年になってノート稿の中から発見されるまで埋もれたままでした「防雪林」は28年の4月に『一九二八年三月十五日』にかかる直前に完成「『防雪林』改題」とノート稿にある『不在地主』は29年に『中央公論』に発表され、銀行を解雇される直接の理由となりました。
多喜二は「防雪林」をなぜ公表しなかったのか「改題」とされる『不在地主』は「防雪林」とどう違うのか。来月には『独房・党生活者』蔵原惟人・小森陽一解説)も復刊予定といいます。多喜二の思想と文学の発展をこれを機会に深めるのもいいかもしれません。(牛)(「同盟サイト」より)
●2010.3.29・「しんぶん赤旗」→演劇「『蟹工船』(東京芸術座)・”変革”へ躍動力と強い力」
世の変革と個人の生き方を大衆に訴えかける強い力を持った芝居だ

時代は昭和初期。それぞれに事情を抱え、自分を売るしかなかった者たちが乗り込む蟹工船がその舞台だ。乗組員の多くは不平不満も自由に口にできず「糞壺」と呼ばれる粗末な船内に暮らし、暴力、リンチ、人権を無視した環境で重労働に従事している。そして会社側に労働改善の要求を突きつける中、仲間の1人が殺され、漁夫たちはストライキに決起する…。
小林多喜二がこの作品を世に送り出したのは約80年前。その中身は古びるどころか、今起こる社会情勢とうまく重なるように見えるのは、漁夫たちと同じように我々もまた期限の分からぬ人間不在の社会状況に置かれているからだ。
芝居を観ながら舞台である蟹工船とそれぞれの登場人物たちを、今の何と置き換えられるかを考えるのはあまり意味がない。地獄と口にする舞台の上で登場人物たちが自身の意志を持ち「行動」をはじめる姿を見てとるべきだ。
船員たちが口にする「我々は小刻みに殺されている」にもかかわらず『蟹工船』的日本で耐え忍びながら生きている我々は、舞台の上に生きる人たちと異なり、現状に不満を抱えるもそれを考えるだけで「行動」を起こさないことを知るはずだ。人間らしい生き方をするためには、傍観視していては何も変わらないことを登場人物たちは躍動力をもって描いている。
芝居のラストで悪役の監督の解任を描くのは、観客の留飲を下げるためではなく、彼もまた会社の雇用人であり、社会に踊らされる存在であることを示す見事な演出だ原作では附記として記される)。大垣肇・脚色。印南貞人、川池丈司・演出。(瀧口雅仁・芸能史研究家)30日まで、東京芸術劇場中ホール)(「同盟サイト」より)
●2010.3.28・「しんぶん赤旗」→「”講座プロレタリア文学”多喜二・百合子研究会編」評者・馬場徹(文芸評論家)
過去を媒介にした未来への探求
多喜二・百合子研究会が昨年開いた講座「いま、なぜプロレタリア文学か」の内容をまとめた一冊である。
講師の1人の祖父江昭二氏は本書冒頭でプロレタリア文学は「一つの歴史的カテゴリー」であると言っている。カテゴリーは渾沌とした世界を秩序づけ、生きる方向や意味を見いだすためのもの。では、社会変革と文学創造とを統一的に遂行しようとしたプロレタリア文学は、どういう固有の意味すなわちカテゴリーであるのか。
第1に、叙情詩の圧倒的な支配のもとにある日本文学において、叙事的ないし叙事詩的な文学形式を力強く導入したこと。本書は、このことを国家暴力や戦争、貧困、女性への差別と抑圧、さらには中国・台湾への侵略など幅広い題材に取材した10の作品をとおしてあますところなく説きあかす。日本文学はプロレタリア文学によって拡大した。
第2に、支配階級が専有してきた人類史の果実である芸術文学を、賃金労働者をはじめとした被支配階級が人民的な規模でみずからのものとし、階級的な自立の糧としはじめたこと。言葉を獲得し表現することを知った人間の勁さ豊かさは、本書の徳永直論や松田解子論などに詳しい。 第3に、社会を維持し存続させる社会的生産の決定に、社会の全成員が参加してゆく歴史発展の大道を指し示したことである。すなわち本書は過去の達成のエレジーではなく、過去を媒介にした未来への探求である。この視点から平出修「逆徒」、伊藤永之介「総督府模範竹林」などの新たな発掘も行っている。
こうした成果の上に、現代の民主文学の創造的営為と運動とが休みなく続けられているのである。
祖父江昭二、菅井幸雄、浦西和彦、能島龍三ほか。(「同盟サイト」より)
●2010.3.26~30→東京芸術座第94回公演・劇団創立50周年記念公演「蟹工船」
・期日:2010年3月26日(金)~30日(火)
・会場:東京芸術劇場中ホール(池袋駅西口)
・入場料:一般5000円/学生・専門学生・障害者3000円/中高生2500円(税込:当日各500円増)
・公演日程 、26日(金)18:30 、27日(土)14:00・18:30 、28日(日)14:00(公演終了後出演者との交流会があります) 、29日(月)18:30 、30日(火)14:00
・問い合わせ:東京芸術座TEL:03-3997-4341 (mixi「web多喜二祭り」コミュ・「東京芸術座第94回公演 劇団」トピック2011.2.10。投稿者=空哉)
●2010.3.17・「しんぶん赤旗」→岩見沢で映画「多喜二」上映会
1928年3月15日に日本共産党・民主団体に対して全国的大弾圧が行われましたが、治安維持法国賠同盟北海道南空知支部は15日、岩見沢市で映画「時代を撃て・多喜二」を上映しました。65人が参加し「感動した」「こういう企画、また知らせて」と感想が寄せられました。(「同盟サイト」より)
●2010.3.6・「しんぶん赤旗」→「伊勢原市で七沢多喜二祭」神奈川
神奈川県の「多喜二ゆかりの七沢を知らせ歴史と文学を広める会」はこのほど、伊勢原市で七沢多喜二祭を開きました。
同会は多喜二が滞在して「オルグ」を執筆したといわれる七沢温泉の福元館が発見されたのを機に結成され、今年の多喜二祭は第9回。電機労働者として働きながら作家活動をしてきた田島一氏が「たたかいの文学、多喜二と現代」というテーマで講演しました。
田島氏は多喜二が労働者の中に入って事実を確かめ、読者を引きつけるドラマ仕立ての手法で当時の社会を厳しく批判してきたと述べました。反戦川柳作家の生涯を描いた映画「鶴彬・こころの軌跡」も上映されました。
日本共産党の、はたの君枝参院神奈川選挙区候補が来賓として挨拶しました。(「同盟サイト」より)
●2010.2.29・「しんぶん赤旗」→「東京芸術座『蟹工船』上演に寄せて、弱者を切り捨てる社会ある限り”何べんでも”」印南貞人
東京芸術座では劇団創立50周年企画として『蟹工船』をこの3月26日から、東京芸術劇場にて上演します。
初演は、1968年に小林多喜二没後35年、劇団創立10周年記念として、村山知義演出、大垣肇脚色で上演し、第3回「東京労演賞」を受賞した作品です。
翌年から70年代に5年間に渡って全国各地の労演、青年鑑賞会で上演されました。
・団結の歌として
この度の創立記念公演にあたっては、約9年間、準備をするのに時間がかかりました。
上演にあたっての一番の難問は、共に舞台を創り出す、若い俳優たちを結集できるかどうかでした。村山知義の最後の言葉である「演劇運動万才」を理解し、人間を信じ、未来に向かって力強く生きている若者が必要だったのです。
今、稽古場では80歳のヴェテランから20歳になったばかりの若者、約60名が舞台『蟹工船』に乗船しました。
村山知義演出の特色を3つほど紹介します。ひとつは、舞台いっぱいに「船」をのせたことです。あとは厳寒のカムチャツカの空と海と波だけです。暴風雨に翻弄される『蟹工船』が舞台で激しく揺れます。ダイナミックな仕掛けがリアルに表現されます。
第2に、小説『蟹工船』では、登場人物は名をもたない漁夫たちとして、群衆で描かれていますが、演劇として、立体的に一人ひとりをリアルに分かりやすく演出しています。
第3の特色は、暗い汚いと言われている『蟹工船』の漁夫・雑夫・船員たちが「生きている人間」として目覚めるシーンです。本当の敵は何かを知る彼らが、ラストの80秒で歌う「ソーラン節」です。原作では附記として書かれていますが、民謡であり労働歌である「ソーラン節」をレジスタンスの歌、団結の歌として「もういっぺん、もう何度でも」との力強さで描いています。
・侵略性と暴力性
このたびの公演では「村山知義演出による」を発展させ、現代に蘇らすことが出来るよう、毎日の稽古は「発見」の連続です。
小林多喜二は『蟹工船』というカムチャツカの海の上という閉鎖された状態の中での事件を描いていますが、特殊な支配者たちが起こした特別な事件として表現しようとしたのではありません。蟹工船は、国策として推進された近代化した事業だったのです。他国を領海侵犯し、ただ同然の「蟹」をとり、搾取しやすい未組織の「オチコボレ」の労働者を暴力で支配し、大企業にのしあがって行くのです。この『蟹工船』の侵略性と暴力性は敗戦を迎えるまで、大陸に全アジアに拡大していったのです。80年前に書かれた作品が、今現在でも世界中で読み続けられる理由がここにあるのでしょう。 非正規労働者の名のもとに法律によって大企業の横暴を許し、民営化の御旗を振りかざして弱者を切り捨てる社会があるかぎり、私たち東京芸術座は『蟹工船』を上演し続けるつもりです「何べんでも!!」(いんなみさだと=演出家)
『蟹工船』〔村山知義演出による〕東京芸術座・創立50周年記念公演)原作=小林多喜二、脚色=大垣肇、演出=印南貞人・川池丈司。3月26~30日=東京芸術劇場中ホール。電話=03(3997)4341東京芸術座(「同盟サイト」より)
●2010.2.27・「しんぶん赤旗」→没後77年で多喜二祭「遺志受け継ぎ政治革新へ」東京・茨城
・東京
『蟹工船』などで知られるプロレタリア作家、小林多喜二の没後77年を記念して、第22回杉並・中野・渋谷多喜二祭同実行委員会主催)が25日、開かれ、約400人が参加しました。日本共産党の小池晃参院議員と田村智子参院選比例候補が参加し、それぞれ挨拶しました。
小池氏は、高校生の時の読書感想文の課題図書の1つが多喜二の「蟹工船・党生活者」だったことが日本共産党に入るきっかけの一つになったと述べ「多喜二のたたかいに連なる党の一員であることを誇りに思う。多喜二の遺志に答えて、日本の政治の革新のために全力を尽くしたい」と語りました。
田村氏は「ばらばらにされて苦しむ生き方から、仲間と連帯して苦しみを打ち破る生き方へという多喜二のメッセージを受け止め、がんばります」と話しました。
日本民主主義文学会の作家・旭爪あかねさんは「多喜二のように、今を生きる人々が生きる希望を感じられる作品を生み出していきたい」と発言。記念講演した作家の能島龍三氏は「人間はどう生きたらいいかという80年前からの鋭い問いかけとして、多喜二の小説を改めて読んでほしい」とのべました。
・茨城
茨城県の新日本歌人協会古河支部は20日、「2010年古河多喜二祭」を古河文学館で開き、30人が参加しました。各地から連帯メッセージの紹介、土井大助の詩「麻布の坂道」朗読のあと、新日本歌人協会の奈良達雄前代表幹事が「多喜二の戦友たちの詩」と題して講演しました。
参加者は「多喜二の時代の先駆者の苦労が分かった」「感銘深い作品に涙が出た」などの感想を寄せました。(「同盟サイト」より)
●2010.2.25・「しんぶん赤旗」→「『蟹工船』を朗読、江別で多喜二祭」
北海道江別市で21日「江別の多喜二祭」が開かれ、70人が参加しました。昨年に続き2回目の開催。
劇団新劇場の山根義昭さんの『蟹工船』朗読で始まり、昨年の多喜二祭で感動し朗読を申し出た若者の美馬真宏さん、枇本享洋さんが多喜二の獄中からの手紙や田口タキへの手紙を朗読しました。
宮田汎北海道高校センター教育研究所長が、東京に足を運び調べた多喜二の足跡をスライドで紹介しました。杉並の多喜二の家近くで「ナヨロ屋」というタバコ屋をしていた北海道名寄出身の大西さんが見た人間味豊かな多喜二と、葬儀で見た警察の弾圧は新しい事実の発掘として関心を呼びました。宮田さんは「多喜二を殺した国家権力に、謝罪をこれからも求めていきたい」と結びました。 アイヌ刺しゅう家の小川早苗さんは、多喜二と同じ1903年に生まれ早世した知里幸恵の「アイヌ神謡集序」「銀の滴降る降るまわりに」をアイヌ語で朗読しました。参加者は「もっと多喜二を読みたくなった」などと語っていました。(「同盟サイト」より)
●2010.2.24・「しんぶん赤旗」→試写室「歴史秘話ヒストリアたった1人のあなたへ」NHKテレビ後10:00、小林多喜二のメッセージ今に
80年前、25歳の小林多喜二が書いた小説『蟹工船』がいま若者たちの心をとらえている「おい! 地獄さ行ぐんだで!」で始まる洋上の無法労働と「派遣切り・使い捨て」労働とが重なりあう。番組は、弱いもの同士が立場を超えて力を合わせることを作者のメッセージとする。
エピソードが豊富だ。小樽の銀行で働きながら貧しい人たちの小説を書く中で不幸な境遇の田口タキに寄せた慕情も印象深い。普通選挙法下の初めての選挙で政治への目をひらく多喜二が「日本の国体」(天皇制国家)護持を支柱とした治安維持法で仲間たちがばらばらにされていくなかで自分になにができるかを問いかけ「蟹工船」の労働現場の取材を始めるのも興味深い。
上京した多喜二は文学活動のなかで日本共産党に入党。治安維持法違反容疑で捕まった築地署で虐殺される。めった打ちにされ下半身が内出血の跡で紫黒色に変わった遺体「人間一人ひとりとつながりあうことの大切さ、それを断ち切ろうとするものへの怒り、多喜二のデスマスクは時代を超えいまも伝え続けている」。慰安旅行での屈託のない笑顔にナレーションが重なってズシリと響く。(二葉恵)(「同盟サイト」より)
●2010.2.23・「しんぶん赤旗」→「小林多喜二没後77年・デスクマスクの展示や愛唱歌」大阪
大阪多喜二祭が20日、大阪市内で開かれました。大阪初公開の「小林多喜二デスマスク」も展示され、歌や漫才もあり約400人が参加しました。同実行委員会の主催。
実行委員長の柳河瀬精・治安維持法国賠同盟府本部会長が戦前の特高警察の残虐な拷問にもふれて、「人道に反する罪に時効はない」と挨拶しました。 ソプラノ歌手の徳畑作子さんが「オ・ソレ・ミオ」など多喜二が愛した歌を熱唱。日本共産党の清水ただし大阪市議が、松竹芸能時代の漫才コンビ「ツインタワー」を15年ぶりに復活「現代蟹工船」作・村上太さん)と題して派遣切り問題をアピールしました。
浜林正夫・一橋大学名誉教授は講演「新しい政治への探求と小林多喜二」で、多喜二は作品で当時の日本の資本主義社会を告発したいと周囲に明かしていたとのべ、現代は、1950年代からの日米同盟という「逆コース」を歩み、暮らしを不安にしている「敵」が見えにくい社会だと解明。民衆の立場で新しい政治を探求するという多喜二がとった道を選ぶことだと語りました。 多喜二資料展を見た北郷栄要さん(85)は「特高のあまりのむごさを改めて感じた」と語っていました。(「同盟サイト」より)
●2010.2.23・「しんぶん赤旗」→「不屈の姿勢に思い」小樽では音楽と講演の夕べ
小林多喜二をしのぶ「小樽多喜二祭音楽と講演の夕べ」が20日、小樽市で開かれ300人をこえる参加者が不屈のたたかいに思いをはせました。 岩波文庫『小林多喜二の手紙』を編集した小樽商科大学の荻野富士夫教授が「世界を思う心と女をおもう心」と題して講演。手紙やメモを紹介して、社会の変革を求める具体的な行動と愛する人への共感が、多喜二の中ではつながっていたことを説明しました。
ソプラノ歌手の清水紫さんは「赤き花燃ゆ」など4曲を熱唱しました。
参加した札幌市の女性(47)=教員=は「多喜二が殺された当時と違い、今は日本国憲法があります。周りの人と励まし合いながら、多喜二に恥じない生き方をしたい」と話していました。(「同盟サイト」より)
●2010.2.21・「しんぶん赤旗」→新作DVD「蟹工船日本・2009年」 小林多喜二の原作を尊重しつつ自由な創意をこらしてSABU監督が映画化しました。カムチャツカ沖の船上で蟹缶作りの過酷な労働を強制される労働者群像。ばらばらだったものが、考えること、力を合わせることを学び、横暴な監督に対して立ちあがる。彼らの作った旗が翻る。―80年前のたたかいが現代に重なってきます。松田龍平、西島秀俊らに迫力があります。東映ビデオ(4935円)(「同盟サイト」より)
●2010.2.21・「しんぶん赤旗」→「多喜二の志継ぐ、没後77年の墓前祭」北海道小樽
戦前、働く人々の幸福と平和のために活動し、特別高等警察によって虐殺された日本共産党員のプロレタリア作家・小林多喜二の没後77年の命日にあたる20日、北海道小樽市で墓前祭がおこなわれました。
雪が舞うなか、九州からの参加者など120人が集まり、奥沢墓地にある小林家の墓前で「インターナショナル」を合唱しながら、赤いカーネーションを献花しました。
寺井勝夫・小林多喜二祭実行委員長が「昨年の衆院選以降、国民の)正義を求める変化は広がっている。多喜二ブームも今、こうしてよみがえりをみせていることを考えると、歴史の前進を感じる。しかし、いぜんとして、格差、貧困、社会的不公正などがはびこっている。多喜二なら、『座して待つのではなく声をあげて』というだろう」と主催者を代表して挨拶しました。
日本共産党北海道委員会から花岡ユリ子道議が挨拶「多喜二の活動は、現在の私たちにとっても、大きな激励を与えている」と強調しました。多喜二研究家のノーマ・フィールド・シカゴ大学教授からメッセージが寄せられました。(「同盟サイト」より)
●2010.2.19・「しんぶん赤旗」→小林多喜二と『蟹工船』に焦点
NHKテレビの「歴史秘話ヒストリア」(水、後10・0)では24日に「たったひとりのあなたへ~〝蟹工船〟小林多喜二の伝言」を放送します。
「おい、地獄さ行ぐんだで!」。この強烈な書き出しで始まる小説『蟹工船』。過酷な労働現場と人と人がつながりあう強さを描き、現在、日本の若者だけでなく、世界各地でブームを呼び始めています。作品が書かれたのは80年前。作者の小林多喜二は、この4年後、29歳で悲劇的な最期を迎えます。番組は、恋に、人生に、文学に悩む青年・多喜二の知られざる実像を紹介、『蟹工船』に込められたメッセージを読み解きます。
番組が紹介するエピソード1。小樽の貧しい労働者街に育った多喜二は、親せきの支援を受けて進学、銀行に就職を果たします。エリートコースを歩み始めた多喜二ですが、貧しさのため夜の街で生きる少女・田口たきとの出会いと恋をきっかけに自らの生き方と文学を変えていきます。
エピソード2。初めて庶民の政治参加が可能になった第1回男子普通選挙。多喜二は、労働者や貧しい農民の立場に立った候補の応援をします。しかし選挙直後、仲間たちと、運動は大きな政治弾圧を受けます。作家として自分にできることは何か、重大な決意のもと『蟹工船』を書き始めます。
エピソード3。『蟹工船』のヒットで一躍世に出ますが、多喜二へも弾圧の手は伸びていきます。勤め先を解雇され、東京へ活動の場を移しますが、その命は断ち切られます。(「同盟サイト」より)
●2010.2.16・「しんぶん赤旗」→「若い人に聞いてほしい・多喜二の生き方紹介、かわえ比例候補囲んで・中野候補参加」三重・亀山、松阪、紀北で
日本共産党の、かわえ明美参院比例候補は13日、三重県亀山市と松阪市で党後援会主催の新春のつどいに臨み、10日には紀北町でも後援会のつどいに参加し、政治変革への熱い思いを語って多くの聴衆に感銘を与えました。
亀山市と紀北町のつどいには、中野たけし参院三重選挙区候補も参加して決意を語り、党への支持を訴えました。
かわえ氏は、新潟県で自民党の牙城の土地改良連と懇談したことなどを紹介して、政治情勢の大きな変化を語り「政治とカネ」疑惑追及や「派遣切り」をなくすたたかいでの党の真価と役割を強調しました。
また、小林多喜二の母親セキを描いた三浦綾子の小説「母」の一節を紹介し「天皇制の暗黒政治のもと、戦争反対、不正は許さないと体を張って訴え続けた多喜二の生き方を引き継いでがんばる」と参院候補としての決意を熱く語りました。
会場がいっぱいになった亀山市のつどいでは、かわえ氏の熱弁に感動して涙をぬぐう人も多く、初めて参加した30代の女性は「いい話を聞いた。もっと若い人に聞いてもらわないともったいない」と話し「こんな話を聞かされたら、かわえさんを落とすわけにはいかんやろ」と話す男性もいました。
漁協組合長や他党の議員らも参加して盛況だった紀北町のつどいでも、かわえ氏の訴えが感動を呼び「今までいろんな人の話を聞いたが、今日の話が一番良かった」との感想が寄せられました。
松阪市のつどいに参加した女性からは「とても心に響く言葉だった。今までちゅうちょしていたが、入党しようかと思う」とのメールが、かわえ氏のもとに届いています。(「同盟サイト」より)
●2010.2.4・「しんぶん赤旗」→ひと「多喜二祭で自作の叙情歌を歌うソプラノ歌手清水紫さん」
小林多喜二と母セキの思いを歌にした「赤き花燃ゆ」が第42回日本作詩大賞新人賞に入選しました。半年かけて作詞・作曲し、昨年の小樽・多喜二祭で歌いました。
モーツァルトの歌劇の主役で、1990年にソプラノ歌手としてデビュー。自作の脚本で「ひとり芝居オペラ椿姫」を演じ、日本の叙情歌や童謡などを幅広く歌っています。
中国残留孤児の母の思いに衝撃を受けて作った「安東の子守歌」を作詞・作曲。以来「平和の祈りひびき愛コンサート」を開いています。
映画「小林多喜二」(1974年)では、多喜二文学碑に献花するラストシーンに〝出演〟しました。自分自身が1児の母親となり、多喜二を思う母セキの自筆文に心を揺さぶられ、詩が生まれました。
「囚われて こゝろざしを 手折られぬ 変わり果てたる 姿に母は 多喜二もう一度 立って見せよと」
「昨年の多喜二祭では感情が入り込み過ぎて泣いてしまいました」。入選詩は、小樽の人たちに感想を聞いて手直ししたものです。
この「赤き花」には、たくさんの意味を込めました「これは叙情歌であり、多喜二への鎮魂歌。そして志を受け継ぐ人たちへの応援歌です」
新しい「赤き花燃ゆ」を歌う小樽・多喜二祭は2月20日午後6時半から、小樽市マリンホールで開催。(文・写真=小泉健一郎)(「同盟サイト」より)

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2009年


●2009.12.13・「しんぶん赤旗」→「多喜二と交流田口タキさん死去」
小林多喜二が愛した女性として知られ、拷問死した多喜二の葬儀にかけつけてもいた田口タキさんが、6月19日、横浜市の自宅で亡くなっていたことが分かりました。101歳でした。北海道小樽市立小樽文学館に、年賀の欠礼として親族から連絡がありました。
多喜二は銀行に勤めていた小樽時代に、飲食店で働いていた田口タキさんと知り合い、借金のためその境遇からぬけだせずにいたタキさんを、多額の金を用意して救い出し、自宅に住まわせました。
小樽、東京時代合わせて交流が続き、多喜二は結婚を考えていましたが、タキさんは自分の境遇が多喜二の負担になることを懸念し、身をひいたといわれています。
「闇があるから光がある」というタキさんあての言葉が有名で「じゃ元気で!幸福で!」という置き手紙がタキさんあての最後の言葉といわれています。→参考:秋田市に住む田口タキの姪のこと(「同盟サイト」より)
[関連情報]
○「最後の手紙」
『定本・小林多喜二全集』1933年1月・田口瀧子宛書簡
多分居ないと思ったが、お母さんと会ってみようと思って来て見た。元気で仕事をしている。22日はおそ番らしいとの事、若し仕事が無かったら9時頃来て見ようと思っている、当にしないでほしい。若しこれが駄目なら24日にでも。お母さんは身体もわるく頭もわるいらしいから気をつけて親切にして、やるといいと思う。じゃ元気で!幸福で!
『新装版 小林多喜二全集』1933年1月・田口瀧子宛書簡
久し振りで来てみた。(9時頃)多分居ないだろうとは思ったが、お母さんとでも会ってみようと思って。何時か静江さんから伝言してもらった通り、あれから家に帰らない転々とした生活を続けている。然し元気で、仕事をしている。22日は遅番らしいとの事なので、若し、仕事がなかったら、9時頃出て来てみようと思っている。当にしないでいてほしい。若しそれが駄目になれば、24日にでも。お母さんは身体が悪く、頭も悪いらしいから、気をつけて親切にして、やるといいと思う。じゃ元気で!幸福で!それから僕のことは成るべく噂話をしたりしないように気をつけてくれるといいと思う。お母さんにもそう云って置いて下さい。 (「未来-私達の力で歴史を動かそう!」ブログテーマ「田口タキ」2006.9.25より)

田口タキ田口タキ<新潮日本文学アルバム28「小林多喜二」より>
○「タキさんが語る多喜二との結婚辞退」
澤地久枝著「わが人生の案内人」にタキさんから澤地さんあての手紙が2通紹介されています。どうしてタキさんは多喜二のプロポーズを断ったのか、その心境が書かれています。澤地さんの「会いたい」という手紙への1980年4月の返信です。
タキ「小林多喜二の事で、私にお会いになりたいのでしょうと思われます。私事になりますが、私の夫の××は昨年の2月に亡くなりました。昔のことになりますが、××の元気な時には、小林の弟さんのお家へも時々寄せていただきました。秋田にいる妹の息子の結婚式に出席するため秋田へ参りました時には、小林のお墓へもお詣りして参りましたが、今××が亡くなり、無抵抗な人になられて見ますと、とても昔の恋人の話を他人と平気で話すと云うことが出来ないような私の今の心境です。ただただ2人の冥福を朝夕祈っている現在です。私は学校もろくに出ず、何の教養もない事を恥ずかしく、それに母と小さい弟妹等のこともあり、小林との結婚をお断りしました訳で、とても貴女様のようなお偉い方とお会いしてお話するなぞ、若し小林の名を汚すようなことがありましてもいけませんし、申訳ございませんがお断りさせていただきます」
別の手紙には、「私は何も持って居ません。それを恥じて、小林との結婚を辞退した人間です。今になって生き恥をさらしたくはありません」。
タキさんのその後の人生も少しはわかるような手紙が紹介されています。コメントは控えさせていただきますが、「ぼんやり暮し」たいというタキさんのおもいが届いてきました。 (「未来-私達の力で歴史を動かそう!」ブログテーマ「田口タキ」2007.5.26より)

●2009.12.9・「しんぶん赤旗」→「有島武郎から小林多喜二へ・思想と実践の一体化」尾西康充
小林多喜二が白樺派の人道主義、とりわけ志賀直哉のリアリズムの手法に学んだことはよく知られている。その前段として、庁立小樽商業学校現小樽商業高校)に在学していた頃は『小さき者へ』や『生まれ出づる悩み』など、有島武郎の小説を読みふけり、卒業を前に創刊した回覧雑誌には「生まれ出ずる子ら」というタイトルを付けるほどであった。
・青年木本への多喜二の共感
『生まれ出づる悩み』(1918年)の主人公木本は、貧しさのために東京での学業をあきらめて北海道岩内の実家へ帰る。漁夫として「荒くれた自然の威力」と格闘する一方、芸術への情熱を抱いた青年画家として「宏大で厳かな景色」を描き続ける。有島自身がモデルとなった作家の「私」は、10年ぶりに木本に再会し、筋骨たくましい漁夫の姿への変貌ぶりを見て、木本が「パンの為めに生活のどん底まで沈み切つた10年の月日」に耐えてきたことを思い浮かべる。画家としての才能にも恵まれていた多喜二は、〈労働と芸術〉の間で葛藤する青年木本の生き方に深い共感を覚えたにちがいない。
『生まれ出づる悩み』には、漁夫たちが資本を持たないために「命をなげ出さんばかりの険しい1日の労働の結果」である漁獲を「外の土地から投資された海産製造会社によって捨て値で買ひ取られる無念さ」がリアルに描かれている。資本家による労働の搾取を、まるで「大きな手には掴まれる」ようだと感じた木本の悲痛な心境は、過酷な収奪がおこなわれていた北海道の〈内国植民地〉としての実態を伝えるものであり、多喜二が『蟹工船』のなかに描きこもうとした「殖民地に於ける資本主義侵入史」に繋がるテーマであるといえる。
・有島の『宣言一つ』の思想
有産階級の生まれである有島は晩年「人間の生活の改造」が「生活に根ざしを持った実行」の他にはないと考え「第四階級」の労働生活を通じてこそ「思想と実生活とが融合」できると主張した『宣言一つ』(1922年)。
有島がこのような主張を持つに至ったのは、アメリカに留学していた青年時代、ニューハンプシャー州グリーンランドにある開拓農場で労働した体験によるものと考えられる。有島が働いたのは1905年6月12日から7月24日まで、それはちょうどグリーンランドから北東約7キロメートルのところにあるポーツマスで日露戦争講和会議が開かれる直前のことであった。
有島はアメリカ留学中に黄色人種に対する差別を感じ、平和を唱えるキリスト教信者のなかにさえ戦争を好む者がいた現実に幻滅を味わっていたが、グリーンランドの農場では、〈新移民〉と呼ばれた最貧層のポーランド移民労働者たちと親しく交流した。このときの体験をもとにした『迷路』(1918年)では「新しい文明の出発点を彼等に見出したやうに思つた。彼等の心があのまゝで成長したら、今の文明を覆へすに足る美しい文明が生れ出るに違ひない」と描いている。有島にとって実際に農場で働いたのは、生涯を通じてこのときだけであり、13年もの時を経た後に、当時の体験を小説に描いたのは、「思想と実生活」を融合させるべく有島農場の開放を決意していたからであろう。
・プロレタリア文学の先駆者
私は今夏、グリーンランドを訪れ、農場で働いていた有島がニューハンプシャー州の地元新聞「ジ・エクスター・ニューズ・レター」(1905年7月14日)に「雇用主の意にかなう働きぶり」を見せ「きちんとした身なりで、他の人びとに対して礼儀正しくふるまった」と報じられていたことを発見した。
時代の制約からアナーキズムにとどまりはしたものの、思想と実践との一体化を重んじたプロレタリア文学の先駆者として、有島の文学は多喜二の作品とともに高く評価されてよいだろう。(おにしやすみつ・三重大学人文学部教授) 同テーマについては「山の文学学校・下諏訪」(29日~1月2日)の講座「プロレタリア作家・小林多喜二の胎動」で話されます。ほかに澤田章子「近代の名作を読む」、田島一「実作研究」。連絡先は日本民主主義文学会電話=03(5940)6335(「同盟サイト」より)
●2009.12.6・「しんぶん赤旗」→本立て「小林多喜二の手紙」荻野富士夫編
「『闇があるから光がある』 そして闇から出てきた人こそ、一番ほんとうに光の有難さが分るんだ」。21歳の多喜二の、不幸な境遇にある田口タキあての手紙です。
多喜二の手紙159通を収録。右の「田口タキへの恋文」のほか、文学修業時代や、豊多摩刑務所からのもの、非合法の地下活動中に、家族を思いやって原稿料は「自家へ」と編集者にあてたものなど、テーマごとに編集。多喜二の肉声が届くような味わいです。
多喜二虐殺後、志賀直哉が多喜二の母にあてた悔やみや「ユマニテ」の記事などの付録も。解説は、編者とノーマ・フィールド。(岩波文庫・税別940円)(「同盟サイト」より)
●2009.9.28・「しんぶん赤旗」→月曜インタビュー「俳優・歌手井上芳雄さん、多喜二描く新作舞台で主演・思いを自分なりに伝えたい」
透き通る美声、ずば抜けた歌唱力、演技の巧みさで「ミュージカル界のプリンス」と呼ばれる井上芳雄さん。その井上芳雄さんが『蟹工船』の作家・小林多喜二を演じます。10月3日から始まる井上ひさしさんの新作芝居「組曲虐殺」。ところが台本がまだ完成していず、毎日ファクスで少しずつ送られてくる状況。緊迫し燃え上がるような、東京都内のけいこ場で、井上芳雄さんにインタビューしました。
「台本が全部できていないのはつらいところはありますが、できている部分を少しでも自分のものにするので精いっぱい、というところです」
「台本が届くと、その夜のうちに小曽根真さんが曲をつけ、次の日に役者みんなで歌っていて、すぐ井手茂太さんが振り付けをつけてくれる。みんな一流の素晴らしい人ばかりのけいこ場で、毎日すごいことがおこっていて、いま、幸せな、とても豊かな感じがしています」と井上芳雄さん。
・虐殺怖れぬ青年なぜなりえたか
『蟹工船』『党生活者』などの小説で知られ、当時の人気作家だった29歳の小林多喜二は、1933年2月20日、東京・築地署で特高警察の手により虐殺されました。〝蟻一匹殺せないような内気でやさしい少年が、なぜ、三時間にも及ぶ拷問に耐え、しかも虐殺さえも怖れない青年になりえたのだろうか〟「組曲虐殺」のチラシ)。この疑問にたいする答えを探すように、書き進んでいる「組曲虐殺」。
「多喜二自身、〝貧しい人がどんどん貧しくなって、一部の誰かが豊かになっていくのは、なぜなんだろう〟という疑問を持って、それを素直に厳しく追及して生きていった人なんじゃないでしょうか。井上ひさしさんの台本や、三浦綾子さんの『母』を読んで、そう思いました」
「多喜二は、搾取というシステムのこと、人を貧しくする社会の構造の問題を発見してしまって、そのままにしておけなかった。自分のこと、周りのことだけを考えるのではなく、とても広い、世の中全体を見据えていたのが多喜二という人だったと思います」
芝居の中で、歌がたくさん歌われます。井上さんが美しいテノールで歌う「代用パン」の歌も「代用パンは安いんだ…貧しい人にも買えるのに/売れ残るのはなぜなんだ」と、素朴な疑問を歌っています。
・大事なことをやさしい言葉で
井上ひさしさんの戯曲の特徴について、こう語ります。
「井上先生のすごいところは、専門用語を使わず、だれにでもわかりやすく社会の仕組みなり、時代なりを描いていることです。こんなことがあったんだ、という大事なことを、やさしい言葉で教えてくれています。井上先生のいっていることが、すごく自分の胸に響いてきて、明日から、そういうことを考えて生きてみよう、と、そんな気持ちになります。よくいえば素直に、悪くいえば何も考えずに生きてきた僕らのような世代にとって、とても大切なことが、たくさん語られているのが、井上先生の芝居です」
「井上先生の芝居は『日本の優れたミュージカル』だと思っています。音楽の選び方、歌の入れ方がすてきです。楽しく見ているうちに、いつのまにか人生のために必要な言葉をもらっている、これがすごいところです」
役者の使命を感じるように
ミュージカル、映画、テレビにと、引く手あまたです。これからがいよいよ楽しみな30歳。
「『ロミオとジュリエット』『ウエスト・サイド・ストーリー』など、若い役は若いうちにやっておいた方がいいですよね。まだ頑張ればやれるかな(笑い)。もっと年をとってやれる役は、たくさんあると思いますけど」
舞台の仕事の大切さを、最近感じているといいます。
「ミュージカルをやりたくて舞台に立ち始め、深く考えずにやりつづけてきました。やっと最近、井上先生の作品『ロマンス』07年)に出演し、ほかの井上先生の作品を見るようになって、役者の使命というものを感じるようになりました。歴史のある部分を今の人に伝える、などの。たとえば多喜二が命をかけて自分の思いを伝え続けた、その一生を調べると、比べてみて自分たちがあまりに心が貧しいのではないか、と感じたり、もったいない生き方をしてはいないか。多喜二と同じことはできないけれど、伝えるということはできるのではないか。自分なりの何かができるようになれればいいな、今考えているところです」
静かな話し方ですが、ふつふつと芝居への情熱、活力がわいて、抑えきれない様子が感じられました。(大井民生)
こまつ座&ホリプロ公演「組曲虐殺」栗山民也演出)出演=井上芳雄、石原さとみ、山本龍二、山崎一、神野三鈴、高畑淳子、音楽・演奏=小曽根真。10月3~25日=東京・天王洲・銀河劇場、10月28~30日=兵庫県立芸術文化センター阪急中ホール、11月1、2日=山形・川西町フレンドリープラザ。電話=03(3862)5941こまつ座。(いのうえよしお=1979年、福岡県出身。俳優・歌手。東京芸術大学音楽学部声楽科卒業。在学中の2000年「ミュージカルエリザベート」の皇太子ルドルフ役で鮮烈デビュー。舞台に多数出演、映画、テレビドラマにも出演。読売演劇大賞杉村春子賞、菊田一夫演劇賞を受賞)(「同盟サイト」より)
●2009.9.18・「しんぶん赤旗」→道うたごえ祭典「多喜二の時代と現代つなぐ構成劇」19日から札幌
札幌市で19、20の両日開かれる北海道のうたごえ祭典に、日本共産党員でプロレタリア作家・小林多喜二の時代と現代をつなぎ「私はあきらめない 私は絶望しない…」と訴える構成劇「多喜二碑の前で」が登場します。
舞台は多喜二が育った小樽の街。多喜二記念碑のある展望台前に来た大学生の前に突然、過酷な状態に置かれた80年前の蟹工船の労働者がタイムスリップして現れます。話すうちに「派遣切り」の現代と蟹工船の時代が余りにも似通っていることにびっくりする大学生。80年前の蟹工船に再び戻った労働者たちが選んだのは…。金田一仁志氏の脚本・演出です。構成劇を演じるのは、大学生役3人、子役1人を除いて北海道合唱団のメンバーです。
増子捷二同祭典運営委員長は「〝うたごえはたたかいとともに〟といわれます。日本の現状を表した歌を通して、未来を切り開く力につながればと思います」と語ります。
19日は、合唱発表会(午前11時半、キタラ小ホール)、大交流会(午後6時半、北区民センター、参加費1000円)。
20日は、大音楽会午後1時、教育文化会館大ホール。一般2500円・中高生800円)。①歌でつづる炭鉱から始まった北海道うたごえ運動60年、②構成劇「多喜二碑の前で」、③池辺晋一郎さん指揮200人の大合唱、の3部構成です。(「同盟サイト」より)
●2009.9.17・「しんぶん赤旗」→「第2回伊勢崎・多喜二祭開く、延べ200人余の参加で成功」
「よみがえれ、多喜二!」土井大助氏の講演に共感
群馬県伊勢崎市で6日、1931年9月6日におきた「小林多喜二奪還事件」を記念して、第2回伊勢崎・多喜二祭が開催されました。午前11時から、小林多喜二が立ち寄り、検束もされた故菊池敏清宅で現地説明会が開かれ、約50人が参加しました。敏清氏の長女の規子さん、3女の利根子さんからの挨拶、八田利重代表の説明に続き、群馬県文化財研究会会長の桑原稔氏から7月19日に行った旧菊池敏清家調査の概要が報告されました。参加者は多喜二が茶話会で語った時に背にしたという床柱に見入っていました。
午後2時から伊勢崎市文化会館大会議室で会場いっぱいの160人余の参加で記念講演会が開かれました。会では、八田利重代表の挨拶に続き、奪還事件の際に活躍した関係者の家族や県内研究者が紹介され、大きな拍手に包まれました。次に事務局の用意した大判の多喜二奪還紙芝居が披露されました。全国の多喜二祭の状況を藤田廣登氏が述べ、桑原稔氏が調査結果による菊池敏清宅の保存の必要性を訴えました。
記念講演に立った土井大助氏は、自らが82歳になったことを述べて、演題に入りました。土井氏はこれまでの多喜二研究の中で明らかにされてきた多喜二の人柄や思想的な発展をユーモアを交えながら話しました。多喜二と親交のあった手塚英孝氏や江口渙氏から聞いたエピソードなども披露、また多喜二文学の一節なども紹介し、時には会場は大きな笑いに包まれました。
高校3年の女子高生は「楽しい話が多く、聞いていておもしろかった。多喜二さんに親しみが持てた」と語っていました。
またある参加者は「『蟹工船』ブームが起きた理由に多喜二そのものの生きる姿勢への共感があったと実感した。改めて多喜二全集を読み直したい」と話していました。(「同盟サイト」より)
●2009.7.25・「しんぶん赤旗」→「小林多喜二の古里訪ねる旅」苫小牧の2団体
苫小牧市で活動する国民救援会支部と治安維持法国賠同盟支部はこのほど「小林多喜二の古里を訪ねる旅」と題して40人が小樽市を訪れ、小樽文学館や多喜二文学碑、小林家の墓をめぐりました。
小樽文学館の見学は初めてという人たちが多数を占める一行。文学館での特別展「蟹工船の時代―プロレタリア文学とモダニティ」(8月9日まで開催)を鑑賞、小樽多喜二祭実行委員会の寺井勝夫さんが案内しました。
小林家の墓前で献花し、往時をしのんだ参加者は、運河周辺で買い物を楽しみ、余市町のニッカウヰスキー工場を見学しました。(「同盟サイト」より)
●2009.6.25・「しんぶん赤旗」→ひと「『蟹工船』を演歌でうたう高橋一仁さん(80)」
「同志」、「革命」、背筋がピンと伸びそうな言葉が、歌詞カードに並びます「率直な言葉で多喜二先生の思いを伝えたいと、こうなりました」
過酷な労働を強いられる小説『蟹工船』の世界を、哀愁漂う演歌のメロディーに乗せて歌います。作詞・作曲・歌すべてを1人で担当し、今年5月、CD『蟹工船』をリリース。最後の歌詞には「小説の続きを創作したかった」という思いが込められています。
♪ほどけ腹巻 赤旗を 掲げて斗え 仲間たち 砦を守るぞ ああ蟹工船
「北の海に沈んだ船や亡くなった人たちの無念を晴らすたたかいに『赤旗』は欠かせないと思いまして」
29歳で特高警察に虐殺された小林多喜二。同年齢のころの高橋さんは知人の勧めで童謡の作詞を始めます。30代は童謡と合唱曲、40代は歌謡曲に力を注ぎ、500曲を作詞。
「親しみやすくて、だれでも口ずさめる。歌謡曲の良さはそこにあります」
貧富の差を生む社会に疑問をもったのは、小学校時代の弁当の思い出。自分は卵焼きのおかず、友人は「日の丸弁当」でアルミの弁当箱のフタには梅干しで大きな穴が。ひもじさでゆがむ友人関係。以来、社会の矛盾を見つめてきました。
3年前、脳梗塞こうそくを患いますが「持ち前のフレーズ感覚」に助けられて復活。手元にある未発表曲の〝解放〟を狙います。(文=中村尚代)(「同盟サイト」より)
●2009.5.27・「しんぶん赤旗」→いっぽいっぽの行進日記(№15)「多喜二文学館作りたい」
20日(水)快晴 波がなく、底が見える日本海を眺めながら小樽市に入りました。
日本共産党の菊地葉子市議と道原水協の岩渕尚事務局長らと市役所を訪問。トイレの入り口は木のドアで廊下の幅が広く、「これまでの庁舎と違う」「北海道小樽市」とペナントに記入した秘書課の笹原馨さん、お世話になりました。
夕方から花園グリーンロードで集会。私の顔を見るなり駆け寄ってきた花岡ユリ子道議「核兵器を廃絶しよう」「小樽を軍港にするな」と唱和し、道議を隣に横断幕を持ち、中心街を行進「これまでになく多く、14団体75人です」
行進の後、交流会「核兵器のない世界の追求を宣言する」とのオバマ米大統領演説が話題となり「宣言を実行するよう見守り、できる支援を」。交流会でも花岡道議が隣の席。〝2つ年下の優秀な妹〟とわかり、より身近になりました。
「花のユリ、座る姿は」と思いながら「激務解消のためにも道議を増やさなくては」「NPT核不拡散条約)再検討会議に参加したい」と話していました。菊地市議も参加し「礼文島生まれで、小学校には約十キロを歩いて登校していました」「多喜二の文学館をつくりたい」と盛り上がりました。(小川基弘)(「同盟サイト」より)
●2009.5.24・「しんぶん赤旗」→岩見沢九条の会総会「多喜二の時代で荻野氏が講演」
岩見沢九条の会(卜部喜雄代表)はこのほど、岩見沢市で第5回総会を開きました。
小樽商科大学の荻野富士夫教授歴史学)が「多喜二の時代・横浜事件・そして現代」と題して講演。小林多喜二が「人が幸福になるには」を模索し、プロレタリア文学を通じて「権力・支配勢力への『憎悪』を持続して」作品を発表していたと語りました。
多喜二の虐殺に、上海の郁達夫の日本警視庁への抗議記事『現代』(1933年5月)を紹介「秘密裏に暗闇の中で彼を惨殺し、彼を弔い見送ることを禁じ、彼の死体の解剖を禁じ、この殺害事件を新聞に掲載することを禁じ、ただ『心臓麻痺』のわずか4文字でこれを片づけた。けだものの振る舞いだ。法治の精神はどこに行ったのだ」との国際的な批判を引用しました。
講演は、80人の参加者がメモをとりながら聞き入りました。総会では、活動方針を承認。新役員には20代の女性が2人選ばれました。(「同盟サイト」より)
●2009.5.24・「しんぶん赤旗」→「葉山嘉樹への旅」原健一著・評者江崎淳(文芸評論家)
作家の真実に迫り新たな関心誘う
「ソコクノナンカンニオモムキタシ/グンカンカゴヨウセンナドニ/ニンムヲアタヘラレタシ/ヘンマツ」
1943年3月、満州建国勤労奉仕班班長として北安省徳都県に赴き、3度目の渡満の帰途、車内で脳溢血のため死去、ハルピン南の徳恵駅付近に埋葬された。1945年10月18日のことという。
小林多喜二に影響を与え、プロレタリア文学の発展に大きく寄与した「淫売婦」「セメント樽の中の手紙」「海に生くる人々」などの作家・葉山の敗戦前後の事情である。
作者は、地域の文学仲間との文学碑探索をきっかけに、菊枝夫人との出会い、『葉山嘉樹短編小説集』刊行に加わるなど、19年にわたる「葉山嘉樹への旅」を続け、『民主文学』などに発表した小説をまとめたのが本書である。「旅」のモチーフは、「プロレタリア文学の旗手的な作家」が今では読み継がれていないこと、その原因としての「満蒙開拓」への協力、戦後それを挽回する機会のなかったことをあげ、晩年の作家の真実に迫ろうというものである。
作者の葉山探索は、昭和史や、ノモンハン事件に遭遇した自身の父親の行動を繙きながら、各種追悼集や碑文、葉山日記を丁寧にたどり、葉山の顕彰に携わる人々や文学仲間との交流、はては「海に生くる人々」の舞台・室蘭の踏査など多岐に及んでいる。そこには、豊富な葉山追跡の行程が表明されていて、葉山文学への新たな関心を誘う。
葉山の行動を「転向」と見るかどうかなどの問題も含めて、「葉山をそこまで追い込んだ」ものへの追及には、現代を再び「戦前」にさせまいとする作者の意欲を感じさせる。(はらけんいち=1946年生まれ、日本民主主義文学会会員)(「同盟サイト」より)
●2009.5.22・「しんぶん赤旗」→演劇「『蟹工船』(俳優座)、リアル、圧倒的な迫力
小林多喜二の『蟹工船』が、脚光を浴びている。俳優座が安川修一の脚本・演出でおこなっている舞台『蟹工船』は、北緯50度以北の海で、蟹漁に狩り出された季節労働者の集団的演技を創り出して、圧倒的な迫力だ。
『蟹工船』は、いままでに数回劇化されている。最初は、小林多喜二が虐殺される前の1927年7月、新築地劇団が高田保、北村小松の共同脚色によって上演。2回目は戦後の1970年2月、大垣肇脚色・村山知義演出で上演されている。新築地劇団の公演は改題させられ、検閲も厳しかったので、今回の俳優座公演と厳密に比較しうるのは、東京芸術座の舞台だ。安川脚色の特徴は、第1に、この船に乗りこむことを「地獄」にたとえていることである。幕明きのせりふが「地獄さ行くんだで!」ではじまる。大垣脚色では、第1場での人間関係の説明があって、ようやく最後に、このせりふが語られる。
安川脚色、したがって演出の第2の特徴は、1回はおさえつけられて、ストライキを断念せざるをえなかった労働者が、再び闘いに立ち上がろうとする姿を、結末の場面で印象づけた点にある。もちろんその間に、労働者の生態と、小林多喜二をおもわせる学生の姿がリアルに描かれているので、客席には緊迫した雰囲気がただよう。この雰囲気は、劇場でなければ味わうことはできない。
満員の客席に座っていてわたしは、労働者をいとおしく思って書き綴った小林多喜二の、類い稀な姿勢を、いまさらのように感じざるをえなかったのである。(菅井幸雄・演劇評論家)24日まで、東京・俳優座劇場(「同盟サイト」より)
●2009.5.9・「しんぶん赤旗」→「多喜二を特集」私鉄連帯する会『交流誌』24号
鉄道やバス労働者らでつくる私鉄「連帯する会」が、『交流誌』第24号を発刊しました。
特集の第1は、第24回全国交流集会。講演「小林多喜二と現代―私たちに語りかけるもの」(井上昌三氏)や分科会・分散会の報告を紹介しています。
第2は「持続可能で安全・安心な交通運輸をめざして」と題した座談会。公共輸送を脅かす規制緩和の実態や住民との共同を語っています。ポイント制による退職金改悪や交通政策提言も掲載。B5判154ページ。頒価2000円(送料込み)。
問い合わせ 事務局・吉田省三さん電話=03(3959)4728ファクス兼用。(「同盟サイト」より)
●2009.5.8・「しんぶん赤旗」→舞台『蟹工船』出演者対談「脇田康弘さん・頼三四郎さん」
派遣切りとのたたかいと通じる・頼/一生懸命生きている人間像を・脇田
小林多喜二の同名小説の舞台化作品『蟹工船』脚本・演出=安川修一)が15日から、東京・俳優座劇場で始まります。出演の脇田康弘さんと頼三四郎さんに、この芝居の魅力について話し合ってもらいました。
脇田康弘 多喜二のような人物が「男7」として登場します。その男7が僕の役です『蟹工船』を書いた時点より前の、運動に加わることを考え出したころの多喜二のイメージだと思います。特殊な人間なのではなく、周りの人たちのことを考え心配する人間で、だからこそストを主導する側になっていく。そういう物語になればいいかな、と思いながら、けいこをしています。
頼三四郎 僕の演じる「学生1」という役は、男7と意見をぶつけ合っていく役です。極限状況の中で、どう自分たちが行動を起こしていったらいいのか、どう生きていったらいいのか、と悩む。
二人が多喜二的人物ではないか
脇田 学生1も、もう1人の多喜二的な人物ではないかな、と思っています。
頼 1人の人物の中で起こりうるかっとうを、2人のやりとりの中に反映させているんじゃないかな。2人は最後まで死なずに、船に残る。
頼 描かれている世界は、現代社会の派遣切りとのたたかいと、通じるところがあると思います。自分らしさをだせない極限の状況の中で、団結することによって、1つの意思が生まれ、そこに人間のエネルギーが生まれて、物事を変えていく。そういうエネルギーを感じてもらえるお芝居になるんじゃないか、という気がします。
脇田 男が22人出演していて、俳優個々のエネルギーと描かれた人たちのエネルギーとが重なっていく。作・演出の安川さんの、すごく速い展開の舞台の中で、その重なりが説明しようのない、エネルギーになっていくと思います。
頼 そうですね。正義をやっている、という単純なものにならないようにしたいですね。
脇田 かっこいいヒーローというものではなく、一生懸命生きている中で行動を起こさざるをえなかった、という、そういう実感を感じられるようにしたいね。非人間的な扱いをされて「悔しい」だとか、登場人物たちの喜怒哀楽はけっこうシンプルなものだし、しかも一口にいえない、という面もある。一言、一言のやりとりの重さを僕らは理解して、この登場人物たちは共感しあっているんだと、わかってもらえるようにしたい。
「もう1回だ」と流されない力が
頼 人が集まって結束し、意思として行動に移していく。1回失敗しても「もう1回だ」と立ち上がる。流されない、そういう力を見て、見る人の元気につながる、そういうお芝居にしたいですね。
脇田 原作もそうだし、この芝居も、何か完結するというのでなく、何か考えさせられる、というものなんだと思う。
頼 僕はことし29歳ですが、多喜二が虐殺されたのも29歳。多喜二は何か特別な人間ではなく、普通のみずみずしい人間であるがゆえに、あのような人生になったとも言えるのかもしれない。
脇田 お母さんが語っていらっしゃる幼少のころのエピソードなどを見ると、感受性がすごく豊かな人で、喜怒哀楽も、きっとはっきりしていた人だと思う。いろんな人のことを心配する、聡明でやさしい人だからこそ『蟹工船』のような作品を残せたんじゃないか。人間性に幅があった、ということも感じます。
頼 だから、作品も教訓じみていないんじゃないかな。小説が現代人に受け入れられたのも、その点があったと思います。
脇田 多喜二は軍国主義の時代には「非国民」として扱われた。80年たって、戻ってきた。怖いと思うのは、社会が昔と変わっていないのか、人間が変わっていないのか、ということですね。
頼 舞台では、物語はもちろん、蟹工船の中の空気感を生みだして、今の時代の人の心に直に伝えたい。
脇田 そうだね。嵐の中、十数人がロープに振りまわされながら演じているシーンがあります。まさに体だけを使って、ぎりぎりのところを演じているんです。出演していない人は、それを見て面白がっている笑い)。
頼 演じる側も、疲れている自分にすごく満足している(笑い)。けいこが終わった後も、気づけばそのまま足をひきずって歩いていたりしています(笑い)。(写真・縣章彦)
『蟹工船』(劇団俳優座創立65周年記念公演第2弾)、出演は対談者のほか中寛三、星野元信、河野正明、矢野和朗、川井康弘、来路史圃ら。15~24日=東京・俳優座劇場。電話=03(3470)2888劇団俳優座
(らいさんしろう=1980年生まれ、東京都出身。加藤剛さんの次男。2004年、俳優座入団。映画、テレビに出演。舞台は「上意討ち―拝領妻始末」「颶風のあと」など)。
(わきたやすひろ=1975年生まれ、三重県出身。2001年、俳優座入団。映画、テレビに出演。舞台は「春、忍び難きを」「喜多川歌麿女絵草紙」「野火」「夏光線」など)。(「同盟サイト」より)
●2009.5.3・「しんぶん赤旗」→芸能テレビ・俳優座『蟹工船』に挑む
時代を超え人々の心をとらえる小林多喜二の『蟹工船』が舞台でよみがえります。劇団俳優座の創立65周年記念作品です。脚本・演出の安川修一さんは「世の中をひっくり返すような熱気を伝えたい」と話します。(寺田忠生)
高校の時、多喜二の母を訪ね/脚本・演出安川さん
札幌生まれの安川さんは高校時代、小樽に住んでいた多喜二の母・セキさんに友人と会いに行ったことがあります。セキさんは当時、80歳を超えていましたが、突然の若者の訪問を快く受け入れてくれました。
「『若い人が多喜二を訪ねて来ることはうれしい。これからの時代にとって、いいことじゃないか』と言ってくれました。多喜二がノートに書いた構想やメモ、新聞の切り抜きも見せてくれて」
その後も、セキさんのメッセージを心にとどめ「いつか小林多喜二の作品の舞台化を」と考えていたと言います。
物語の舞台は、海軍の保護のもと、オホーツク海で操業する蟹工船の船室です。〝国策〟の名のもとに、過酷な労働を強いられる労働者たちは、ついに手を取り合い立ち上がりますが―。
多喜二が「糞壷」と書いた蟹の缶詰を製造する工場・船室。けいこ場には2階建て構造の鉄骨が組まれ、最上部分は船のデッキになります。 「閉鎖的な鉄の箱の中でもがいている労働者と、彼らを遠目で見ながら操り、搾り取っている資本家の構図を見せられたらと思いました」
実は私も〝派遣切り〟された/浅川役川井さん
資本家の手先となって労働者を徹底的に虐待する監督・浅川を演じるのは、入団20年目の川井康弘さんです。
けいこ場では、労働者役の若手俳優たちとは言葉を交わさず、1人で黙々と役をとらえます「演出家からも『孤独になれ』と言われました」
川井さんは、出演が決まってから小林多喜二全集を読破。多喜二が浅川をとおして何を表現しようとしたのかを、つかもうとしました。
「単純な〝悪〟の浅川を演じるだけでは足らないと思うんです。彼なりに一生懸命仕事に打ち込むなかで、一人の人間が〝悪〟に変わってゆく、その悲しさ、おかしさ。彼をとおして、資本家が底辺の労働者を虐げている構図が見えてくればと思うんです」
実は、川井さん自身、俳優のかたわら、派遣労働者として働いていたものの、3月末で突然、〝派遣切り〟されました。部署全部がなくなる大規模なものでした。
「同じ部署の仲間で、再就職が決まったのはまだ1割だけです。みんなで舞台を見にきてくれます。いま僕らになにができるか、この舞台をとおして社会に提示できればと思います」*15~24日=東京・俳優座劇場。電話=03(3405)4743(「同盟サイト」より)
●2009.5.3・「しんぶん赤旗」→本立て「小林多喜二と宮本百合子」三浦光則著
著者は、多喜二・百合子研究会会員の文芸評論家。四半世紀にわたる評論を収めています。
100編を超える評論、エッセーを残した多喜二。その評論に「読者に訴えかける作者の息づかい」が感じられると指摘。理論家としての側面に光を当てます。
戦後、6年足らずしか生きられなかった百合子は、小説とともに精力的に社会評論を執筆。著者は、百合子が、平和の擁護を、民主主義の血肉化とともに訴えていることの大切さを説きます。
治安維持法に抗したプロレタリア文学や、手塚英孝、窪田精らの業績など、貴重な論考です。(光陽出版社・税別1429円)(「同盟サイト」より)
●2209.4.29・「しんぶん赤旗」→文化の集いで小説「母」朗読/札幌・光陽九条の会
札幌市北区の光陽九条の会はこのほど、新琴似西会館で「文化の集い」を開きました。
「土曜の午後を楽しみませんか」と近隣住民に呼びかけた集いには60人が参加。三浦綾子の小説「母」の朗読に耳を傾けました。
会場には小林多喜二の肖像画の原画が飾られ、飯田信之演劇事務所の長谷川京子さんが「多喜二の母」を約40分熱演しました。
ギター演奏、全員合唱で楽しんだ参加者は「ソマリア沖への自衛隊派兵は許されない」「憲法九条を守る世論をさらに広げよう」と話し合いました。(「同盟サイト」より)
●2009.4.24・「しんぶん赤旗」→映画「蟹工船」/新作の完成会見、今夏公開
「勇気と希望の熱い作品」SABU監督/主演・松田龍平さん「つらい世界に光がある」
小林多喜二の代表作『蟹工船』の2度目の映画化作品が完成しました。メガホンをとったのは「勇気と希望を与えられる熱い作品に仕上がった」と語るSABU監督。10日、都内のホールで記者会見が開かれ、主演の松田龍平さん、西島秀俊さんらメーンキャストが顔をそろえました。
時代を超えて読み継がれる原作に感動したというSABU監督は「原作にはない主人公をつくりましたが、集団で立ち上がる話なので、全員にスポットライトがあたるように脚本を書いた」と話しました。出来上がりについては「笑えて泣けて感動して、燃えられる映画です。『燃える』というのがポイント。原作にいろいろ付け加えてはいますが、最後は『もう一度立ち上がる』というところに着地していますし、自信をもって、これは『蟹工船』だといえる」と胸を張りました。
主人公の漁夫・新庄を演じる松田さんも「撮影を通してパワーをもらった。つらい世界のなかに光があるし、やればできるという気持ちにさせてくれるはず」と自信をのぞかせました。いまも多くの若者が不安定雇用に苦しんでいる状況について問われると「映画には鬼監督の浅川のような分かりやすい敵がいるけれど、今は向かっていくべき相手が見えにくく、つらいのでは」と答えました。
その鬼監督・浅川にふんしたのが西島さん「単に暴力的な極悪人にならないよう演じました。考えることを放棄しなければ行動につながるという監督のメッセージが胸に響いています。前向きな力を与えてくれる作品」と語りました。
公開は今夏。監督は「多くの人に見てもらい、よりよい日本につなげられたら最高」と力をこめました。
原作『蟹工船』は、北洋で過酷なカニ漁や加工作業を強いられる労働者たちがストに立ち上がる姿を描き、1929年に発表されました。昨年、無権利な非正規雇用が広がる若い世代を中心に共感をよび、異例のヒットに。累計売り上げは160万部を超え、流行語大賞トップテンにも選ばれました。53年に、山村聡監督によって映画化された『蟹工船』も、昨年から各地で上映会が開かれています。(「同盟サイト」より)
●2009.4.22・「しんぶん赤旗」→民青同盟が『蟹工船』ツアー「社会の仕組み変えたい・多喜二の足跡たどる」
貧困と格差が広がるもとで、日本共産党の大先輩で国民注目の作家、小林多喜二の生き方に学ぼうと、日本民主青年同盟道委員会は19日、多喜二の足跡をたどる「蟹工船ツアー」を実施しました。
新入生・新社会人の歓迎企画として呼びかけたもので、12人が小樽市の多喜二ゆかりの地を訪ねました。参加者は「自分たちの生き方を振り返る、いい機会になりました」と感想を述べました。

はじめに日本共産党小樽地区委員会事務所で小樽多喜二祭実行委員長の寺井勝夫さんから多喜二の年譜と業績の講演をうけました。
「多喜二の生涯から、人間愛、不正に毅然とたたかう勇気、科学的視野を持つためのたゆまぬ学習の姿勢を学んでください」と寺井さん。
昼食には、地元産の白身魚・八角の刺し身やソイのあら汁が並び「わー、すごいごちそう。民青やるじゃん」「やばいよ、道委員会」と歓声があがりました。
午後からは、寺井さんの案内で小林多喜二文学碑、市立小樽文学館、多喜二が勤めていた旧北海道拓殖銀行、恋人田口タキとのデートスポットだった水天宮、小樽運河を訪ね、党地区事務所で花岡ユリ子道議から「雇用をめぐる道政の諸問題」の講演を聞きました。
「冬が近くなると、ぼくはそのなつかしい国のことを考えて深い感動に捉えられている」―。獄中で書いた手紙の一節が刻まれた文学碑は、市内を一望する旭展望台のそばに建っています。
寺井さんは、多喜二文学が抑圧された人々を励まし、文学碑は地道な募金活動で建てられたと説明しました。
東京からやってきた「多喜二ツアー」の観光客30人も一緒に耳を傾けていました。
手紙や原稿、多喜二の虐殺を伝える当時の新聞記事、デスマスクを展示する小樽文学館では「こういう字を書いた人なんだ。身近に感じるね」との感想が相次ぎました。
水天宮は参加者の強い希望で訪れました。寺井さんは多喜二とタキの交流を紹介し「みなさんもぜひ、すばらしい恋をしてください」と語りました。
小樽運河では、小説『工場細胞』の舞台となった北海製罐小樽工場を見学し、当時の小樽の街の様子や労働者の実態について、説明を聞きました。
参加者は「多喜二が生きた場所を訪ね、身近に感じました。すごい人だけど、人を愛する同じ人間だなあと思いました。巧妙に隠されているけど、『蟹工船』と同じような仕組みが今の社会にあると思います。変えていかなければいけません」19歳・男子学生)「最近まで本当に生活が苦しかった。今では当たり前の権利も声をあげて一つ一つ勝ち取ってきたものだとわかりました」(26歳・会社員男性)と感想を出し合いました。
4月に短大に入学した女性(18)は「人と話すのが苦手でした。多喜二の小説を読んでみたいし、いろんな勉強もしてみたい」と、ツアーの後、民青同盟に加盟しました。(小泉健一郎)(「同盟サイト」より)
●2009.4.12・「しんぶん赤旗」→「三浦光則文芸評論集・小林多喜二と宮本百合子」三浦光則著
評者=新船海三郎(文芸評論家)作者の意図を汲んだ誠実な作品評
著者初の評論集である。プロレタリア文学、小林多喜二と宮本百合子、窪田精論はじめ民主主義文学にかかわる14の論考を収めている。
構造主義的に攻めるでも、テクスト論を立てるでもなく、流行病のような批評態度には見向きもせずに作品に分け入っている。作者の意図を汲みとり、それが作品にどのように具現されているか、作品に迫る著者の批評態度はそれに尽きている。新奇は求めるべくもないが、批評の誠実がここにはある。
それでも、多喜二の『蟹工船』『不在地主』『工場細胞』を「小樽三部作」と位置づけ、戦争と資本と政府・国家と労働者をつないで解き明かそうとした多喜二の意図を証すあたりには、多喜二作品を深く読み込んだ著者ならでは面目躍如たるものがある。
寡作だった手塚英孝が、ふとした側聞をどのようにして現今の社会状況と結びつけて世界を大きくしたのか、それによって作品が鋭い時代批判を獲得したことに踏み込んだ「父の上京」の分析も、著者の感動が率直に表されていて気持ちがいい。
とりわけ、窪田精の「工場のなかの橋」「鉄格子の彼方で」「流人島にて」の論考は、各論ながらそれらを通じた一個の作家論ともなっていて、読みごたえがある。窪田は、体験にもとづく世界と取材をもとにした世界とを二つながらに追求してきた作家だが、それは時代の課題に向き合ううえで必要な方法だった。自動車の独占企業に材を得た「工場のなかの橋」は、共産党を主人公の位置に据えて大河のように流れさせることで自分に引きつけ、自分の戦時下の体験である「鉄格子…」「流人島…」は時代社会を見る目を外に据えて客観に努力した。著者はそれを丹念に追い、窪田精という作家の輪郭、内心を鮮やかによみがえらせる。文章も平明な好著である。(みうらみつのり=1948年生まれ)(「同盟サイト」より)
●2009.4.4・「しんぶん赤旗」→「富山にも蟹工船あった・上映を機に市民が発掘、午前2時から午後11時まで労働・スト弾圧、熱湯あびせ暴行」
「富山県にも蟹工船があった」―。小林多喜二原作の映画「蟹工船」(山村聡監督)が5日、富山県高岡市で上映されます。上映を機に藤本一夫さん(80)=同市=が富山県の蟹工船の歴史を改めて調べたところ、労働者を虐待し、死亡させた事件が発掘されました。(海老名広信) 事件の舞台は、冨山工船所有のエトロフ丸(4200トン)。船団を引き連れ1930年4月27日、函館を出港、カムチャツカ東海岸沖へ。富山県で最初の蟹工船でした。
乗員は約400人。当時の地元紙・冨山日報現・北日本新聞)に載った練習生の談話によると「労働時間は午前2時から午後11時まで」。想像を絶する過酷さでした。
「17名死亡」
エトロフ丸は日露戦争(1904年)の捕獲船を、この出漁にあわせて蟹工船に改装したもの。飲料水タンクが不良で野菜貯蔵庫が小さく、米や野菜は腐り、ろくな食事を与えず、栄養失調や病気の労働者が続出しました「雑役100名病み17名死亡」と冨山日報は伝えています。
漁雑夫たちは6月末、労働時間短縮、食糧改善を要求しましたが、拒絶されたため、ストライキで対抗しました。怒った漁労長ら幹部は熱湯をあびせ、殴る蹴るの暴行を加えました。「かたきをとってくれ」と遺言を残して亡くなった労働者もいたと報じられます。
素人ばかり
事件当時は大恐慌で失業者があふれていました。県知事の号令で仕事のない農民や職人などを集め、素人ばかりの蟹工船を仕立て、過酷な労働に駆り立てた揚げ句の悲劇でした。
当時大々的に報道された事件ですが「歴史の陰に隠された」と藤本さん。県の公文書館に関係資料は保管されていません「富山県史・資料編」に新聞記事が載るのみ。藤本さんは地元紙に勤めていた祖父や父から蟹工船の話を聞いた記憶はありません。古い漁業関係者も「知らない」というばかり。
藤本さんが、図書館に眠る冨山日報のマイクロフィルムから、当時の様子を明らかにしたのです。
各種の「漁業史」にあたりましたが、『富山県北洋漁業のあゆみ』に記述があるのみ。会社側の立場から「前年に発表され)話題をよんでいた『小説蟹工船』のイメージと重なり、けん伝された」「暴行事件は軽度」「報道内容と事実とは大きな相違」と事件を否定しています。
現代に警鐘
結局、特高警察に「思想事件」として扱われ、加害者は裁かれませんでした「魔の船」「地獄船」と書きたてた新聞も、その後を追っていません。
違法な「派遣切り」が横行し、ミサイル防衛などきな臭い動きがあるいま、元電電公社で活動していた藤本さんは語ります。「新自由主義の嵐で、戦後、私たちが獲得してきた権利が奪われています。中国侵略を告げる『満州事変』の前年におきた富山の蟹工船事件は、私たちに『反撃せよ』と警鐘を鳴らしているのではないでしょうか」(「同盟サイト」より)
●2009.4.1・「しんぶん赤旗」→寄席「民族芸能を守る会弥生例会、講談初の『蟹工船』重厚に」
「弥生例会」は講談の会。今回の聞きどころは、宝井琴星『蟹工船』原作・小林多喜二)。
日清・日露の戦争を経て一等国の仲間入りした日本だが、アメリカ発の世界恐慌のあおりを受けての昭和恐慌、農村は疲弊し、都市には失業者が溢れ…、現代と確かに世相が似ている。そんな時代に北海の果てで過酷な労働を強いられる者たちがついに立ち上がる。
『蟹工船』は勧善懲悪の講談らしい話でもある。勿論、悪は利潤のためには人の命すらなんとも思わぬ資本家たちだ。琴星は、原作に忠実に、重厚な語り口で物語を綴ってゆく。最初のストライキは失敗に終わる。そのことで、労働者たちはホントに戦うべき相手が誰なのかを知る。そして、一人また一人と労働者たちは行動をはじめる。多喜二の作り出した見事な結末があるからこそ、今日、昭和初期のこの作品を語ることに大きな意義を見た。
宝井琴嶺「佐倉義民伝」。これも農民のために己や家族を犠牲に権力と戦った名主の話。古典であるが、テーマは今を十分に語っている。琴嶺は文化芸術を愛した父親への思いも込め、歌舞伎の面白さを講談の中のあちらこちらに読み込んで聞かせた。
トリは神田松鯉「出世高松」。ご存じ徳川光圀の、兄の出生の秘密を重厚な語り口で綴る。貧乏だが心優しい夫婦のやりとり、随所に交える軽い笑いが活きた、本格話芸を堪能させた。
松鯉門下で連続講談を得意とする若手、神田阿久鯉は「天明白浪」。盗賊と町娘の恋を描いた世話物。町娘の心情の変化が女性らしい視点で面白い。
ほか、田辺駿之介「秋色桜」、親孝行な少女の話を丁寧に綴る。宝井琴柑「寛政力士伝、谷風の子供時代」は師匠、琴星ゆずりの滑稽味が楽しみ。(稲田和浩)3月19日、上野・宋雲院(「同盟サイト」より)
●2009.3.31・「しんぶん赤旗」→「蟹工船」上映と講演のつどい/神戸・長田区
映画「蟹工船」上映と講演のつどいが27日、神戸市長田区内で開かれ、300人が参加しました。
石川康宏・神戸女学院大学教授が「人間らしく生き・働くために」と題し講演しました。石川氏は小林多喜二の生き方に触れながら、全国の非正規労働者のたたかいや年越し派遣村の成果を示しました。神戸1日派遣村やストライキ権を確立して「派遣切り」とたたかう日本トムソンの労働者、郵産労のストなど兵庫のたたかいを紹介し、衆院選挙と7月の兵庫県知事選挙で政治を変えようと呼びかけました。
「仕事探し中で、先生の話は身にしみてわかった。たたかいが社会を動かしている。元気が出ました」と語る兵庫区の男性(30)や、高校1年の女子生徒=長田区=は「映画は難しかったけれど、悔しいと思う気持ちが自然と出ました。講演は、ニュースでやってなかった派遣村の様子や、派遣の人が決意を訴えるのを見て、こんなことやっているんだとちょっとびっくりした」と話していました。(「同盟サイト」より)
●2009.3.29・「しんぶん赤旗」→本立て「多喜二の時代から見えてくるもの」荻野富士夫著
「多喜二の時代」とは、20世紀前半の「戦争と抵抗のせめぎあった時代」「小林多喜二から見えてくるもの」で、多喜二が、社会変革をめざす「憤怒」を原動力として『一九二八年三月十五日』『蟹工船』を書くなど、プロレタリア作家・社会主義者として成長していった姿を描き「暴圧」にどう向き合ったかをたどります。
横浜事件の被害者たちが、戦後、特高警察を告発した思いも、多喜二の憤怒と同様のもの、と著者。「治安体制に抗して」(副題)生きる人々に光を当てる論集です。(新日本出版社・税別2500円)(「同盟サイト」より)
●2009.3.26・「しんぶん赤旗」→「映画『蟹工船』一般館で上映、28日から」福岡・シネテリエ天神
映画「蟹工船」が福岡市のシネテリエ(天神中央区親富幸通り)で28日から上映されます。来月10日まで『蟹工船』は昨年から福岡県と佐賀県の学校や諸団体に映画の配給や普及をしている九州シネマ・アルチ福岡市)が自主上映を行ってきましたが、一般映画館での2週間にわたる上映は珍しいものです。
作品は、プロレタリア文学作家で共産党員・小林多喜二の小説を映画化。カムチャッカ沖の蟹工船で過酷な労働を強いられ、それに立ち向かう労働者の物語です。
昨年、ワーキングプアや派遣切りが社会問題となるなか、小説はベストセラーとなりました『蟹工船』が流行語大賞に選ばれるなどブームに。今回の上映は、こうしたなかでシネテリエ天神がシネマ・アルチに上映したい旨を相談し実現しました。シネマ・アルチの担当者・吉村秀二さんは「プロレタリア文学に興味がなかった方にもぜひ見てもらいたい」と話しています。上映時間は109分。午前10時、午後1時55分、同6時25分の1日3回上映します二週目から変更の可能性あり)。一般当日1800円。特別鑑賞券1000円も発行しており、同券の問い合わせは092(712)5297のシネマ・アルチまで。(「同盟サイト」より)
●2009.3.22・「しんぶん赤旗」→「”多喜二”書いてますます好きに」シカゴ大学教授ノーマ・フィールドさん
・人はあなたのように本気で生きてみたいと一度は
シカゴ大学教授で日本文学を専攻するノーマ・フィールドさんが、『小林多喜二―21世紀にどう読むか』(岩波新書)を出しました「この中には、私が四半世紀の間、考えてきた問題が全部入っている」とノーマさん。多喜二没後76周年の2月20日をはさんで来日した際に聞きました。(児玉由紀恵)
・予期せぬ出会い
「多喜二さん」―そう呼びかける手紙の形の「プロローグ」から、この本は始まります「世界と向き合う作家へ」「銀行員からプロレタリア作家へ」「小樽から東京へ」の3部構成。資料、証言を駆使し、小林多喜二の29歳4カ月の生涯と作品を浮き彫りにします。
日本人の母と米国人の父の間に生まれ、18歳まで日本で暮らしたノーマさん。多喜二との「予期せぬ出会い」は、1998年のことでした。祖母光江さんが少女期を送り、戻ることのかなわなかった小樽の地をいつかは踏みたいという夢を実現させた旅で、ついでのように飛び込んだのが小樽文学館でした。
そこに展示されていた多喜二の1通の手紙。貧しい家族のために身をひさぐ酌婦だった恋人に、自分を卑下するなと懸命に訴えるものでした。
「その手紙を読んだとき、すごい吸引力を感じたんです。こういう青年だった多喜二さんは、生涯全体が魅力的な人だったんじゃないかな、と強い印象を受けました。昔、『蟹工船』を読んだだけで片付けていたことへの疑いが出てきたのです」 ・勇気必要だった
多喜二研究を決意したのは、さらにその数年後でした「階級」を古い概念とする研究者たちや、〝なぜいまさら多喜二?〟と言う周囲に向き合う勇気が必要だった、と言います。ブッシュ政権が生まれ、日本では、小泉内閣の「構造改革」で社会の疲弊が進み、イラク派兵が断行されるという時代が、多喜二研究へとノーマさんの背中を押しました。
「私の〝多喜二探し〟の一部」という本書は、ノーマさんの清新な視点が大きな魅力です。登場人物の「ほとんど、だれもが何かひとつ捨てがたいものをもたされている」多喜二の作品。そこから、多喜二は「根本的に人間好きだった」ととらえるなど、多喜二と作品の発見に読者を誘います。
「多喜二さんを理解しようとし、調べて考えることによって、この四半世紀に、私が直面してきた問題の一番大事なところを考える機会になりました」
それは、文学と政治、社会の関係、そして資本主義というものについての探究です。
「資本主義のなかでどう生きていくのか。その先を想像することはできるのか。多喜二さんたちは、それを真摯に考え、体当たりしていた。その生き方を追うことを通して、自分が大学で教える人間になってから突き当たった矛盾などを考えざるをえなかったのです」
日本が中国侵略に突き進もうとする時代に、反戦・平和、社会変革を目指し、プロレタリア労働者の)文化運動を担った多喜二や仲間たち。ノーマさんは、なぜ彼らは、文学、文化を必要としたのか、と問います。
「多喜二さんは、革命運動にコミットして、指導的立場にありましたね。文学だけで革命が起こるとは決して思っていない、けれども文学もあきらめないのは、政治的な活動だけで革命が起こるとも思っていないから。社会変革には、人々の心をとらえるものが絶対必要だと、彼らはわかっていたのではないかと思います」
・初の日本語の本
本書の「エピローグ」に、ノーマさんは多喜二にあててこう記しています。〈私はこころからお礼をいいたい。あなたが全身の力をふりしぼって、文学と社会変革をともに求めたことに対して、です。人はだれでも、あなたのように本気で生きてみたいと、一度は思うのではないでしょうか〉と。
2004年から05年にかけて1年間小樽に住み、多喜二の墓前で言葉にならない思いを語りかけてきました「第二の古里」と呼ぶその地の人々や、ブームの前から多喜二を大事に思ってきた人たち。本書は、それらの出会いや、多喜二研究の先達の成果なしには生まれませんでした。
ドキュメンタリー映画「時代を撃て・多喜二」(池田博穂監督、2005年)の中で、〝多喜二にひどい拷問をした人は何の罪も問われないのか〟と素朴に語った老婦人。多喜二に会ってみたかったか、というノーマさんの問いに、間髪入れず大きな声で「ずっと会いたかった」と応えた93歳の多喜二のいとこ…。多喜二に思いを寄せる人々との出会いの描写に胸を揺さぶられます。
「今回、多喜二さんを書きましたけど、彼は独りではなかったということを強調したいですね。仲間があり運動があった。それがどんなに大切なことであったか。宮本百合子さんや松田解子さんら、プロレタリア作家の短編を英訳して出したいと思っています」
初めて1冊を日本語で書くという格闘も終えた今、ノーマさんは言います「この人と、この人の運動は、限りなく好きだなという思いが続いています」
Norma Field=1947年、東京で生まれる。65年、アメリカンスクール卒業後、渡米。83年にプリンストン大学で博士号取得。シカゴ在住。著書『天皇の逝く国で』『祖母のくに』『へんな子じゃないもん』『源氏物語、あこがれの輝き』ほか。(「同盟サイト」より)
●2009.3.22・「しんぶん赤旗」→「多喜二の時代から見えてくるもの 治安体制に抗して」荻野富士夫著、評者・尾西康充(三重大学教授)
死してなお監視される暴圧を検証
著者の荻野富士夫氏は横浜事件再審請求において、特高・治安維持法研究の第一人者として事実の解明に努めた。本書は小林多喜二を虐殺した「軍事的=警察的反動支配」の正体を暴くと同時に「治安体制」の「暴圧」が戦前から戦中、戦後へと連続・継承されたプロセスを検証している。
荻野氏によれば、多喜二がプロレタリア作家として目覚める「思想的な跳躍台」になったのは1925年の「小樽高商軍事教練事件」であった。多喜二はこの「事件の遺産を引き継ぐ後輩の学生たちへのエール」として「『北方文芸』の数度の寄稿」と同誌の「左翼的傾向化」に「積極的な働きかけ」をおこなったという。
そして『転形期の人々』が小樽高商軍教事件の前後から造形されているのは「社会主義者としての自覚に至る、紆余曲折といってよい長い『内的進展』の出発点」があったからで、多喜二は「小樽の街の輝かしい左翼の伝統」に連なる一員であることに誇りを持っていたとする。
荻野氏は「治安体制」による「暴圧」に対して一貫して抵抗し続けた多喜二の内面には「権力・支配階級への『憎悪』」と「不屈の闘志および『火を継ぐもの』への絶対的な信頼」が存し「権力や権威によって理不尽な犠牲を強いるものへの『憤怒』」は「人間性の豊かさに発する、虐げられたものへの共感と愛情、それゆえの社会の変革への強い意志」と表裏一体の関係にあったという。
2004年の秋田多喜二祭記念展は陸上自衛隊情報保全隊による調査対象に含まれていた「死してなお多喜二は監視されつづけている」と警告する本書は、多喜二の闘いが今も終わっていないことを主張する。(おぎのふじお=1953年生まれ。小樽商科大学教授。『横浜事件と治安維持法』)
●2009.3.8・「しんぶん赤旗」→「いま行動しなければ、多喜二と野呂語る集い」札幌
「小林多喜二と野呂栄太郎の志を引き継ごう」と、札幌市の中心街職場九条の会・HATOSの有志でつくる実行委員会は7日「小林多喜二と野呂栄太郎を語るつどい」を札幌市で開き、70人が参加しました。
「多喜二祭」実行委員長で治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟小樽支部長の寺井勝夫氏が多喜二について、野呂栄太郎碑管理委員会現地責任者で野呂の出身地・長沼町の薮田享日本共産党町議が野呂について、それぞれ講演しました。
寺井氏は、多喜二の年譜をたどって人生と業績を語りました。 多喜二の死が「派遣切り」『蟹工船』が話題となるいまの社会と断絶していないと語り「虐げられた人々への人間的な思いやり、支配勢力と容赦なくたたかう気概、たえざる理論の深化で科学的洞察力をつけることを多喜二の生き方から学ぶことが大切です」と強調しました。
薮田氏は、自らの営農体験を交え、長沼町で頻発した小作争議や水害の歴史から野呂の育った環境や、多くの人に慕われ、弾圧に屈せずに信念を貫いた生き方を紹介「野呂の遺志を引き継いで、人間らしく生きられる社会実現のために、人をモノ扱いにする政治とたたかうことが重要です」と述べました。 参加者は「虐げられた人たちに心を寄せる多喜二や野呂の生き方に感動しました」と語っていました。
最前列で熱心に聞いていた女性(59)=札幌市東区=は「多喜二の小説が書かれた背景を知ることができ、改めて作品を読んでみたいと思いました。そしていま行動しなければ、と思います」と話していました。(「同盟サイト」より)
●2009.3.6・「しんぶん赤旗」→「江別多喜二祭に100人、作品朗読や愛唱歌演奏」
「江別の多喜二祭」同実行委員会主催)が1日、江別市のドラマシアターどもⅣで開かれ、100人を超える市民が参加しました。
多喜二の『防雪林』と田口タキへの書簡を劇団ドラマシアターどもの安念智康さんと金子このみさんが朗読。佐藤洋一さんは、多喜二が『オルグ』を書くために滞在した神奈川県七沢温泉の福元館で湯船につかって歌ったという「折ればよかった」(ブラームス原曲「日曜日」)、少年時代にきょうだいでよく歌った賛美歌「まぼろしの影を追いて」など五曲をギターで演奏しました。
宮田汎道高校センター教育研究所長が「多喜二の青春」と題して講演。労働者や農民が「いかに惨めな生活をしているか」ではなく「いかにして惨めなのか」を作品に表現することを追求した多喜二を語りました。
最後に長谷川京子さん飯田信之演劇事務所)が三浦綾子『母』より「第六章 多喜二の死」を朗読、涙をぬぐう人もいました。
「とても良かった。多喜二の作品を読みたくなった」と感想が寄せられました。(「同盟サイト」より)
●2009.3.1・「しんぶん赤旗」→「現代を映す『蟹工船』、発表から80年」大阪で多喜二祭
労働者が搾取される実態を暴いた小説「蟹工船」の作者で、特高警察に虐殺された小林多喜二の「火を継ごう」と28日、大阪市中央区内で「2009年大阪多喜二祭」が開かれました。今年は、「蟹工船」発表から80周年。350人が参加しました。
実行委員長の柳河瀬精・治安維持法国賠同盟府本部会長が冒頭に挨拶しました。講演した尾西康充・三重大学教授日本近代文学)は、政府やマスコミ各紙が「〝自己責任〟という言葉で政府の責任を個人責任に転嫁している」と批判「踏みにじられた人間に立ち上がる力を与える」『蟹工船』が、現代の格差社会とつながることを示しました。
「地域労組おおさか」の青年らは相談数の激増を紹介し、「すべり台社会を実感した。『蟹工船』はまだ終わってない」などと訴えました。まんが『蟹工船』の解説者でもある島村輝・女子美術大学教授は、労働法制の改悪の経過を指摘し、一過性の問題ではないことを強調しました。多喜二の書簡集などの資料展示も開催。「蟹工船」の朗読や歌も披露されました。(「同盟サイト」より)
●2009.2.28・「しんぶん赤旗」→「古河市で多喜二祭」新日本歌人協会支部
新日本歌人協会古河支部は20日、茨城県古河市の古河文学館で「古河多喜二祭」を催し、44人が参加しました。
多喜二作品の朗読や多喜二を詠んだ短歌の朗詠のあと、日本民主主義文学会会員の奈良達雄氏が「小林多喜二と上野壮夫の作品の文学性と今日性」と題して講演。秋野宏氏が多喜二ゆかりの曲を演奏しました。
参加者から「プロレタリア文学になじめなかったが、いまなぜ『蟹工船』なのかがよくわかった」との感想が出されました。(「同盟サイト」より)
●2009.2.26・「しんぶん赤旗」→「山口、田島氏が『蟹工船』を語る」神戸
「『蟹工船』がいま問いかけるもの」と題した小林多喜二記念集会実行委員会主催)が22日、神戸市内で開かれ、150人が参加しました。『蟹工船』エッセーコンテスト大賞受賞者、山口さなえさんと作家の田島一氏が語りました。
山口さんは、派遣会社で寮付きの仕事を見つけたが上司から体の関係を迫られ、辞めて半ホームレスになった若い女性の例をあげ「なぜこんなに痛めつけられるのか。生きるため権力ともたたかわなくてはいけないのではないか。『蟹工船』につながるのでは」と思ったと述懐。労組をつくるなど若者が声を上げていることをしめし「いまの若者はふがいなくないといいたい」と語りました。
「現代いま)を撃つ、文学の力」と題して講演した田島氏は「『蟹工船』が社会現象になるような時代は不幸。多喜二が苦笑いしているのでは」と話し「現代社会とのかかわりで文学の意義を80年後に実証した」とのべました。『蟹工船』はいまの読者に生きる勇気と連帯の意義を伝えているとし「私も多喜二を範にしてすすんでいきたい」と語りました。(「同盟サイト」より)
●2009.2.26・「しんぶん赤旗」→「多喜二と文学語り合う」松山で集い
『蟹工船』で知られるプロレタリア作家の小林多喜二が特高警察に虐殺されて76周年を迎えた20日「多喜二を語り合う集いin松山」が松山市民会館で開かれ、約40人が参加しました。
治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟県本部(中川悦良会長)の主催によるもの。参加者は黙とうをした後、多喜二と文学について思いを語り合いました。
同本部顧問の木山隆行氏は、多喜二を〝自らの生きた時代と確かな将来を描きだすことに挑戦した革命的な作家〟と位置づけ、日本資本主義が軍国主義へと向かう時代を描くことに果敢に挑戦した多喜二の姿を紹介しました。
中川会長は、1929年の大恐慌の時代にプロレタリア文学誌へ掲載された『蟹工船』が、今日、百万部を超えるベストセラーになっていることを紹介。多喜二が残した唯一の色紙が愛媛にあることにも触れ「これからも、このような集いを続けていきたい」と話しました。(「同盟サイト」より)
●2009.2.26・「しんぶん赤旗」→「労働者支援誓う、多喜二関連の映画鑑賞」宮城・青森・福島いわき
・塩釜で「時代を撃て・多喜二」/宮城
宮城県の塩釜市公民館で治安維持法犠牲者国賠同盟塩釜支部主催で21日、記録映画「時代を撃て・多喜二」の上映会が開かれ、40人を超える人が鑑賞しました。
上映会に先立ち、元日本共産党宮城県委員長本田勝利氏が「多喜二を語る」と題して語りました。自ら平和と民主主義の旗を掲げてたたかいながら、作品に結実させていった多喜二の文学が、資本主義社会の本質を真正面から告発していることで今日につながる作品の普遍性となっていることを浮き彫りにしました。
その後、上映が行われて、参加者からは「多喜二のたたかいは今日も続けられていると実感させられた」「多喜二が虐殺された2月20日は忘れてはいけない日であることを再認識した」などの声が寄せられました。
・「蟹工船」上映八戸で400人/青森
映画「蟹工船」をみる八戸の会が21日、青森県八戸市の三八教育会館で開催した上映会には、400人を超える参加者がありました。
主催者は、最近『蟹工船』がベストセラーになったことや若い人たちに読まれていることから、参加者が多いことを予想。ところが、前日の2月20日が小林多喜二の命日で、民放で多喜二や「蟹工船」のことが取り上げられたこともあって、予想を上回る参加者となりました。
会場には、昔、蟹工船に乗ったことがある人も来ていて、実行委員長に「戦後だったので、暴力的な支配はなかったものの仕事のきつさは、映画と変わらない」と当時のことを語っていました。
「タイムリーな企画に感謝します」という感想も寄せられました。若い人たちも訪れ、モノクロ画面でやや聞き取りにくい音声でしたが、食い入るように見ていました。見終わって、漫画の『蟹工船』を購入した人もいました。
・首都圏青年ユニオン委員長が講演/福島・いわき
福島県いわき市の産業創造館ホールで21日、映画「蟹工船」(山村聡監督)の上映会が行われました。市内の労働組合と民主団体などでつくる実行委員会「見る会」が主催し、約260人が観賞しました。
主催者挨拶で、実行委員会代表の高橋美保さんが「2月20日は映画「蟹工船」の原作者、小林多喜二が権力によって命を奪われた日です。映画会は、多喜二をしのんで計画されました」と述べました。
首都圏青年ユニオンの武田敦委員長が「今に生きる蟹工船」と題して講演。団体交渉など青年ユニオンの活動を通して、青年が『蟹工船』の労働者のように、結びつきとつながりを広げていることを紹介し「3月にも派遣切りが心配されます。参加者の皆さんのネットワークで支援を進めてほしい」と訴えました。  参加した30代の女性からは「映画に感動し、講演から労働者たちの新しい動きを知ることができ、うれしく思いました」との感想が寄せられました。別の男性は「実際に派遣切りされている人たちにも見てほしい映画だった」との感想を寄せました。(「同盟サイト」より)
●2009.2.21・「しんぶん赤旗」→「多喜二に学び、志生かす・没後76年の墓前祭」北海道・小樽
貧困と格差が広がるなか、80年前にたたかいを呼びかけた小説『蟹工船』ブームが続く作家、小林多喜二の没後76年の20日、北海道小樽市で墓前祭が開かれました。
道内をはじめ長崎や広島、大阪などから140人が参加。奥沢墓地の小林家墓前に赤いバラを献花しました。
参加者のなかには治安維持法国賠同盟大阪府本部が企画した「野呂栄太郎・小林多喜二ツアー」で参加した15人がいました。井上敏江大阪府本部副会長は「昨年秋から計画したツアーです。多くの人たちと多喜二の墓前に立てて感無量。雪のなかの墓前で戦争をしない誓いを新たにしました」と語ります。 初参加という札幌市の30代の女性は「いまなぜ多喜二の『蟹工船』なのかと思ってきました。非正規で働いていましたが、多喜二の時代と重なるひどい働かせ方がまかり通り、私たちも頑張らなければと思いました」と話していました。 小樽多喜二祭実行委員会の寺井勝夫委員長は「いまこそ多喜二の生涯に学び、志を生かす運動をいっそう強めていきたい」と主催者挨拶しました。
日本共産党北海道委員会の青山慶二書記長とノーマ・フィールドシカゴ大学教授が連帯挨拶をしました。(「同盟サイト」より)
●2009.2.18・「しんぶん赤旗」→「各地の多喜二祭」
・古河多喜二祭=20日、午後1時、茨城・古河文学館。講演・奈良達雄(歌人)「多喜二と上野壮夫の文学作品の文学性と今日性」。会費300円。
・大阪多喜二祭=28日、午後1時半、大阪市立中央区民センター。講演・尾西康充三重大学教授「現代の格差社会における『蟹工船』」。資料代1000円。
・阪神北多喜二祭=3月22日午後1時半、アイホール(伊丹市立演劇ホール)。講演・島村輝女子美術大学教授「家族から世界まで1200円。
22回小林多喜二を語る早春・文化の集い=21日、午後6時、熊本・人吉・カルチャーパレス。講演・藤田廣登労働者教育協会事「小林多喜二の盟友たち」。資料代1000円。(「同盟サイト」より)
●2009.2.18・「しんぶん赤旗」→日本共産党知りたい聞きたい「小林多喜二が虐殺されたのはなぜ?」
〈問い〉『蟹工船』の作者・小林多喜二は、当時の警察に虐殺されたと知りました。なぜ殺されたのでしょうか。東京・一読者)
〈答え〉1933年2月20日の小林多喜二の虐殺はあまりにも有名です。天皇が絶対的な権力を持ち、警察も軍隊もそのもとで横暴を極めた戦前には、天皇制や軍国主義に反対したために逮捕・投獄、虐殺された人はかなりの数にのぼっています。
23年9月の関東大震災の折には混乱に乗じて初代共産青年同盟委員長・川合義虎や労組活動家・平沢計七ら10人が軍隊の手で殺され、さらに無政府主義者・大杉栄が妻・伊藤野枝、おいとともに虐殺されました。
25年、普通選挙法(男子のみ)と抱き合わせに、天皇制廃止、侵略戦争反対を掲げる日本共産党をはじめ、革命的労働・農民運動を弾圧する目的で治安維持法が制定されました(28年に死刑・無期刑に改悪)。その違反名目での逮捕者は数十万人にのぼり、司法省調査でも送検者7万5681人、起訴者5162人、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の調査では、明らかな虐殺だけでも日本共産党幹部など65人、拷問・虐待死114人、病気その他の獄死1503人といわれています。
多喜二の虐殺もそういう歴史の文脈のなかでのことです。同時に彼の場合は、逮捕数時間後の激しい拷問によるものでした。それは彼の作品が、治安維持法の適用による大弾圧「三・一五事件」での警察の拷問の実態を暴いた『一九二八年三月十五日』や、労働者搾取の国家構造を描き出した『蟹工船』、農民と労働者の共同闘争を描いた『不在地主』など、戦争突入前夜に、政府の戦争と労働者抑圧政策を鋭くえぐる内容で、しかも読者も多く、国際的にも高く評価され、為政者から特別に憎悪され、恐れられたからです。
多喜二が作家同盟の中央委員・書記長、プロレタリア文化団体の党グループ責任者など重要な位置にあったことも「生かしてはおけない」理由だったのでしょう。多喜二の作品は敗戦までは持っているだけで逮捕される国禁の書とされました。(淳)(「同盟サイト」より)
●2009.2.15・「しんぶん赤旗」→「小林多喜二没後76周年、20日に夕べ」多喜二墓前祭
日本共産党員で、プロレタリア作家の小林多喜二没後76周年で20日、小樽市で「小樽多喜二祭」墓前祭と音楽と講演の夕べ。同実行委員会主催)が開かれます。
夕べでは、小樽出身で多喜二の母校、小樽商科大学でも教鞭をとった浜林正夫一橋大学名誉教授が「極める眼―多喜二の『蟹工船』をどう読み解くか」と題して講演します。現代と『蟹工船』、現状を変える方向と求められるものを考えます。ソプラノ歌手の清水紫さんが多喜二への思いを託した創作曲「赤き花燃ゆ」を独唱します。
墓前祭 午後1時半から、奥沢墓地(奥沢5丁目)①小樽駅前から中央バス16番「天満宮下」下車、②午後零時45分に小樽駅から貸し切りバスがでます。往復400円。
音楽と講演の夕べ 午後6時半(開会6時開場)、小樽市民センター「マリンホール」(色内2丁目。小樽駅徒歩約5分)、参加前売り券1000円(当日1200円)、高校生以下は前売り・当日とも800円。連絡先=0134(32)8560斎藤)(「同盟サイト」より)
●2009.2.13・「しんぶん赤旗」→ひと「朗読劇『蟹工船』に出演する岡部政明さん(76)」
「朗読劇はお客さんが想像力を広げて作りあげる空間・世界。『蟹工船』に描かれた、すさまじい世界を舞台で表すには限界があります。お客さんが膨らませるイメージに手伝っていただかないと成立しません」 朗読劇『蟹工船』小林多喜二原作)で、語りと漁夫役を担当します。『蟹工船』は、昭和初期、蟹漁をし缶詰にする過酷な船内労働に対して立ちあがる労働者を描いた小説です。
「今、派遣切りなど働く人が人間らしい扱いをされていません。80年も前の物語が、遠い昔のことではないですね」
北海道・旧雨竜郡納内村現深川市)出身。子どものころ、海水浴場から見える家を、〝多喜二ゆかりの家〟と教えられたと、いいます。雀荘に入り浸っていた札幌での大学生時代、見かねた高校の同窓生らが、演劇研究所を強引に受験させました「俳優になるつもりは、なかったのに」。妻子連れでの困窮の上京など、苦労多い俳優人生を歩みました。
「芝居の魅力は、奥行きが深く、追究すればするほど無限です」。豪快な印象を裏切る、繊細さを持った人柄です。
視覚障害者と目が不自由になってきた人のための「声の日曜版」の朗読を、重厚な声で27年間担当しています。
19~22、東京・武蔵野芸能劇場。連絡先=伽羅KYARA 電話=090(4964)0801(文=大井民生)(「同盟サイト」より)
●2009.2.4・「しんぶん赤旗」→「”多喜二の母”の思い出、『蟹工船』の脚本を書き終えて」安川修一
私は、父の留守によく父の部屋で大きな箱型の手回し蓄音機で、SP盤のスクラッチの多い音楽を聴きながら、本棚より小林多喜二を手にした在りし日の自分が蘇って来る。
・故郷の川は 私の在所は札幌で、今は大都会だが、子供の頃は、山と川のある街といった感じで、街の中心を豊平川が南北に流れ、シャケが遡上していたこともあった。その川沿いに小・中・高の木造校舎が並ぶように建っていて、私はその3校を順繰りに卒業した。
小学低学年の時、私は母に川に入ってはいけないと注意された。それは、日本が敗戦と同時に米軍が進駐し、豊平川の上流、真駒内に大規模な米軍キャンプが出来、糞尿処理に川へ垂れ流しをしていたからだ。歴史を感じさせる石塊は茶色に被われ、ぬるぬると滑る。
とある夕暮時、私は川の中に荷馬車を追い込む馬子が、馬共々滑って転び、馬子は必死に馬に鞭を打ち、馬は何度も立ち上ろうとするが、荷馬車の重みに立ち上がることが出来ずにいる。私は近くの交番に走り、巡査と戻ると、馬子は、馬の頭を正座した大腿に抱えるように泣き崩れていた。夕陽は浅い川面を赤く染めていた。進駐軍は、キャンプから小樽、函館へと軍用の弾丸道路を整備し、深夜に装甲車、ジープを走らせていた。冬は子供たちの格好の遊び場となった。禁じられれば禁じられる程に子供たちは、竹スキーを履き、軍用車の後に掴まり距離を競った。若い米兵は面白がってスピードを上げた。
・1枚の写真
私はその弾丸道路、後に札樽道路を、高校生になって1週間と少し、机を並べる小林という男と親しくなり、自転車で小樽へ行くことにした。途中で、小林が、小林多喜二のお母さんが朝里に住んでいるので、行ってみないかと誘った。私は父の本棚より数冊読んだのと、特高により寒中素っ裸にされ、殺意のこもった拷問により惨殺されたと知るだけだった。
なぜ、小林は、多喜二の母、セキさんを知るのか、私は興味が沸いた。セキさんは、小柄なうえにお歳を召され、上がり框で小さく挨拶され、私たちを快く奥へ通して下さった。
セキさんは、多喜二のノート稿や新聞、雑誌の切り抜きを一枚一枚出し、最後に何度か目にした写真を見せて下さった。ご自分が多喜二のデスマスクを手にする写真。この顔は、築地小劇場の方が取って下さったと。
私は後に、それは千田是也氏であることを知った。若き日の氏がそこにいた。
セキさんは「若い皆さんがおいでになって、多喜二のことを思ってくれて、喜こばねばならないね」。
・変色した本
長い年月が過ぎ、私は多喜二の代表作の一作『蟹工船』の舞台化を思いついたのは、一昨年の暮れ、正月公演の稽古も一段落し、本を整理していたら茶色に変色した多喜二の文庫本が出てきた。捲り読みするうち、自分の走り書きが目に付き、新たに買い求めようと、新宿の本屋に行くと、平積みされ、並んでいた。それから数カ月後、文芸雑誌の何冊かに特集が組まれ始めた。私は急にその気になり脚本化に取り組んだ。(やすかわしゅういち=演出家)俳優座公演『蟹工船』(「同盟サイト」より)
●2009.2.3・「しんぶん赤旗」→「映画「蟹工船」へ思いを馳せて」嵐圭史
世の〝蟹工船ブーム〟をみるにつけ、それを呼び起こした現今の社会状況への憤りと共に、一方で言い難き嬉しさもあって、何やら複雑な心境です。
小林多喜二の『蟹工船』が多くの人々に読まれている! 当然の喜びです。しかし私にはもう1つ、私自身の、映画「蟹工船」撮影時の微かな追憶も重なって、ブームに付随した形でのその上映活動がいま全国に拡がって、やはり多くの人々にこの秀作を見ていただける機会を得たことへの喜びがあります。
・三本の映画/映画「蟹工船」は1953年に公開されましたから、撮影はその前年、私の中学1年生の時でした。当時劇団前進座の子供部座員の子弟)は、独立プロダクション系の映画では〝子役〟の供給源として結構重宝された存在でした。もっとも子役といっても様々で、演技感鋭く名子役といわれた子例えば松山政路『にごりえ』『どぶ』『狼』、河原崎建三『足摺岬』『しいのみ学園』)がいる一方、さして目立たぬ普通の〝その他大勢〟子役もいて、私はもちろん後者だったのですが…。
そんな私でも中学生時には3本の映画に出ています。利根川沿いの貧村で、農業の未来に夢を托す中学生の群像を描いた、慈父のように優しかった家城巳代治監督の『ともしび』。下手なヴァイオリンをギーコと鳴らしながらも、やがて交響楽団の一員に加わっていく少年役の、今井正監督『ここに泉あり』。いまも旺盛に演奏活動を続けている〝群馬交響楽団〟創成期をモデルとした映画です。
・雑夫役で出演
そして『蟹工船』。座の男児(10代)ほとんどが、船底の缶詰工場で働く雑夫・少年工役で出演、私もその中の1人でした。缶詰作業のシーンは静岡県清水港の、本当の缶詰工場を使っての撮影で、実際に動くベルトコンベアーに目を丸くしたものです。
何よりもびっくりしたのは〝蟹工船〟の巨大なオープンセットで、千葉県勝浦の港にそれは組まれていました。暴風雨のシーンでは激しい放水のなか、出演者もスタッフもずぶ濡れになっての撮影、メガホンを手に奮闘していた山村聡監督の姿が忘れられません。
ちなみに、船のすべてを支配する監督・浅川役を見事な存在感で、冷酷かつ荒っぽく演じたのは、実は素人さんで現地勝山漁協の組合長さんだったとか。花沢徳衛、河野秋武、浜村純といった、独立プロ作品には欠かせなかった名脇役が雲霞の如く揃った労働者群像に対峙して、1歩もひけをとらぬまことに堂々たる演技でした。
この映画には私の兄(故・6代目嵐芳三郎)も出演しています。子役では唯一人目立った役の、作業現場を逃げ出して捕えられる宮口少年を演じていました。閉じこめられた便所を俯瞰した映像が、未だ私の眼に焼きついて離れません。名ショットでした。
・原作の本質
それにしても名優山村聡が何故『蟹工船』を撮る決意をしたのか。その動機、プロセスも定かではないように思われます。独立プロ映画史上からも非常に興味のあるテーマで是非とも知りたいところです。
「そして、彼等は、立ち上った。もう一度!」このとても重要な原作のメッセージは、当然ですが映画にはありません。明らかに活字と映像の機能、その特性によるところであることは言をまたないでしょう。
しかし原作の本質が、それによって少しも損なわれていないところに、山村聡監督の凄さを私はいま、あらためて感じています。(あらしけいし=俳優)(「同盟サイト」より)
●2009.2.3・「しんぶん赤旗」→ひと「本邦初、『蟹工船』を演じるアマチュア講談師荒到無形さん(48)」
パン、パン。〝おい、地獄さ行ぐんだで!〟「これが、小林多喜二著『蟹工船』の冒頭でございます」。
高座に置かれた釈台の前に座り、張り扇で調子をとり、読み上げます。死と隣りあわせの過酷な労働、ストライキに立ち上がった労働者…。抑揚のある通る声、思わず引き込まれ、さながら、その場にいる感覚になります。
「落語は、笑い。浪曲は泣き。講談は怒りを表すのに適した伝統芸」「『蟹工船』は、講談向きです」
秋田県生まれ。1年前まで北海道の高校で書道、国語の教師をしていました。教員時代、収入がないため給食費やPTA会費が払えない家庭の姿を目の当たりにしたことが、蟹工船とつながります「働いても命のつなげぬような世の中が続いたら、この国は滅んでしまうぞ」―多喜二の思いが、心に響きました。
本名は荒井到。13年前、落語の原作募集にしゃれで応募。最終選考に残りました「もしかしたら、才能がある?」。落語や講談の作品は20作にもなります「自分で読み、聞かせたい」と講談を演じる側に「教師を辞めて単身赴任の釧路から函館の自宅に戻る」といったら5人の子は大喜び。「これで生活ができれば本当にありがたい」
講談仲間、神門久子さん(50)は「まじめ。でも、ちょっと変わりもの笑い)」と評します「アイヌを扱った講談、落語、浪曲は一つもありません。北海道ゆかりの話をし続けたい」(文=矢藤実)(「同盟サイト」より)
●2009.1.20・「しんぶん赤旗」→「いま、なぜプロレタリア文学か。現代的魅力に迫るために」三浦光則
『蟹工船』ブームということがいわれて久しいが、最近では、角川文庫で葉山嘉樹の『セメント樽の中の手紙』が刊行されたり、国文学の専門誌『國文學』が「再読プロレタリア文学」という特集を組むなど、多喜二だけではなく、プロレタリア文学全体を見直そうという雰囲気が生まれているようである。
・不当に批判され軽視されたころ
それにつけても、私はいまは亡き手塚英孝氏のことを思い出さずにはいられない。手塚氏は最近再刊された、評伝『小林多喜二』のすぐれた作者であることはよく知られている。私が初めて手塚氏にお会いしたのは、手塚氏が代表をつとめていた多喜二・百合子研究会の講座に出席するようになってからだった。
そのころはまだ新日本出版社の『日本プロレタリア文学集』全41巻も刊行されていなかったので、多喜二や百合子などプロレタリア文学の代表的な作品は手に入れることはできたが、それ以外の作品は容易に目に触れることができなかった。 一方文壇や学会の風潮として、プロレタリア文学に対する不当な批判や軽視が目立っていた。そうした論調に対してなにか有効な反論を学びたいと強く思っていた私は、講座の後の懇談会の席で「プロレタリア文学は理論はすぐれているが、実作の面ではたいしたものがないという批判がありますが…」といささか言葉足らずの質問をした。すると、手塚氏はいつもの温和な表情から厳しい面持ちになり「そんなことはありません」と怒ったように一言言って黙ってしまわれた。今になって思えば、当時まだ強くあったプロレタリア文学に対する否定的な評価や民主的な文学運動に残っていた清算主義的な見方に対して、それを許すことができないという気持ちがあったからではないかと想像するのである。
・歴史の根本問題様々な角度から
 評伝『小林多喜二』の冒頭には、戦前は多喜二の作品を持っているだけで逮捕・投獄され、その作品は国禁の扱いを受けたことが記されている。多喜二の名は、物故作家名簿からも抹殺された。多喜二をはじめとするプロレタリア文学の多くの作品は、人々の目から隠されようとしたことを忘れてはならないと改めて思う。同時に『蟹工船』をはじめプロレタリア文学作品は、戦前の歴史の根本的問題をさまざまな角度から鋭く迫っているからこそ、当時の権力を恐れさせ、読者に大きな感銘を与えたことも忘れてはならないだろう。
・多喜二・百合子研究会では、2月より12回にわたって「今、なぜプロレタリア文学か」と題した講座を企画している。この講座は、大逆事件後の近代の激動を写した代表的な作家・作品をとりあげ、今改めて関心が向けられているプロレタリア文学の現代的魅力を明らかにするものとして、私は期待している。(みうらみつのり=多喜二・百合子研究会運営委員) ・「講座 いま、なぜプロレタリア文学か」=2月~11月、第2・第4火曜日午後6時半、東京労働会館(JR大塚駅下車)。
前期 2月24日「大逆事件とプロレタリア文学の萌芽―平出修『逆徒』」祖父江昭二)、3月10日「谷中村鉱毒事件の波紋―伊藤野枝『転機』」(久野通広)、3月24日「獄中で描かれた代表作―葉山嘉樹『海に生くる人々』」(浦西和彦)、4月14日「戦場の日本兵の末路―黒島伝治『橇』」(能島龍三)、4月28日「労働者の連帯―徳永直『太陽のない街』」(岩渕剛)、5月12日「大陸侵略を告発する戯曲―村山知義『暴力団記』」(菅井幸雄)。
後期 9月~11月「貧と苦悩に生きる労働者の妻―松田解子『乳を売る』」(澤田章子)「経済恐慌下のたたかい―小林多喜二『工場細胞』」(大田努)「台湾農民への無法な支配―伊藤永之介『総督府模範竹林』」(未定)「反戦・革命の詩人―槇村浩『生ける銃架』」(土井大助)「権力の非人間性の追及―宮本百合子『一九三二年の春』『刻々』」北田幸恵)「渡辺順三、鶴彬ら短歌革命の歩み」(碓田のぼる)。 申込先=多喜二・百合子研究会ファクス03(3423)9325(「同盟サイト」より)
●2009.1.15・「しんぶん赤旗」→「映画「蟹工船」17日に上映会」長崎市
戦前の共産党員作家・小林多喜二原作の小説『蟹工船』の同名映画上映会が17日、長崎市で開かれます。映画「蟹工船」を観る会飯田彰吾代表)の主催です。
飯田さんらは、昨年11月に会を立ち上げ、上映会成功のために奮闘してきました「現在でも同じように労働者が使い捨てにされる社会に怒ってほしい」と労働組合の書記でもある飯田さんは語ります。
「昨年から蟹工船ブームといわれていましたが、実際、自分の身の周りでは蟹工船ブームを実感することはありませんでした。これまで私たちの運動とは結びついていなかったところで蟹工船が読まれているということです。それならば、そういった層にどんどん入っていこうという思いで企画しました」と上映の動機を語りました「若い人たちに見てもらいたい」と長崎大学でも許可を得て講義前に学生たちに宣伝「3回の上映を満席にしたい」と意気込んでいます。 当日は「労働問題なんでも相談会」も同時に開かれます。 上映会は1月17日(土)①11時②14時③18時半。長崎県勤労福祉会館講堂。1200円(前売り1000円)、小中高生800円。連絡先=長崎県映画センター095(824)2974(「同盟サイト」より)

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2008年


●2008.12.16・「しんぶん赤旗」→朝の風「小林多喜二と”活弁”」
先日、エイゼンシュテインの名作「戦艦ポチョムキン」(1925年)が「活弁」つきで上映され、盛況だった。
映画は1930年代にトーキーに移るまで、音声のないサイレント時代。海外では映画館でピアノや楽団の伴奏つきの上映、日本では「活動写真弁士」(活弁)と呼ばれる映画説明者が映画の字幕に出る会話を中心に独特の名文調で語り、浪曲や講談など語り物芸能の伝統を生かし、人気を博した。今回「ポチョムキン」を語った澤登翠さんはその伝統芸を継ぐ1人。そして『蟹工船』の小林多喜二は熱烈な映画ファン「戦艦ポチョムキン」を見たいと熱望していたが、当時の天皇制検閲はこの名画の輸入を禁止。もし当時多喜二が「ポチョムキン」を見ていたとしたら、間違いなく「活弁」と伴奏つきで見たはず。その状況を再現するのが、今回の上映の趣旨だ。
その多喜二は1927年「活弁」の重要性を指摘した。彼は「映画の説明」の芸術性を強調、チャップリンの「巴里の女性」を説明した織田暁堂氏を激賞「如何にも教養のある、写真を深く理解したヴィヴィッドな説明にひかれて3回も見に行った。志賀直哉の名文章のおもかげがあった」と『小林多喜二全集』第5巻所収)「活弁」の意義を考えさせる。(反)(「同盟サイト」より)
●2008.12.11・「しんぶん赤旗」→「多喜二から志賀直哉へ/獄中書簡に封印されたほとばしるメッセージ」神村和美(日本近代文学研究者)
・「あなたの変ることのない読者」
11月29日まで東京駒場の日本近代文学館で開催された、特別展「志賀直哉をめぐる人々」をみた。 里見弴の絵はがきがあまりに異国情緒にあふれ、1つの芸術作品のように完璧で、しかもしゃれていて驚いた。志賀直哉を慕い、彼の周囲にあった人々が、いかに多才な人々であったかが深く感じられる展示の数々に、文学館の域を超えたものを感じた。
ひときわ目をひいたのは、小林多喜二から志賀への書簡のコーナーだった。原稿用紙に書いたものもある。また、奈良で1泊したときの礼状もある。多喜二の体はこの世に存在していなくても、彼の残した手紙の文字は、美しく、堂々と自己主張していた。
そんななかに、折りたたんだ跡のある小さな長い紙に、小さな字で埋め尽くされた書簡があった。志賀への獄中書簡である。78年前のまさにこの季節、小林多喜二は、治安維持法違反という罪名で、中野の豊多摩刑務所にその身を拘束されていた。その時の多喜二が、10代のころより傾倒した志賀直哉に書き送ったものだった。
獄中書簡は封かんはがきで、私が想像していたよりも小さなものだった。折り畳むと、はがきの大きさになる。獄中の筆は非常に粗悪だと聞いたことがある。にもかかわらず、多喜二の字は粒が揃い、女性の筆跡のように小さな字が器用に紙を埋めていた。外界と遮断された寒中の独房で、まだ見ぬ志賀を胸に描き、端正な小さな字をびっしりと埋め込んでいく多喜二が目に浮かぶようだった。
この書簡の消印は「5・12・3」と読めるが、多喜二の書簡の文中に「今日は12月13日です」とあることから、これはおそらく末尾の「0」が摩耗したのであり、消印の日付は「5・12・30」ではないかと思われる。志賀直哉全集にもこの書簡の消印は12月30日とある。つまり、手紙が書かれてから、17日間も当局のもとで足止めを食っていることになり、ここにも一つの弾圧の痕跡をみることができる。
またこの書簡には、多喜二自身がまとまった文章を消している個所が、大きく2カ所あった。ペンで消された個所の背後に書かれたものを何とか目をこらして読み取ろうと試みてみる。一字一字が文章につながるまで、かなりの時間がかかったが、ようやく、私はそこに封印された1つの文章をみた。
〈私は何処にいようと どのように変っていようと あなたの変ることのない読者であることを申し上げて置きます〉
それは、多喜二の、志賀への敬愛の情をあらわす1文だった。多喜二はなぜそれを消したのだろうか。私には、多喜二が、最も志賀に伝えたいメッセージだからこそ、あえてそれを消したように思われた。志賀に迷惑がかかることを恐れ、それまで獄中から書簡を出さずにいた多喜二は、この書簡においてもほとばしる感情を抑制しようとしている。
心の中の言葉まで権力に踏み込まれる多喜二の孤独と、まっすぐに届けたい大切な言葉であるから獄中書簡には書かないという抵抗、そして、消した痕跡こそを志賀にくんでほしいという多喜二の願いを、私はこの獄中書簡にみたように思った。(「同盟サイト」より)
●2008.12.5・「しんぶん赤旗」→「『蟹工船』に思わず拍手」福岡・行橋、かえるネット見て語る会開く
戦前の共産党員作家・小林多喜二の小説の同名映画「蟹工船」を見て語り合う会が11月30日、福岡県行橋市で開かれました。昼夜2回の上映にあわせて65人が参加しました。主催は日本をかえるネットワーク京築。
かえるネット京築は10月に行われた全国と福岡県の青年雇用集会や「青年おしごとアンケート」に取り組む中で『蟹工船』が描く世界が今の若い人の働く状況と同じであり、映画を見て労働状況をみんなで考えようということになり、準備をすすめてきました。
映画のあと、かえるネットの活動報告があり、山川花子さん(仮名)はアンケートに「給料が安い。ボーナスや有休もなく将来が不安」「工場で派遣として働いているが正社員と同じ仕事をしても評価されない」などの声が寄せられていることを紹介し「ひどい労働状況を変えていきたいというみんなの思いを集めて社会を変える力にしたい」と話しました。
夜の部には田村貴昭衆院比例候補もかけつけ、参加者と交流しました。
映画には「会社が法律という理不尽さが今と共通する」(アルバイトの37歳の女性)「労働者が立ち上がった場面では思わず拍手を送りたくなった」(60代男性)「私は派遣社員です。派遣だけど一生懸命がんばります」などの感想が寄せられました。(「同盟サイト」より)
●2008.11.26・「しんぶん赤旗」→『蟹工船』と「戦艦ポチョムキン」・山田和夫、「時空こえ、響き合う2作、「幻の名画」に思い馳せた多喜二」
小林多喜二原作の映画化『蟹工船』(1953年)が再上映されている。むろん爆発的ブームを続ける原作の波及効果。その機会に映画化作品を見た何人かの友人から「『戦艦ポチョムキン』そっくりね」と同じ感想を聞かされた。
いうまでもなく1905年の第1次ロシア革命の挿話を映画化したセルゲイ・エイゼンシュテインの名作映画(1925年)との比較だが、1933年に官憲によって虐殺された多喜二は、この名作映画を見ていない。日本には1926年に1度横浜税関にまで到着しながら、当時の天皇制映画検閲によって輸入そのものを禁止され、ソビエト本国に送り返された。
戦後は米占領軍による一方的な外国映画の輸入統制で、1959年2月の非劇場自主上映開始まで「戦艦ポチョムキン」は幻の名画のまま。1953年に俳優の山村聡が第1回監督作品として、自分の独立プロで『蟹工船』の映画化に成功したときも、製作スタッフはだれもこの名画を見る機会はなかった。
見たいと切望
にもかかわらず『蟹工船』がフランスで公開されたとき、共産党員の世界的映画史家ジョルジュ・サドゥールも「この映画は『戦艦ポチョムキン』に酷似しており、エイゼンシュテインの技法に大きな影響を受けている」と書いた『映画辞典』(The Dictionary of Films(1964年)。
多喜二自身、たしかにこの名画を見ることが出来なかったが「戦艦ポチョムキン」についてはかなりくわしく知っていて、あこがれの名画としてぜひ見たい、日本映画にもこのような作品をと切望していた。
1927年11月21日、小樽市中央座で上演された築地小劇場の演劇、ドイツのプロレタリア作家ゲーリング作『海戦』を見て「自分は幕が下りた時、興奮したまま『戦闘艦ポチョムキン』を考えていた。その2つの間に、しかし厳然として存在している大きな画線について考えた」と書き「築地の『海戦』もう少しだ)」と見出しをつけている「『海戦』を中心の雑談」、『シネマ』誌1982年新年特輯号)。対象となった『海戦』が反戦劇であること以上、筆者は知らないが、多喜二は明らかに「戦艦ポチョムキン」の一貫した革命性とくらべ「もう少しだ」と指摘している。
そして多喜二が『蟹工船』を書いた1929年末、札幌松竹座が新築開場したときの「松竹座パンフレット」第一集に「我等の観点から1930年以後の松竹映画に望む事」のアンケートに答え、当時の日本映画が人気小説の映画化に夢中になっている状況を批判「『不壊の白珠』の代りにゴールキーの『母』であったらどうだろう。『斬人斬馬剣』の代りに『戦闘艦ポチョムキン』ならどうだろう」と書いて、さらに「何も外国に例をとらなくても」と尊敬する葉山嘉樹の『海に生くる人々』と並んで自分の『蟹工船』『不在地主』の名前を挙げている。『斬人斬馬剣』は多喜二が期待する伊藤大輔監督が時代劇の形を借りて反権力のテーマを試みた力作だ。
さらに1927年9月号の『キネマ旬報』誌に「最近のソビエト映画界」と題するレポートが掲載された。このレポートはモスクワ滞在中の蔵原惟人によるもので、現地で見た「戦艦ポチョムキン」を詳細に論じている。蔵原はすでにプロレタリア文化運動の指導者の1人であり、多喜二の文学上の師である。小樽映画鑑賞会の積極的な活動家であり、数多くの映画論も執筆している多喜二が、蔵原の「戦艦ポチョムキン」論を読まなかったはずはない。多喜二がこの名作を「戦闘艦ポチョムキン」と表記しているのも、蔵原論文にならったと思われる。
蔵原はエイゼンシュテインがアメリカ映画のスター中心主義を排除していることを指摘、「この映画からあえて主人公を求めれば、それは帝政の軛に圧せられながら、それでも何等かの出口を見出そうとしている『大衆』である」と書く。多喜二が『蟹工船』を書きつつ、まだ見ぬ「幻の名画」に思いを馳せたとすれば、たとえばこの言葉に響き合ったに違いない。映画化スタッフも原作のなかで同じ共鳴を感じ取ったであろう。ただ今回改めて原作を読み直し、映画を見直して考えさせられたのは、原作と違うラストのあり方である。
ラストの改変
原作ではストライキを決行した漁夫たちの指導者らが水兵に連行され、ストは敗北するが映画では漁夫たちは水兵に抵抗して虐殺される。映画化当時(1953年)、日本は自衛隊創設へ向かう「再軍備」反対闘争が盛り上がっていたので、日本軍隊の反国民的な性格を強調したかったが故の改変であろう。
しかし「戦艦ポチョムキン」は1905年革命が敗北に終わったが、ロシアの民衆はまさに「もう一度!」立ち上がって1917年の革命に勝利した史実の予兆として、反乱の勝利で映画をしめくくった。多喜二の『蟹工船』は多くの新しい読者を奮起させた本文の末尾「そして、彼等は、立ち上った。もう一度!」で結び、さらに「付記」として漁夫たちの2度目の闘争の勝利を簡潔に伝える。原作のこのラストは多喜二の文学的才能を示すあざやかさである。
多喜二の『蟹工船』とその映画化作品、そして時空を超えて響き合う「戦艦ポチョムキン」―この歴史的共鳴をさぐり考える作業はなお進行中。12月4日、東京で行われる活弁つき「戦艦ポチョムキン」上映も、その1つである。(やまだかずお=映画評論家) 「戦艦ポチョムキン」メイド・イン・ジャパン=12月4日午後4時から、東京・江戸東京博物館ホール(JR両国駅)。第1部▽シンポジウム「エイゼンシュテインとロシア映画100年」、ゲスト・ウラジミール・ドミトリエフロシア国立映画保存所第一副所長)、司会・山田和夫エイゼンシュテイン・シネクラブ〈日本代表)、第2部▽活弁・伴奏付き「戦艦ポチョムキン」上映。活動弁士・澤登翠、ピアノ伴奏・柳下美恵、当日券2500円。問い合わせはエイゼンシュテイン・シネクラブ電話=080(5462)2389井上(「同盟サイト」より)
●2008.11.22・「しんぶん赤旗」→映画「蟹工船」上映、貧困語る・夕べに800人。くまもと九条の会
「くまもと九条の会」四周年を記念して20日夜、熊本市民会館で講演と映画の夕べが開かれ、約800人が参加しました。小林多喜二の『蟹工船』の映画上映と、反貧困ネットワークの湯浅誠事務局長が講演しました。
「くまもと九条の会」の猪飼隆明代表は、航空自衛隊の田母神氏が先の戦争を美化した論文を批判「内容は陳腐だが、彼らを教育している人たちがいる。〝憲法を変えるべき〟を後ろめたさも感じないで主張できるのが怖いことだ。こうした勢力を九条の会が追い詰めないと、また、戦前と同じ道を歩むことになる」と挨拶しました。
湯浅氏は、アメリカ発金融危機の影響で景気悪化が日本にも及び、労働者と国民生活への犠牲転嫁として、雇い止め、派遣切りがはじまる状況を告発。自衛隊員勧誘が激化していることを示し「9条と25条をセットで語らないといけない」と訴えました。
参加者からは「わかりやすく、よかった」との声が多く寄せられました。 菊池市の保育士(58)は「若い人たちが多く見られたのに勇気づけられた」と語っていました。就職が内定しているという女子学生(23)は「テレビなどでは知っていたけど、貧困の実態がよくわかった。自分とは関係ない、人ごとと思ってはいけないと知った。それに9条と25条は一緒に考えないといけないと思った。これから、自分に何ができるかを考えたい」と話していました。(「同盟サイト」より)
●2008.11.18・「しんぶん赤旗」→「映画「蟹工船」試写会に100人」いわき
福島県いわき市のJAグリーンプラザいわきで15日、映画「蟹工船」の試写会が開かれました「蟹工船を見る会仮称)準備会」の主催で、約100人が観賞しました。
準備会は、来年2月21日の上映会実施をめざして実行委員会を立ち上げる予定です。準備会を代表して挨拶をした渡辺藤一・治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟いわき支部長は「来年の上映会を成功させたい」と参加者に協力を呼びかけました。(「同盟サイト」より)
●2008.11.7・「しんぶん赤旗」→映画「蟹工船」上映の新潟シネ・ウインド、齋藤正行代表に聞く。
映画を通し議論の場に
新潟市中央区の市民映画館「シネ・ウインド」で、8日から始まる23周年映画祭のメーン企画に小林多喜二原作の『蟹工船』(山村聡監督)が上映(21日まで)されます。同館の齋藤正行代表に話を聞きました。(村上雲雄) ―なぜ『蟹工船』が上映されることになったのですか。
直接的には、夏ごろから会員から多くの要望があったことです。派遣労働やワーキングプアがまん延している中、貧困と格差の問題を考えるタイムリーな映画だと思いました。当館では、6月に「靖国」を上映しましたが、右翼の妨害も懸念される中、何事もなく上映することができました。よい映画や話題性のある映画はもちろん、ときにはまったく逆の主張の作品も市民に見てもらい、そのときどきの問題を考え、議論する場を提供するという当館のスタンスが理解されているのだと思います。
―23周年祭の内容は何がテーマですか。
23周年祭では、コミュニティーがテーマです。メーンの『蟹工船』をはじめ「コドモのコドモ」の先行上映会&監督トーク「ツヒノスミカ」「船、山にのぼる」などの上映、長岡市出身の落語家・入船亭扇辰の独演会、パントマイムも企画し、コミュニティーを考えます。
―シネ・ウインドが目指していることはどんなことですか。
当館は、23年前に私が呼びかけて、映画・演劇・文学を愛する市民が集まり、出資して建設されました。大きな特徴は、会員が活動を担っていることです。地元企業の経営する映画館がほとんどなくなり、県外の大手資本が主流になっている中、地域に根ざしながら昔からある映画文化を継続し、発展させたいと思っています。
昔のように、お菓子屋や本屋、レコード屋、喫茶店がある街で人々が、23周年祭でのテーマであるコミュニティーを深め、自由な雰囲気で地域の文化をはぐくんでいく、ネットワークや互助の精神で元気になってもらう、そんなイメージを抱いています。<問い合わせは、シネ・ウインド025(243)5530。(「同盟サイト」より)
●2008.11.4・「しんぶん赤旗」→朝の風・映画「蟹工船」の結末
社会現象化している小林多喜二の「蟹工船」ブームとあわせて、映画「蟹工船」の再上映がすすんでいる。
この映画は、山村聰氏の第1回監督作品として1953年に製作された。この映画をつくるにあたっては、コミュニストでない山村氏にとって俳優として監督として誤解を受けるのではないか、当時とは違って『蟹工船』には芸術的価値はないなどの反対論があったという。
多喜二・百合子研究会の機関誌『多喜二と百合子』(№1-1954年)をひもとくと、蔵原惟人(評論家)、山田典吾(映画「蟹工船」(製作者)、壺井繁治(詩人)、間宮茂輔(作家)による「映画〝蟹工船〟をめぐって」という座談会が企画されていて興味深い。
原作と映画の決定的違いは、結末である。映画を見ていない人のために紹介は避けるが、公開当時から議論があったようだ。
この座談会でも山田氏が原作の付記をどう生かすかで監督と論争したこと、その上で戦争反対、再軍備反対という太い線で貫きたいという監督の意向によって結末を変えたことを紹介している。
蔵原氏が「不成功だとはおもわない」といいながら、歴史的・芸術的真実からいってどうなのかという問題を提起しているのも考えさせる。(聳)(「同盟サイト」より)
●2008.10.24・「しんぶん赤旗」→「『蟹工船』流行の背景は・澤田さん迎え講演会」熊本
戦前の共産党員作家・小林多喜二の小説『蟹工船』がベストセラーになるブームをどう見たらいいのか―。文芸評論家の澤田章子さんを迎えて「小林多喜二『蟹工船』が今、呼びかけるもの」と題する講演会が22日、熊本市民会館で開かれ、約200人が参加しました。主催は日本民主主義文学会熊本支部などでつくる「呼びかけ人会」。
林敦世話人代表の挨拶の後、シャンソン歌手でもある高杉稔さんが『蟹工船』の一節を朗読しました。
澤田さんは、講演のなかで、どんな小さな町の本屋にも『蟹工船』の本が平積みされているなどブームが本物であることを紹介。ネットなどに寄せられる感想に「80年前の労働の実態を今の青年が自分たちと重ね合わせて読んでいる」として、「本の中で〝殺される〟という表現がよく出てくるが、私もそう思う」「団結できるのは素晴らしい。今は一人ひとりがバラバラにされている」などと書かれていることを紹介「文字離れがいわれていますが、若者は読んでいいものはいいと感じることができるなど、感覚的にすぐれたものを持っている。いっしょにいい世の中をつくっていきたい」と語りました。(「同盟サイト」より)
●2008.10.22・「しんぶん赤旗」→ひと「小林多喜二の母・セキのひとり語りを演じる田中ケイ子さん(65)」
「ほれ 多喜二もう一度 立ってみせねかー みんなのために、もう一度立ってみせねかーっ」。絞り出すような声。そこによみがえったのは作家・小林多喜二の死に直面した母・セキ。迫力ある演技に、場は静まりかえります。
当時の時代背景や、思いを交えての語り。見た人、聴いた人の心をゆさぶります。泣きながら駆け寄ってきて「小学3年の時、多喜二の本を持っていた担任の先生が、授業中に警察に連行された理由が今、分かりました」と言った人もいました。
始めたのは10年前。日本共産党の素晴らしさを自分の言葉で語り広げたいとの思いから。高校時代の演劇部活動が役立ちました。台本は、友人の協力を得ながら、さまざまな文献や資料を集めて作成。当初、40分間だった台本は、声援に押され、50分間に〝成長〟しました。週三日、機械工場に勤務し、練習は日光市の自宅。風呂や布団の中で「モゴモゴ」と。夫が「多喜二の無念さを思うと胸が痛む。おれの前では練習しないで」と嘆願したからです。
『蟹工船』ブームもあり栃木県内の党や団体などの催しに呼ばれます「75年前、プロレタリア作家、多喜二が29歳の若さで虐殺されました。愚痴ば聞いてもらいたくて、やってまいりました」。2人の息子への思いを重ね合わせて演じます。結びは「憲法九条を守るために力を合わせましょう」。(文=団原敬)(「同盟サイト」より)
●2008.10.19・「しんぶん赤旗」→発言、私の選択・『蟹工船』エッセーコンテスト大賞受賞者山口さなえさん「多喜二の時経て私が在る」 真っ暗な海を漂うクラゲか、空の雲…。集まるのも離れるのも自分の意思ではなく、孤独の日々を漂っている―いまの若者の苦しさはそういう感じです。
私も美大卒業後、いろんな会社を受けて、落ちて「どこでもいいから」と10カ月後に、やっと経理の仕事で正社員になりました。
母の看病があるため「残業はない」ということで入ったのに、まったく違い、しかも残業代がつかない。同僚はどんどんやめていきました。
・労基法の衝撃
入社後、10カ月たったころです。取引先に不利になる経理を断ったら、即日解雇され、ショックでした。
法律も何も知らなかったんですが、腹が立ったし、困ったので、必死の覚悟で地域の労組に相談に行き、力になってもらえず、結局、労働局のあっせん制度でたたかい、3カ月後に解決できました。
あっせん委員に「こんな話はざらにある。あきらめなさい」と言われないか心配でした。解決するまで、権利が認められるか不安でしたが、法律はちゃんと機能してたんです。
それまで社会に興味がなくて、新聞も読まなかったし、世の中は不正が通るものだと感じていました。自分の存在価値にも不安を感じていました「連帯」とかいわれても「それが通用してたら、こんな社会じゃないよ」と。
争議も初めは、自分の利己心でやるんだし、その点では自分も会社と同じようなものだと思っていました。
私が変わったのは、労働基準法を知ったことからです。衝撃でした。「こんなすごい法律があったのか」と。そして自分が、その法律をたてに会社に勝つことができた―。戦前や戦後の労働運動や私の経験したようなたたかいがあって、法律が生きたものになっていることを学び、自分の争議も社会につながり、貢献しているんだと分かった「自分が存在してよかった」とまともに肯定できました。
・共産党伸びて
秋葉原の無差別殺傷事件は「身勝手な犯行」といわれます。身勝手って、自分の利益だけ考えることですね。でも彼は、他人だけでなく自分も大切にしていない。
『蟹工船』の労働者がうらやましく思えるほど、いまの若者はバラバラにされています。でも、多喜二の時代にはなかった国民主権という武器もある。
去年の参院選で民主党が勝った後、若者を痛めつけてきた「小泉改革」が止まった感じがして、民主党に期待したところがあったんです。そしたら「大連立」騒動が起きて、度肝を抜かれました。
いま、政治への最大の願いは労働者派遣法の抜本改正です。民主党の改正案は自民党とたいして変わらないので、今度の選挙で民主党が勝ってもだめ。大企業に真っ向からものをいう共産党が伸びてほしいと思っています。(聞き手=西沢亨子、写真=山形将史)(やまぐちさなえ=小林多喜二「蟹工船」エッセーコンテスト(小樽商科大学・白樺文学館共催)大賞受賞。1982年、兵庫県生まれ。26歳。現在、労働組合書記)(「同盟サイト」より)
●2008.10.10・「しんぶん赤旗」→「蟹工船」上映とトークに390人「巧妙な搾取を告発」静岡
「尊厳ズタボロ」「人ごとでない」

「現代の『蟹工船』、私たちの仲間がここにいる」トークと「蟹工船」上映が5、6両日、静岡市で行われ、それぞれ250人、140人が参加しました。県労働者学習協会、静岡地区労連主催。
トークでは、県労協の青池則男さん静岡市労連)と、小林多喜二『蟹工船』エッセーコンテストに入賞した狗又ユミカさんが対談しました。
狗又さんは「私たちは『蟹工船』に乗っているよう」と話し、自身が11年間、派遣やパートで働き、11回職場が変わった体験を紹介「要らなくなると『他の派遣会社のほうが料金が安いから』と〝衣替え〟でもするかのように首を切られ、尊厳をズタボロにされた」と証言。解雇のたびに労基署に相談しても相手にされず「政府は企業を守っても労働者を守らない。味方だと思ったら敵だった。『蟹工船』に出てくる駆逐艦と同じ」とのべました。
青池さんは、県内の「日雇い派遣」の青年実態を紹介。低賃金で手当や交通費はなく、カラオケ割引やローンあっせんなどのみで福利厚生もない無権利状態を告発しました。
狗又さんは『蟹工船』のころと現代とを比べ「搾取が巧妙になっている。『自己責任論』で会社への怒りを自分に向けさせて能力がないと思わせたり、リストカットさせる」。分断された労働者が泣き寝入りせず、労組に加入ないし組織して団結してたたかい、世論を起こしていくことをよびかけました。
「ネットで話題になり『蟹工船』を読んだ」という男性(40)は「3年前まで非正規でした。正社員と同じ仕事なのに、賃金や社会保険が違い、いつ首を切られるか不安でした。『蟹工船』の話は決して人ごとではありません」と話しました。(「同盟サイト」より)
●2008.10.8・「しんぶん赤旗」→『蟹工船』―今に重なるものは…上映会盛況観賞者の思い「福岡・過去の話ではない、那覇・労働者の団結大事」
共産党員作家・小林多喜二の小説を同名映画化した『蟹工船』の上映会が3日、福岡と那覇両市で開かれ、どちらも盛況でした。無権利で過酷な非正規雇用が若者に広がるなか、観賞した人たちは、昭和初期の労働実態を描いた『蟹工船』の何をいまに重ね合わせたのか。感想を聞きました。
福岡/過去の話ではない
福岡市中央市民センターで開かれた「蟹工船」上映会は、昼夜二回の上映に会場いっぱいの計九百人が参加しました。主催は日本共産党福岡中央南地区委員会などでつくる上映実行委員会『蟹工船』ブームの中、当日券が280枚も売れました。
上映前に日本共産党の小林とき子(衆院比例候補福岡2区重複)が実行委員長挨拶「『蟹工船』の過酷な労働は過去の話ではなくいまにも十分通じる内容だと思います。政治が働くルールを壊し、貧困と格差を広げてきました。今度の総選挙で政治の力で働くルールを取り戻したい」と話しました。
上映後「しんぶん赤旗」の折り込みを見て参加したという会社員の男性(38)は「底辺で働く人たちがしいたげられるのは今と同じ。働くルールを取り戻そうという共産党の考えに接すれば共感する派遣やフリーターの人はいっぱいいると思う」といいます。
話題が共産党になると「個人的には共産党に党名を変えてほしい」というその男性。日本共産党は戦前から侵略戦争に反対し、民主主義を求めてたたかい、原作者の小林多喜二は拷問で虐殺されたと聞くと「党名にプライドがあるんですね」と話しました。
転職前は給料12万円、3年間で2日しか休みがなかったという南区の男性(31)は「法律なんか関係なく『監督』が労働者をこき使うのは今と似ている。『蟹工船』が売れるのは生活が立ち行かなくなっている今の時代の反映だと思う」と話しました。
那覇/労働者の団結大事
那覇市で開かれた上映会は、昼夜2回で計470人が観賞しました。当日の上映直後、実行委員会は小説『蟹工船』のある個所を朗読しました。
「そして、彼等は、立ち上がった。――もう一度!」
上映実行委員の小松直幸さん(30)は「自分たちが特に感銘を受け、まぶしいとさえ思い、勇気をもらった部分。参加した人に、どうしても(この感動を)伝えたかった」と朗読した思いを語ります。
観賞後、那覇市の男性(56)は「あれ(朗読)がないと中途半端なままだった。やはり労働者の団結が大事だと思った」と話します。
『蟹工船』ブームについて、「貧困と格差の広がりが大きな背景になっていると思う。いまの政治そのものの反映だ」と語りました。
「いま求職中で、とてもつらい状態です。当時の人たちの気持ちをわかりたいと思って…」。そう話すのは、市の広報で上映会を知り、ぶらりと来たと話す35歳の女性=那覇市=です「昔も今も何も変わっていない」と感想を語りました。 「現代は殺されることまではないけど、会社から精神的に追い詰められ、つぶされていくのは同じです。いまの政治は本当に許せないと思う。人間を使い捨てにして、税金も)とるだけとって…」。当時と何も変わっていない社会状況に憤ります「やっぱりモノを言い続けることでしか社会は変えることはできない、と思いました」
新聞の案内を見て来たという36歳の男性は、感想文に「苦難の歴史をへて勝ち取った労働基準法。みんなが意識しなければ労働環境は良くならない」と書きました。(「同盟サイト」より)
●2008.10.8・「しんぶん赤旗」→『蟹工船』は新たな連帯の機軸「東北初の文学カフェ開催」盛岡で民主文学会
日本民主主義文学会は4日、盛岡市の岩手県公会堂で「若い世代の文学カフェin盛岡」を開きました。岩手や青森、宮城などから約30人が参加しました。
東北地方での「文学カフェ」開催は初めて。作家の旭爪あかね、燈山文久両氏が司会を務め、いま再び脚光を浴びている小林多喜二の『蟹工船』が問いかけるものは何かをテーマに、語り合いました。
同会常任幹事で作家の浅尾大輔氏が「現代の『蟹工船』と立ち上がる青年労働者」と題して講演。青年の二2人に1人が非正規雇用の実態を語り「自民党政治が青年の生存や誇り、未来を破壊してきた」と分析。思想・信条を乗り越えた新しい連帯を実現するために、その可能性の中心に『蟹工船』があると述べました。
青森県の同会弘前支部に所属する作家・三浦協子氏は、自身の創作体験から「書いて考えて行動する力」について講演し、「現実に体感したことを作品に生かすことが大切。自分を客観視することで書くことが生まれる」と語りました。
同会盛岡支部所属で、日本共産党の衆院岩手1区候補の吉田恭子氏(27)=筆名・河内こう=が「若い人が正規職に就けない現状を変えるため、頑張りたい」と挨拶しました。
岩手で青年運動に取り組む八幡志乃さん(25)は「いま社会を変える活動をしているのは、生きる意味を見いだすためだとこの集会で思い返せた」と感想を話しました。(「同盟サイト」より)
●2008.10.8・「しんぶん赤旗」→朝の風/『蟹工船』、時代を超えた共感
『蟹工船』ブームに関連して、最近ではその火付け役を論ずるものまで現れている。ここまでくると『蟹工船』ブームのとらえ方という面でも首を傾げさせる。そんな中で「朝日」5日付文化欄、作家の帚木蓬生の言葉が真っ当に思える。
「小林多喜二が読まれているのは現代作家の怠慢。読んだ人の人生が変わるくらいの小説を書かないと、作家の存在意義はない」
帚木は作品『蟹工船』に「読んだ人の人生が変わるくらいの」力量を率直に認め、そうした作品が見られない現状にこそブームの根拠を読み取っているのである。そう言えば、戦前も『蟹工船』は同じ読まれ方をしていた。その意味で『蟹工船』ブームは今に始まったものでないことが分かる。経済学者の故都留重人が若き日に作品に出合った時の回想を見てみよう。
「『一九二八・三・十五』や『蟹工船』は、単に私の眼をそれまで未知の現実にたいしてひらいてくれただけでなく、文学そのものにたいする私の態度までも変えてしまった。」「文学と私」(1953年8月)都留はこの後学生運動に加わり、捕まる。時代に挑んでその先端をリアルに切り取ってきた文学が、時代を超えて共感をもたらすのは何とも壮観である。(乾)(「同盟サイト」より)
●2008.10.3・「しんぶん赤旗」→「東京の多喜二祭の報告集完成・不破さんの講演も収録」
今年2月に東京で開かれた第20回杉並・中野・渋谷多喜二祭のすべてを収めたDVDと報告集が完成しました写真)。どちらも日本共産党の不破哲三さんの記念講演を収録しています。
DVDではオープニングのコーラス、鈴木瑞穂氏の『蟹工船』朗読、村上弦一郎氏のピアノ演奏も視聴できます。ほかに能島龍三、吉開那津子両氏の挨拶など。
報告集とDVDあわせて1000円。送料無料。申し込みは実行委員会電話=ファクス03(5382)3177高木方。(「同盟サイト」より)
●2008.10.3・「しんぶん赤旗」→多喜二を現代の視点で読む「オックスフォード国際シンポに参加して」尾西康充
これまで近代社会が無条件に是としてきた自由や正義という理想が、現代のグローバリゼーションのなかで人間を抑圧するための方便に転化させられている。
それは非正規雇用の増加やマネーゲームによる貧富の差の拡大を見ても、9・11事件以後のテロ予防を大義名分とした戦争と人種・宗教差別を見ても分かる。 グローバリゼーションがもたらすさまざまな弊害を視野に入れ、現代の視点から多喜二の文学を読みなおすという試みがこのたびイギリスでおこなわれた。
国際学会「小林多喜二記念シンポジウム」は9月16日から3日間の日程で、イギリスのオックスフォード大学キーブルカレッジで開催された。同大学のリンダ・フローレス氏とヘザー・ボーウェン=ストライク氏(アメリカ・ロヨラ大学)、島村輝氏(女子美術大学)が中心になって企画を立案し、多喜二ゆかりの小樽商科大学と白樺文学館の後援を受けて実現した。
・8つの分科会で
プログラムは、ベラ・マッキー氏オーストラリア・メルボルン大学)の基調講演に加えて「女性―身体とメディア」「身体と権力」「地域と植民地主義」「モダニズムとリアリズム、大衆文学」「群衆と闘争」「植民地時代のKorea」「労働と教育に関する諸問題」「多喜二と映画」という全8分科会が開かれた。日英米はもとより中国、韓国、カナダ、オーストラリア、ノルウェー、ポーランドの研究者60余人が出席した。多喜二の文学を多角的にとらえ返そうとする試みがなされ、新聞雑誌はもとより映画やアニメーションにまで対象を広げて、多喜二の文学および彼が生きた時代のプロレタリア文化運動が検討された。
本学会の特色は、海外の女性研究者が女性に対する暴力を告発するという観点から、性を商品化する「酌婦(売春婦)」の生活を描いた多喜二の初期作品に注目していたことである。フローレス氏は、多喜二が『安子』という小説を通じて「ジェンダーが階級化され、階級がジェンダー化される方法をうまく証明してみせた」と論じた。曖昧屋の酌婦は当時、男性から性的に劣位におかれるだけでなく、不当な雇用形態のために自己の体を収奪し尽くされていたのである。
これに対して小森陽一氏東京大学)は、この問題は単に資本主義を分析して済まされるものではなく、男系優先や、朕と臣の主従関係など)天皇制にはらまれた根本的な差別の構造を考える必要があると発言した。
・日米で授業実践
また日米の女性研究者からは、多喜二の小説をテキストにして読んだという授業実践の報告がおこなわれた。生徒と『蟹工船』を読んだ岡村洋子氏鈴鹿中学高等学校)は、多喜二が描き出した暴力こそが歴史の本質であり、これに向き合う力をつけさせことが教育の役割であると論じた。
他方、荻野富士夫氏小樽商科大学)は多喜二を拷問死させた「軍事的=警察的反動支配」の構造を解明したうえで、世田谷ビラ不当弾圧事件に象徴されるように、現代の日本社会も多喜二が生きていた「満州事変前夜」と同じ状況にあるという警告を発した。
『蟹工船』は「そして彼等は、立ち上った。―もう一度!」という言葉で終わる。社会の矛盾が噴出する今の時代、国内外を問わず、危機感を共有する人間が連帯して行動することこそ、多喜二が遺したメッセージに応える正しい方法である。(おにしやすみつ=三重大学教授、日本近代文学)(「同盟サイト」より)
●2008.10.1・「しんぶん赤旗」→俳壇/話題の『蟹工船』
文学の森『俳句界』9月号は「小林多喜二の隠れ宿」という矢島康吉氏「朴の花」編集長)のエッセーを掲載している。
「2008年5月になると、『蟹工船』の報道はピークに達し、新聞、週刊誌、テレビでは、みのもんたの「朝ズバ」でも取り上げた」―「上野駅構内の書店に行ってみた。入口に新潮文庫の『蟹工船・党生活者』が、山のように積まれていた。週に80冊売れて、この店の文庫売上げベスト3に入っていた」と紹介。そしてその背景として『蟹工船』のマンガ化、その広告が赤旗日曜版と朝日新聞に載ったこと、『蟹工船』の読書エッセーコンテストに多くの応募があったことを指摘。またその感想に「フリーターや派遣労働者は、『蟹工船』は遠い過去の話ではなく、状況は今も生きているのではないか」と述べられていたと矢島氏は続ける。まさにである。
今日の新しい「貧困と格差」の結果であることは間違いない。
矢島氏は「多喜二は、日本共産党への資金援助と、『蟹工船』の最後の方で、『献上品』の蟹缶に『石ころでも入れておけ!――かまうもんか!』という5、6行の文章で不敬罪の追起訴を受け」1930年に収監され、1931年保釈出獄。神奈川県七沢温泉の福元館に1カ月逗留し、『オルグ』を書きあげたと紹介。氏もこの福元館を訪ね多喜二を偲んだと一句を添えている。
小鳥来る小林多喜二の隠れ家に 康吉
『蟹工船』はいま大きなブームとなっているが、俳人の中でも話題が広がっている。
新俳句人連盟の『俳句人』9月号では、多喜二や『蟹工船』を詠った句が増えている。
青年眩し『蟹工船』の漫画本 後藤蕉村
読み返す『蟹工船』や街薄暑 秩父豊仙
等時宜に適している。 大いに現代の『蟹工船』であるひどい「貧困と格差」を告発すべきではなかろうか。(千曲山人・俳人)(「同盟サイト」より)
●2008.9.23・「しんぶん赤旗」→「小林多喜二と手塚英孝・新装版『小林多喜二』刊行を喜ぶ」土井大助
弾圧と戦禍の無二の盟友・戦後の全集編さんが今に生きる
小林多喜二虐殺の直後、彼より3歳若くなお地下活動中の手塚英孝が「一労働者」名で、『大衆の友』多喜二記念号外1933・3・1に寄せた「同志小林多喜二を憶う」はこう書き出されている。
「同志小林は、実に断乎とした撓むことを知らぬ、溢るるばかりの戦闘的熱意とを持った真にボルシェビーキー典型だった。/私が彼に初めて会ったのは1年許り前である。実を云うと私はこの勝れた人物を想像して何か堂々とした紳士(?)を思い浮べていたのであるが、会ってみると彼は丸切り予想とは違った小男だった。私は初めは人違いではないかと思ったが、直ぐその事を話して大笑いをした」
当時26歳の手塚さんは、1931年4月『ナップ』に処女作「虱」を発表してプロレタリア文学運動に参加、多喜二最晩年の懸命の活動をともにしていた。この追悼文は「同志小林は既に居らぬ。併し彼の偉業、彼の流した血は、幾千万の労働者、農民の血潮となり、プロレタリアの旗になるであろう。」と結ばれている。
禁書・資料散逸困難のなか献身
戦中、多喜二の文学はすべて禁書。資料も散逸を免れず、関係物故者もあいついだ。手塚さんが「小林多喜二の編纂に専心することになった」のは、敗戦翌年の8月ころ、宮本百合子に全集の仕事をうけもつようにいわれてからだ、という「小林多喜二は、ふかく心にきざまれている私には師友のようななつかしい間柄だった。長年の弾圧と戦禍の直後ではあったし、容易なことではないとは思ったが、数年間、私はこの仕事に心身をうちこもうと決心した。そのときには、その後半生の仕事になろうとは思いもしなかった」(「二人のお母さん」)。こうして、各地を回っての資料収集・整理・照合から編集・刊行まで、実務とその指導に手塚さんは献身し、多喜二全著作の復元を果たした。加えて綿密な評伝「小林多喜二」の執筆。手塚英孝なしに、今日の『蟹工船』ブームはありえなかっただろう。
新資料の発見、新事実の発掘があれば、その確認と伝記の改訂も喜んで重ねた。作品でも『蟹工船』の原稿全編(10章中4章まで)発見のとき、たまたまぼくは赤旗文化部記者として、それが全集刊行委員会の壷井繁治宅に届けられるときき、提供者に取材した。原稿の筆跡鑑定は、数多いノート稿まで幾度も通読してきた手塚さんの確認によった。結果多喜二直筆と確認され、定本全集のその巻は原稿通り改訂のうえ刊行されたのである。
評伝でも『党生活者』のモデル工場名、奈良の志賀直哉訪問の時期「オルグ」執筆の温泉宿の地名など、新日本新書版中で誤記とされた部分はその都度厳密に補訂された。
学習と社会活動「ぼくの北極星」
「『定本・小林多喜二全集』発刊にあたって」、手塚さんはこう書いた「弾圧と、戦争による荒廃の二重の困難をうけながら、戦後、全集編纂の事業がうけつがれた。資料集成の仕事をつうじて、なによりもつよく感銘をうけたことは、小林多喜二の業績にたいする日本人民の支持と共感がいかに深く、根づよいものであるかということであった」と。そういう気運の後押しがあったからこそ、数年どころか81年末、急逝されるまでの30数年、多喜二全集編纂と評伝「小林多喜二」執筆・補訂に精魂を傾けられたのである。
珠玉の短編を遺しつつ寡作の人と惜しまれた手塚英孝は、無二の盟友の評伝を、生き残ったわが仕事として引き受け、文学史上稀有の伝記文学を成立させた作家である。とりわけ、巻末の「回想」は1編の実話小説とも読める。そこには当時の青年革命家たちの不屈な奮闘ぶり、元気で陽気に互いを愛称で呼びあう若々しい人間関係が活写されている。
遅まきでなお初歩的なぼくの多喜二研究は、手塚さんから直接頂戴した新書判『小林多喜二(上下)』に徹頭徹尾依拠しつつ今日に至った。その本はぼろぼろに傷んでいるが、手放せない。評伝『小林多喜二』は、ぼくの多喜二学習と社会活動の「北極星」である。その新装版の刊行は嬉しい限りである。(どいだいすけ=詩人)(「同盟サイト」より)
●2008.9.14・「しんぶん赤旗」→芸能テレビ・『蟹工船』が話題「映画で見る〝多喜二〟
小説『蟹工船』が、海外のメディアも注目するほど広く読まれているなか、映画「蟹工船」にも関心が高まっています。作者・小林多喜二の生涯を伝える映画も各地で上映されています。いずれも見ごたえのあるものです。
北洋で蟹を捕獲し加工する漁船で、奴隷扱いに怒った漁夫らがストライキに立ち上がった―。この事実を綿密に調査し、多喜二が書いた小説『蟹工船』は、1929年に発表されました。
映画「蟹工船」製作・現代ぷろ)は、俳優の山村聡が、小説を大胆に脚色し、監督。映画の独立プロ運動が盛んな時期、53年の作品です。
生活の困窮のため、蟹工船に乗り、漁夫や雑夫として働く者たちと、彼らを支配する鬼のような監督浅川。過酷な労働、仲間の死。非人間的な待遇に耐えかねてついに決起のときが。しかし、帝国海軍の軍艦が来て…。
虐げられる者と支配する者との対比が鮮烈です。モノクロ映像、伊福部昭の音楽で昭和初年の雰囲気をかもし出します。出演=森雅之、山村聡、日高澄子、中原早苗、河野秋武ほか。109分。
多喜二は、『蟹工船』発表の前年、28年に、『一九二八年三月十五日』で作家デビュー。天皇制政府の日本共産党への大弾圧を暴き、一躍注目されました。1931年10月に日本共産党に入り、翌春、弾圧を逃れて地下生活に。1933年2月20日、29歳で特高警察に虐殺されます。
そうした生涯は、厳しい地下生活をともにした作家の手塚英孝によって評伝『小林多喜二』に明らかにされています。著者は、多喜二についての「回想」で、快活で、仲間に愛され、真実に対して「ひたむきな献身的な努力」をした青年であったことを記しています。
今井正監督の映画「小林多喜二」多喜二プロ)は、そんな多喜二の「愉快で愛すべき」人間像を監督が知ったことが、大きなモチーフになってつくられたものです。
先の手塚著『小林多喜二』をもとに、脚本=勝山俊介で、1974年に製作。多喜二の生涯と、その作品世界を表すシーンとを俳優が演じて、丸ごとの多喜二を味わうユニークな成り立ちです。
横内正(語り)、山本圭、中野良子、北林谷栄ほか。119分。 ドキュメンタリー「時代(とき)を撃て・多喜二」は、池田博穂監督の2005年のデビュー作。88分。
多喜二の母セキの生映像や思い出を語る弟三吾などの貴重な映像や、田村高広、赤井英和ら多彩なインタビューで構成。
少女のころ、多喜二の隣家に住み、彼にもらった絵を持っていただけで官憲にひどい仕打ちをされたという女性が言います。多喜二を、あんな死ぬ目に遭わせた者でも罪にならないのか、と―。(「同盟サイト」より)
●2008.9.10・「しんぶん赤旗」→「プロレタリア文学魅力再発見」三浦光則。小林多喜二…徳永直…松田解子「五感フルに使ってゆかりの地を散歩」
小林多喜二の『蟹工船』が、ベストセラーになっているという。先日も、ある書店で、平積みになっている文庫本の『蟹工船』を見ていた初老の男性が、同行していた若い夫婦に「ヘェー、こんな本が売れているんだ」とびっくりしたように話しかけているのを目撃した。
若い読者に受ける理由
『蟹工船』が若い人の間でブームになっているのには、今日の若者のおかれている現実を反映していることが指摘されており、さらには書店の側の販売努力とマスコミでの取り上げということもあるのだろう。
しかしそれ以上に多喜二の作品そのものの魅力が、若い読者に受けている理由になっているといっていいのではないだろうか。最近発行された多喜二・百合子研究会の「会報」に、大田努氏が『蟹工船』の現代性について述べている。その中で、未組織労働者をとらえる視点が今日においてもなお斬新さを失っていないことを論じている点に、わたしは特に注目した。
 ところで徳永直の『太陽のない街』は、高校の文学史の教科書などで、プロレタリア文学の代表作の1つとしてとりあげられているが、この作品は1929年に発行された雑誌『戦旗』に『蟹工船』と同時に掲載された。作者も参加した共同印刷の大ストライキを描いたものである。多喜二や直の作品は、当時の高揚したプロレタリア文学運動を背景にして生まれたこともあらためて知る必要があるだろう。
前進座俳優作品を朗読
『蟹工船』だけでなく、多くの作品がこうした運動の中から生み出されている。また当時の文学運動が、その時代の直面する課題に正面から取り組んで、文学作品として描こうとしていたことにも驚かされる。
その1つとして、松田解子の三・一五事件と天皇の即位礼を背景に書かれた「乳を売る」という初期の作品も思い起こされる。
さて、9月からプロレタリア文学の舞台を歩く「民主文学・東京文学散歩」が企画されている。小林多喜二や徳永直、松田解子という3人の作家の東京でのゆかりの地をおとずれ、現地では関連する作品を前進座の俳優が朗読する。五感をフルに使って文学作品を味わおうというちょっとぜいたくな催しである。わたしはその案内役をおおせつかって今準備を進めているところである。(みうらみつのり=文芸評論家)  民主文学・東京文学散歩(全3回) 21日(日)小林多喜二=五反田、築地、麻布十番。10月19日(日)松田解子=中野。11月16日(日)徳永直=小石川。各回とも午前10時―午後3時。通し参加6000円、1回参加2500円。申し込み電話=03(5940)6335日本民主主義文学会(「同盟サイト」より)
●2008.9.10・「しんぶん赤旗」→「人間に対する深い愛と真理を求める心を学ぶ」伊勢崎で多喜二祭開く
1931年の「伊勢崎署占拠・多喜二奪還事件」の舞台となった群馬県伊勢崎市で7日、伊勢崎・多喜二祭が開かれ、会場いっぱいの230人が参加しました。首都圏はもちろん愛知、熊本から来た人もいました。 事件が起きたのは1931年9月6日。文芸講演会の講師として伊勢崎を訪れた小林多喜二らは、伊勢崎警察署に拘束されました。講演会場に集まった聴衆や県下の無産党の人たちは、多喜二らの釈放を求め警察署を占拠。交渉の末、1人の犠牲者も出さずに釈放を勝ち取りました。
多喜二祭では、3氏が講演しました。
「事件」の調査・研究を続けてきた多喜二研究家の蛎崎澄子さんは、当時の情勢にふれながら「事件」を解説「権力の思想弾圧に対して民衆の知恵と力と団結が見事に統一した、まれに見る民衆の勝利だった」とのべました。労働運動研究家の藤田廣登さんは、多喜二の生涯を振り返りながら「人間を励まし続ける多喜二の精神は戦後、日本国憲法で実現された。憲法を守る運動は多喜二の遺志を継ぐ重要な取り組み」だと強調しました。
弁護士の平山知子さんは、当時多喜二らとともに拘束された父、菊池邦作の生き方や、画家のいわさきちひろとのエピソードを交え「人間に対する深い愛と、真理を求める心が、日本共産党員としての2人の生き方を結びつけた。偶然にも父がその一端を担ったことに喜びを感じています」と語りました。
母親と参加した伊勢崎市の女性(32)は「『蟹工船』ブームの小林多喜二が、こんな身近にきていたのを知って驚きました。『蟹工船』もかならず読みます」と話していました。(「同盟サイト」より)
●2008.9.6・「しんぶん赤旗」→蟹工船海外でも注目「世界第二の経済大国で何が…」韓国・英国・中国・シンガポール
日本共産党員の小林多喜二が書いた小説『蟹工船』(1929年発行)は海外でも注目されています。メディアは、世界第二の経済大国での国民の貧困やワーキングプア、劣悪な若者の状況などとの関連を指摘し、日本共産党にも関心の目を向けています。
・この現象も『蟹工船』か?/20年ぶり出版「若者に勇気」/韓国
韓国の翻訳版『蟹工船』が8月18日、初版本以来約20年ぶりに出版されました。初版は軍事独裁政権を打倒した民主化直後の一1987年8月に出版されています。
ハンギョレ新聞社の雑誌『ハンギョレ21』は6月「79年前に発表されたプロレタリア文学作品が日本で爆発的人気だ」と紹介。韓国日報、ソウル新聞なども8月、日本共産党の党員が増加していることとあわせて「社会的な雰囲気が変わっている」ソウル新聞(8月5日付)と伝えました。
日本のブームの背景にある貧富の格差の拡大、ワーキングプアの増大は韓国でも深刻な社会問題になっています。
韓国にも多数の非正規労働者がいることを念頭に「もしかして、この現象は『蟹工船』ではないのか」というのが韓国版『蟹工船』の宣伝文句です。出版社は、日本より深刻な状況にあるともいえる韓国の若者にとって「この間違った現実は自分のせいではない、変えることができるという勇気を奮い起こさせる」のが『蟹工船』だとも指摘しています。
地方紙・釜山日報は8月23日付で書評を掲載「79年前の他の国の小説を今どのように受けとめるべきか。訳者の言葉が参考になる」として、次のように締めくくっています。
「目をそむけていた自分の社会的位置について覚醒させられた。小林多喜二は問い詰める。『お前は誰だ』と。そのたびに、どうにも分からない恥ずかしさで全身の血が熱くなった」
・〝マルクス主義〟小説復権/複数メディアが記事/英国
英国では複数のメディアが取り上げました。
ロイター通信は8月12日、『蟹工船』が不安定な雇用や賃金格差の拡大にあえぐ日本の若者などの間でベストセラーになっていると伝える東京発の記事を世界に配信しました。
記事は「1929年に書かれたマルクス主義者の小説が日本のベストセラーの上位を占めている。世界第2の経済大国での雇用不安や所得格差の拡大への不安が反映されている」と指摘「残虐な監督のもとで過酷な条件でカニ加工の労働を強いられる船員についての小説だ。1933年に29歳で警察に拷問され殺害された共産主義者小林多喜二によって書かれた」と紹介しています。さらに、いま読まれている背景に「低賃金のパートタイムや契約労働者の層が増大していることがある」と分析しています。
ガーディアン紙は同月21日付でこの通信を掲載しました。
インディペンデント紙22日付は同じく東京特派員電で取り上げました。小説冒頭の「おい、地獄さ行ぐんだで!」と叫ぶ漁師の言葉を引用しながら、現在の日本の若者が置かれた状況と重ね合わせて紹介しています。同紙は「マルクス主義小説の復権は、世界第2の経済大国で、この10年間の構造『改革』のなかで多くの被雇用者保護の措置が取り払われてきたことに対し不満が増大していることの証明だ」と分析しています。
そして「日本の労働力の3分の1以上が非正規雇用であり、数百万の人たち、とりわけ若者たちは賃金が目減りし、将来の希望がしぼむなかで、いかに生活するかを模索している」と述べています。
記事は「日本はなお企業優先の政策をとる自民党に支配されているが、『蟹工船』現象は多くの若者が急激な変化に飢えている兆候だ」と指摘しています。 さらに「こうした国民の気分の変化」は日本共産党にも追い風になっていると指摘「同党の志位和夫委員長が2月に国会で非正規雇用の問題を取り上げ、福田首相を追及」してからは「毎月1000人の新入党員を迎えている」と述べています。
・国際情報紙で特集/日本共産党の活動を紹介/中国
中国共産党機関紙・人民日報が発行する国際情報紙「環球時報」7月29日付は、今日の日本共産党の活動を多面的に紹介する記事を1ページを使って掲載しました。
そのなかで『蟹工船』を「漁業資本家、反動的軍隊に対する労働者のたたかいを描いた小説」と紹介。この小説が100万部も売れる背景には、若者と女性の半数が非正規雇用であり、多くの労働者が派遣社員だという現実があると説明しています。
・〝日本の窮状映す鏡〟元凶に小泉「構造改革」路線/シンガポール
「今日の日本のワーキングプアの窮状を鏡に映したような小説」―シンガポール紙ストレーツ・タイムズは8月13日付国際面トップで日本の『蟹工船』ブームを報じました。 同紙は「年間200万円未満の所得の日本人は1000万人ほどいるといわれる。その多くは1990年代から徐々に導入されてきた経済自由化政策の犠牲者だ」と指摘「常用スタッフを賃金のもっと安いパートタイム労働者に置き換えるよう奨励されたのが、2000年代初めの小泉政権の時期だった」と小泉「構造改革」路線に元凶があるとしています。
「多くの日本の若者は高校、大学の卒業後、正社員としての勤め先を見つけられなかった」と若者の労働の現実にも触れています。(「同盟サイト」より)
●2008.9.5・「しんぶん赤旗」→「治維法国賠同盟福島県本部が蟹工船を上映」
治安維持法犠牲者国賠同盟福島県本部は8月31日、第31回総会を開きました「治安維持法犠牲者に対する謝罪と国家賠償を求める50万署名運動」や「民主主義のなかった時代―治安維持法犠牲者たち」の顕彰運動など、1年間の運動方針を決めました。
今年で創立30周年の節目を迎えた同盟県本部は、公開記念行事「『蟹工船』―映画と講演のつどい」を福島市で開き、会場いっぱいの300人が参加しました。 映画「蟹工船」(山村聡監督)を鑑賞したあと、詩人の土井大助氏が「小林多喜二と『蟹工船』」と題して講演しました。
土井氏は「青年多喜二の人間と生涯」「代表作『蟹工船』をめぐる内外の歴史的評価」など、蔵原惟人が残した評論や多喜二の盟友・手塚英孝が書いた評伝『小林多喜二』(新日本出版社)を駆使して、原作の理解を助けました。 土井氏は、映画「蟹工船」の感動をいっそう深いものにするために『蟹工船』をはじめ多喜二の作品、あわせて手塚英孝『小林多喜二』を読んでほしい、と訴えて講演を結びました。(「同盟サイト」より)
●2008.8.27・「しんぶん赤旗」→「市立釧路図書館多喜二展が好評・『蟹工船』の貸し出し増」
釧路市の市立釧路図書館郷土資料室による企画「小林多喜二展」が好評です。
市立図書館では6月以降、『蟹工船』の貸し出し希望が増え、予約者が待っています。
同展では、多喜二の日本共産党入党や特高警察による虐殺が書き込まれた略年譜をはじめ、『蟹工船』『一九二八年三月十五日』『東倶知安行』『不在地主』の初版本(復刻版)や、残虐な死を伝える当時の・「無産青年」などの新聞(コピー)が展示されています。
市立図書館には、全集所載を除いて、多喜二関係の資料、図書は約80点あります。
通常は閉架書庫にあるもので、請求しなければ見ることのできないものです。
釧路、根室での治安維持法犠牲者の発掘、調査をしている治維法国賠同盟釧路支部の大友勝紘事務局長は「公立図書館が没後75周年の年に多喜二の企画展を催したことは大変意義あることです。共産党員作家・多喜二を多くの人に知ってもらいたいと思います」と語っています。10月末まで開催予定。(「同盟サイト」より)
●2008.8.24・「しんぶん赤旗」→「若者、変化に飢える・蟹工船ブームを分析」英紙
英紙インディペンデント(22日付電子版)は東京特派員電で、プロレタリア作家・小林多喜二の『蟹工船』が日本でブームになっていることを紹介しました。
記事は「おい、地獄さ行ぐんだで!」という小説中の漁師の言葉とダブらせながら、現在の日本の若者が置かれた状況を分析「マルクス主義小説の復活は、世界第2の経済大国で、この10年間の構造改革のなかで多くの被雇用者保護の措置が取り払われてきたことに対し不満が増大していることの証明だ」と強調しています。
そして「日本の労働力の3分の1以上が非正規雇用であり、数百万の人たち、とりわけ若者たちは賃金が目減りし、将来の希望がしぼむなかで、いかに生活するかを模索している」と解説しています。
同紙はさらに「こうした国民の気分の変化」は日本共産党にも追い風となっていると指摘「同党の志位和夫委員長が2月に国会で非正規雇用の問題を取り上げ、福田首相を追及」してからは「毎月1000人の新入党員を迎えているといわれる」と述べています「人間をモノのように使い捨てる日雇い派遣」を告発した志位氏の国会追及のテレビの場面がインターネットでエンドレスで流れていることも紹介しています。
記事は最後に「日本はなお大企業優先の政策をとる自民党に支配されているが、『蟹工船』現象は多くの若者が急激な変化に飢えている兆候だ」と指摘しています。(「同盟サイト」より)
●2008.8.24・「しんぶん赤旗」→潮流
故手塚英孝氏の名著『小林多喜二』(新日本出版社)が新しい装いで刊行されました。最初の筑摩書房版が1958年に刊行されてから半世紀ぶり、途中の新日本出版社版をはさんで、手塚氏の著作集に収録されてからも25年になります▼小林多喜二を知るための伝記として評価が定まっていながら、なかなか手にすることができなかっただけに喜ぶ声も多い。この伝記が完成した58年は多喜二没後25年の年▼「29年の小林の生涯を再現しようとつとめて、私はかなりの年月をこの仕事にかけた」と手塚氏はのべています。1つの事実を確かめるための「石橋をたたいて」の仕事ぶりは、はたでみていてもじれったいほどの慎重さでした▼志賀直哉を奈良に訪ねていった時期『党生活者』のモデル工場などで、事実の違いが指摘されると、手塚氏は、むしろ確かな事実を喜び、反省も「私が学んだことは、どのような場合でも、実証的な調査で裏付けをしなければならない」と真摯なものでした▼「小林多喜二の生涯と業績は…彼の死後も、長い年月にわたって、天皇制権力による抹殺が加えられた」だけに、その正確な再現を後世への責任として考えていたのでしょう▼多喜二とはあだなで呼び合い、非合法活動をともにした手塚氏。本書の最終章「回想」は、多喜二の息づかいが伝わるもの。虐殺される数日前、ともに入った喫茶店での多喜二の描写は胸をうつものがあります。ぜひこの機会に一読をと思います。(「同盟サイト」より)
●2008.8.19・「しんぶん赤旗」→朝の風「多喜二作品の復原努力」
小林多喜二の『蟹工船』は文芸誌でも話題に上り始めている。多喜二の著作は戦前権力によって一度は抹殺されようとした。当時の文芸誌の伏せ字や削除はその痕跡である。同時に、心ある編集者によってゲラ刷りが残されるなど他日を期しての努力が払われた。しかし、戦後原作の復原のために35年の歳月が費やされたことは忘れてはならない歴史である。
新日本出版社版『定本小林多喜二全集』の校訂者・手塚英孝は「発刊にあたって」(1986年)で「全作品が、原型に復され、ほとんど完全といっていいほどの全集となっ」たことは「どんな権力による弾圧も、人民大衆の意思、志向をうち砕くことはできない」証だと書いた。
最近出た『小林多喜二名作集「近代日本の貧困」』祥伝社)に、そんな事情への配意がないのは残念だ。表記や伏せ字復原をオリジナルに編集したように記されているが、この本の典拠したテキストが定本版全集であることは一見して明瞭となる。たとえば定本版では掲載紙不明でノート稿から起こされた「宗教の『急所』は何処にあるか」が、この本でもそのままだ。
そんな折、全集完成に尽くした手塚の労作『小林多喜二』が復刊された。タイムリーな出版である。(乾)(「同盟サイト」より)
●2008.8.16・「しんぶん赤旗」→「多喜二再発見・『党生活者』ゆかりの地東京・品川で戦争展」
 東京都品川区の中小企業センターで16日まで「しながわ平和のための戦争展」が開かれています。小説『蟹工船』がブームになっている戦前の日本共産党員作家、小林多喜二と品川とのかかわりや、1945年5月の大空襲の資料などを展示しています。
多喜二の小説『党生活者』に登場する「倉田工業」は、同区西五反田にある藤倉工業現・藤倉ゴム工業)がモデルです。多喜二も港区に住み城南地域とかかわりがあります。
14日には、多喜二を研究する藤田廣登さんが、多喜二の足跡を記した地図や年表、単行本『蟹工船』や『党生活者』の新聞広告などを示して説明「過酷な労働現場の実態を描いた『蟹工船』『党生活者』は、若い人たちに新鮮な驚きをもって読まれている。その反戦運動に励まされながら、憲法を守る運動に頑張っていきたい」と語りました。
説明を聞いた同区の女性(58)は「多喜二がこんな身近なところで生きていたと知って驚きました」と話していました。
 区民がつくる実行委員会の扇谷道子さんは「多喜二が品川にも深いかかわりがあると知って展示しました。『戦争をする国』づくりが進められようとしているいま、戦争当時の実情を明らかにしたい」と話しています。会場は東急大井町線下神明駅徒歩3分。(「同盟サイト」より)
●2008.8.14・「しんぶん赤旗」→中四国リポート・岡山「息長い『蟹工船』ブーム、若い労働者の圧倒的支持!・いまも文庫本売り上げ3位」
小林多喜二の小説「蟹工船・党生活者」の売れ行きが、岡山県内で、引き続き好調です。
自宅近くにある、岡山市の「TSUTAYA AZ平井店」を訪ねると、「TSUTAYA」チェーンの文庫本売り上げ全国ベストテンを紹介するコーナーがあり、「蟹工船」は2位に入っていました。
店員に聞くと「入荷が厳しくて、入ってもすぐ売り切れたりするんです。出版社も品薄なんでしょうね。売れ筋だと、どこの本屋さんも注文しますから」と話します。メディアで取り上げられると情報が入った5月ごろから「あっという間に売り切れ」、いまでも在庫が無くなることがあるといいます。
紀伊国屋書店クレド岡山店では、いまも「若い労働者の圧倒的支持!」「現代の『ワーキングプア』にも重なる過酷な労働環境を描いた名作が平成の『格差社会』に大復活!」とコピーをつけて、平積みにされています。
最高の売り上げになった5月は同店で文庫本売り上げ1位になり、いまも3位。係長の男性は「ベストセラーのなかでも、息の長いほうです。格差社会の問題が取り上げられて、そこから火がついていった感じですね」といいます。
同市内の別の有名店でも『蟹工船』が、新潮社の売れている文庫本のコーナーで、売り上げ2位として、紹介されています。文庫本全体でも同店3位。担当者は「昔の本がこうして、新刊のベストセラーやロングセラーと肩をならべて売れるのは珍しい傾向といえます」と話しています。
津山市の「津山ブックセンター」で『蟹工船』の売り上げがピークを迎えたのは7月。同店のすべての書籍でトップをしめました「最近、若い人が増えて、高校生や中学生も買っていきます」と。漫画の『蟹工船』を読んだ人が、小説も読んでみたいと、求めていく傾向もあるといいます。(岡山県・宮木義治)(「同盟サイト」より)
●2008.8.3・「しんぶん赤旗」→『蟹工船』ブームロイターが配信「経済大国での雇用不安や格差拡大が反映」
ロイター通信は12日、小林多喜二の小説『蟹工船』が、不安定な雇用や賃金格差の拡大にあえぐ日本の若者などの間でベストセラーになっていると伝える東京発の記事を世界に配信しました。
記事は「1929年に書かれたマルクス主義者の小説が、日本のベストセラーの上位を占めている。世界第2の経済大国での雇用不安や所得格差の拡大への不安が反映されている」と指摘「『蟹工船』は、残虐な監督のもとで過酷な条件でカニ加工の労働を強いられる船員についての小説だ。1933年に29歳で警察に拷問され殺害された共産主義者小林多喜二によって書かれた」と解説しています。
また「この小説の人気の背景には、低賃金のパートタイムや契約労働者の層が増大していることがある」と分析。ワーキングプアの概念と結びつけた広告宣伝が読者を引き付けている―との出版社のコメントを紹介しています。(「同盟サイト」より)
●2008.8.2・「しんぶん赤旗」→きょう札幌で「蟹工船」上映
現代の若者たちに支持を受けるプロレタリア作家・小林多喜二の作品を映画化した『蟹工船』(山村聡監督、1953年)が2日午後1時半、札幌市教育文化会館4階で上映されます。入場料1000円。問い合わせ先=北海道共同映画社011(562)1711。(「同盟サイト」より)
●2008.8.1・「朝日新聞」→「天声人語」
鶴彬(つる・あきら)という川柳作家を、どれほどの方がご存じだろう。昭和の初め、軍部などを批判する川柳を次々に作った人だ。特高に捕まって勾留されたまま、1938(昭和13)年に29歳で死んだ。今年が没後70年になる▼軍国色に染まる時代に立ち向かうように、その句はきっぱりと強い。〈屍のいないニュース映画で勇ましい〉〈銃剣で奪った美田の移民村〉〈手と足をもいだ丸太にしてかえし〉。2句目は旧満州への入植を、3句目は、手や足を失った帰還兵を詠んだものだ▼資本家にも痛烈な目を向けた。〈みな肺で死ぬる女工の募集札〉。紡績工場では、過酷な労働で胸を病む者が絶えなかった。〈初恋を残して村を売り出され〉は、貧困ゆえの娘の身売りである▼石川県で生まれ、本名は喜多一二(かつじ)といった。同じプロレタリア文芸家で、『蟹工船』を書いた小林多喜二に、字づらが似ているのは不思議である。大阪の町工場で働きながら、世にはびこる「非人間性」への怒りを燃やしていった▼その生涯をたどる映画作りが、70周年を機に始まっている。映画監督の神山征二郎さんは去年、人づてに鶴の話を聞いた。こんな人がいたのかと驚き、「もっと世に知られるべきだ」という思いに背中を押された▼「日本の破滅が見えていて、『この道を行くべからず』と叫び続けた人」だと、神山さんは、その人間像を胸に描く。そして鶴の死後、日米開戦から敗戦へと、日本が破滅への道を突き進むのは周知の通りである。内外の苦難への思いを深める8月が、今年もめぐってきた。
●2008.7.30・「しんぶん赤旗」→「130人が参加し「蟹工船」上映」岐阜・中津川
岐阜県中津川市の日本共産党後援会は26日、市内の中央公民館で映画「蟹工船」を上映し、130人が観賞しました。
60代の女性は「労働者を『ブタ』扱いする資本家に怒りがわいた。ストライキを応援したい」と感想を語りました。
上映後、党中津川市議団が7月初めに『蟹工船』の原作者の小林多喜二のふるさと、小樽市を訪ねたことなどを報告。黒田ところ市議は、多喜二の文学碑や小樽文学館の多喜二コーナーなどを、写真を使い説明しました。可知いさむ市議は、市内落合にある戦前のプロレタリア作家・葉山嘉樹の碑文「馬鹿にはされるが 真実を語るものが もっと多くなるといい」の文学碑を訪れる人が増えていることを紹介し、その文学碑を移転させる計画があることを報告しました。(「同盟サイト」より)
●2008.7.30・「しんぶん赤旗」→朝の風「映画で多喜二を読む」
小林多喜二の『蟹工船』ブームのさなか、その映画化作品、山村聰監督の『蟹工船』(1953年)再上映運動がはじまった。1950年代、独立プロ高揚期の力作だけに、とりわけ未見の若い世代にはぜひ一見をすすめ、原作とくらべて論議してほしいし、その論議自体が有益だ。
たとえば原作とラストが違う。しかし映画は映画で原作の精神を映画的に発展させたと考えてもいい。また映画を見れば、多喜二の文学がきわめて映画的な文体であることに気づく人もあるはず。多喜二は小樽映画鑑賞会の積極的な活動家で、内外の映画をよく見、チャップリン論などすぐれた映画評論を多く執筆、『全集』の評論部分ですぐ読める。
多喜二と音楽については、多喜二の愛した音楽がCDにもなって普及されているので、〝多喜二の愛した映画〟といったプログラムも可能ではないか。
残念ながら多喜二の原作で映画化されたのは『蟹工船』1本だが今井正監督が多喜二の生涯を描いた秀作「小林多喜二」(1974年)があるし、生誕100年・没後70年を記念して池田博穂監督が長編ドキュメンタリー「時代を撃て・多喜二」(2006年)を製作、普及中だ。
映画で多喜二を読む作業も興味津々だと思うが…。(「同盟サイト」より)
●2008.7.21・「しんぶん赤旗」→『蟹工船』ブーム語る・フジ「報道2001」佐々木議員/「ピンハネ、過酷労働…モノ扱いの派遣と共通」
「おかしな政治変えよう」
「おい地獄さ行ぐんだで!」で始まる小林多喜二の『蟹工船』が「前代未聞の大ブーム」―20日放映のフジテレビ番組「報道2001」が紹介しました。日本共産党の佐々木憲昭衆院議員が出席しました。
番組は「ブームの背景には、いったい何があるのか」と問いかけつつ、『蟹工船』を題材にした映画や漫画をバックに、地獄の日々に怒りを爆発させた労働者がストライキを決行するまでのあらすじを紹介しました。
また「格差問題に取り組んできた共産党で、新規党員が月1000人単位で増えている」として、街頭で訴える志位和夫委員長の姿を大きく映し出しました。
司会者から、多喜二が学んだ小樽高等商業学校現小樽商科大学)の後輩として紹介された佐々木氏は「多喜二が描いたのは、周旋屋にピンハネされ、非常に過酷で奴隷的な労働を強いる時代だった」「いまの若い人たちが置かれている労働現場の、人をモノ扱いする無権利な実態と非常に共通している。そこが共感を呼んでいる」と発言。派遣労働の自由化によって、貧困と格差が広がった実態を明らかにしました。
佐々木氏は「大企業減税の一方で、庶民からは増税と負担増で)吸い上げ、労働者の賃金は下がっている。もうけは株主への配当と政治献金となっている」と指摘。そのうえ、他の党は政党助成金まで受け取っていると批判し、おかしくなっている政治を変えるべきだと強調しました。(「同盟サイト」より)
●2008.7.20・「しんぶん赤旗」→『蟹工船』に社会の縮図・民主主義文学会が研究集会
日本民主主義文学会による第20回全国研究集会「『格差・貧困・閉塞』の社会と文学を考える」が19日、松山市の愛媛県県民文化会館で始まりました。21日までの予定。全国から、過去最高の160人以上が参加しました。
評論家の牛久保建男、乙部宗徳、新船海三郎、田島一・同会事務局長の各氏によるシンポジウムと、中川悦良・日本共産党元愛媛県議の「松山の文学的風土」と題した講演が行われました。
シンポジウムでは、現実社会と対決し、閉塞を打ち破る人間像の発見に、現代文学の発展の可能性があると各氏が共通して指摘。小林多喜二の『蟹工船』には、今日の社会の縮図そのものが描かれており、そこで連帯してたたかう人々の姿に共感する現象が表れているとの意見が出されました。
中川氏は、松山ゆかりの文学者らを紹介。英国に留学し貧困と格差の実情に、マルクスの登場を必然性と記した夏目漱石、軍国主義者から軍備撤廃論者へと発展した水野広徳、松山高校出身の宮本顕治らの足跡を語りました。(「同盟サイト」より)
●2008.7.18・「しんぶん赤旗」→「多喜二ゆかりの小樽へのツアー」
「小樽日帰りバスツアー・多喜二と啄木の歴史」がこのほど行われました「小説『工場細胞』の跡地現在は北海製缶)を見て、より身近になった。多喜二の小説を読み直したい」西区の男性・70歳)など参加者が感想を寄せました。
28人が乗ったバスが札幌駅前を出発。小樽築港駅の近くにある「多喜二住居跡」で、ツアーを企画した旅システムの内山博社長が「どの鉄道の枕木も、それはそのまま一本一本労働者の青むくれた『死骸』だった」と代表作『蟹工船』を紹介。彼が見たことが小説の原点だったとのべました。
多喜二の遺骨が納められた小林家の墓を囲んだ参加者。感慨深げに手を合わせました。地獄坂を通り、旭展望台にある多喜二文学碑へ。小樽文学館では、多喜二のレプリカに触れました。
豊平区の池田由美さん党市議候補)は「29歳の人生はあまりにも短かった。でも、いま『蟹工船』がブームになり、語り続けられていることに『すごい人』の一言ですね」と語っていました。(「同盟サイト」より)
●2008.7.18・「しんぶん赤旗」→「映画「蟹工船」全国200カ所再上映運動へ」映画センター全国連絡会議
小林多喜二の代表作『蟹工船』が若者の間で広く読まれ一大ブームとなるなか、映画センター全国連絡会議が今月から、映画「蟹工船」写真、山村聡監督・脚本・主演、1953年)の全国200カ所再上映運動を呼びかけています。
映画「蟹工船」は、山村監督の第1回監督作品です。撮影を宮島義勇、音楽を伊福部昭が担当。海のタコ部屋ともいわれる蟹工船を舞台に、過酷な奴隷労働の日々に耐えかねた漁夫らが団結し立ち上がる姿をダイナミックに描いています。
映画センター事務局長の吉村秀二さんは「映像の世界で活動するものとして、映画を通じて多喜二の世界を現代の若者に伝えたい。またこれを機に、私たちが続けてきた自主上映運動の根を広げたいという思いもあります」と話しています。同センターのよびかけにこたえ、すでに各地で上映会が決まっています。予定は以下の通り。
〈上映会予定〉19日(土)兵庫県尼崎市▽8月21日木)秋田県秋田市▽8月30日(土)京都府京丹後市▽8月31日(日)京都府宮津市▽9月21日(日)京都府綾部市▽9月27日(土)福岡市▽10月11日(土)札幌市。会場・主催者・上映時間等についての問い合わせは映画センター全国連絡会議(電話=03・3818・6690)へ。〈上映会の条件〉16㍉、業務用DVDは1回63000円。35㍉使用の場合は要相談(「同盟サイト」より)
●2008.7.17・「しんぶん赤旗」→「現代に生きる多喜二・党創立記念で講演会」帯広
日本共産党十勝地区委員会は12日、帯広市で「党創立86周年記念講演会」を開きました「君の手を握る 小林多喜二の書簡から」と題して、荻野富士夫小樽商科大学教授が講演しました。
荻野さんは『蟹工船』ブームにふれ、その背景に多喜二の作品が社会のゆがみや不条理、矛盾に対する怒りと同時に未来への光明も描いていること、そこには民衆に対する限りない優しさや信頼とそれを踏みにじるものへの激しい怒りをかきたてた多喜二の人間性があると指摘。書簡を中心に、獄中の様子や多喜二が何を考えていたかを詳しくのべ「多喜二は『闘士』のイメージが強いが、等身大の多喜二は、率直で恋もするしユーモアもある。ふくらみや豊かさのある人間性を考えて、作品にふれるきっかけにしてほしい」とよびかけました。
参加者は「あたたかさや思いやり、やさしさあふれる多喜二の人間性を書簡から知ることができた」「田口瀧子への手紙にジーンと来るものを感じ、感動した」「心が洗われるようなひとときを過ごすことができた」との感想を寄せました。(「同盟サイト」より)
●2008.7.6・「しんぶん赤旗」→不破哲三著『小林多喜二・時代への挑戦』、多喜二の長編構想に迫る刺激に満ちた解明・牛久保建男
2月に行われた著者の記念講演「小林多喜二 時代に挑戦した5年間」は、刺激と問題提起に満ちた講演でした。本書は、その講演を軸にして、その講演にのぞむにあたっての問題意識を語るインタビュー、30年前に行われた没45周年記念講演「小林多喜二の文学と生涯」を収録しています。
歴史の中で読む
私がなぜ新しい、刺激をうけたのか。それは著者いうところの「2つの前提」が、講演に貫かれているからです。1つは、日本共産党の苦闘と開拓の歴史の中に多喜二をおき、そのなかで読むこと。もう1つは、〝多喜二を歴史のなかで読む〟です。この第2の前提のヒントになったのが、著者のマルクス・エンゲルスの古典研究で、〝マルクスを歴史の中で読む〟を合言葉にしたことでした。それはマルクス自身の思想と理論に歴史的発展があることをよくつかむということです。著者自身、その方法で今までに見えてこなかった新しい脈絡が浮き彫りになって見えてきたと語っています「はじめに」)。
同じ方法を、多喜二研究の指針になるに違いないと考えたところに、多喜二を語りながら、新しい発見へと誘う刺激に満ちたものになった理由があると思います。 私は、本書に収録されているインタビューを同僚記者と担当した当事者の1人ですが、とくに多喜二が東京に出て来て「満州侵略戦争」が始まった年から始まる彼の第2の飛躍についての解明の新しさについて胸に落ちるものがありました。多喜二の文学的刻苦がどのようなものであったか、彼の文学的構想に基づいての解明は、多喜二研究に新しく鍬を入れたものといえるでしょう。
・人の変化発展を
この時期の多喜二の飛躍への跳躍台として、多喜二の評論の中から著者が指摘するのは①「時代を概括した、時代に透明した」ものを書く②いろいろな事件を断面だけでとらえるのでなく、弾圧や失敗を経験してもそれに屈しないで立ち上がる連続的な流れとして書く③人間を諸事情のなかでどんなに変化し発展するかを書く―の3点。
そのことが、31年の後半の時期から2つの長編構想として試みられたことを跡づけます『転形期の人々』が、日本共産党の組織と活動がどのように生まれてきたかを描こうとした長編構想の1つであったこと。もう1つの構想が「満州侵略戦争」が始まった情勢とそのもとでの日本社会、およびそこでの闘争を描くことであったこと。この第二の長編構想の部分として『沼尻村』『党生活者』『地区の人々』が描かれているという解明は、新しい問題提起というだけでなく、わくわくするような再読への意欲をかきたてられます。人間を変化・発展の中で描くという多喜二の挑戦も『党生活者』のいわゆる笠原問題で論じています「なぜあのようなトラブルに満ちた」男女関係を設定したのかという問いかけは、多喜二の文学的努力の方向と重なって、考えさせる提起です。
かつて著者は、宮本百合子の894通の「獄中への手紙」を読み込み、百合子の長編構想の意味について語り、百合子研究に、私流にいえば衝撃を与えましたが、本書もまた、多喜二研究に大きな示唆を与えるものとなるでしょう。また、日本共産党史研究の今日の到達から彼の作品を分析しており、戦前の反戦闘争、党のたたかいの歴史を考える上でも好適の書ともいえます。(うしくぼたつお)(「同盟サイト」より)
●2008.6.29・「しんぶん赤旗」→潮流
意外なところで、小林多喜二と出会いました。音楽評論家の吉田秀和さんがことし2月にだした本、『永遠の故郷―夜』の中です▼吉田さんは、まもなく95歳。いまも、NHKFM「名曲のたのしみ」の語りをうけもっています。歌曲の数々を紹介する『永遠の故郷』でも、みずみずしい感性で詩と歌の世界に分け入ります▼吉田さんは小学6年生のとき、東京から北海道の小樽に引っ越しました。父が小樽の病院の院長になったからです。母はピアノを弾き、4人きょうだいそろって音楽好き。バイオリンをたしなむ銀行員がよく家に来て、母のピアノと合わせていた、といいます▼のちに兄が話していたそうです。「同じころ小林多喜二も1、2度来て、母と合奏した」。多喜二はバイオリンではなく、ビオラだったとか。ただし、吉田さんは彼のビオラをきいた覚えがありません▼もし本当なら、多喜二が銀行につとめながら文学の道を模索していたころの話でしょう。彼は、貧しくて進学できない弟の三吾さんにバイオリンを習わせていました。自身も楽譜がよめるほどの音楽通。文化団体のレコードコンサートの世話役もしていました▼ビオラは、華麗なバイオリンに比べ音が暗めで「男性的」作曲家バルトーク)ともいわれます。二十世紀には、はりつめた雰囲気の曲によく用いられました。そんなビオラの響きは、やがてプロレタリア小説作家として弾圧の時代をかけぬけていく多喜二の青春と、どこかで重なりあっています。(「同盟サイト」より)
●2008.6.28・「しんぶん赤旗」→「『蟹工船』ブーム語る、毎日放送志位委員長が出演」
日本共産党の志位和夫委員長は、27日放送のニュース番組「VOICE」(毎日放送)に出演しました。
志位委員長が登場したのは「いま解ど)き」のコーナー「いまどういうわけか若者を中心に空前の『蟹工船』ブームです」とのナレーションが流れ「プロレタリア文学」の字幕の下、『蟹工船』の内容を映像で紹介。東京・上野駅の書店では、いままで売り上げが1カ月に1冊だった『蟹工船』が、いまは1週間に200冊以上売れていることを報じました。
『蟹工船』読書感想文コンテストの入賞者や若者が開く「蟹工船を読む会」の様子を映し、『蟹工船』に関心を示す30歳前後の若者は、失業率が高いことが表で示されました。
「いまこの『蟹工船』ブームに期待を寄せているのは…」とのナレーションで紹介された志位委員長は「小林多喜二は日本共産党員として当時の侵略戦争に命がけで反対しました。その多喜二の生涯は、まさに日本共産党と不可分に結びついた生涯でした」とのべました。
その上で「新自由主義と市場原理主義が、若者の未来と両立しなくなってきた。むきだしの形での野蛮な搾取が横行するようになってきた中での『蟹工船』への共鳴ですから、今の社会をもとから変えようという流れにつながってくると思います」と指摘しました。(「同盟サイト」より)
●2008.6.26・「しんぶん赤旗」→日本共産党知りたい聞きたい/「葉山嘉樹とはどんな人?」
〈問い〉毎日新聞6月3日付の『蟹工船』の記事で葉山嘉樹という名前がでていました。どんな人ですか?(三重・一読者) 〈答え〉葉山嘉樹は、若き日の小林多喜二に大きな影響を与えたプロレタリア文学作家です。
葉山は、1894(明治27)年、福岡県豊津町(現みやこ町)に生まれ、早大高等予科にすすみますが、学費未納で中退、下級船員など職業を転々。戸畑の明治専門学校につとめ、待遇改善交渉をしたり、名古屋セメント会社では労災死した仲間の見舞金増額を要求し首にされます。1921年「名古屋新聞」の記者になり、労働運動に深くかかわるようになります。日本共産党に指導された労働組合活動家の組織「レフト」に参加、23年「名古屋共産党事件」で検挙されます。
獄中で「資本論」を読み「淫売婦」や「海に生くる人々」の原稿を書きます。一方で、葉山は獄中で陳情書を書き、労働運動から身を引く決意をしていました。出獄後、妻子の行方不明を知り、捜しまわった末、単身木曽の水力発電所の工事場にいくのです。そこで「セメント樽の中の手紙」を脱稿します。
葉山の「淫売婦」や「セメント樽の中の手紙」が発表されると、たちまち有力新人として注目され、既成文壇からも認められます。26年3月『文芸戦線』同人に推薦されました。労働運動から転身した葉山は、東京にうつり、作家生活に入り、11月『海に生くる人々』を発刊、この長編もプロレタリア文学の傑作として注目を浴びました。
プロレタリア文学運動は、27年の日本プロレタリア芸術連盟の分裂以後、28年政治的には日本共産党を支持するナップ全日本無産者芸術連盟、機関誌『戦旗』)が結成されると、ナップと「労農派」支持の労農芸術家連盟労芸、機関誌『文芸戦線』・『文戦』)との対立が固定化していきます。葉山は終始労芸派に属し無産大衆党の中央執行委員にもなっていました。
しかし、小林多喜二は「今、不幸にして、お互に、政治上の立場を異にしていますが、…私は、貴方の優れた作品によって、『胸』から、生き返った…、云うならば、私を本当に育ててくれた作品は『戦旗』の人達のどの作品でもなくて、実に貴方の作品…でした」29・1・15、全集第7巻)と書き送るなど、葉山の文学を高く評価しています。
葉山は戦時色が深まるなか、木曽渓谷に転居、農耕生活に入りますが、終戦末期には国策に従い「満州」開拓団員として渡満、45年10月、帰国途中に病死しました。(喜)(「同盟サイト」より)
●2008.6.26・「しんぶん赤旗」→「多喜二作品盛岡で語る集い・現代に通じている」
なぜ、いま小林多喜二の「蟹工船」が注目されているのか。22日に盛岡市で開かれた「多喜二の作品を語る集い」で浮き彫りになりました。
「集い」は日本民主主義文学会盛岡支部が主催したもので、会場には青年・学生をはじめ作家や労働者、主婦、研究者など会場いっぱいの85人が参加し、多喜二の生涯と作品について学び感想を交換し合いました。
「集い」第1部の講演に立った作家の柏朔司氏(民主文学盛岡支部長)は「多喜二の生涯と作品、その今日的意義」と題して話し、多喜二は科学的社会主義理論を学び労働者や農民のたたかいにかかわる中で、処女作の『一九二八年三月十五日』などを書き上げたと語りました。
第2部は、多喜二の文学作品の中から7つを選び、16人がそれぞれ感想を述べ『蟹工船』では6人の青年が発言しました。
民主青年同盟岩手県委員会の佐々木圭史委員長は、19時間労働にさらされている職場で労働者が「首をつる」事件が起きているとして「たたかうという選択肢を青年に示していきたい」と述べました。東京で派遣労働に従事していた青年は、朝早く出勤し夜8時に帰宅して2時間後に別の職場で深夜労働させられたが、もう我慢できないと思い「仲間たちと立ち上がりました。蟹工船と同じです」と涙ながらに話し、参加者から拍手で激励されました。
『工場細胞』の感想を述べた「いわてローカルユニオン」執行委員長の工藤和雄氏は、旧国鉄盛岡工場で20年間勤務しながら労働組合を民主化した経験を話し「いま、未組織労働者の組織化に全力をあげています。多喜二の残したメッセージを受け継ぐ歴史のランナーとなりたい」と力強く語り、感動の拍手に包まれました。
「集い」に参加した大学院生は「プロレタリア文学は現代に通じていると思った。多喜二の作品を読んでみたくなりました」と話し、団体職員の青年は「工藤さんのお話は、元気付けられる内容だった」と感想を述べました。
「集い」が終わったあとも、盛岡支部の事務局へ「小説を書きたくなりました」とか「多喜二の作品を読む会を開いてほしい」という感想が寄せられています。
今回の「集い」は、小林多喜二の作品を多くの人へ広めるために民主文学会盛岡支部が総力をあげることにより若者たちを励まし、文学運動のすそ野を大きく広げることに成功した企画となりました。(大宮純通信員)(「同盟サイト」より)
●2008.6.19・「しんぶん赤旗」→青年・学生Weekly・「蟹工船」上映会生き方を考える
映画「蟹工船」山村聡監督、(1953年製作)が15日、京都市上京区の西陣織会館で上映されました。民青同盟京都府委員会などでつくる実行委員会が主催しました。21日に開く「派遣法を抜本改正させる雇用大集会」党府委員会・民青府委員会の共催)に向けたプレ企画です。原作の小説『蟹工船』はプロレタリア作家・小林多喜二の著作で、貧困と格差が広がるなか、若者の間でブームになっています。
上映後に行われたトークセッションでは、日本共産党の吉田幸一衆院京都4区候補と民青同盟京都府委員会の中川葵常任委員が「『蟹工船』ブームと人間らしい働き方」をテーマに対談。吉田候補は、現代の若者の働き方の背景に政治の責任があることを指摘し「深刻な実態をあきらめず、青年自身が力を合わせて職場を変えていくたたかいが広がっている。連帯と共感がその力になっている」「若者が人間らしく働き、生きていける社会の実現へいっそう奮闘していきたい」と語りました。
参加者から「現代の日本社会の状況と映画の状況が重なって見えた」「働くこと、人間らしく生きることについて考えさせられた」「吉田候補の気持ちのこもったストレートな訴えに感動した」などの感想が寄せられました。(「同盟サイト」より)
●2008.6.11・「しんぶん赤旗」→「若者に共感多喜二の『蟹工船』・週間売れ行きで2位・大分の書店、背景に貧困や非正規労働」
戦前の日本共産党員でプロレタリア作家、小林多喜二の代表作のひとつ『蟹工船』が若者にブームです。大分市内の書店でも平積みされた同文庫本を買い求める若者が増えています。なにを求めて『蟹工船』か、みてみました。(大分県・大星史路)
・時代のせい
くまざわ書店大分店では、5月26日から6月1日までの1週間の売れ行きの2位に『蟹工船』が入りました。店員によると、「新刊でもない、初版が昭和28年の本がこんなに売れるのはすごい。ワーキングプアの言葉がはやる時代のせいでしょうか。若い人から年配の人まで購入しているようです」と話します。
同店では、最近になって数十冊の単位で売れ始めたといいます。
紀伊国屋書店大分店でも5月から目立つ場所に平積みを始め、男性が本を手にする姿がありました。
市内の情報月刊雑誌「ぷらざ」6月号は「今月のイチオシ」の本に『蟹工船』を選びました。
市内の大型商業施設内にある大手書店「リブロ大分わさだ店」にある『蟹工船』を平積みする文庫本コーナーのポップ広告には「現代のワーキングプアにも重なる過酷な労働環境を描いた名作が平成の『格差社会』に大復活!!」と宣伝しています。
前出の「今月のイチオシ」に『蟹工船』を推薦した同店スタッフの原島宏幸さん(27)は「二カ月前、それまでは棚に1冊あるけだった『蟹工船』を、こっそり平積みに置いてみたら、アラアラという感じで売れていくので…驚きました」と話します。
・現代と共通
「おい、地獄さ行(え)ぐんだで!」という有名な一文で始まる『蟹工船』は「糞壺」と呼ばれる船室にかき集められた労働者たちが、いてつくカムチャッカ沖でカニを捕り、缶詰にする工場船での非人間的な労働を描きました。
大分では近年、キヤノンやダイハツなどの工場が進出するのにあわせ、派遣や請負といった「非正規」の若者が大量に各地から集まりました。
低賃金、極端な無権利という点では『蟹工船』で描かれた労働現場と同じです。
「そして、彼等は、立ち上がった。―もう一度!」という小説の最後の一文は、非人間的な扱いに抗議したストライキがいったんは破れたものの労働者がふたたびたたかいに立ち上がっていくことを示唆します。将来に希望を持てず不安な現状に直面する現代の若者たちも小林多喜二のこうしたメッセージに共感したのでしょうか。
『蟹工船』を買い求める人は「20代後半の人が多い」といいます。
原島さんは「『ネットカフェ難民』というような状況におかれている人が多い世代に支持されているのではないでしょうか」と話しました。(「同盟サイト」より)
●2008.6.11・「しんぶん赤旗」→「地獄のような労働に負けない強さ・蟹工船1位に、多喜二の代表作」前橋市内の書店
日本共産党員作家の小林多喜二の代表作『蟹工船』が、群馬県内の書店でも売れ行きを伸ばしています。
前橋市の老舗書店「煥乎堂」では、新潮文庫版『蟹工船・党生活者』が、5月中旬から毎週2ケタの売り上げ数を記録し、5月18日から24日の週間売り上げランキング(文庫)で8位となりました。その後も売り上げを伸ばし、翌週(25~31日)には1位を記録。文庫本担当の仲内亜紀子さんは「最近は新刊でも週2ケタいくことは少ない。異例のことです」と話します。
 購入するのは年配者が多いといいます。同店では「若者たちに共感を得た今話題の本。地獄のような労働に負けない強さ。抗あらがう力。ワーキングプアのこの時代にこそ読まれるべき作品」とポップも立て、『まんがで読破 蟹工船』(イーストプレス)とともに文庫本の話題・おすすめのコーナーに並べています。仲内さんは「入荷が追いつけばもっと大きなコーナーで紹介したい」と話しています。(「同盟サイト」より)
●2008.6.5・「しんぶん赤旗」→「山宣・多喜二・鶴彬を語る」
大阪府泉南市でこのほど、治安維持法犠牲者国賠同盟大阪府本部泉南地域支部総会をかねて「山宣と多喜二と鶴彬を語る」つどいが開催され、42人が参加しました。
大阪山宣会事務局長の浜田紀男さん、治安維持法犠牲者国賠同盟大阪府本部多喜二祭実行委員の小山国治さん、あかつき川柳会幹事長の岩佐ダン吉さん、文芸評論家の千頭剛さん、大阪山宣会会長の宮崎守正さんが、山宣・多喜二・鶴彬の業績やエピソードを紹介しました。(「同盟サイト」より)
●2008.6.1・「しんぶん赤旗」→「小林多喜二著『蟹工船』と戦前、日中戦争下も刊行続く。発禁、伏せ字でも国民の熱い共感・新潮文庫は45版」
小林多喜二の『蟹工船』が異例の売れ行きをしめしています。現在店頭で手軽に入手できるものは新潮社、岩波書店の文庫版、新日本出版社の多喜二名作ライブラリー、舵社のデカ文字文庫などです。新潮社が15万部を超える増刷をおこない、岩波書店も在庫が切れ、6000部増刷する予定です。新日本出版社も増刷しました。
ところで『蟹工船』は戦前から評判を呼んだ作品で、くり返し出版され、現存資料で分かっているだけでも新潮文庫の『蟹工船・不在地主』が一1939年に45版がでています「国禁の書」といわれた多喜二の作品が日中戦争下に版を重ねていたというのは驚きです。しかし伏せ字が多く意味がとりづらいところがたくさん。
「毎年の例、漁期が終りさうになると、蟹罐詰の『×××』を作ることになってゐた。何時でも、別に××××」わけでもなかつた。その度に、漁夫達は監督をひどい事をするものだ、と思つて来た。―××、××××。『×××××××××作るものだ。フン、×××××こつたろ。』
『戦時下文学の周辺』などの著書をもつ高崎隆治さんによると、学生時代、近藤忠義先生国文学者)が、昭和8年(1933年)にでた新潮文庫と比べて、昭和10年のは伏せ字がだんだん増えていたと語っていたといいます。高崎さんは、1939年、中学2年生のとき鎌倉駅前の島森書店で文庫の『蟹工船』の立ち読みを続け、ついには買ったといいます。
「小林多喜二という作家がどういう人か全然知らなかった。信念をもった人という印象で、文芸誌に彼の作品がのらないかとみていましたが、のらないので不思議だった。大学の予科にいったとき先輩から虐殺された作家だったと初めて知りました」と語ります。
当時の文庫を見ると、作者紹介もなく、解説も無署名で多喜二の経歴にはひと言もふれていません。当時の国家権力の抑圧ぶりがうかがえます。高崎さんが聞いた話では、1940年の「皇紀2600年」のころに発売が出来なくなったのではないかといいます。新潮社ではその辺の事情を知る人はいません。
最大傑作の評価
『蟹工船』は1929年に雑誌『戦旗』5月号、6月号に発表されましたが、6月号は発売禁止に。しかし12000部が発行され、大きな反響を得ました。この年の読売新聞紙上で「前半期の最大傑作」として評価されました。
作品は発禁処分をうけながら戦旗社から3種類単行本が刊行され、総数35000部が半年余りで売り尽くされたといいます。
多喜二は、実際に蟹工船でおきた漁夫虐待事件や、停泊中の船を実地調査をしたり、漁夫たちから取材を重ねて執筆しました。彼は「原始的な搾取の典型を、未組織労働者の問題をふくめて描き、その国際、軍事、経済関係を全体的に明らかにしようとした」とのべています。
 小林多喜二は物故作家の名簿からも除外され、敗戦まで作品は出版の自由を奪われ、著作集をもつことさえ逮捕の理由になりました。彼の業績が完全に復元されたのは死後36年たってからでした。ちなみに『蟹工船』は、天皇への献上品の缶詰に「石ころでも入れておけ!」という文章が、不敬罪に当たるとして、起訴されました。(牛久保建男)
●2008.5.31・「しんぶん赤旗」→「東区革新懇が多喜二ツアー」
札幌・東区革新懇はこのほど、小林多喜二没後75周年をしのんで「小樽・多喜二ツアー」を行いました。39人が参加し、寺井勝夫・小樽多喜二祭実行委員長のガイドで多喜二ゆかりの各所を回りました。
小樽文学館で多喜二原稿や書簡の展示コーナーを見学した後、バスで、多喜二が六年間働いていた旧拓銀現ホテル)の建物、小説「工場細胞」の舞台となった北海製缶工場を回りました。
小林家の墓前で、寺井さんは「多喜二は『一九二八年三月十五日』で権力とたたかう革命家をリアルに描きましたが、その後拷問で殺されました。2月20日の命日には毎年、ここで墓前祭をしています」とのべました。
帰りの車中で参加者は「戦前は国民に真実が知らされず、戦争反対を主張した日本共産党が弾圧された時代でした。ツアーに参加して多くのことを知り、有意義でした」「派遣、非正規労働などの過酷な職場で苦しめられている若者が多喜二の『蟹工船』に共感を寄せています。若者が希望を持てる社会に変えていこう」と話し合いました。(「同盟サイト」より)
●2008.5.27・「しんぶん赤旗」→朝の風/『蟹工船』―若い世代の発奮と評論
小林多喜二没後75年、文庫本『蟹工船』が空前のブーム―と各紙報道があいつぐ。八年前、多喜二と『蟹工船』初版本表紙が20世紀デザイン切手に出た当時、誰が今のブームを予測したか。
若年層対象の小樽商大・白樺文学館共催『蟹工船』エッセーコンテストの入賞作品集『私たちはいかに『蟹工船』を読んだか』(2月10日刊)はその貴重な契機だ。非正規労働渦中の青年層は、80年前の過酷な『蟹工船』労働者の姿に、現代の非人間的労働と生活を如実に自覚し、理不尽にたいし決起した果敢な行動に目を開いたのだ。
3月、民主主義文学会「多喜二の文学を語る集い」の青年トーク「『蟹工船』を語る」でも、コンテスト入賞の女性2人の発言が光った。司会は彼女らのたたかいを支援してきた作家浅尾大輔。
浅尾は『民主文学』2月号の「『蟹工船』―その可能性の中心」で、同誌73年2月号発表の右遠俊郎「『蟹工船』私論」を読んだ感銘を記していた。蟹工船の決起は「整然とした組織的なたたかい」で「強力な指導性」「少なくとも前衛の影を、その慎重な工作の行程を読む」とのくだりで「溢れる涙を止めることができなかった」と。
右遠評論は新刊『小林多喜二私論』本の泉社)に「『蟹工船』論の試み」と改題して収録されている。若者の多喜二読みと行動を広げ深めるためには、気骨の評論も強力な手引きなのだ。(土)(「同盟サイト」より)
●2008.5.25・「しんぶん赤旗」→『蟹工船』初版は何部出版されたの?
『蟹工船』初版は何部出版されたのでしょうか?こんな質問がありました。
最新の本では藤田廣登さんの『小林多喜二とその盟友たち』が、出版事情について詳しく書いています。ぜひ、お読みください。
「蟹工船」は『戦旗』1929年5月号、6月号に掲載され、発行部数は12000部。6月号は発禁処分。その後「一九二八年三月十五日」収録の初版『蟹工船』が9月に15000部。これも発売禁止処分。「蟹工船」だけを収録した『蟹工船』改訂版を11月に発行。これも発禁。
翌1930年3月に発禁の該当箇所を削除した『蟹工船』普及改訂版を発行。発禁処分を受けながら半年の間に35000部が普及しました。
よこさんが「当時と現在では条件がまるで違うけど、もしかして現在のほうが読まれている?」との質問がありますが、5月だけで.10万部増刷との報道がありますから、そういう意味では現在のほうが読まれています。それでも、発禁処分になることが想定されたもとでの35000部もすごいですよね。
多喜二の呼びかけは、現代の若者に届き、それが「共感」となり、「立ち上がろう」とする契機になっています。時代を動かす力が「蟹工船」と多喜二にあることは当時も現代も同じではないでしょうか。
●2008.5.19・「しんぶん赤旗」→『蟹工船』(小林多喜二)と対ソ諜報/高崎隆治
『現地調査書』(昭和19年度)と印刷された報告書がある。発行は日魯漁業となっているが、内容は操業報告とは無関係のカムチャツカとその近海の現状報告で、海岸や陸地の状況のほか、兵力配置・防備施設・軍の内情・ソビエト軍艦艇の行動などが、詳細をきわめた統計表や地形図とともに記されている。
スパイ活動の詳細な報告が
一見してだれにもわかる明らかなスパイ活動の報告である。したがって日本側の状況に関しては漁業はむろんのこと、民事についての記録もない。あるのはただソビエト側との関係において、たとえば
「帝国哨戒艦駆潜艇)ソ領海内ニ入リ沈没セル邦船神明丸付近ニ至リ再ビ公海ニ出タルヲ隊長発見シ之ニ追跡セントセルガ当方ノ妨害ニ遇ヒ追跡ヲ断念」 という記述や、ソビエト側の「日本護送船70噸級)ソ連領海1.8浬ニ侵入約10分間領海内ニアリ、該船ハ機銃2門ヲ装ス。本日海上静穏視界30浬」 といった記録である。
この資料を私が入手したのは最近だが、内容を検討する過程で意識にのぼったのは『蟹工船』の記述だった。
「この辺の海、北樺太、千島の付近まで詳細に測量したり気候を調べたりする」のが日本の「大目的」なのだという部分である。
日中戦争下の伏せ字の文庫
日中全面戦争下の中学生時代に私が読んだ『蟹工船・不在地主』新潮文庫)は伏せ字だらけで、とりわけ巻末に近い漁夫たちのストライキの場面などは、何度も読み返すことで、ようやく、弾圧したのは日本の警備艦であると判読したのである。
文庫はそれから2年後「俳句事件」に関連して家宅捜索を受けた時、特高警察に没収されたが、その時特高は「これだ!」と、動かぬ証拠でも発見したかのような声をあげた「新刊書店で売っていた本をなぜ没収するのか」という私の抗議に、彼は「ガキが生意気なことを言うな」と怒鳴った。
数年前、『民主文学』に、『蟹工船』を戦時下に読んだ時の他の人の感想を聞かせてほしいという意味の一文を書いたが、あの日中全面戦争下にも『蟹工船』は版を重ねていたのである。しかし、読み返すたびに、だれかに監視されているのではないかという不安に襲われたのは事実であった。だが、社会主義とか帝国主義という言葉の概念すらわからない中学生の思想や人生観に衝撃を与えたのも確かだった。
そのことに関して、ここで詳述する余裕はないが、戦争末期、学徒兵であった私が、学徒の特権をすべて放棄したのとそれは無関係ではなかった。 一般の常識からすれば、日中戦争下に『蟹工船』がなお重版を出していたというのは考えられないであろう。だが、戦後、何年も苦労してようやく探しあてた手元のそれは、奥付に「昭和12年9月25日30版」とある。
伏せ字を多くすれば、判読は困難とたかをくくっていたのか、戦争開始によって発禁処分というのは国民の反発や不信を招くと判断したのか、当局の意図はいまもよくわからないが、もし発禁にするなら「虚構の事実をあたかも事実であるかのように書いた」などとわけのわからぬ理由をつける以外になかったろう。なぜなら「虚構の事実」を事実であるかのように書くのが小説本来の目的であるからだ。 だが、『蟹工船』の「虚構の事実」は、虚構を突き抜けた現実そのものであったことが証明されたのである。
(たかさきりゅうじ=1925年生まれ。戦時史研究家。『戦時下のジャーナリズム』『上海狂想曲』『戦時下文学の周辺』ほか)。(「同盟サイト」より)
●2008.5.16・「しんぶん赤旗」→『蟹工船』売れ行きペース100倍/過酷な労働現実映す/メディアも注目
日本共産党員作家の小林多喜二の代表作『蟹工船』がこの春、異例の売れ行きを示しています。時ならぬブームにメディアも注目。すべての全国紙が報じたほか、テレビのワイドショーもとりあげています。
(北村隆志) 新潮社は新潮文庫『蟹工船・党生活者』を3月から合計57000部増刷しました。
同文庫編集部の佐々木勉さん(42)は「年間2500部だったものが、この数カ月は百倍のペースで売れている」と驚きます「ワーキングプアの現実に対して、怒りを増幅させてくれたり、勇気を与えてくれる本を求めていたのではないか」と言います。
最初に火を付けたのは東京のJR上野駅構内にあるブックエキスプレス・ディラ上野店でした。元フリーターの若い女性店員が新聞で『蟹工船』が話題になっているのを見て作品を再読「いまのワーキングプアにわかってもらえる小説だ」と、手製のポップ店頭ミニ広告)でアピールしたところ、週に80冊も売れ、文庫売り上げ第3位になる想定外の事態に。
話を聞いた他店も「過酷な労働環境を描いた名作が平成の『格差社会』に大復活」などとポップを立て『蟹工船』が目立つように工夫しました。
東京駅前の丸善丸の内本店では3月末からの売り上げの累計が230冊。同店の水澤正毅さん(24)は「通常では考えられない。うちは中年以上の読者が多い。有名だけど読んだことのない本の代表だったが、あらためて光があたり、読んでみようという気になったのだろう」と言います。
新日本出版社の「多喜二ライブラリー」も六年ぶりに増刷になりました。
異例のヒットに全国紙も「『蟹工船』悲しき再脚光、格差嘆き若者共感」「読売」2日付(夕刊)「蟹工船はまる若者」「朝日」(13日付)「突然のブーム ワーキングプアの〝連帯感〟」「産経」(14日付)などといっせいに注目しています。
TBS系テレビ「朝ズバッ!」もとりあげ、みのもんたさんが「プロレタリア文学の代表作です。いまの日本の状態を見ていると若者たちが憤慨するのは当たり前だと思う」とコメントしました。
発売中の『民主文学』6月号では、3月の「多喜二の文学を語る集い」での「蟹工船青年トーク」を収録「蟹工船エッセーコンテスト」で準大賞になった狗又ユミカさん(34)は〝多喜二から「現代は連帯するのが困難だろうが、泣き寝入りしなければ、恐らく勝つことができるだろう」と言われた気がする〟と語っています。
新潮文庫は、戦時下の日本共産党員の地下活動を描いた『党生活者』も同時収録しています。
『蟹工船』
北洋漁業における過酷な労働と、ついに立ちあがった労働者のストライキを描いた小説。1929年発表。蟹工船は捕ったカニを船内で缶詰にする漁船兼海上工場で、働く者のほとんどが低賃金・臨時やといでした。小林多喜二は実際の船員虐待事件を元に書きました。(「同盟サイト」より)
●2008.5.16・「しんぶん赤旗」→潮流
ことし、小林多喜二の『蟹工船』がブームとよばれるほど読まれています。『蟹工船』の書き出しは「おい地獄さ行ぐんだで!」のせりふです▼地獄の搾取に耐えかねた漁夫たちが果敢にたたかいを挑み、追いつめられる。ストライキ成功の望みも捨てきれない彼ら。1人がいいます「本当のこと言えば、そんな先の成算なんて、どうでもいいんだ。―死ぬか、生きるか、だからな」▼「日経」の「ベストセラーの裏側」という欄が、『蟹工船』人気について考え、書いています「作家は拷問で不慮の死を遂げたが、彼が残した小説は現代に生きる幸福な作品となった」十四日付夕刊)。残念ながら、『蟹工船』が共感をよぶ時代に生きる人々の生活が幸せとはいえません▼10年ほど前。ある飲食店の店長の話をききました。未明におよぶ仕事。残業代なし。ノルマが達成できないと自腹をきる。当時、彼は20歳そこそこのフリーターでした「名ばかり管理職」という言葉は、まだありませんでした▼24時間営業の安売りチェーンSHOP99の名ばかり店長、清水文美さん28)は、健康を害し休職に追い込まれました。残業代なしに29日間の連続勤務や4日間84時間の連続労働。彼は先日、残業代などの支払いを求め訴訟を起こしました▼がんばれ清水さん。『蟹工船』の漁夫はたたかうすべを知ったものの人権の保障がなく、『蟹工船』が今ほど本屋になかった10年前のあの店長は、まだたたかうすべを知りませんでした。(「同盟サイト」より)
●2008.5.14・「しんぶん赤旗」→朝の風「改めて多喜二没後75年を考える」
小林多喜二の没後75年の今年、各地の記念の催しがかつてない盛り上がりを見せた。『民主文学』の6月号は、民主主義文学会が主催した「多喜二の文学を語る集い」の講演を収録しているが、その中で『蟹工船』のエッセーコンテストの入賞者が登場した「青年トーク」に注目した。
「もっといい船に乗せろ」という出演者の叫びにもあらわれているように、そこでは多喜二の作品が今日の状況と重ねて語られている。それを読んでいて、逆に多喜二が虐殺された1933年の状況が、今と似かよっていることを考えた。
「ノンキナトウサン」を描いた麻生豊が、東京朝日新聞で、大学を卒業して就職口のない青年を主人公にした「人生勉強」という漫画の連載を始めるのが1933年の5月である。小津安二郎監督の「大学を出たけれど」の上映が1929年だから、インテリ層の就職の困難が長期に続いていたことがわかる。また、この年の2月の女学生の三原山火口への投身自殺をきっかけに、同所での自殺は1年間で未遂も含めて944人を数えた。最近の硫化水素自殺の続発を連想させる。
当時は失業、凶作、戦争への不安の中で、若者の閉塞感がつのっていた。歴史は繰り返すなどと言いたいわけではない。侵略戦争へと進んだ歴史を繰り返さないために、多喜二の作品を貫く団結のメッセージの若者への広がりを期待したい。(筑)(「同盟サイト」より)
●2008.5.13・「しんぶん赤旗」→「多喜二の生き方学ぶ・没後75周年」福島で映画と講演
日本共産党福島県委員会、治安維持国賠同盟県本部、国民救援会県本部の三者実行委員会は10日、福島市で「三・一五弾圧80周年、小林多喜二没後75周年 映画と講演のつどい」を開きました。会場がいっぱいとなる300人が参加「時代を撃て・多喜二」が上映され、治維法同盟中央本部の柳河瀬精・副会長が記念講演をしました。
最上清治・党県委員長が主催者を代表し挨拶「今日のつどいは、まさに時宜にかなった中で開かれた。青年の中で『蟹工船』が注目を集め読まれている。小林多喜二の生き方を今の時代に受け継いでいこう」と話しました。
柳河瀬氏は「治安維持法と今日の日本の問題」と題して講演「治安維持法は戦争へ国民を駆り立てるための国民弾圧法だった」と指摘。さらに「治安維持法で共産党や国民を弾圧し、絶対主義的天皇制を守る先頭に立ったのが特高官僚。彼らが戦後、政府の中枢に入っている」とし「戦後の反動的潮流を作る役割を果たした」と具体的に告発しました。
講演と映画について、町田理恵子さん(28)は「多喜二が、共産党が非合法の中で、命がけで文章を書き、人々に訴えたことに感動した。戦後、特高が日本の政治の中枢に入り、靖国派の源流の1つになっているということがよくわかった」と感想を話していました。(「同盟サイト」より)
●2008.5.3・「しんぶん赤旗」→「多喜二の生き方学ぶ、福島で10日講演と映画」
日本共産党福島県委員会、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟福島県本部、国民救援会福島県本部は実行委員会を結成し、10日、講演と映画のつどいを開きます。
治維法同盟中央本部の柳河瀬精副会長が「治安維持法と今日の問題」と題し講演「時代とき)を撃て・多喜二」の上映も企画されています。
実行委員長の最上清治党県委員長は「『蟹工船』が青年の中で話題になるなど、多喜二の作品の生命力が今、輝いている。時代を切り開く多喜二の生き方を受け継ぐ機会にしてほしい」と参加を呼びかけています。
同企画は、10日(土)午後1時半開会。JR福島駅西口・コラッセ福島。整理券1000円。(「同盟サイト」より)
●2008.4.27・「しんぶん赤旗」→『ガイドブック小林多喜二の東京』
「東京の秋は何処まで深くなるのですか」と、小林多喜二が友人に手紙を出したのは、1930年、中野区の豊多摩刑務所からでした。多喜二ゆかりの東京の各地を、写真をたっぷり使って案内する『ガイドブック 小林多喜二の東京』(編集委員会編、税別1048円)が、学習の友社から刊行されました。
映画「母べえ」の登場人物のモデル、独文学者・野上巌が営んだ大衆書房は、多喜二も立ち寄った所「杉並ピースウオーク」の岩崎健一さんの調査で所在地が明らかになっています。多喜二の東京暮らしは、1933年に築地署で虐殺されるまでの3年足らず。その足跡をしのぶよすがになります。(「同盟サイト」より)
●2008.4.23・「しんぶん赤旗」→「多喜二文学考える講演」青森
治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟青森県本部と東青支部は19日、青森市文化会館で、戦前の大弾圧(1928年)の「三・一五事件」、29年の「四・一六事件」)、小林多喜二没後75周年を記念する集いを開きました。県内各地から60人が参加しました。
中村勝巳県本部会長の挨拶の後、講演、ビデオ「時代(とき)を撃て・多喜二」の上映が、おこなわれました。
「多喜二文学の今日性を考える」と題して講演した市川渓二氏(青森文学同人)は、実践し、学習する中でプロレタリア文学者として成長した多喜二について語り、多喜二の思想形成に深く影響を与えた青森県出身者にもふれて「多喜二の生きた時代背景から学ぶことの多い現在をしっかり生きよう」と結びました。 ビデオの上映では、会場がシーンと静まり、参加者は画面に引き込まれるように見入っていました「涙が出て止まらなかった」という感想も聞かれました。野村けい子副会長の「国会請願署名を成功させよう」の訴えに、参加者が拍手で応えました。(「同盟サイト」より)
●2008.4.20・「しんぶん赤旗」→本立て「小林多喜二私論」右遠俊郎著
作家である著者の小林多喜二の作品論など10本を収めています。1970年に発表した「『蟹工船』論の試み」は『蟹工船』がデビュー作に続く第2作であるがゆえに、多喜二の作家としての基本姿勢が「骨太くつらぬいて」いると指摘。集団のなかに「『前衛』らしき影を忍びこませて」いると読み取った画期的な論です。
「『一九二八年三月十五日』論」は、この小説が、天皇制権力の残虐さを暴きつつ、解放運動に参加する知識人の条件を問うという潜在的なテーマの描出にも成功していることを論述。作家ならではの分析が光る論集です。(本の泉社・税別1524円)(「同盟サイト」より)
●2008.4.7・「しんぶん赤旗」→「小林多喜二の作文教師渡辺卓のこと」尾西康充
文学に目覚めるきっかけを小林多喜二に与えたのは北海道庁立小樽商業学校(小樽商業高校)の国語教師・渡辺卓であったといわれている。多喜二は、当時校内で「卓さん」と呼ばれて生徒たちの間で人気があった渡辺から大きな影響を受けていた。手塚英孝氏によれば、渡辺は作文の時間に2、3の推薦作を読みあげるのを例としていたが「多喜二の文章はいつもその選にはいっていた」という『小林多喜二』(新日本出版社)。
渡辺は1890年1月4日、三重県一志郡川合村須ヶ瀬(津市久居須ヶ瀬)に生まれた。藤堂藩が嗣子断絶による改易を防ぐために設けた支藩・久居藩の藩士を先祖に持つ三重県士族の家柄であった。県立第一中学校(津高校)、神宮皇宮学館本科(皇学館大学)を卒業した後、1916年4月に小樽商業学校に赴任した。
同校本科1年の6月、当時14歳の多喜二は「健康の必要」という作文のテーマを渡辺から与えられ、公園のベンチで結核患者と健康な者との対話形式の文章を書いて大いにほめられた。ざっくばらんでユーモアにあふれた教師の人柄に魅せられて文学の世界に興味を抱くようになった。
型にはまらない性格の渡辺は小樽時代、芸者と共に3曲合奏(三味線と琴、尺八の合奏)で舞台に出演して校長から大目玉を食ったことや、両親からの猛烈な反対を押しきって泥水稼業の女性と結婚するが、離婚を余儀なくされてしまったことがあった。立場や境遇によって人間を差別しない、ひとたび決心すればかならず行動に移すという渡辺の気質は、万難排して田口タキを酌婦の苦境から救い出した多喜二の精神に受け継がれている。
この後、渡辺は1918年8月に新潟商業学校(県立新潟商業高校)に転任する。さらに久留米高等女学校(福岡県立明善高校)、豊津中学校(同育徳館高校)と移動し、1940年には戸畑高等女学校(同戸畑高校)校長に就任する。この間、古典文学の研究に励み『訳註万葉集女性の歌』(1929年、関書院)を上梓する。
多喜二が『戦旗』防衛巡回講演会のために伊勢・有楽座を訪れたのは、地元新聞の報道によれば1930年5月20日とされる(「伊勢新聞」、5月22日)。入会権をめぐる朝熊闘争の指導者で、植木等の父・徹之助が開会の辞を述べようとするや否や臨監警官から「中止」され、多喜二をはじめ伊勢出身の江口渙、片岡鉄平、貴司山治、徳永直の講演も「弁士中止」が連発された。会場には「神宮皇学館学生を初めプロ文芸愛好青年約200名」と「婦人の聴衆も10名位」が集まっていたとされる。皇学館は神宮司庁内に設けられた内務省所管の官立専門学校であったが、足立巻一などのリベラルな学生も存在した。多喜二は渡辺の母校の学生を前に、社会の変革をうながす文学への情熱を意気軒高として語ろうとした。
将来を嘱望されていた長男圭吾が1945年4月1日、フィリピン・レイテ島にて23歳の若さで戦死すると、渡辺は悲嘆を紛らわすために、過度の飲酒にふけるようになる。戦後は八幡大学(九州国際大学)教授になるが、同校の停年をむかえた1958年3月、三重県津市桜橋に転居する。蛍雪学院という予備校の講師を務めるが、まもなく脳卒中で倒れ、7年間病床に臥したまま1969年7月に死去する。享年79。多喜二のことは家族に話したことがなかったというが、むしろこの沈黙のなかにこそ、侵略戦争に反対して虐殺された多喜二と、侵略戦争の結果戦死した長男とに対する深い哀惜が感じられるのである。
これまで不明であった渡辺氏の消息は、名古屋在住の末娘・鬼頭正子氏を通じてご教示いただき、松阪と伊勢での『戦旗』防衛巡回講演の状況は、地元新聞の報道をふまえた岡村洋子氏の論文「三重近代文学研究序説」「三重大学日本語学文学」第11号、2000年6月)を参考にしました。(おにしやすみつ・三重大学準教授)(「同盟サイト」より)
●2008.3.30・「しんぶん赤旗」→文化「小林多喜二没後75周年各地で集い・時代に挑戦した姿」
作家の小林多喜二が29歳で天皇制によって命を断たれて75周年のことし、1月から3月にかけて全国で記念の催しが開かれました。「多喜二の時代への挑戦を受け継いでいきたい」など、参加者に感動の輪が広がりました。(児玉由紀恵) ・不破哲三日本共産党社会科学研究所所長が講演/杉並・中野・渋谷多喜二祭  20回目を迎えた東京の「杉並・中野・渋谷 多喜二祭」2月26日)では、不破哲三日本共産党社会科学研究所所長が「小林多喜二 時代に挑戦した5年間―『一九二八年三月十五日』から『党生活者』『地区の人々』まで」と題して記念講演しました。
不破さんが多喜二を語るのは、30年ぶり。全国から1200人が参加し、熱心に聞き入りました。
多喜二がデビュー作『一九二八年三月十五日』を執筆した1928年から、1933年に虐殺されるまでの間は、5年足らずの短い期間。不破さんは、その間に、多喜二が、大きな「自己発展力」を発揮し続けたと驚きを表明しました。 戦争と軍国化の時代にひとりの人間として立ち向かい、作家としてその時代を描き出す―この2つの面で「時代への挑戦」をした多喜二を「多喜二自身の歴史のなかで」読みたい、と切り出しました。
『一九二八年三月十五日』『蟹工船』などで、貧困を描くだけではなく、貧困を生み出す社会の仕組みに正面から目を向け、これを打破する闘争を主題としたこと。不破さんは、そこに多喜二の文学の1つの飛躍的発展があったと指摘しました。さらに1931年、中国への侵略戦争の開始の時期に、プロレタリア作家同盟の書記長になり、日本共産党に入党したこと。それが、新しい飛躍への転機になった、と続けました。
不破さんは、多喜二の文学評論のなかに、新たな飛躍への「跳躍台」となる文学精神があることをくみ取り、多喜二の二つの長編の構想を明らかにしました。 その1つは『転形期の人々』です。
もう1つは、1932~33年に執筆した3つの中編『沼尻村』『党生活者』『地区の人々』)を大きな長編の世界として考えることです。この三つの作品を重ね合わせて読むとき、それが明らかになると、作品内容に即して述べました。
その大長編で多喜二が描こうとしたのは、侵略戦争反対、生活防衛の労働者・農民の闘争と、それに結び合い、弾圧に屈せずたたかう日本共産党の姿だったと、不破さん。その「一大叙事詩」が、虐殺によって断ち切られ、構想のままで終わったのは「痛恨の極み」と述べ、これらの作品群を「大きな流れのなかで発展的に」読むことを呼びかけました。
講演は「多喜二ともう一度向き合いたい」「短い時間のなかで自己発展してきたのはすごい」と、参加者に大きな反響を広げました。
多喜二祭実行委員会会長の能島龍三さん(作家)は語ります。
「多喜二をまるごととらえて、文学と政治を統一して話されて説得力がありました。大長編の構想は、今まで考えてもみなかったことで、実行委員会のみんなにも驚きが広がりました。新鮮な刺激を受け、あらためて作品を読み直してみたいと思っています」。 ・世代と国境を超えて/多喜二の文学を語る集い
ことしの多喜二の集いの最後を飾ったのは、日本民主主義文学会、多喜二・百合子研究会が共催した「多喜二の文学を語る集い」です。(3月15日) 開幕の「青年トーク 『蟹工船』を語る」では「私たちをもっと良い船に乗せろ」という青年のパワーがあふれました。 (韓国から来日した朴眞秀パク・ジンス) 暻園大学教授は、多喜二の文学と自分の青春について語りました。学生運動の激しかった80年代に大学で学び、多喜二を専攻すると就職に不利だと教授に言われたが、修士論文で多喜二を書いたといいます。それが自分の「革命運動」だったと語る朴さん。国境を超えて多喜二が熱く受けとめられていると思わされます。 青年トークの司会を務めた作家の浅尾大輔さんは、語ります。
「雇用破壊が進み、最前線で苦しんでいる若者たちと多喜二の文学との結びつきを目の当たりにして、僕自身、文学の原点に引き戻された気がします。ともにより良い社会を目指し、たたかう人々を励ます作品を書いていきたい、と思いを新たにしています」(「同盟サイト」より)
●2008.3.23・「しんぶん赤旗」→「時代を撃て、多喜二」上映/北見で集い
小林多喜二没後75年、三・一五大弾圧事件80周年を記念する集いがこのほど、北見市で開催されました。
 集いでは、1933年2月20日、特高の拷問で29歳の若さで殺されたプロレタリア作家・小林多喜二のひたむきな青春と激動の昭和初頭をたたかい抜いた姿を描く長編ドキュメンタリー映画「時代を撃て、多喜二」を上映しました。上映会は治安維持法国賠同盟北見支部と北見年金者九条の会が主催しました。
用意した席を大幅に上回る80人が参加し、1時間半に及び画面にくぎ付けになりました。
上映会には三・一五事件の犠牲者の1人で同市に住む景川弘道さんが元気な姿をみせました。 参加者からは「映画に感激しました。これはけっして過去のできごとでなく、現代に通じるものがあると思います」「多喜二の作品『蟹工船』を若い人たちにぜひ読んでもらいたい」と感想が寄せられました。(「同盟サイト」より)
●2008.3.23・「しんぶん赤旗」→私たちはいかに『蟹工船』を読んだか/エッセーコンテスト入賞作品集/多喜二と若者の不幸で幸福な出会い
プロレタリア小説と言われても何のことかわからない若者たちは数多いだろう。そのプロレタリア小説『蟹工船』を読んだ若者たちが身につまされる感想を寄せた『蟹工船』は、戦前、治安維持法によって捕らえられ拷問死した作家小林多喜二の代表作である。
極寒の北海道、缶詰加工船のすさまじい労働現場と暴力的搾取を活写したこの作品を、いま、高校生が、派遣労働者が、ネットカフェ住人が読む。そして浮かび上がるのは、1世紀近くを隔てながら重なり合う奴隷的労働の現実である。深夜3時から始まる会議のお茶くみを強要される女性社員、コンビニのマスクを買ってアスベストだらけの建物で働く派遣労働者、1日十数時間休みなく働くことが当たり前のファミレス店長……若者たちのごくごく普通の毎日が、そんな働き方から成り立っていることを、感想文はリアルにつたえている。
午前3時にまだ働いている店長を気遣うアルバイトが、過労死してしまうのではと問いかけ「人間いつかは死ぬもんだよ」と店長におどけて答えられる痛切なくだり。それは「俺あ、キット殺されるべよ!」「馬鹿! 今、殺されているんでねえか! 小刻みによ」という『蟹工船』の一節と、痛ましくも見事に響き合う『蟹工船』をそのように受けとめる若い読み手たちのやわらかく鋭い感受性もまた見事だ。
白樺文学館多喜二ライブラリーが編んだこの小さな本は、プロレタリア小説と現代日本の若者たちとの、不幸で幸福な出会いをもたらした。不幸とは、使い捨てられる労働者の人生が、遠く過ぎ去ったことがらではなく、いま現に日本社会のいたるところに溢れているということ。幸福とは、世間から忘れ去られた作品が、同様に隠されている若者たちの貧困と過酷な生の実相とを明るみに出したこと。長い時を超えて生まれるその応答関係にこそ、読み手の生に語りかける小説の力が宿っている。
評者 中西新太郎 横浜市立大学教授。白樺文学館多喜二ライブラリー 2003年7月開館。(「同盟サイト」より)
●2008.3.19・「しんぶん赤旗」→若桑みどりと小林多喜二/栗田禎子
昨年の秋急逝した若桑みどり0935~2007)は、優れた美術史家であると同時に、民主的な「行動する知識人」であり、戦争やジェンダー差別とのたたかいに終生を捧げた人物だった。この若桑みどりと小林多喜二の間に接点があったことはあまり知られていないと思われるので、ここに記しておきたい。
筆者が職場(千葉大文学部)の先輩だったみどりから聞いたところでは、子ども時代のみどりの家東京都内)には小林多喜二の母、セキさんが親しく出入りしていたという。
みどりの父、山本政喜(1899~1960)は英文学者であり、ディケンズの『大いなる遺産』やメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』、あるいはベラミーの『顧みれば』といったユートピア小説の翻訳等で知られる。同時にナップ(全日本無産者芸術連盟)の活動にかかわっており、その関係で小林多喜二とも交流があったらしい。
幼少時のみどりにとって「小林のおばちゃん」は、山本家の子どもたちをかわいがり、世話を焼いてくれるごく身近な存在であって、長じて、その息子多喜二の仕事や人生について知った時は驚いたという。また、みどりの祖母は後年、みどりが初めてボーイフレンドを自宅に連れて来たとき「小林多喜二以来の美男子」だと評したというから、生前の多喜二本人が山本家を訪れたこともあったのかもしれない。
若桑みどりは別の機会に筆者に、幼少時「お勝手の窓の外をのぞくと特高が立っていた」記憶を語り、それが今、自分が平和や学問の自由を守るためならば、反動勢力と時には恐怖にさらされながらも)たたかう原動力になっている、と話していた。多喜二や、みどりの父たちの運動の水脈は、時を越えて、平和と民主主義をめざす現在のたたかいにつながっている。(くりたよしこ=千葉大学教授)(「同盟サイト」より)
●2008.3.17・「しんぶん赤旗」→列島だより/広島/多喜二祭をひらく
日本共産党員作家の小林多喜二の没後75周年にあたって9日、広島市中区で「広島多喜二祭」が開かれました。同祭実行委員会と治安維持法犠牲者国賠同盟広島県本部が主催し、映画「時代を撃て・多喜二」の一部が上映されました。(「同盟サイト」より)
●2008.3.16・「しんぶん赤旗」→『蟹工船』共感の世代/青年ら多喜二を語る/東京で集い
15日、東京で多喜二の文学を語る集いが開かれ、青年や日韓の研究者らが語り合いました。参加者は900人を超えました。 青年トークで『蟹工船』エッセーコンテストで大賞を受賞した山口さなえさん(26)は、不当解雇され労働組合も助けてくれなかった経験から「私たち世代が絶望にならざるを得ない構造を、現代の蟹工船として書きたかった」と発言。長く派遣で働いた同準大賞の狗又ユミカさん34)は「『蟹工船』に共感するプレカリアート不安定労働者)を代表して言いたい。『私たちをもっといい船に乗せろ』」と叫びました。 韓国・〇園大学の朴眞秀(パク・ジンス)教授は、80年代の民主化運動のなかで多喜二を研究したが、大学院で「就職に不利」と教授に止められたことを語り「多喜二の小説と同じように、修士論文を書くことが革命運動の一環だった」と語り、大きな拍手を浴びました。
和光大学の祖父江昭二名誉教授は『一九二八年三月十五日』を通して多喜二文学の特徴に迫るとともに、志賀直哉の影響と違いについてふれ「プロレタリア文学運動が挫折した後も、久保栄の『火山灰地』などに受け継がれていった」と話しました。
女性講談師の宝井琴桜さんが「小林多喜二の母」を軽快に演じました。
東京・中野区の女性(27)は「私たちも非暴力的だが、ひどい仕打ちを受けている。世の中を変えなければいけないと思った」と話していました。(「同盟サイト」より)
●2008.3.16・「しんぶん赤旗」→戦前の「3・15」大弾圧事件80周年/小林多喜二にふれて/荻野小樽商大教授が講演
札幌市内で15日、戦前の「3・15」大弾圧事件80周年記念講演会が開かれました。用意した席が開会前にいっぱいになるなど170人が参加し熱気にあふれました。日本共産党道委員会、治安維持法国賠同盟道本部、国民救援会道本部、自由法曹団道支部、民青同盟道委員会が主催しました。
戦前、天皇制政府は、治安維持法により、日本共産党をはじめ労働者、農民、青年、婦人、宗教者などの団体、個人を徹底的に弾圧し、国民の思想・信条の自由を奪い、侵略戦争に突入しました。その手始めとなった1928年3月15日の大弾圧から今年がちょうど80年です。
治安維持法国賠同盟道本部の外尾静子会長が挨拶、小樽商科大学の荻野富士夫教授が「『三・一五』事件の現代的意義―小林多喜二にふれて」と題して講演しました。
荻野氏は、戦前、治安維持法のもと特高警察がでっちあげた言論弾圧・えん罪事件である「横浜事件」で最高裁が上告棄却、有罪無罪の判断をしない「免訴」とした判決について批判しました。
また3・15事件について、当時の新聞記事を参照しながら、道内で500人を超える人たちが検挙・弾圧された実態を説明、事件がなぜ起こったか、3・15事件のあとがどうなったかなどについて話しました。
荻野氏は、今年の小樽での多喜二祭にふれ、若い人たちに『蟹工船』があらためて注目されているとし「若い人たちは豊かな感性をもち表現できる」と語りました。
日本共産党道委員会の石橋哲郎副委員長は「『蟹工船』に書かれた戦前の非人間的な労働が、非正規雇用が増えている現代にも通じている。アメリカ、財界いいなりの政治の転換のため、共産党は全力をあげる」と決意をのべました。
会場からの発言で、苫小牧の治安維持法同盟の男性が、昨年、支部のツアーで「東倶知安行」の舞台となった地域を訪問したことを紹介。通信労組の男性は『蟹工船』で描かれた当時の実態が、NTTなど今の大企業の職場でも同様の状態が広がっており、この事態を打開することが重要だと訴えました。
国民救援会道本部の守屋敬正会長は「言論、思想の自由が侵害されようとしている。おかしいことはおかしいと声を上げよう」と呼びかけました。(「同盟サイト」より)
●2008.3.13・「しんぶん赤旗」→小樽多喜二祭についての佐高信氏の社会的常識に反する言動/小樽多喜二祭実行委員長寺井勝夫
小林多喜二没後75年にあたる小樽多喜二祭は、2月20日当日の午後の墓前祭とそれに続く夜の「小樽・多喜二を語る夕べ」が開かれました。これに参加した『週刊金曜日』発行人の佐高信氏が、3月16日号の『サンデー毎日』誌上で「文学を政党の僕にしてはなりませんね」「佐高信の政経外科」)と題する一文をのせています。
その中で彼は墓前祭に参加し「墓前祭全体に漂う共産党臭が鼻について、私は1人、とっとと坂を下ってきました」とのべ、その夜の夕べで「挨拶を求められ、私は抑えきれなかった憤懣ふんまん)を爆発させ」たとして「私は昼に墓前祭に参加して悲しくなりました。あまりに政党が前面に出て、その宣伝臭紛々だったからです。〝主人持ちの文学〟という言葉がありますが、あれでは〝主人持ちの葬式〟ではありませんか」「政治的な少数派が勝つ道は文学を含む文化を大事にして、その可能性に賭けるしかない」「それなのに、文学を政党の僕にしていては勝てるわけがありません。このままの墓前祭なら、私は2度と参加しないでしょう」と発言したと書いています。
断っておきますが、小樽で多喜二文学を愛し、その業績に共鳴する人々で多喜二祭実行委員会をつくり、多喜二の命日にあたる2月20日に墓前祭とあわせて記念の夕べを開くことになったのは、戦後の一時期をのぞき、80年代以降であり、すでに20年以上にわたっています。今回の墓前祭でも、すぐれたプロレタリア作家であるとともに、まぎれもなく共産党員であった戦前の先達の1人小林多喜二を偲び、その意志を継ぐ共産党や治安維持法犠牲者国賠同盟の挨拶挨拶)を受け、また全国各地の多喜二祭実行委員会や文学団体、個人のメッセージも紹介してきました。至極あたりまえのことではありませんか。
しかも佐高氏も参加した夜の「多喜二を語る夕べ」は『蟹工船』を現代の若者がどのようにとらえたかを主題に、小樽商科大学と白樺文学館多喜二ライブラリーの共催による読者エッセーコンテストの授賞式が当日同大学でおこなわれたのを機会に、その審査にあたった方々を講師に、受賞した若者15名も舞台にあがり、多喜二文学への思いを語ってもらうプログラムでした。
それに対し、事の成り立ちや経過についての理解もなく、個人的な憤懣を一方的に語り、文学を政党の僕にしてはならないなどという場違いな佐高氏の言動こそ、一人よがりの不見識な態度ではなかったでしょうか。夜のつどいに参加した400名をこえる人々は、現代の若者をとりまく、きびしい現実と環境の中で、そこに多喜二文学を引き寄せて、いまに続く多喜二の生命力に共感の拍手を送りました「政経外科」の佐高氏の指摘は杞憂に終わっただけでなく、佐高氏の発言の異様さを浮き立たせました。
なお、佐高氏の書きぶりでは、彼の挨拶をこちらから頼んだかのようですが、実際は昨年11月、『週刊金曜日』から、多喜二の事跡を訪ねるツアーを組みたい、多喜二祭にも参加するが、その際、佐高氏にぜひ挨拶させてほしいという企画担当者の要請があり、実行委員会として検討の上で、プログラムの中に加えたものです。挨拶をさせてほしいと要請しておいて、一方的に見当違いの非難をすることは、社会的常識に反することではないでしょうか。
また後日、『週刊金曜日』ツアー担当者一同の名前で「有意義な『墓前祭』『夕べ』に出席できたことは参加者一同大きな喜びとするところです」という内容の私と実行委員会あての手紙を寄せてきたことをつけ加えておきます。(寄稿)(「同盟サイト」より)
●2008.3.12・「しんぶん赤旗」→広島で多喜二祭
日本共産党員作家の小林多喜二の没後75周年にあたって9日、広島市中区で「広島多喜二祭」が開かれました。同祭実行委員会と治安維持法犠牲者国賠同盟広島県本部が主催し、約60人が参加しました。
映画「時代を撃て・多喜二」の一部が上映され、同県本部の山田慶昭会長が「戦争に突き進んだ天皇制による弾圧と勇敢にたたかった多喜二から、現代を考え合いたい」と開会挨拶。民主主義文学会広島支部長の村中好穂氏が記念講演をしました。(「同盟サイト」より)
●2008.3.11・「しんぶん赤旗」→小林多喜二の文学と私の青春/朴眞秀
小林多喜二は私より70年も前の時代を生きた先人です。しかし私にとって彼は、ほぼ同時代を過ごした、ちょっとした兄貴のような感覚で浮かんできます。それは、はじめて多喜二の作品に接したときから、強く共感を覚えながら読んだからではないかと思います。
私の20代、1980年代のソウルは、激動の時空間でした。
79年独裁者朴正熙の急死による民主化への期待は、80年の光州事件以来、全斗煥の率いる2つ目の軍事政権の登場により、挫折してしまいました。
以後、韓国全土の大学では、政府に民主化を要求する学生デモが、だんだん激しくなっていきました。特に大統領の直接選挙を求めた87年6月には、学生運動が一般市民の熱烈な支持を得て、連日数十万人のデモが続くと、軍事政権はやむを得ず制度的民主化を約束します。
83年、大学に入学した私は、ほとんど毎日催涙ガスとたたかいながら4年間を過ごさなければなりませんでした。このような社会的空気のなかで私は、当時禁止されているマルクス主義と、労働運動・階級闘争に関する書籍を読みはじめたのです。
しかし、日本文学専攻の私には、社会科学の理論書より、日本のプロレタリア文学のほうに、当然目が向けられました。
このなかで、心をひいたのが、多喜二の『一九二八・三・一五』でした。三・一五事件を、多様な人物の視点からとらえている、その技法的側面もおもしろく思われました。
多喜二は結果的に、蔵原惟人)の理論の「前衛の眼」を、単なる「闘士の眼」ではなく「弱者の眼」として構成しています「眼」は「視点」とかかわる問題です「自分の眼」に閉ざされず「相手の眼」「他者の眼」へと客観化し、また立場を置き換えてみる柔軟性、これこそ反エゴイズム=ヒューマニズムの芸術ではないでしょうか。
 今回の集いでは、多喜二の文学が、はからずも80年代の韓国の若者に与えた影響を、私の体験を中心に、お話し申し上げます「集い」のニュースから転載) 多喜二の文学を語る集い=15日午後1時半開演、東京・みらい座いけぶくろ(豊島公会堂、JR池袋駅東口徒歩5分)。朴眞秀、祖父江昭二、宝井琴桜『蟹工船』エッセーコンテスト入賞者ほか。当日1700円。主催・日本民主主義文学会、多喜二・百合子研究会。電話=03(5940)6335
パク・ジンス=韓国・暻園大学教授。1965年ソウル生まれ。韓国高麗大学文学部卒、東京大学大学院総合文化研究科卒、博士。日本近代文学専攻。(「同盟サイト」より)
●2008.3.5・「しんぶん赤旗」→ひと/『蟹工船』読書エッセーコンテストで準大賞を受賞須藤れなさん
「作者は世界が変わってほしいと思って、これを書いたのだと思う」 特高警察の拷問で虐殺された小林多喜二の代表作『蟹工船』。その読書エッセーコンテスト(小樽商科大学・白樺文学館多喜二ライブラリー主催、25歳以下対象)で、高校生としてただ1人入賞しました。
本が好きで、部活は図書部に所属。そこで先生から応募をすすめられました。
「内容が難しくて、最初は無理だと思いましたが、3回読み直し、今の自分にしか書けないことを表現しようと思いました」
何度も書き直したという感想文。嵐でも漁に出され、少しでも休むとリンチに合う過酷さに「ひどい、ひどすぎる」と驚きつつ、父親の給料の額を聞いて「こんなに働いてもこれくらいしかもらえないものなのか」とがっかりしたことを思い出しました「根本的には今も何も変わっていない」「悪い事と知っていて国民を苦しめている人たちに『目を覚ませ』と言ってやりたい」と書きました。新日鉄の関連会社で働く父親の敏久さん(45)は「私のことも書いてありますが、皆さんの目にとまればうれしい」といいます。「小さいときから引っ込み思案」とは、本人の弁ですが、父親は「見かけより活発ですよ」と。
授賞式は2月20日、多喜二の故郷の小樽で。
「小樽は伯母夫婦が住んでおり、小さいころから何度もきた思い出の地です。私のような意見でも、作者の志がいろいろな人に伝わり、少しでも変化を感じてもらえればうれしい」(文=北村隆志、筆名・神田ユウ。北海道・室蘭東翔高校1年生。室蘭市在住。16歳)(「同盟サイト」より)
●2008.3.2・「しんぶん赤旗」→旅/北海道・小樽市/急坂の向こう多喜二の世界
日本共産党員作家である小林多喜二没後75周年。20年あまり、彼が育った小樽市にその足跡を訪ねました。
JR小樽築港駅で下車。駅前には、住居跡標識が、大雪で上部だけ顔を出していました。国道5号沿いに小樽駅に向かうと、休まず通った潮見台小学校が右手にあります。
タクシーで小樽高等商業学校(現小樽商大)に向かいました。小樽は坂の街。多喜二が通った小樽商業学校(現小樽商業高校)の手前からかなりの急坂です。地獄坂の標識が雪に埋もれ、「地獄」の文字だけが見えました。
小樽商大図書館に多喜二の蔵書があり、頼めば見ることができます。
坂を下ると左手に文学碑に行く道がありますが、冬期間は通行止め。かつて訪ねた時は緑に囲まれて、本を見開きにした大きな造型がありました。
鉄道との交差点まで下ると、左手に小説『一九二八年三月十五日』の舞台となった小樽警察署があります。小説は、当時非合法で活動していた日本共産党をはじめ革命勢力への大弾圧である「3・15事件」を描いたものです。小樽の仲間から聞いた警察権力の残虐な拷問とその本質を憤りをもって暴露し、大きな反響を呼びました。この作品が1933年2月20日、多喜二が特高警察に拷問で虐殺されたことと無関係ではないと思います。
その道を小樽運河に向かって歩くと、市立小樽文学館です。多喜二のコーナーがあり、足跡がわかります。全集未収録の「老いた体操教師」が昨年3月に発見されたこともあり、文学館30周年記念企画展として「投稿少年小林多喜二86年目の新発見」(3月30日まで)が開かれています。入館者には小冊子「老いた体操教師」が渡されます。
文学館から少し行くと、勤めた元北海道拓殖銀行があります。今はホテルで、建物そのものは当時のままです。このあたりは「北のウォール街」とかつて呼ばれ、運河、倉庫群とセットになった観光スポットです。運河を北に歩くと、右手に北海製罐が見えてきます『工場細胞』の舞台となったところです。当時のままの建物もあります。運河には漁船が係留され、かつての雰囲気を味わえました。 文学館に戻ると、多喜二祭実行委員長の寺井勝夫さん、事務局長の斎藤力さんが迎えに来てくれ、田口タキとのデートコースだった水天宮に案内してくれました。小樽の街と港が一望できます「今年の多喜二祭は、最近、またブームになっている『蟹工船』の影響で、若い人が40人も参加してくれた」とうれしそうでした。 小樽はすしの街。経営者がファンで「多喜二」と名付けた店の前には、多喜二が雪について書いた文章を彫った石碑までたっていました。雪が激しくなり、汽車も遅れそうです「もっと居たい」との思いを胸に、小樽を後にしました。(佐藤俊明)(「同盟サイト」より)
●2008.2.29・「しんぶん赤旗」→小林多喜二没後75周年/時代見通し責任を貫く/『蟹工船』を朗読/鈴木瑞穂さん
俳優の鈴木瑞穂さんは、『蟹工船』の朗読後、多喜二の作品への思いを次のように語りました。
『蟹工船』で描かれたものは、形を変えて、今にも通じると思います。低賃金で過酷に使われる現代と同じ。多喜二は先見の明があったんですね。
今回は、普通の朗読ではなく、1つのドラマとして語りたいと考えていました。会話の部分に気を配り、どんどんと甲板に人が集まり、膨れあがっていく様子を表現したかったので工夫しました。
多喜二が殺されたとき、私は5つくらい。十五年戦争で毎日人が殺されていくのが当たり前と思っていました。そんなとき、多喜二が先を見通して主張したことはすばらしい。
先を見通していた人を殺す世の中はおかしいです。今の世の中「自分とは関係ない」や「自分が、自分が…」という風潮がありますが、一人ひとりが自分の責任を考えてこそ、自由や民主主義が成り立ちます。多喜二は自分の責任をきちんと考えていた、これは近代的だと思います。殺される危険をおかして、時代を見通す責任を貫いて生きたところに感動を覚えます。(「同盟サイト」より)
●2008.2.29ビキニデーへ意気込み/青年「私たちが運動つくる」/東京・杉並
「平和の運動は私たちがつくる」。一日から静岡県内で開かれる「3・1ビキニデー」に、東京・杉並区の杉並青年九条の会から、7人の青年が参加します。アメリカによる水爆実験被災から54年目のビキニデーに初めて参加を呼びかけました。原水爆禁止運動の発祥の地ともいわれる杉並区で、青年の平和運動が芽吹いています。
・目標でつながって
杉並青年九条の会は3年前「5・3憲法集会」に参加した青年たちが結成。一度でも活動に参加すればメンバーになれ、メールや口づてで数十人に広がっています。
 山田耕平さん(27)は「夜8時まで仕事をしている青年が、目の下にクマをつくって行動に参加しています。大丈夫かと声をかけたくなるけど、カツカツの生活のなかで、わずかな余暇を平和活動に使うことに生きがいを見いだしているんです」と話します。
残業代が出ず労働基準監督署に訴えたデザイナー、人手不足に悩む看護師、何年働いても社会保険に入れてもらえない医療事務職、手取り14万円の介護職員など、仕事で困難を抱えながらも活動に参加しています。
地域の核兵器廃絶の署名活動も仕事で参加できないため、月1回夜、青年独自で憲法九条を守ろうと行動しています。
ビキニデーに参加する野垣暁子さん(27)は「大学のサークルみたいなノリだけど、平和や民主主義の目標でつながっているから安心感がある。まじめに語ることが恥ずかしいという風潮があるけれど、こういう時代だからこそ、仕事のことも平和のことも考え、語らざるをえない」といいます。野垣さんも以前は、アルバイトを掛け持ちしていました。
青年をつなぐのは「平和の願いはみんな同じ」という連帯感です。 会として初めて参加をよびかけた2007年夏の原水爆禁止世界大会・長崎には、会員を含め杉並から十数人の青年が参加しました。参加した山田さんは「全国の青年との交流で一体感が生まれ、勇気づけられた。思いが一緒だということに喜びを感じる」と話します。
会の活動は、世界大会後「青年らしい運動を作り出したい」とより積極的になりました。大会の報告にまわるなかで地域に住む被爆者や戦争体験者と知り合い、体験を聞く会が始まりました。
・多喜二ゆかりの地
東京・国分寺市の青年九条の会と実行委員会をつくり、区内で開いた元米海兵隊員のアレン・ネルソンさんの講演会(2月1日)には270人が参加しました。ここでも「平和について考えている青年は自分だけじゃなかった」と青年に大きな反響をよびました。
杉並は、反戦・平和を訴えた戦前の日本共産党員作家・小林多喜二ゆかりの地でもあります。
「非人道的な働かせ方をさせられる今が、小林多喜二の時代と重なる」と野垣さん「平和運動をするにあたって、平和と民主主義を貫いたその生き方を受け継ぎたい」といいます。
「原水爆禁止運動の発祥の地といわれる杉並で活動するのは責任を感じるし、元気が出る」とも「青年同士をつないでいきたい。運動も歴史も自分たちがつくっている、という気持ちです」(大野ひろみ) ・ビキニデーの主な企画 【被災54年3・1ビキニデー墓参行進】3月1日(土)午前9時半JR焼津駅南口集合)※主催・被災54年3・1ビキニデー静岡県実行委員会、日本宗教者平和協議会
【久保山愛吉氏墓前祭1日午前10時半~11時半(弘徳院)※主催・日本宗教者平和協議会
【被災54年2008年3・1ビキニデー集会】1日午後1時―3時半焼津市文化センター)※主催・原水爆禁止世界大会実行委員会、3・1ビキニデー静岡県実行委員会
【3・1ビキニデー日本原水協全国集会・国際交流会議】1日午後4時半~6時半(焼津市消防防災センター)
【核兵器なくそう・世界青年のつどい2008in静岡】1日午後4時半~7時(焼津市文化センター小ホール)※主催・「核兵器なくそう・世界青年のつどい」準備委員会
【日本原水協全国集会・分科会】 2日(日)午前9時半~正午(清水文化センター、清水中央公民館)
【3・1ビキニデー日本原水協全国集会・全体集会】2日午後1時~3時半(清水文化センター大ホール)(「同盟サイト」より)
●2008.2.27・「しんぶん赤旗」→小林多喜二没後75周年/祖国愛した生き方重ね/ショパン演奏村上弦一郎さん
ショパンの作品「ノクターン」「黒鍵」「革命」「英雄ポロネーズ」を演奏したピアニストの村上弦一郎さんは次のように語りました。
亡命先から故郷ポーランドを愛し続けたショパンと、命を懸けて祖国を愛した多喜二の生き方を重ねて弾きました。多くの聴衆のみなさんに聴いていただけてうれしい。これも多喜二の力だと思います。多喜二の文学はリアルで、現実の中に生き、常に感動を呼び起こしてくれます。(「同盟サイト」より)
●2008.2.27・「しんぶん赤旗」→小林多喜二没後75周年/不破哲三さんの記念講演を聞いて/成長する人間像に感銘
・時代への挑戦引き継ぎたい/26日、東京で行われた杉並・中野・渋谷多喜二祭では、小林多喜二の「時代への挑戦者」としての姿を浮き彫りにした不破哲三社会科学研究所所長の講演が、大きな感銘を呼びました。参加者と出演者の感想を紹介します。
・科学的に戦争みる/市川さくらさん(26)会社員・神奈川県大和市=若くして弾圧を受けたという多喜二について、知りたくて参加しました。こんなにすごい人だったとは。弾圧に屈せずたたかう姿を描こうとしていたのは、大事だと思いました。それに科学的な目で戦争をとらえ、反対していた点は、時代を超えて今にもつながってくると思います。多喜二の作品は読んだことがなかったけれど、読んでみたいです。
・新しい読み方新鮮/女性(74)富山市=不破さんの話を聞いて、多喜二ともう一度向き合いたいと思いました。多喜二は私にとって大切な作家。文学に目覚めた18歳のころ、多喜二の作品を初めて読んで、目に浮かぶような情景描写に圧倒されました。だからどうしても話を聞きたくて一大決心をしてやってきました。今日は、不破さんから新しい読み方を聞いて新鮮な刺激をうけました。長編構想のなかで人間の成長を描いていたとしたら壮大な物語です。私も多喜二のメッセージをつかみたい。目を開かされた 梶原志計雄さん(80)古書店経営・東京都杉並区=20歳のときに『蟹工船』を読んで、共産党に入党しました。不破さんの『沼尻村』『党生活者』『地区の人々』の関係性の話には目を開かされましたね。多喜二の作品はすべて読んでいますが、そうした観点はなかったので。
・党活動で作品飛躍/高野利寛さん(30)会社員・大田区=たまたま家にあった『蟹工船』と『不在地主』を読みました。現在の若い人の立場に近いものがあると感じて、多喜二祭に参加しました。若い人の今の働き方は、日雇いとか派遣とか無権利です。正社員でも長時間労働で、閉塞感があります。多喜二の時代も閉塞感はあったと思いますが、作品には打開していく発展を描いているのがすごい。今に通じる作品を多喜二が残せたのは、党員として活動してきたことが大きいということがわかりました。短い時間のなかで自己発展してきたのはすごい。自分も成長して、発展していける人間になりたい。多喜二の時代への挑戦を受け継いでいきたい。
・なぜ成長描けたか/鈴木通子さん(20)和光大学2年生・東京都町田市=多喜二の成長・飛躍していく様子にひかれました。多喜二の歴史を示しながらの不破さんの話がよかった。自分も大学で社会を変えたいと、活動しているので、多喜二が間違いをしながらも自身を成長させていった姿に励まされました。活動する人たちが成長する姿を描いているのもすごい。人間の性格の成長を描けたのも、多喜二自身がよく学んで成長していたからなんだと感じました。
・労働運動に携わり/宮内森矢さん(27)アルバイト・世田谷区=入場券があるからと友だちに誘われました。最近、労働運動に携わるようになって、『蟹工船』に興味をもちました。10年ほど前に読んだのに、ほとんど印象に残ってないんです。もう1度読んでみようと思っていまもかばんに入っています。不破さんの話はわかりやすくて面白かった。特に印象的だったのは多喜二自身が成長、発展していったという部分。人間の成長というのは積み重ねていくものなのだと感じました。多喜二は、それを表現者として、自分の作品にも反映させようとしていたと聞いて、すごいことだと思いました。多喜二が構想した長編が、特高に殺されたことで読めなくなってとても残念です。
・信念貫き生きた姿/母親と2人で参加した女性(27)千葉県=今では想像できないくらい、ひどく、残酷な時代の中、自分の信念を貫き、自己発展しながら生き抜いた多喜二の強さはすごいと思いました。私自身、今、自分の生き方を問われ、悩んでいる中で「人間の性格は与えられたものではない。活動や労働などを通して変化、発展する」ということばが印象に残りました。
・小説描写すっきり/女性(38)団体職員・板橋区=『党生活者』で主人公と暮らす女性・笠原に対する書き方を疑問に思っていました。不破さんは、多喜二自身の地下活動は結婚相手と相思相愛の支えあったものだったと紹介していましたが、小説では革命運動のなかで男女がお互いに成長していく姿を描こうとして、ああいうトラブルの多い関係から始めたのではないかという話でよく分かりました。女性の笠原にだけ無理を強いるように感じていましたが、成長が必要なのは、笠原だけでなく主人公の「私」も同じと言われてスッキリしました。(「同盟サイト」より)
●2008.2.27結成3周年教会で集い/長崎・城山九条の会
長崎市の城山九条の会は23日、結成3周年のつどいを城山カトリック教会で開きました。
元長崎大学学長の土山秀夫氏が「次世代のための日本国憲法」と題して講演、約80人が耳を傾けました。
土山氏は、国家神道や治安維持法を軸に国民を抑圧、言論を封殺するなかで戦争に突き進んでいった戦前の軍国主義のにがい経過を語り、自衛軍や集団的自衛権の行使をもくろむ改憲派の背後にはアメリカの強い圧力があると指摘。「軍事同盟のひとつにすぎない安保条約のために、なぜ最高法規である憲法を変えなければならないか」と批判しました。
日本がすべき国際貢献は、戦後復興や紛争国の仲裁や和解など非軍事で協力することだとのべました。ノーモアウオーの具体的回答が九条であり、九条を広めることが被爆地の義務と権利だと語りました。
つどいには、高校生10000人署名のメンバーも参加、活動の報告をおこないました。
高校生の質問に答えて土山氏は、憲法が国民主権を定めているのは政府の暴走に歯止めをかけるためだとのべ、「九条を守り、広めていけば再び暗黒時代を招かずにすむ」とのべました。2年生のメンバーの1人は「平和の大切なことを伝え、戦争のない世界をつくりたい」と話しました。(「同盟サイト」より)
●2008.2.27・「しんぶん赤旗」→小林多喜二没後75年不破氏講演/志継ぎ未来へ挑戦を/東京・杉並
「多喜二の文学とその生涯に共感をもつすべての人々が、志をうけつぎ、日本と世界の未来を切り開く新しい挑戦を」―26日、戦前の日本共産党員作家・小林多喜二の没後75年にあたり第20回杉並・中野・渋谷多喜二祭が東京で開かれ、会場いっぱいの1200人が参加しました。
記念講演で日本共産党の不破哲三社会科学研究所所長は「時代への挑戦者」としての多喜二の姿―日本社会における一人の人間として戦争と軍国化の時代に立ち向かうとともに、作家としてその時代を描こうと「自己発展力」を発揮した姿を詳しく跡づけました。
デビュー作『一九二八年三月十五日』などで「貧困を生み出す社会のしくみに目を向け、これを打破する闘争を主題にしたところに多喜二の最初の大きな飛躍があった」と不破さん。とくに「当時の非正規の臨時工を描いた『蟹工船』がいま若者に読まれ、たたかいの力になっていることに多喜二が喜ぶだろう」と話すと「ホーッ」と感嘆の声ももれました。
「満州への侵略戦争の開始の時期に、作家同盟書記長になり日本共産党に入党したことが第2の飛躍の転機になった」と続け『党生活者』など晩年の3つの中編は、戦争体制下の日本社会とそこでの労働者、農民、日本共産党の闘争を時代的規模で描く長編構想の一部になるものだったと述べて「これらの作品を大きな流れの中で発展的に読むことを呼びかけたい」と訴えました。
俳優の鈴木瑞穂さんが『蟹工船』のストライキの場面を重厚な声で朗読し、ピアニストの村上弦一郎さんが「革命」などショパンを四曲演奏。聴衆は熱心に聞き入りました。(「同盟サイト」より)
●2008.2.26・「しんぶん赤旗」→党員として生きた小林多喜二/没後75周年の集い/神戸・中央区
 兵庫県の小林多喜二没後75周年記念集会が23日、神戸市中央区の生田文化会館で開かれ、170人が集いました。実行委員会主催で「兵庫県多喜二・百合子の会」発足5周年を記念した集会でもあります。
文芸評論家の新船海三郎さんが記念講演。多喜二への評価には、多くの称賛とともに〝なぜ無理に共産党員作家というのか〟という声があることを取り上げました。
多喜二が、自分が愛した田口タキのような不遇な女性がなぜ生まれるのか考え、学習し、悩み、またたたかいに身を投じるなかでインテリゲンチアのあり方を真剣に考えてきたなど成長の軌跡を紹介。『蟹工船』ではたたかいを組織する人間が必要であることも多喜二はいいたかったとのべ「共産党員であることを外して作家・小林多喜二はありえない」「自分の中に『多喜二』を持ち続け、少しでも前にすすみたい」と語りました。
シンガー・ソングライターのケイ・シュガーさんが、多喜二が音楽を深く愛していたことを紹介し、多喜二が好きだった曲を歌いました。新神戸岳風会準師範の平島教子さんが詩吟を朗詠しました。(「同盟サイト」より)
●2008.2.25・「しんぶん赤旗」→列島だより/北海道、多喜二を語る集い
「没後75周年 小林多喜二を語るつどい」が17日、釧路市で開かれました。遠く別海町や標茶町などから百人余が参加しました。プロレタリア作家として生き抜いた姿をまとめたスライド「小林多喜二の生涯」が上映され、会場は感動に包まれました。(「同盟サイト」より)
●2008.2.25・「しんぶん赤旗」→潮流
ことしも中野・杉並・渋谷の多喜二祭が開かれます(26日)。隣り合う東京の3つの区は、作家・小林多喜二が住んだゆかりの地です▼杉並区はとくに縁が深い。お母さんのセキさん、弟の三吾さんと住んだ借家は、阿佐ケ谷駅の近くでした。宮本百合子が「おっ母さん、気を丈夫に持っていらっしゃいね。多喜二さんは立派に死んだのだから」とセキさんを励ましたという、通夜があったのもここです▼多喜二が通った中華料理店「ピノチオ」も、阿佐ケ谷でした。常連客の作家・井伏鱒二は、もの静かで折り目正しい彼の印象を書き残しています。多喜二が時々席を立ってきて、ビールをついでくれたらしい。彼の死が速報で伝えられると、井伏ら文学仲間が「ピノチオ」に集まっています▼多喜二がよくいった古本屋「大衆書房」は、やはり杉並の高円寺でした。経営していたのは、野上巌・綾子の夫妻です。映画「母べえ」の父べえ・母べえのモデルです。巌は店の中のラジオで多喜二の死を知り、後日、2人の娘をつれて労農葬にかけつけます▼映画の父べえは獄死しますが、現実の父べえ・母べえは戦後すぐ、日本共産党に入りました。ドイツ文学者の父べえは、学問・文化の分野はもちろん、原水爆禁止の運動など幅広く活躍します。推されて杉並の区長選にもたちました藤田廣登『小林多喜二とその盟友たち』から)▼多喜二が殺され75年。父べえの心のよりどころは、彼の「あの屈託せぬ精悍な面魂」だった、といいます。(「同盟サイト」より)
●2008.2.23・「しんぶん赤旗」→日本共産党知りたい聞きたい「『蟹工船』執筆に協力した乗富道夫とは?」
〈問い〉小林多喜二の『蟹工船』執筆に協力した乗富道夫という人がいると聞きましたがどういう人ですか。 (東京・一読者) 〈答え〉小林多喜二が1921年小樽高商に入学した時、樺太から年長の乗富道夫が同期生として入学してきます。2人は学内の近代劇研究会に属していました。乗富は多喜二がマルクス主義に興味を持ち始めたころにはすでにマルクス主義の立場をとっており理論的には多喜二をリードしていました。
乗富は卒業論文に「共産党宣言」の英独語版翻訳を提出し教授会ではそれをめぐって紛糾したといわれています。
24年、2人は小樽高商を卒業し、多喜二は小樽に残り、乗富は安田銀行函館支店に勤務します。そこで乗富道夫は政治研究会函館支部結成に参加、労農党に入党、労働組合の闘争支援を行い、活動家の資本論学習会のチューターをつとめます。さらには野呂栄太郎の主宰する産業労働調査所の函館支所長として労働者教育や調査活動を進めていました。蟹工船の実態調査などもその一環として進めていました。
一方、小林多喜二が北洋漁業、とりわけロシア領海近くの蟹工船での漁夫虐待事件やあくどい搾取の実態に関心をもち始めるのは27年です。前年の新聞報道により蟹工船の実態が赤裸に暴露されたことに触発されたからです。銀行の友人たちの協力で新聞の切り抜き作業を行ってもいました。
当時、多喜二は拓銀で働くかたわら磯野小作争議や港湾労働運動支援を続けていました。そこに函館から応援に来ていたメンバーから函館の安田銀行にいる同期生の乗富道夫が蟹工船に関する詳しい調査を行い、その資料をもっていることが伝えられたのです。こうして多喜二は函館の乗富と3年ぶりに再会し、その協力のもとに蟹工船の実態のより正確な情報、資料を入手できたのです。
こうして乗富の調査・研究協力が多喜二の『蟹工船』の執筆に大きな役割を果たしたのです。
『蟹工船』は、雑誌『戦旗』の1929年5、6月号に発表され全国的な反響を呼び起こしました。
その後、乗富は、労働争議支援のため再三にわたり検挙されます。そのため、銀行を解雇され、特高警察からもマークされ函館での活動の場を奪われ、多喜二と前後して上京します。そして計理士(公認会計士の前身)として生活していきます。活動の状況はよくわかっていませんが、多喜二の虐殺遺体が杉並・馬橋に帰った33年2月21日夜、寺田らとともに枕辺に駆けつけていることからみて、上京後も多喜二との連携を保っていたことは確かです。多喜二の死の数年後、乗富は肺結核で病没しました。(登)〈参考〉藤田廣登『小林多喜二とその盟友たち』学習の友社)(「同盟サイト」より)
●2008.2.22・「しんぶん赤旗」→「若者がとらえる『蟹工船』、会場いっぱい多喜二祭」小樽
戦前、侵略戦争反対と主権在民、貧困打開に命がけでたたかったプロレタリア作家で日本共産党員の小林多喜二の没後75年をしのぶ多喜二を語る夕べ小樽多喜二祭実行委員会主催)が20日夜、北海道小樽市で開かれ、会場いっぱいの430人がつめかけました。
「夕べ」では、小樽商科大学と白樺文学館多喜二ライブラリーが共催した『蟹工船』読書エッセーコンテストに入賞した若者たちとコンテスト選考委員が、「いま若者がとらえる『蟹工船』」と題して、多喜二の文学と現代の若者をとりまく社会状況について話し合いました。
大賞を受賞した山口さなえさん(25)=東京都=は、現代の流行作家が若者に悲壮感を漂わせ、希望の見えない描き方をしているのに対し、「多喜二は絶望に対抗しよう、社会を変えていきたいという希望を託して書いています」と指摘「現代にこういう小説が出てきたら、すごいだろう」と期待を寄せました。
多喜二と同じ秋田県生まれで小樽市に引っ越してきた準大賞の小嶋森人さん(14)は、『蟹工船』を読み、ものごとを立体的に「鳥観図で見られるようになろうと思いました」とのべました。
若者同士の討論も活発に行われました「プロレタリア文学とか、カテゴリーを気にしないで多喜二を読むべきではないか」という意見に対し、秋田尚文さん(22)=大阪府=は、政治と文学との関係を否定すると「文学を文学のなかに押し込めることになるんじゃないか」と発言。政治を考えられるところにプロレタリア文学の魅力があるとのべると、会場から「おおー」と共感の声と拍手が起こりました。
「夕べ」では、小樽商科大学の秋山義昭学長、中国河北大学国際多喜二研究センターの張如意氏らが挨拶しました。(「同盟サイト」より)
●2008.2.22・「しんぶん赤旗」→「多喜二を語る釧路でつどい」
「没後75周年・小林多喜二を語るつどい」が17日、釧路市で開かれました。遠く別海町や標茶町などから百100余が参加しました。
29歳の短い生涯を日本共産党員、プロレタリア作家として生き抜いた姿をまとめたスライド「小林多喜二の生涯」が上映され、会場は感動に包まれました。
「つどい・くしろ」の福浦寛会長は「侵略戦争と天皇制絶対主義の時代の不屈な生涯に学ぶ大切さを実感します」と挨拶しました。
小樽商科大学の荻野富士夫教授が講演。小樽商大が実施した『蟹工船』のエッセーコンテストに予想以上の応募があり、いま、若者がわが身に引きつけて読んでいることを紹介しました。
「つどい・くしろ」では、昨年のつどいの講演記録などを収録した機関誌『モシリヤ第五集』を発行しました。(「同盟サイト」より)
●2008.2.22・「しんぶん赤旗」→「『蟹工船』の上映会開く、小林多喜二没後75年記念」治維法国賠同盟宮城・塩釜支部
宮城県の治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟塩釜支部は20日、塩釜市公民館の視聴覚室で小林多喜二生誕105年・没後75年記念企画として、映画「蟹工船」(山村聡監督)の上映鑑賞会を開きました。定員45人の会場に51人が参加しました。
上映に先立ち、相原君雄支部長が挨拶し、斉藤規夫副支部長が小林多喜二の生涯と生き方を紹介しながら「二月二十日は小林多喜二が逮捕され、その日のうちに虐殺された日です。ちょうどこの時間は多喜二が拷問されている時間です。多喜二のたたかいに学び、多喜二が訴えたかった代表作『蟹工船』を映画化した作品をともに鑑賞したいと思います」と挨拶しました。
映画を鑑賞した参加者からは「現代も新鮮さを失うことなく生き続けているすばらしい作品だ」「当時のたたかいは、今に引き継がれ続けられている感じがする」など、多喜二の鋭い洞察力に感動をあらたにしていました。 会場には、多喜二の遺影と略歴表が展示され、マンガ『蟹工船』『民主文学』2月特集号なども販売されました。(「同盟サイト」より)
●2008.2.21・「しんぶん赤旗」→潮流
小林多喜二の『蟹工船』を初めて読んだとき、息苦しくなるようなにおいの迫力に圧倒されてしまいました。10代の少年には刺激が強すぎたのかもしれません▼船を動かす石炭と油のにおい。加工されるカニのにおい。漁夫たちの寝る「糞壷」にたちこめる体臭、汗、排せつ物の入り混じった、すえたにおい。吐いたへどから漂う、腐ったアルコール臭。汚物にまみれた死者のにおい▼しかし、やがてそれらは中和されていきます。潮風のかおりと、権利にめざめた男たちの叫びで。最後に、生か死かをかけてたたかう人間の、気高さが浮かび上がります「そして、彼等は、立ち上った。―もう一度!」▼本紙の先輩記者で党の広報部長をつとめた故宮本太郎さんは、『蟹工船』を旧制高校の寮で読みました。押し入れに電気スタンドを引き即製ベッドにもぐり、人に気づかれないように。後の映画監督、今井正さんといっしょでした(『宮本太郎 遺稿と追憶』)▼宮本さんが「いちばん心に残った」というのは、海軍の登場する場面です。漁夫たちが、日本の旗をはためかせる駆逐艦をみて興奮し、涙する。「あれだけだ。俺達の味方は」。が、彼らがストライキにたちあがると、同じ駆逐艦の水兵が武装して襲ってくる▼漁夫の1人がいいます。「国民の味方でない帝国の軍艦、そんな理屈なんてある筈があるか!?」。20日は多喜二の没後75周年でした。その前日、自衛艦の漁船への衝突事件がおこり、『蟹工船』がよみがえりました。(「同盟サイト」より)
●2008.2.21・「しんぶん赤旗」→「小林多喜二の墓前祭、140人集い「身近な思い」・没後75年」小樽
戦前、侵略戦争反対と国民が主人公の社会づくりに身をささげたプロレタリア作家で、日本共産党員の小林多喜二の命日にあたる20日、北海道小樽市で、墓前祭が行われました。
今年は多喜二が1933年に特高警察に虐殺されてから75年です。道内はじめ東京、京都、大阪などから140人が集まり、急こう配の奥沢墓地の雪を踏みしめて参列し、多喜二の愛した赤いバラを献花しました。
『蟹工船』エッセーコンテストに入賞した秋田尚文さん(22)=大学生=は「亡くなって75年たってもこれだけの人が多喜二を身近な思いで見ていて、驚きです」といいます。
寺井勝夫小樽多喜二祭実行委員長は「戦争と平和がせめぎ合う激動の情勢に多喜二の不屈の生涯を学び、多くの人たちと連帯を結ぶことを墓前に誓いたい」と挨拶しました。
日本共産党北海道委員会の青山慶二書記長は「いま非正規雇用が広がる若者のあいだで、『蟹工船』がわがこととして受け止められています。けれども多喜二の時代と違い、現代は堂々と活動できます。国民が主人公の政治を切り開きましょう」とよびかけました。
祖父母に付き添って参列した辻田佳穂さん(22)=大阪府=は「多喜二の時代といまの若者が重なるというのは、本当だと思いました。私も服屋のアルバイトで夜中の12時に突然、次の日の仕事が入り、サービス残業があって頭にきていたんです」と話していました。(「同盟サイト」より)
●2008.2.20・「中国新聞」→コラム「天風」
「あーまたこの二月の月がきた/ほんとうにこの二月いう月が/いやな月、声をいっぱいになきたい」―2月の空を見上げるたび母は息子を思い出した、という。北海道・小樽の文学館で「蟹工船」で知られる作家小林多喜二の母セキさんの手紙を読んだことがある▲75年前のきょう、多喜二は東京・築地署で特高警察の拷問により29歳の若さで亡くなった。警察の発表した死因は心臓まひ。全身どす黒いあざだらけの遺体にはくぎを打ち込んだようなあとも数多くあり、過酷な取り調べを物語った▲家族に引き渡された時の母の慟哭を立ち会った多くの仲間がつづる。「心臓が悪いって、どこ心臓が悪い。うちの兄ちゃは、どこも心臓わるくねえです。心臓が悪ければ泳げねえのに、うちの兄ちゃは子供の時から、よう泳いどった」と変わり果てた息子をなでた▲貧しい農家の娘として育ち、読み書きができなかった。投獄された息子に手紙を書きたい一心で「いろは」から字を学んだ。多喜二死後、87歳で亡くなるまで息子の優しさを語り続けた▲事件を戦前の治安維持法で取り調べられた遠い過去のことと片付けることはできまい。密室での自白強要は絶えたわけではない。鹿児島の選挙違反の冤罪で、「踏み字」を迫ったことなどは記憶に新しい▲日弁連は密室の取り調べに録画や録音を活用した可視化を求めている。志半ばだった作家の無念と母の悲嘆に思いを寄せたい。(mixi「web多喜二祭り」コミュ・「多喜二忌」トピック2008.3.20。投稿者=空哉)
●2008.2.20・「しんぶん赤旗」→日本共産党知りたい聞きたい「小林多喜二の盟友、寺田とは?」
〈問い〉小林多喜二が1928年1月1日の「析々帳」(日記)で「古川、寺田、労農党の連中を得たことは画期的なことである」と書いていますが、寺田とはどういう関係の人ですか。(東京・一読者)
〈答え〉多喜二の日記に登場する寺田は、青森県出身、小樽高商(現小樽商科大学)で多喜二の2年後輩の寺田行雄のことです。
寺田は多喜二が卒業し拓銀小樽支店に入社した翌年の1925年、小樽高商社会科学研究会の結成に参加、ついで同年10月、大震災による外国人の騒乱を想定した学内の軍事教練押しつけへの反対運動の中心メンバーとして活動し35日間の停学処分を受けました。
26年同校卒業後、北海タイムス(現北海道新聞)小樽支局に入社、記者業務のかたわら小樽の労働運動、農民運動とのつながりをつよめ、同年、小樽社会科学研究会(古川友一主宰)に加入して小林多喜二に何度も参加を働きかけます。多喜二は27年9月ごろに小樽社研に参加、ここでの学習を糧にして「断然マルキシズムに進展していった」と28年1月1日の日記で高らかに宣言したのです。
こうして、多喜二と寺田は小樽の労働・農民運動の前進のために協力しあうようになり、28年2月の第1回普通選挙で労農党から立候補した共産党員山本懸蔵を応援してたたかい、その直後の3月15日の大弾圧に遭遇し、寺田は検挙、拷問を受けます。『一九二八年三月十五日』に登場する「佐多」は寺田がモデルです。
寺田は翌29年4月16日の弾圧でも検挙されましたが、多喜二の上京後も小樽に残って活動を続け全協小樽産別組合の組織化や労働新聞配布などにより3度の検挙を受け札幌刑務所に勾留され、北海タイムス社を解雇されます。
31年10月執行猶予で出獄しましたが、小樽での活動の場を奪われ、一足先に上京していた家族と合流、杉並・高円寺に移り住みます。隣駅の阿佐ケ谷・馬橋には多喜二一家が住んでおり、こうして2人の活動を家族ぐるみで支えあう関係が小樽から東京へひきつがれたのです。
多喜二の虐殺遺体が馬橋に帰ったあとの通夜、葬儀は寺田一家が協力して進められました。火葬場まで付き添った寺田の次姉セツさんが多喜二の骨を分けてもらい供養を続け、戦後、大館の〝小林多喜二生誕の地碑〟建立のおり散骨したのはこのような事情からでした。
寺田は多喜二虐殺後も杉並に残り反戦活動に全力をあげ37年の人民戦線事件で4度目の検挙を受けましたが節を曲げずにたたかいました。その後、大阪で旭区の増田きみさんと結婚、43年4月8日、大阪府茨木市外の春日村(現茨木市五日市)の北川療養所で結核のため病没。享年38歳でした。(登)〈参考〉藤田廣登著『小林多喜二とその盟友たち』学習の友社(「同盟サイト」より)
●2008.2.17・「しんぶん赤旗」→「26日の多喜二記念講演会・満席のお知らせ」
26日(火)に東京・杉並公会堂大ホールで開催される第20回多喜二記念講演会(講演・不破哲三氏)は、前売りの段階で会場が満席となりました。前売り参加券の発売を中止するとともに、当日券は発売しないことになりましたので、ご容赦願います。ご協力ありがとうございました。杉並・中野・渋谷多喜二祭実行委員会(「同盟サイト」より)
●2008.2.17・「しんぶん赤旗」→「多喜二新発見・没後75年こんな読み方あったんだ」
プロレタリア作家・小林多喜二の文学が、いま注目されています『蟹工船』が若者に読まれ、新たに発掘された作品が高い評価を受けています。変化は海外でも。没後75年のいま、なぜ――。(那須絹江)
・若者/過酷な非正規労働は「ポスト蟹工船」かも/『蟹工船』読書エッセーコンテスト大賞受賞山口さなえさん(25)
『マンガ蟹工船』をきっかけに小説も読破しました。
「リアリティーに迫る小説は現在もあるけれど、社会を変えるために書かれた小説があることに驚きました」。プロレタリア文学に触れた衝撃の大きさ。同時に、読んだ後、現実への虚無感にも襲われました。
「私たちは船の中の労働者のように団結してたたかえない。労働者はバラバラにされているし、私たちの世代特有の連帯への不信感がある」
山口さんは、大学卒業後に就職した会社を不当解雇され、一昨年春、神戸から上京。アルバイトをしながら、1泊1500円の簡易宿泊所で1年間暮らした経験があります。
「『蟹工船』の状況と似ているようで違う。みんなこの暮らしを苦しいと思わず、怒りもなかった。いまは搾取の構造が複雑で、私たちは見えないものに抑圧され、拷問されている感じです」
受賞したエッセーには、過酷な労働とセクシュアルハラスメントで廃人のようになってしまった先輩やホームレス寸前の女性の話がでてきます。実際に山口さんの周囲で起きたこと。
生きるためにはたたかわなければ、という『蟹工船』の労働者の選択は、今の若者にも突きつけられている、と言います。
たった一人でユニオンに加入し、仲間たちに支援されながら会社とたたかう若者たちの姿を見ていると、「これが『ポスト蟹工船』? 新しい形の連帯かも」と思います。
もし、多喜二が今生きていたら、どんな作品を書いてくれたのだろう、と山口さん。エッセーの最後にこう書きました。
「多喜二は)私たちの働いている職場にやってきて『ガンバレ』なんて励まさず朝まで話を聞いてくれた後、『蟹工船』の最後を締めくくった言葉のように、やはり『彼らは立ち上がった――もう一度!』と書き付けるのではないか」
コンテストは小樽商科大学と白樺文学館多喜二ライブラリーが共催。入賞作は『私たちはいかに『蟹工船』を読んだか』遊行社)に収録。
・韓国/命懸けで翻訳した民主化闘争の学生/財団法人民族芸術研究所前所長茶谷十六さん
多喜二の作品を韓国で出版したいというのが私の長年の願いでした。
かつて日本は朝鮮を植民地支配し、多大な被害を与えました。韓国の学校ではその歴史を徹底的に学びます。が、あの侵略戦争や植民地支配に反対した日本人がいたことは、ほとんど教えられていません。日本人は丸ごと加害者としてとらえられています。
私はそんな韓国の人たちに、小林多喜二という作家とその文学をぜひ知ってほしいと思っていたのです。
ところが昨年、驚くべき事実を知りました。
軍事政権下の80年代、多喜二の作品が、民主化闘争を担っていた学生たちの間でひそかに読まれていたというのです。しかも、87年に『蟹工船』など3作品が翻訳され、出版されていました。
当時、韓国では「国家保安法」日本の治安維持法)により、共産主義思想は重罪でした。最高刑は死刑です。
私は、翻訳者の李貴源(イ・グィウォン)氏、出版社社長の李相炅(イ・サンギョン)氏を捜し出し、会うことができました。
「『一九二八年三月十五日』の拷問シーンは、韓国の警察のやり方と同じなので驚きました」(李相炅氏)、「もっとも感銘深かったのは『党生活者』。革命運動に命をかける決意、母との別れの場面など、民主化運動に携わる自分たちの姿にそのまま重なった」(李貴源氏)と語ってくれました。
韓国の民主化闘争のなかで、若者たちが命がけで多喜二の作品を読んでいた…。多喜二の文学が持つ普遍性、進歩性の証明ではないでしょうか。 日本と韓国で、平和と民主主義、幸福を願う人たちが互いに共通の土台で両国関係を考えていく―「小林多喜二」が、そんな新しい友好と連帯を築くカギになると期待しています。
文学界/昨年見つかった短編、これが17歳の筆力?/「多喜二の文学を語る集い」責任者、作家稲沢潤子さん
小林多喜二の小説の読まれ方について、最近、ちょっとした異変がおきているようです。
これまで無反応だった若い人たちが、小林多喜二の『蟹工船』をわがことのように読んでいる、ということです。このことは、高橋源一郎、雨宮処凛両氏の対談「毎日」(1月9日)でも紹介されていますし、『民主文学』2月号の小林多喜二特集で、浅尾大輔氏も指摘しているところです。
経済先進国といわれる日本で、このところ派遣労働や二重三重の請負労働、基準を大幅に下回る賃金、一方で人員削減による過重労働など、働く者へのしわ寄せが、ようやく社会問題として一般のマスコミでもとりあげられるようになりました。
多喜二の文学が、親身な心持ちで読まれるのはこうした状況を反映してのことと思われます。
私自身についていえば、昨年『民主文学』7月号に掲載された、多喜二全集未収録の作品「老いた体操教師」の現代性に目を見張りました。わずか17歳のときの作品で、雑誌の懸賞小説に応募し、選外佳作となったものです。失職したくないために校長に気に入られようとして、生徒管理に汲々とし、結局は、生徒にボイコットされてしまう老教師を描いた作品です。後の多喜二の代表作に通じる骨太さ、人間を見る目の一面的でない鋭さがすでに胚胎はいたい)しています。老若を問わず、眠っていた感覚を呼び覚まされるのが多喜二の文学です。 小林多喜二/1903~1933年。秋田県の農家に生まれ、4歳のとき一家が小樽に移住。小樽高商(現小樽商科大学)卒業後、北海道拓殖銀行小樽支店に勤務。プロレタリア文学運動に参加。31年に非合法下の日本共産党に入党。治安維持法により33年2月20日に逮捕、拷問により虐殺される。代表作『一九二八年三月十五日』『蟹工船』『不在地主』『党生活者』など.
記念の集い
杉並・中野・渋谷第20回多喜二祭=26日午後6時15分、東京・杉並公会堂。講演=不破哲三、ピアノ演奏ほか。電話=またはファクス03(5382)3177
多喜二の文学を語る集い=3月15日午後1時半、東京・みらい座いけぶくろ(豊島公会堂)。講演=祖父江昭二、朴眞秀、講談、青年トーク。電話=03(5940)6335、ほか、各地で多彩に。(「同盟サイト」より)
●2008.2.17・「しんぶん赤旗」→大阪で多喜二祭ひらく「愛・情熱・勇気忘れない」
代表作『蟹工船』で搾取の仕組みをあぶり出し、特高警察に虐殺された作家小林多喜二の「火を継ごう」と16日、「2008年大阪多喜二祭」が大阪市内で開かれました。昨年、同実行委員会が30数年ぶりに開催。多喜二の没後75年にあたる今年は、前回を上回る400人近い市民らが参加。会場は満杯で立ち見が出るほどでした。
実行委員長の柳瀬精・治安維持法国賠同盟大阪府本部会長が挨拶。多喜二が「治安維持法による弾圧という権力の犯罪と、帝国主義や軍隊を鋭く告発した」と指摘「多喜二の志を受け継いで、この火を守りぬいていこう」と訴えました。
「多喜二の魅力」と題して記念講演をおこなった文芸評論家の澤田章子さんは、近年の多喜二に対する人気の高まりに「政府による)働く人への激しい攻撃など、今日の社会状況の反映がある」と指摘。作品を紹介しながら、愛、情熱、勇気という3点の魅力を挙げました。そのうえで、「亡くなっても忘れられないのは、人に力と勇気を与えているから」だと評価しました。
多喜二の作品を引用した朗読と歌も披露され、歌手のケイ・シュガーさんの歌声に、会場全体が酔いしれました。
資料展も開かれ、1929年に国内で発表された初版本や、軍事政権下の韓国で87年に出版されたハングル版『蟹工船』など、貴重な資料が展示されました。(「同盟サイト」より)
●2008.2.16・「しんぶん赤旗」→「墓前祭やつどい、小林多喜二・野呂栄太郎」
・小林多喜二/小樽で20日に
戦前、反戦平和と民主主義をつらぬき、天皇制政府に虐殺されたプロレタリア小説家の小林多喜二の没後75年・小樽多喜二祭(同実行委員会主催)が、20日に小樽市で開かれます。
・墓前祭=午後1時半、奥沢墓地(奥沢5丁目)小林家墓前小樽駅前から午後1時に、貸し切りバスがでます)
・多喜二をかたる夕べ「いま若ものがとらえる『蟹工船』」=午後6時20分、小樽市民センターマリンホール(色内2丁目)。講師=ノーマ・フィールド氏(シカゴ大教授)、由里幸子氏(朝日新聞社前編集委員)、島村輝氏(女子美術大教授)ほか
参加券=1200円。問い合わせ=同実行委員会事務局・斉藤さん0134(32)8560 ・あす釧路で
釧路市の「小林多喜二を語るつどい」が17日午後1時半から、同市生涯学習センター「まなぼっと」五階ハイビジョンセンターで開かれます。
スライド構成「小林多喜二の生涯」につづき、荻野富士夫小樽商大教授が「小林多喜二の生きた時代と現代―小樽高商軍教事件にふれて」と題して講演します。連絡先=0154(37)9064福浦さん
・野呂栄太郎/19日に札幌、長沼町で
戦前の絶対主義的天皇制のもとで、一貫して侵略戦争に反対し、不屈にたたかいぬいた経済学者・野呂栄太郎をしのぶ墓前祭と碑前祭が19日に開かれます。 墓前祭=午前11時、札幌市・平岸霊園(豊平区平岸五条5丁目)野呂家墓地
碑前祭=午後1時半、長沼町・野呂栄太郎記念碑小公園(東一線北2番地)。問い合わせ=011(746)1151日本共産党北海道委員会。(「同盟サイト」より)
●2008.2.15・「しんぶん赤旗」→「現代に生きる『蟹工船』/「大阪多喜二祭」今年も」祭実行委員会事務局小山国治さん
「格差と貧困」「ワーキング・プア」が社会的問題となり、「偽装請負」など資本のむき出しの搾取の実態が国民・労働者の前に明らかになってきています。この現代の搾取の原始的形態とそのしくみをえぐり出した小林多喜二の『蟹工船』が再び読み直され、現代の労働現場そのものであることが悲しい社会の現実としてクローズアップされています。
そんな社会の変革のために命をかけてたたかった多喜二の火を継ごうと、昨年「大阪多喜二祭」を開催しました。今年に向けた取り組みも、「多喜二を読む会」とも連携しながら、3回の「大阪多喜二サロン」と4回の「声に出して読む多喜二」を開催、多喜二を学び知らせる活動を行ってきました。また、昨年10月13日多喜二生誕の日のイベントから「大阪多喜二祭への賛同のお願い」に取り組んでいます。
準備と調査で新事実を発見
昨年の準備過程、その後の調査からいくつかの事実が明らかになりました。日本民主主義文学会の千頭剛さんによると30数年前までは「多喜二祭」が開催されていたということでしたが、その後1955年の大阪「多喜二・百合子祭」のチラシが発見されました。
また、多喜二の関西巡回講演の調査も各方面で進められています「関西勤労協・戦前の出版物を保存する会」の調査で、多喜二が講演した実業会館が「大阪府立実業会館」であり、現在の大阪商工会議所の場所にあったことが特定されました。大阪島之内署を6月7日に釈放された多喜二がどこにいつまで滞在していたのかの調査も必要です。6月9日付の斎藤次郎あて書簡には、「大阪市住吉にて」と記し「東京へはここ4、5日中に帰る積りだ」としています。帰京後、多喜二が滞在した立野信之の「青春物語・その時代と人間像」には、この空白期間の動向が記されています。
「小林多喜二が釈放されて出てきた。小林は片岡夫人を勇気付け」「数日間、小林は片岡夫人と同じ宿ですごした。警察に馴れない夫人に付き添って、警察に差し入れに行ったりした」
これらの裏づけを取りたいものです。情報をお持ちの方がいましたらぜひお知らせいただきたいと思います。
人間・労働者を「商品」としか考えない資本のむき出しの搾取をはじめ、憲法・人権をめぐるたたかいが重要になっている今日、多喜二の先駆的な「人間観」をもさらに深め、現代のたたかいにいかすことが求められています。大阪多喜二祭実行委員会は、多喜二の火を継ぐために今後とも持続的な活動を進めていく予定です。
あす午後1時半青年センターで
「2008年大阪多喜二祭」は16日(土)午後1時半から、大阪市立中央青年センターで開きます。第1部がケイ・シュガーさんなどの歌と朗読「多喜二が愛した音楽」、第2部は文芸評論家・澤田章子さんの記念講演「多喜二の魅力」。同時に開催する「小林多喜二資料展」には昨年話題になったハングル版『蟹工船』や『蟹工船』初版本など、貴重な文献・資料を展示します(資料代1000円)。問い合わせは、治安維持法国賠同盟大阪府本部06(6772)7555。(「同盟サイト」より)
●2008.2.15・「しんぶん赤旗」→CDになった「多喜二が愛した音楽」朗読と歌で綴る
小林多喜二と音楽のかかわりを、初めて系統的に紹介するCD「多喜二が愛した音楽」がこのほど発売されました。
製作・歌はケイ・シュガーさん。大阪民主新報の編集長を務めながら、シンガー・ソングライターとして活躍。芸名は本名の佐藤(砂糖)圭子からつけたという茶目っ気もあり、昨年参院選では日本共産党の比例代表候補も務めました。
きっかけは3年前。ケイさんが自作曲「多喜二へのレクイエム」のCDを、多喜二の遺族に送ったところ、折り返し、多喜二が生前歌っていたチャイコフスキーの歌曲「ただ憧れを知る者だけが」の楽譜が送られてきました。一見しただけで歌いにくいとわかるこの曲を、多喜二が弟の三吾のバイオリンで音をとって覚えたと知り「多喜二の音楽に対する姿勢に新鮮な驚きを覚えた」と言います。
その後、多喜二が小さいころから歌が好きで、かばんにイタリア歌曲の楽譜などをしのばせていたことも知りました。
CDには多喜二が原語で歌っていたフランスの「ラ・マルセイエーズ」や、兄弟でよく歌った讃美歌「まぼろしの影を追いて」など11曲と、手紙や三吾の回想の朗読を収録。朗読を担当した京都の劇団の小松史郎さん(25)は、ケイさんと出会い初めて多喜二と向き合いました「強く人を愛し、真実を書き放った多喜二にいつも勇気をもらいます」と話しています。
(定価1500円税込み)。申し込みはオフィスhare電話=・ファクス06(6882)0232。ケイ・シュガー・オリジナル集CD「青い空を抱きしめて」も同時発売中です。(「同盟サイト」より)
●2008.2.14・「朝日新聞」→「蟹工船」重なる現代・小林多喜二、没後75年
今年は作家小林多喜二の没後75年にあたる。代表作『蟹工船』の地獄のような労働と、ワーキングプアと呼ばれるような現代の貧困労働者との類似性が、最近注目されている。
実際の事件をモデルにした小説『蟹工船』は、海上でのカニの缶詰め作業のため、安い金で集められた貧しい男たちがひどい扱いに怒り、暴力で支配する監督に力をあわせて立ち向かう様子を描いている。
若年の貧困労働者問題にとりくむ作家雨宮処凛さんと作家高橋源一郎さんは、先月、毎日新聞の対談で、『蟹工船』は現在のフリーターと状況が似ているし、学生たちも共感するという意見で一致していた。 同じ感想を私も抱く機会があった。没後75周年の記念に、多喜二の母校の小樽商科大(旧小樽高商)と千葉県我孫子市にある白樺文学館多喜二ライブラリーが共催して『蟹工船』感想エッセーを募集した。応募約120件。14歳の中学生や、中国を中心に海外からもあった。
小樽商科大の荻野富士夫教授、精神科医の香山リカさん、女子美術大の島村輝教授、シカゴ大学ノーマ・フィールド教授と一緒に先月、選考に加わったのだ。
一昨年刊行の『マンガ蟹工船』の助けも借りながらじっくり読み込んだ若者たちは濃淡あっても現代との共通性を感じていた。
・貧困労働の現場、共感の声
大賞は、東京在住の25歳の女性の「2008年の『蟹工船』」。派遣・パートなど多様な働き方が奨励された結果、セクハラも加わって女性の友人たちが住まいを失ったり、休職に追いこまれたりしている姿を訴える。『蟹工船』の奴隷のような労働者が立ち上がれたのは共有する何かがあったからで、いまは「目に見えない誰かによって1人ひとり撃ち殺されている」。1人で労働組合に加入し、サービス残業代を支払わせた若者のニュースが、「ポスト蟹工船」の物語のような気がすると結んでいた。
連絡先不明でネットカフェから応募した1人は、派遣労働者は「生かさず殺さず」の扱いをうけ、「足場を組んだ高層ビルは冬の海と同じで落ちたら助からない」と書きつけた。
状況は中国でも似ている。ある中国人学生は「今すばやいスピードで発展している中国では、貧富の差が激しくなり」、父母の苦労をみてきた自分には多喜二の心境がわかる、と。 フィールド教授は、ネットカフェからの応募作に、最近のニューヨークの高層ビルでおきた窓洗い作業中の転落事故を連想したと話していた。「窓を洗う方も、窓の内側で働く方も、いまは蟹工船に乗っているのではないか。ただ負わされているリスクがちがう」
多喜二が特高警察の拷問で死んだ2月20日を中心に小樽市や東京などで催しがある。今秋には、日米英などの研究者が協力してイギリスで国際シンポジウムもある。グローバル化によって経済格差や若年労働者の問題がどこでも共通する。
ガラス1枚の隔たりをどう越えるのか。多喜二は、現代に問いかけている。
(由里幸子、mixi「web多喜二祭り」コミュ・「多喜二没後75年」トピック2008.3.20。投稿者=空哉)
●2008.2.8・「しんぶん赤旗」→「若者たちはいかに『蟹工船』を読んだか、読書エッセーコンテストの審査をして」島村輝
・団結の困難さと打開への意志と
日本を代表するとされる大企業が空前の利益を上げている一方で、若年層の不安定な雇用とネットカフェ難民、マック難民の増大、正規労働者の過酷な労働の実態といった現実もまた、大きな社会問題として黙過できないところにまで深刻化している。
・女性労働者が2部門最高賞
こうした状況の中、プロレタリア作家・小林多喜二の出身校である小樽商科大学と、国際シンポジウムの開催やコミックス版『蟹工船』の出版などこの間多喜二文学の研究と普及に力を尽くしてきた白樺文学館多喜二ライブラリーの共催で、このほど「『蟹工船』読書エッセーコンテスト」が行われた。25歳以下を対象とした部門(U25)と、年齢制限を設けずネットカフェからの応募を条件にした部門との2つの部門で、総数百編を上回る応募があり、先日審査の結果、受賞者を決定した。
全体として力作ぞろいの応募作の中で、U25部門、ネットカフェ部門ともに、それぞれの最高賞を受賞したのは、女性の労働者の手によるものだった。どちらも虚無感に満ちた現実世界の中で労働し、生活する人たちの悲しみと絶望、出口のない閉塞感といった深刻な問題を直視し、現実の労働現場の状況と『蟹工船』の世界を対照させながら、言いたいこと、語りたいことをぐいぐいと主張してくる、訴える力の強い作品である。
切実な内容と文体でこうした感想を筆者たちに書かせたということそのものが、やはり社会的なしわ寄せを受けやすくなっている女性労働者たちの現実状況を反映しているといえるだろう。
・みずみずしい中高生の感性
U25部門で準大賞を分け合った2つの作品は、それぞれ中学生、高校生の手による、みずみずしい感性をしめす感想である。今日、若い世代の社会的無関心や「学力低下」などといったことが話題になる中、果たしてどのような作品が出てくるのかと読み始めたところ、その切り口も書かれている文章の文体も、実に心打たれるものだった。
高校生の受賞作に、日本の現状を振り返りながら、「本来なら他の国の人達にも誇るべき日本人の温厚さが近年の色々な問題を引き起こしてきた1つの要因に成っているとしたら、とても嘆かわしい事である」と述べてあるところなど、そのしっかりとした思考に敬服させられた。
外国からも、日本語を学びはじめてからの期間がまだ短い中、懸命に工夫をこらして応募してきた作品がみられ、感銘をもって受け止められた。またネットカフェ部門から応募されたある作品は、応募用紙3枚にわたって、ひょろひょろとした文字で詩のようにつづられた内容とスタイルが、選考委員たちの心を打つものだった。この作品には、連絡先すら記されておらず、受賞しても連絡がとれるかどうかわからない状態ということで一抹の危惧きぐ)はあったが、どうしても応えてあげたいという委員会の総意によって奨励賞授賞と決した。
実相とらえた多喜二の力が2つの部門を通じて、論点として特徴的だったのは、『蟹工船』の世界は昔のことではなく、今起こっていることであるとする点、そうした中で「団結」の意味を認識したという点だった。それもただ単に虐げられた労働者の「団結」の必要性をいうだけでなく、さらに突っ込んで、現状の中での「団結」の困難さと、それを打開する意志を表明したものが目立ったことは、『蟹工船』が今日の時代の中で、現実に生きている若者たち、労働者たちの間に、どのような具体性をもって読まれているかを端的に示したものだといえるだろう。
大賞受賞作に記された「本当に絶望だけで終わるのだろうか」という問いかけの意味は重い。今年は多喜二生誕105年、没後75周年にあたり、各地での多喜二祭も盛り上がりをみせている『蟹工船』に再びスポットライトが当たり、このコンテストにこれほどの応募が寄せられたのは、まさに多喜二の描いたものが、時代を超えて、今日の資本主義社会の実相を浮き彫りにしているからではないかとの思いを、一層深くする結果であった。(しまむらてる=女子美術大学教授、『蟹工船』読書エッセーコンテスト選考委員長)(「同盟サイト」より)
●2008.1.24~27・「しんぶん赤旗」→「没後75周年記念講演を前に・多喜二を歴史のなかで読む、不破哲三さんにきく」
最初の飛躍/作品「三月十五日」を転機に
不破哲三党社会科学研究所所長が、2月26日に東京の第20回杉並・中野・渋谷多喜二祭で記念講演を行います。講演に先だって、どんな点が講演の中心になるのか、不破さんに話を聞きました。
聞き手・牛久保建男、中村尚代
――不破さんは30年前の小林多喜二没後45周年で多喜二の文学と生涯について講演されています。それ以来の講演となりますね。
不破 いま全国で多喜二を偲ぶ運動が草の根的に広がっています。そのなかで昨年5月、この20年間多喜二祭を続けてきた東京の杉並・中野・渋谷のみなさんからお招きをいただいたので、お受けしたのです。45周年のときは、私自身、多喜二に取り組んだ最初の講演で、多喜二の仕事と人生の全体像をごく大づかみに話しましたが、今回は、自己発展力とでも言いましょうか、多喜二が発揮した前向きの前進・成長・発展の力に目を向けて、その足どりをたどってみたい、と思っています。
〝マルクスを歴史のなかで読む〟というのは、古典研究での私の合言葉なのですが、今回は、いわば〝多喜二を歴史のなかで読む〟ということですね。
戦争と反動に立ち向かい時代を描く
――演題は「時代に挑戦した5年間」となっていますね。
不破 多喜二が本格的に仕事をしたのは、『一九二八年三月十五日』を書いてから、東京築地署の拷問で生命を奪われた1933年2月までのほぼ5年間でした。彼はこの5年間に、人間として、戦争と反動への時代の流れに立ち向かっての挑戦と同時に、作家として、その時代を描くという大きな仕事に挑戦しました。この二重の挑戦という角度から、その5年間をふりかえりたいのです。
この5年間には、多喜二の文学には、大きな飛躍の時期が2つあると思います。最初の飛躍は、1927年から28年にかけての時期です。1927年に、多喜二は初めてマルクスを知り、また労働者・農民の運動に接します。そのなかで、多くのものを摂取したと思います。人間として吸収したものが文学の力として実るには時間がかかりますが、それが消化され実ったときには、素晴らしい作品が生みだされます。私はそれが、連続して発表された『一九二八年三月十五日』『戦旗』(28年11、12月号)、『蟹工船』(同29年5、6月号)、『不在地主』『中央公論』(29年11月号)だったと思います。
多喜二の小説は、それまでも貧しい者に目を向ける点で一貫していたのですが、この時以後、貧しさの苦難を描くだけでなく、貧しさを生みだすしくみに目を向け、その打開にむかって立ち上がる姿を描く方向に、足が大きく踏み出されました。
『不在地主』に見る「作家の目」の発展
――「飛躍」というその時期以前に、北海道の農民問題を取りあげた「防雪林」が書かれていますね。
不破 私は、「防雪林」が『不在地主』に書きかえられたところに、この時期の飛躍の性格がよく表れている、と思っています。当時、北海道では農民の小作争議が各所で起こっていて、なかでも磯野農場の争議は、小樽の労働組合の応援もうけて、北海道でも例をみない勝利をかちとった大闘争でした。多喜二自身も、かげながらの支援という形で、この闘争にかかわりました。しかし、最初に「防雪林」を書きはじめたとき、彼が日記に書きつけた構想を読むと、「原始人的な、末梢神経のない、人間を描きたい」といって、目標としてゴーリキーの初期の作品や有島武郎の作品の野性的な登場人物をあげるのです。自分もかかわった集団としての農民の闘争そのものは、作品の主題からはずされた構想でした。
しかし、3月15日の弾圧を目の前で経験し、それを歴史的な『一九二八年三月十五日』に作品化することで、文学的な飛躍をやりとげ、さらにその境地で『蟹工船』を書きあげたあとでは、多喜二は、「防雪林」的な主題や構想には満足できなくなったのだと思います。
この段階で、「防雪林」は、まったく違った作品『不在地主』に書きかえられました。そこでは、一人の野性的な農民を描くことではなく、集団としての農民、それを支援する労働者のたたかいを描くことに、主題ががらっと変わるんですね。文学的な完成の度合いといった点では、「防雪林」と『不在地主』との比較論もいろいろあるようですが、社会を見る「作家の目」の発展という点では、この転換は非常に大きな意義をもつものでした。
共産党を描く主題に意欲を持って
――そのあと多喜二は、『工場細胞』『改造』(30年4~6月号)「オルグ」(同31年5月号)など、工場労働者の闘争を主題にした作品に進みますね。
不破 私は、次のこの歩みの最大の問題は、多喜二が、日本共産党そのものを描くところに足を踏み出した点にあると思います。
『一九二八年三月十五日』では、日本共産党が出てきますが、それは、労働者・農民の運動の中核として権力から弾圧されるという姿での登場です『蟹工船』は、北海道に共産党がまだ存在しなかった時代の闘争ですし、『不在地主』でも、左翼の労働組合や農民組合が舞台の主役です。
ですから、次の作品では、日本共産党そのもの、労働者のなかで活動している真実の姿を描きたい、ここに、多喜二が意欲を燃やした最大の問題があったのではないでしょうか。多喜二自身、『工場細胞』の原稿を『改造』に送るとき、編集者への手紙のなかで、この作品の〝新しい〟点として、「『工場細胞』と共産党が結びついた『三・一五』以後の日本の左翼運動」を描いた点をあげています。
日本共産党への大弾圧が支配的な流れとなった時代的な状況にてらしても、この意欲はすごいものですが、実際に書かれた作品を読むと、たたかう日本共産党の姿を描くだけの力と条件が、多喜二の側にまだ整っていなかった、ということを、強く感じさせられます。たとえば、彼は、『工場細胞』――いまの党規約では「職場支部」にあたるものですが、それが何かということについて、本格的な知識をもたないまま、この作品を書いたようです。この2つの作品は、彼の作品の系譜では主脈に属するのですが、そういう意味では、過渡的な時期の作品と言うべきではないでしょうか。
次の飛躍めざし3つの課題に挑戦
――そこからさらに、第2の飛躍の時期があるのですね。
不破 第二の飛躍は、1931年後半以後だと思います。年表的に言いますと、30年3月、北海道から東京に移った多喜二は、三一年七月、プロレタリア作家同盟の書記長という重責を担うようになり、10月には、念願だった日本共産党への入党を果たし、文化分野で党員としての活動を開始します。この間、九月には、中国東北部にたいする「満州侵略戦争」が始まり、日本は急速に戦時体制に向かいました。この時期が、多喜二の文学活動にとっても、新しい飛躍を画する転機となった、と思います。
多喜二は、新しい条件のもとで、まず『転形期の人々』『ナップ』(31年10月号から連載)を書きはじめますが、同じ年の前半に書いた「オルグ」と読みくらべてみると、多くの点で、小説の質の違いを感じさせられるのです。
その中身ですが、この頃の一連の評論で、多喜二は、今後の作品で新たに挑戦したい点として、次のような課題をあげていることに気づきます。
その1つは、「時代を概括した、時代に透明した」小説を書きたい、ということ。
もう1つは、人物の性格を、諸事情のなかで「発展するもの」として書くこと。
さらに、諸事件をその断面だけでとらえるのでなく、弾圧や失敗に屈せずに立ち上がる連続的な流れとして描きたい、ということ。
多喜二の活動の最後の時期の作品を読んでみると、多喜二がこの3つの課題の具体化に真剣に取り組んでいる様子がうかがえます。
2つの長編構想/党の不屈の闘争を時代的規模で
・『転形期の人々』で何を描こうとしたか
――最後の時期の作品での3つの課題の具体化という問題ですが、作品のどういう点に感じられますか。
不破 だいたい、あの3つの課題は、どれをとっても、長編小説でなくては果たしえない課題ばかりなんですね。私が注目しているのは、多喜二がこの時期に2つの長編構想を持っていたことです。
1つは『転形期の人々』。これは、プロレタリア文学運動の機関誌『ナップ』、『プロレタリア文学』に31年10月号以後、6回にわたって連載されたものですが、最後の回で、作者自身が書き終えたのはまだ「序篇」だけで、このあと、「前篇」「中篇」「後篇」を書くのだと予告した大長編です。私には、これまで、多喜二がこの長編に寄せた構想の意味が、あまり論じられてこなかったように思います。
さきほど、多喜二がたてた3つの課題の1つとして、事件を一断面だけでとらえないという提起について話しましたが、これは実は、「転形期の人々」を書くにあたって述べた、作品『一九二八年三月十五日』への反省の言葉なのです。あの作品で、「三・一五」を弾圧の局面だけでとらえたのは誤りだった、やはり最初のプランどおり、弾圧に屈せず立ち上がる獄内外の闘争の姿まで書くべきだった、こんどの作品では、そこまできちんと書くぞ、これが、『転形期の人々』の執筆に臨んだ多喜二の基本姿勢でした。
多喜二は、この長編で、小樽という、日本の運動の拠点とされた地域において、労働者・農民運動の発展のなかから日本共産党が生まれる過程を描こうとしたのだと思います。例の「予告」の文章に出てくる「福本イズム」も、日本共産党が本来の役割を果たすのを妨害した点に、主要な誤りがあったのですから、その台頭と没落の過程というのも、まさに日本共産党の誕生の歴史にほかならなかったのです。
その最終部分では、「三・一五」の大弾圧が、重要な位置をしめる予定でした。だから、多喜二は、『転形期の人々』をとりあげた文章のなかで、今度こそは、「三・一五」を日本共産党の不屈の姿を示す流れのなかで書こうという決意を表明したのだ、と思います。
戦時体制下の日本を長い視野でとらえる
――もう1つの長編構想とは?
不破 多喜二は、満州侵略戦争のもとでの日本を舞台にして、一方での戦争と軍国主義への動き、他方で、労働者・農民とその先頭に立つ日本共産党の闘争、これを時代的な規模と流れでとらえた長編を構想していた、と思います。
実際に書かれたのは、『沼尻村』『改造』(32年4月、5月号)、『党生活者』『中央公論』(33年4月、5月号)、『地区の人々』『改造』( 33年3月号)の3つの中編でしたが、私が大事だと思うのは、多喜二研究家の手塚英孝さんが、地下活動時代の会話を回想して、多喜二から、『党生活者』を「一つのゼネレーション」を描く長編として仕上げたいという考えを聞いたと言っていることです。
実際、その構想を頭において、3つの作品を読んでみると、まず、それぞれが内容的には長編の構えで書かれていることが分かります。だいたい、どの作品でも、主な登場人物は、その短編だけで終わりになるような形では出てきません。その地域の情勢も舞台配置も人物像も、すべて、短編には盛り込み切れないような中身で書かれています。 そこでは、侵略戦争の開始が、国民の生活にどのような変化をもたらしているか、労働者や農民のあいだに、どんな事態、どんな要求が生まれているか、戦争推進派が、実際に工場や農村の現実のなかでどんな動きをしているか、それらがたいへんリアルに描きだされています。またどの作品でも、工場や農村での闘争がとりあげられますが、どこでも、ことのなりゆきは単純ではありません。闘争は失敗や挫折に終わるが、活動家たちは、その経験から学び、自分の性格も発展させながら、不屈にたたかいを続けてゆくという展望が語られます。 このように、どの作品も、戦時下の闘争を長い視野と展望をもってとらえるという、長編の第1部的な性格をもって書かれています『党生活者』を長編として仕上げるという多喜二の構想が具体化された場合、他の2つの作品は、それぞれその長編のある部分の原型となるだけの資格を十分に持っているように、私には思えます。
3つの作品をかさねてみると、私たちの前には、東京と小樽、さらに石狩平野を結ぶ大きな舞台が浮かんできます。そこで活動する主人公たちも、『党生活者』では、東京で党中央に直結する活動家として地下活動に移り、工場労働者のあいだでの活動の指導にあたる「私」(佐々木安治)、『沼尻村』では、東京に出て左翼の労働組合で重要な活動をはたしたあと、北海道の農村と炭鉱での再結集を自分の任務として帰郷した青年・兼一郎、『地区の人々』では、Y市(小樽)の革命的伝統にあこがれて、新潟からY市に移り、地区の運動・組織の再建に努力しつつ、党中央との連絡を待望する学生・平賀と、たいへん多様です。
この舞台で、日本共産党を中心にした戦時下の闘争を、時代的な規模で描きだす、ここに多喜二の長編構想の主眼があったのではないでしょうか。
・最後の作品群と多喜二の長編構想
――たいへん興味ある見方ですが、資料的な裏づけが問題になりますね。
不破 第1の飛躍の時期については、日記や手紙など、多喜二自身の内面の発展を語る資料は、かなり豊かです。とくに『蟹工船』、「不在地主」、『工場細胞』については、多喜二は、その作品を書くにあたっての自分の考えと方針を編集者に説明した、かなり詳細な手紙を残していますから、それらは大いに参考になります。
ところが、第二の飛躍の時期は、多喜二自身が地下生活を余儀なくされるような時代ですから、そういう個人的な資料はほとんど残されていません。結局は、発表された作品や評論が判断の主要な材料となり、あとは推理に頼らざるをえない、というのが、実情です。
ただ、私は、いま述べてきた長編構想については、最後の時期の作品群そのもののなかに、作品相互を結ぶ重要なヒントが隠されていると思っています。このヒントについては、もう少し研究したうえで、2月の多喜二祭の講演のさいに説明したいと思いますので、ここでは〝保留〟とさせてください。
多喜二が構想した長編は、支配勢力の残虐な拷問が、小林多喜二の生命を29歳の若さで断ち切ったために、構想のままで終わりました。これが書かれていたら、あの時代の日本社会とそこでの闘争を総括する力をもった叙事詩的な大作が生まれたであろうことは、間違いないでしょう。本当に残念なことでした。
しかし、多喜二の構想を知った私たちが、いま残された3つの作品をそういう大作の一部をなすことを頭において読めば、個々の作品を切り離して読む場合とは違った輝きを感じることができます。私は、時代に挑戦した多喜二の最後の作品群を、大きな流れのなかで発展的に読むことを、ぜひみなさんに提案したいと思います。
『党生活者』など3作/戦争推進勢力との闘争をリアルに
・大作の執筆に動く最大の動機は何か
――時代を書かなければならないと彼をつき動かしたのは、いったい何だったと思いますか。
不破 文学的な影響としては、30年夏に検挙されて以来、獄中でバルザックやディケンズなど、世界文学の大作にふれたことが、1つの転機になっていると思います。刑務所を出てからも、ショーロホフの『静かなるドン』を読んで大きな感銘を受け、「大河のゆるやかな流れのような作品」を書きたいと、述べていました。
しかし、多喜二を「時代」を描く大作の執筆へと動かしていった最大の動因は何かといえば、それはやはり彼が描こうとした主題そのもののなかにあった、と思います。日本共産党再建の活動にしても、侵略戦争に立ち向かう闘争にしても、1つの争議を描く書き方では書きつくせない主題です。弾圧されても、失敗しても、それに負けないでたたかい続ける、そういう性格をもった闘争ですから、これは大長編のなかでしか書けないことを、痛感したのではないでしょうか。
さきほど紹介した『一九二八年三月十五日』への反省――弾圧をその一断面だけでとらえない、ということは、あの時代の「階級闘争の弁証法」を多喜二なりに体得しての言葉だったように思われます。
・「社会ファシスト」問題をめぐって
――多喜二は、国家権力と侵略戦争の問題をたいへん具体的に取り上げていますね。
不破 戦争の問題の多喜二のとらえ方は、非常に面白いのです『蟹工船』の構想の組み立てを蔵原惟人さんに説明した手紙がありますが、そのなかで、「プロレタリアは、帝国主義的戦争に、絶対反対しなければならない、と云う。然し、どういうワケでそうであるのか、分っている『労働者』は日本のうちに何人いるか」とあります。
彼は、最初から、戦争の問題を、戦争推進勢力の影響から労働者・農民をいかに引き離すか、こういう政治的な闘いの問題と位置づけて取り組んでいるわけで、最後の作品群には、そのことが鮮明に出ています。こういう角度で、日本共産党を中心にした戦前の反戦闘争を描いた作品を、私は多喜二のほかにはあまり知りません。
これらの作品には、「満州」侵略を合理化する戦争推進派の議論がいろいろ出てきますが、面白いのは、戦争派の言い分のなかに、「アジアの解放」だとか「自存自衛」だとかいう話がまったく出てこないことです「満州」をとったら日本にこういう利益がある、という「権益」論がもっぱらで、農民も土地が手に入る、日本の労働者も楽になるとかの話で、みんなを引きつけようとする。これが、戦時下の日本社会の現実であって、〝靖国派〟のいう「アジア解放」論などがあとからのつくり話であることが、よく分かるのです。
社会民衆党や労働総同盟も、「満州」での戦争が始まるとすぐ戦争賛成の立場を打ち出しましたが、その言い分も、「満蒙は日本の生命線」という「権益」擁護論でした。
――この勢力の動きは、どの作品にもリアルに描かれていますね。
不破 この点では、日本の社会民主主義勢力の動きは、世界のなかでもとりわけ異常なものでした。社会民衆党など社会民主主義を代表する政党が、中国侵略の戦争を党として最初から支持したのですから。こういう動きは、当時のヨーロッパでは見られないものでした。
多喜二は、農村での闘争を扱った『沼尻村』でも、工場での闘争を描いた『党生活者』『地区の人々』でも、これらの政治勢力の末端組織の役割を克明に書いていますが、これは、当時の状況のリアルな描写でした。31年、32年というのは、社会民主主義の主流が「満蒙権益」論をテコに、雪崩をうって侵略戦争推進派に転落していった時期でした。
この勢力を「社会ファシスト」と呼んでいるのを、多喜二の作品の〝傷〟のように見る人もいますが、私は、そこをリアルに書いたのは、むしろ多喜二の功績だったと思います。のちに批判される「社会ファシズム」論というのは、スターリンやコミンテルンが社会民主主義を頭からファシズムの仲間として攻撃したことを、指したものでした。当時の日本で起こったのは、「社会主義」の看板をかかげながら侵略戦争賛成派、軍国主義推進派に転落するという、「社会ファシズム」的な転落そのものだったのです。
『蟹工船』を起点に労働者の全体像を見る
――話が飛びますが、いま「蟹工船」が若い人たちのあいだで大いに読まれています。「蟹工船」での搾取は、現在のワーキングプアそのままだと言われて……。
不破 同感です。多喜二は、蟹工船を、「殖民地、未開地に於ける搾取の典型的なもの」ととらえてあの作品を書いたのです。多くの若者が、現代日本の大企業のなかに、そうした原始的で野蛮な搾取が再現している、ということを、多喜二の作品から痛感した、ということは、たいへんなことだと思います。
一言、つけくわえて言いますと、蟹工船的な野蛮な搾取が、近代的な大資本の足元で再現しているという問題は、多喜二もよく見ていたことです。だから、彼は、労働者を書くときに、資本が労働者のなかに階層秩序をつくりだし、下層の部分では非人間的で過酷な搾取がおこなわれていることを、必ず問題にしました。
『工場細胞』でも、近代的な「H・S工場」の職工たちは別格で、小樽の底辺には、「親方制度」や「現場制度」の過酷な支配のもとにある日雇いの運輸労働者の大群がいて、その階層的な区分が労働者支配のささえとなっていることが、描かれています。
戦時下の作品でも、『沼尻村』に出てくる労働者は、炭鉱の「選炭場」に日雇いで働きに行っている小作の娘たちと、農閑期にやはり日雇いで働きにくる非正規の貧農たちです『党生活者』では、主人公をはじめ工場細胞の面々は、軍需景気で忙しくなった工場に就職した臨時工ですし、『地区の人々』では、最初に出てくるY市の「地区」の情景描写のなかに、「大工場」と「町工場」、さらには日雇いの浜人足などからなる階層秩序が、生産現場だけでなく、居住条件の差別ともなっている様子が、克明に描きだされます。ちょっと、エンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』を思わせるような叙述です。
『蟹工船』を見た多喜二の「目」が、こうして、前近代的な形態を現代の搾取体制のなかに再現させる資本主義の支配構造にまでおよび、そのなかでの労働者の階級的連帯と闘争への道を追求していったことも、多喜二の文学の大事な特徴というべきですね。(「同盟サイト」より)
●2008.1.21・「しんぶん赤旗」→朝の風「映画「母べえ」と多喜二」
26日の公開が待たれる山田洋次監督の映画「母べえ」。ここに登場する「父べえ」のモデルがドイツ文学者の野上巌であることは知られている。野上は戦前プロレタリア文化運動に参加し、三笠書房の唯物論全書の1冊として、新島繁のペンネームで『社会運動思想史』を書いた。宮本百合子は「この本は、今日の歴史のその向うにまだある)ものに対する、私たちの健全な愛着と奮闘心とを呼びさます熱量をはらんでいる」と書評している『唯物論研究』(1937年12月号)「今日の歴史の(その向うにまだある)もの」が、戦後社会を展望したことは言うまでもあるまい。
 (野上新島)には、大学の教壇を追われ高円寺で古本屋を営むころ、当時阿佐ケ谷に住み、雑誌『インターナショナル』を買いに来た小林多喜二への回想もある。多喜二虐殺に衝撃を受け、築地小劇場での多喜二労農葬にも駆けつけている。『世界』2月号で、原作者の野上照代さんとの対談で山田監督は語る「『父べえ』たちを非人道的に迫害した、その罪の責任を誰もとろうとしないし、追及もしない。優しい『母べえ』は、戦後何十年もそれを胸の中に、納得のできないこととして、抱き続けていた、というのが、まあ、この作品のメッセージでしょうか」多喜二没後75年を迎える年に、「母べえ」の訴えは格別の感慨を呼ぶに違いあるまい。(乾)(「同盟サイト」より)
●2008.1.21・「しんぶん赤旗」→今、ここにある『蟹工船』/小林多喜二命懸けたメッセージ/「自分と同じ」若者が愛読/初版完売
「おい、地獄さ行ぐんだで!」―。この一節で始まる小林多喜二の『蟹工船』(1929年)が今、若者の間で新たな読み継がれ方をしています。今年は日本共産党員でプロレタリア作家の小林多喜二生誕105年・没後75周年に当たります。75年のときを超え、多喜二は現代の青年に何を語りかけるのでしょうか。
・平井真帆
2006年から2007年にかけて、『30分で読める…大学生のためのマンガ蟹工船』東銀座出版社)、『まんがで読破蟹工船』イースト・プレス)が相次いで出版されました。
・名前は知ってる
いずれも売れ行きは上々。東銀座出版社によると、初版の5000部は1カ月ほどで完売「若い読者を中心に」広く読まれ、現在3刷を数えています。
埼玉県在住の鈴木秋男さん(24)=仮名=は昨年、『マンガ蟹工船』を買って読みました。それまで多喜二については「名前だけは知っている」程度。鈴木さんは常に2、3の仕事を掛け持ちしています。仕事先でひざの半月ばんを割るけがをしたときには、収入が途絶えました。働いても働いても、お金が残らない『蟹工船』を読んで、「形は違うけれど自分たちも搾取されている。自分と同じだ」と思いました「搾取される側の人たちが自分たちを守るために立ちあがる。一度失敗するけれど、そこからまた立ちあがる」。そんなシーンが印象的で、1年たった今でもよく覚えています。
・海外からも応募
昨年末、懸賞総額200万円をかけ、25歳以下の「『蟹工船』読書エッセーコンテスト」が開催されました。
「多喜二が『蟹工船』を書いたのが26歳のとき。多喜二の同世代に読んでみてほしかった」。コンテストを主催した白樺文学館多喜二ライブラリーの佐藤三郎さんはこう話します。
結果は近日ホームページ上で発表される予定ですが、約120人の応募者の中には、フランスの高校生や中国の大学生など、海外からの応募も多数あったといいます。
選考委員会委員長の島村輝さんはコンテスト全体を通しての特徴を、「『蟹工船』の世界は昔のことではなく、今起こっていることであ」り、「『団結』の困難さと、それを打開する意志を表明したものが目立った」と、評しています。
人を人として扱わない奴隷労働がつぶさに描かれた『蟹工船』を、「自分と同じ」「よくわかる」と語る現代の青年たち「団結し、立ち上がろう」と呼びかける多喜二の命を懸けたメッセージが時代を超えて再び、彼らに響いているのです。
・派遣労働者の境遇に似ている
作家で前全国労働組合総連合(全労連)専従者の浅尾大輔さんに聞きました。
昨年の秋ごろ、派遣で働く首都圏青年ユニオン組合員の女性が私に「今、これを読んでいる」と、文庫本の『蟹工船』を差し出しました。私は非常に驚きました。
携帯小説がはやり、純文学があまり読まれなくなっているなか、小林多喜二さんの小説を若い女性から見せられるとは、全く想定外のことでした。
『蟹工船』が長い歴史の〝射程距離〟を持った小説として再び評価されているのには、いくつか理由があると思いました『蟹工船』に描かれている労働者の状態は、今の派遣労働者と非常によく似ているからです。
就職先を紹介するときに「ピンはね業者」がいる、期間限定の労働者である、お金を稼ぐ前に一定の借り入れ借金)ができる、厳しく監視されている、セクハラ・パワハラが横行している…。
上司から暴力を振るわれる労働者もいて、「生死をかけた労働」という点でも非常に共通している。労働者が皆バラバラにされ、団結しないように仕組まれている点も。
「寝袋を持参し、職場に泊まり込みで仕事。居眠りをしていたら『寝るな』と殴られ歯が折れた」「正社員と同じ仕事をしていても、文句を言ったら即日、雇い止め」私たちの下には、このような労働基準法以下の相談が次々に舞い込みます。彼らはプライドを傷つけられ、人間性を否定されています。
青年ユニオンが解決しても解決しても、雨後の竹の子のごとく、脱法行為をする企業が後を絶ちません。絶望感に襲われることもしばしばです。しかし、おびえきってうなだれていた青年が労基法を学ぶ。勇気をだして面を上げ、団体交渉という権利を行使して会社に挑む。その姿に私は希望を見いだしています。
『蟹工船』を読んだ彼女は、自分の働いている状況をきちんと代弁してくれる小説に初めて出会ったと、すごく感動したのではないでしょうか。たたかう私は間違っていなかったと…。
これから全国各地で多喜二さんの文学と人生をふりかえるイベントが開催されます。このような愛され方をする作家を、私は多喜二さんのほかに知りません。なぜ、彼がこんなにも愛され続けるのか。ぜひ、作品を読んで考えてみてください。
浅尾さんは、3月15日、東京のみらい座いけぶくろ(池袋駅東口5分)で開かれる「多喜二の文学を語る集い」の「青年トーク『蟹工船』を語る」に出演します。
・『蟹工船』って?
『蟹工船』とは、北洋でとったカニを鮮度の落ちないうちに船の中で加工する「移動缶詰工場」のような船です。1920年ごろから始まり、しだいに大型船にかわってゆき、軍艦の護衛をうけソ連の領海まで進出しました『蟹工船』の労働条件はすさまじく、不潔な船内と粗末な食事、連日の超長時間・過密労働による病死や、絶え間のない監視と虐待が当たり前の奴隷労働でした。
・小林多喜二
1903年、秋田県大館市生まれ。特高警察の非道な弾圧を描いた『一九二八年三月十五日』でプロレタリア作家として注目される。1933年2月20日、特高警察に逮捕され、その日のうちに虐殺される。多喜二と面識のあった志賀直哉が日記に「不図、彼等の意図ものになるべしといふ気する」と書いたことはよく知られている。東京都内では、「第20回多喜二祭」が2月26日(火)杉並公会堂大ホールで開催されます。午後6時開場、6時30分開演。参加費は1200円(当日1500円)(「同盟サイト」より)
●2008.1.18・「しんぶん赤旗」→「没後75周年・多喜二祭各地で、充実した企画がいっぱい。不破さんが東京2月26日)で記念講演、秋田ではハングル版訳者が登場」
今年は日本共産党員作家の小林多喜二の没後75年にあたり、命日の2月20日を前後して各地で記念の集いが開かれます。例年以上に充実した企画が目白押しです。
第20回杉並・中野・渋谷多喜二祭では、日本共産党の不破哲三社会科学研究所所長が講演を行います。
不破さんが多喜二を語るのは没後45周年の集い以来、30年ぶりです。題は「歴史に挑戦した5年間―『一九二八年三月十五日』から『党生活者』『地区の人々』まで」。実行委員会は会場の杉並公会堂(荻窪駅北口七分)を1200人で満杯にしようと張り切っています。 さらに国際的な広がりと青年の新たな関心が見られるのも今年の特徴です。
多喜二が生まれた秋田・大館では、韓国の80年代民主化闘争の中で『蟹工船』を翻訳・出版した2人の韓国人が初めて参加します。自分たちの民主化運動と『党生活者』の姿が重なったという翻訳者・李貴源(イ・グィウォン)さんらの話は、時代と国境を超える作品の生命力に迫ります。
多喜二の育った小樽では、「青年『蟹工船』読書エッセーコンテスト」の受賞者と選考委員がそろって参加します。コンテストの応募は百通を超え、中学生から20代まで予想を超える秀作があったといいます。そのなかから大賞などに選ばれた受賞者たちと、ノーマ・フィールドさんたち選考委員が、現代と多喜二について語り合います。
北海道から熊本まで大小さまざまの集いが毎年のように行われる小林多喜二。こんな作家は他にいません。格差と貧困を打開する国民のたたかいに、彼の生涯と文学が大きな励ましを与えている証しです。
各地の多喜二祭/16日現在)
【北海道】
・2008年小樽多喜二祭 2月20日(水)午後1時半、奥沢墓地で墓前祭。午後6時20分、小樽市民センター・マリンホール「いま若ものがとらえる『蟹工船』」ノーマ・フィールド・シカゴ大教授ほか。1200円。0134(32)8560斎藤
・小林多喜二を語るつどい・くしろ 2月17日(日)午後1時半~4時、まなぼっと(生涯学習センター)5階「小林多喜二の生きた時代と現代」荻野富士夫・小樽商科大学教授。500円。0154(37)9064福浦
【秋田県】
・第43回秋田県多喜二祭 2月16日(土)午後1時半~4時半、秋田市・生涯学習センター講堂「80年代韓国民主化闘争の中で息づいた多喜二の文学」李貴源、李相炅(イ・サンギョン)ほか。1000円。018(833)3117富樫
・第29回大館市小林多喜二記念の集い 2月17日(日)午後1時半―4時、大館市中央公民館。内容・出演者は秋田市と同じ。0186(42)9694大山
【茨城県】
・古河多喜二祭 2月20日(水)午後1時半、古河文学館「小林多喜二と下村千秋」奈良達雄。300円。0280(32)5761奈良
【東京都】
・第20回杉並・中野・渋谷多喜二祭 2月26日(火)午後6時半、杉並公会堂大ホール「歴史に挑戦した五年間」不破哲三党社研所長。ピアノ・村上弦一郎。前売り1200円、当日1500円。03(5382)3177高木
【神奈川県】
・第7回神奈川七沢多喜二祭 2月10日(日)、伊勢原市民文化会館「山陰の小百合―田口タキのおもかげ」島村輝・女子美術大学教授午後4時20分~)映画「赤貧洗うがごとき(田中正造の生涯)」(午後2時と5時25分の2回上映)。1500円。0463(96)1003蛎崎
「時代を撃て・多喜二」横浜上映会 2月22日(金)午後1時半、4時、6時半の3回。横浜情報文化センターホール。前売り1000円(学生500円)、当日1200円(同700円)。045(201)3684実行委員会
【大阪府】
・08年大阪多喜二祭 2月16日(土)午後1時半、大阪市立中央青年センター第一ホール「多喜二の魅力」澤田章子、歌・ケイ・シュガーほか。1000円。06(6772)7555治安維持法国賠同盟大阪府本部
【兵庫県】
・小林多喜二没後75周年記念集会 2月23日(土)午後1時半、神戸市・生田文化会館「人生の飛躍文学の飛躍」新船海三郎、歌・ケイ・シュガー。前売り1000円、当日1200円。078(351)0377実行委員会
・第7回阪神北小林多喜二祭 3月2日(日)午後2時、いたみホール地下・多目的ホール。講演・友成光吉。1500円。072(781)0122実行委員会
【福岡県】
・3・15大弾圧80周年多喜二没後75周年のつどい 3月15日(土)午後1時、福岡市民福祉プラザ。講演と青年たちの発言。300円。092(581)8171立石 【熊本県】
・多喜二を語る早春文化の集い 2月16日(土)午後2時~4時半、人吉市東西コミュニティセンター大会議室。映画「時を撃て 多喜二」の池田博穂監督の講演。1000円。0966(23)2527上田
日韓教授が記念講演/3月15日、東京の「語る集い」
今年は多喜二が『一九二八年三月十五日』で描いた三・一五弾圧事件80周年でもあります。3月15日には日本民主主義文学会と多喜二・百合子研究会主催の「多喜二の文学を語る集い」が、東京のみらい座いけぶくろ(池袋駅東口五分)で開かれます。
プロレタリア文学研究の祖父江昭二・和光大学名誉教授と、韓国の若手の日本文学研究者の朴真秀(パク・ジンス)暻園大学教授が記念講演。女性初の真打ちで知られる講談の宝井琴桜さんが「小林多喜二の母」を演じます。作家の浅尾大輔さんと首都圏青年ユニオン組合員による青年トークも、若者が多喜二をどう読むか楽しみです。03(5940)6335(「同盟サイト」より)
●2008.1.7・「しんぶん赤旗」→朝の風「80年前の正月に」
「さて新らしい年が来た。俺達の時代が来た。
我等何を為すべきかではなしに、如何になすべきかの時代だ」
これは小林多喜二が1928年1月1日夜に書いた日記の言葉だ。前年に田口タキが自分のもとから去って行ったことや、思想的にマルキシズムに進展していったことなどを述べた後で、このように新年に向けた決意を記していた。そこには労働争議や小作争議の高まりや2月に行われる初めての普通選挙への思いの反映がある。
ちょうど80年前のこの年、多喜二は共産党員やその同調者に対する大弾圧を描いた『一九二八年三月十五日』で、プロレタリア文学の有力な書き手として登場する。
今年の2月20日は、その多喜二が天皇制警察に虐殺されてから75年になる。つまり多喜二が文学運動で活躍した期間はわずか4年数カ月だったことになる。しかし、遺したものは大きい。その文学作品から、どれだけの人が歴史の進歩に重ねて生きる意欲をつかみとっただろう。
各地で多喜二祭が開かれるが、3月15日の大弾圧80年の日には、民主主義文学会による「小林多喜二の文学を語るつどい」がもたれる。また『民主文学』2月号は、没後75年の特集を組み、評論、エッセーを掲載している。貧困が広がり、恒久派兵を狙う動きがある時代だからこそ、改めて多喜二の文学を読みなおしたい。(予)(「同盟サイト」より)

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2007年


●2007.12.31「しんぶん赤旗」→来年、小林多喜二没後75年/民衆が多喜二奪還/群馬・伊勢崎署事件を発掘
検束された小林多喜二を、数百人の抗議で警察から奪還した事件があった――来年は『蟹工船』で知られる日本共産党員作家・小林多喜二の生誕105年、没後75年にあたります。節目の年を前に、今まで埋もれてきた群馬・伊勢崎署占拠事件の全ぼうが明らかになりました。(北村隆志)
JR伊勢崎駅から自動車で5分、日本共産党の八田利重・前伊勢崎市議(81)が案内してくれたのは、大きな庭のある見上げるような屋敷でした。戦前の大地主だった故・菊池敏清氏の家です。
「敏清さんは地元の共産党支部の創立者で、私の入党推薦者です。多喜二がここにきて検束されたんだとよく話していました」
・聴衆250人占拠 1931年9月6日、プロレタリア文化運動に参加していた敏清氏は仲間とともに文芸講演会を企画。新進作家の小林多喜二が来るというので前売り券は完売でした。
当日、小林多喜二、中野重治、村山知義ら6人の講師は講演会の前に敏清宅で簡単な茶話会を持ちました。 ところが会場に向かおうとした午後6時ころ、家の前に突然2台のトラックが止まり、2、30人の警官が飛び降りてきて、講師全員と敏清氏を含む10人を伊勢崎署に連行してしまいました。
警察は左翼思想が広がるのをおそれ、無届け集会を口実に、講演会をつぶそうとしたのです。
250人を超す会場の聴衆は、知らせを聞いて伊勢崎署におしよせ、「警官横暴!」「多喜二を返せ」と叫びながら、警察署を包囲しました。その勢いに押された警察は署長以下全員が逃げ出してしまい、かわりに群衆が警察署を占拠してしまいました。
このとき検束されていた1人に、平山知子弁護士の父親の故・菊池邦作氏がいます。この夜の留置場での体験を次のように書き残しています。
「そのうち、外からよくそろった革命歌の合唱の声が響いてきた。…私も歌った。他の房からも力強い革命歌が洩れた。…留置場の中で革命歌を歌う。しかも大衆とともに、私は、これだけで感激に身がふるえるのを覚えた」
深夜2時、群衆と警察の応援部隊の大乱闘の末、代表同士の交渉で事件を新聞に漏らさないことを条件に、警察は全員を釈放。小林多喜二たちは、翌朝の列車で無事東京に帰りました。伊勢崎警察署は戦後に移転し、当時の場所は駐車場になっています。
 事件の日、多喜二に夕食を出した小暮はる子さん(95)は伊勢崎市内で健在です。ミョウガ汁の卵とじを、多喜二がうまいうまいと喜んで2杯食べたことを「よく覚えている」と話します。
・検束は4回に
伊勢崎署占拠事件は、『伊勢崎市史』や『わが地方の日本共産党史(群馬県)』がわずかに紹介していますが、小林多喜二の年譜・評伝では一切触れられていません。
今回、事件を発掘したのは、多喜二が泊まった七沢温泉・福元館の発掘で知られる神奈川県伊勢原市の蠣崎澄子さん。平山知子さんの伝記で父親の邦作氏の証言を知り、調査を始めました。
「最初はこんなことがあったのかと驚きました」と蠣崎さん。
これまで多喜二が警察に拘引・検束されたのは3回と考えられてきました。①1929年に小樽で②上京後、1930年に大阪で(その後豊多摩刑務所に5カ月収監される)③1931年9月20日に上野で講演中です。
伊勢崎署占拠事件を加えると4回だったことになります。しかも、多喜二を応援する民衆の力で警察に釈放させたとは画期的な事実です。
蠣崎さんと一緒に調査してきた労働運動史研究家の藤田廣登さんも「これまで上京後の多喜二が訪ねたのは関東では神奈川だけと考えられてきました。多喜二の足跡の新しい発見です」と言います。
・戦争勢力に反撃/平山知子さんの話
伊勢崎署占拠事件のことは、父(菊池邦作)から聞いたことがあります。署を占拠されるなど警察にとって大変な不祥事なので、なかったことにされたと言っていました。
戦争に国民をかりたてる上で、教育と、治安維持法と、女性を無権利にした家制度の3つが大きな役割を果たしました。父も弾圧で拷問を受けました。事件から先人の活動のすばらしさをあらためて感じます。暴力的な弾圧と民衆の抵抗の事実を発掘することは、新たに戦争を起こそうとする勢力に対する大事な反撃です。(「同盟サイト」より)
●2007.12.27「しんぶん赤旗」→多喜二記念集会で文学会が協力要請
小林多喜二生誕105年・没後75年を記念する「多喜二の文学を語る集い」を準備している日本民主主義文学会代表が22日、東京・千駄ケ谷の日本共産党本部を訪れ、集いへの協力を要請しました。
吉開那津子会長、宮寺清一、稲沢潤子両副会長、田島一事務局長ら民主文学会三役からの申し入れには、足立正恒学術・文化委員会責任者、土井洋彦同事務局長が応対しました。
田島氏からは、一般の文芸誌でも戦前のプロレタリア文学運動が再評価され、多喜二の初期作品の新発見などもあって、多喜二文学が新しく注目を得ている折でもあり、ぜひ成功させたいと、協力要請の趣旨が述べられました。足立氏が「今の日本の情勢のなかで多喜二文学を広める意義はきわめて大きい。党社会科学研究所長の不破哲三さんが講演する杉並・中野・渋谷多喜二祭とあわせて、成功のためできる限り力を尽くしたい」と応じ、『蟹工船』ハングル語訳が見つかるなど、この間に国際的に広がった多喜二への関心、その文学の今日的な意義などについてなごやかに懇談しました。
来年3月15日午後1時半から、東京都豊島区・みらい座いけぶくろ(豊島公会堂)で開かれる「集い」には、プロレタリア文学研究者の祖父江昭二氏、韓国の多喜二研究者・朴眞秀(パク・ジンス)氏の講演、女性講談師宝井琴桜さんの講談「小林多喜二の母」や、作家・浅尾大輔氏と首都圏青年ユニオンによるトーク「蟹工船を語る」など盛りだくさんの企画で注目を集めています。(「同盟サイト」より)
●2007.11.23「しんぶん赤旗」→映画「蟹工船」DVD発売
小林多喜二原作、山村聡監督・脚本・主演の映画「蟹工船」のDVDがこのほどできました。製作は1953年。山村監督の第1回監督作品で、撮影を宮島義勇、音楽を伊福部昭が担当しています。リバイバル公開の要望に応え、原盤フィルムを元に製品化しました。
海のタコ部屋ともいわれる『蟹工船』を舞台に極度に過酷な奴隷労働の日々に耐えかねた漁夫らが、ついに団結し立ち上がる姿を、ダイナミックに描きます。小林多喜二はこの作品で当時の国民抑圧の構図を鮮明に示し、日本文壇全体から高く評価されました。映画は北洋蟹漁船東慶丸に乗り組み、ベーリング海で長期ロケを敢行したとあって、鬼気迫るシーンの連続。出演は山村聡、森雅之、日高澄子、中原早苗ほか。
2940円、モノクロ109分。申し込みは、作品タイトル名、住所・名前・電話番号・支払い方法(代金引換または郵便振替)を明記、なつ印の上、ファクス(03・3339・5100)またはハガキ(〒166―0002東京都杉並区高円寺北2の13の1・北星DVD係)で。 (「同盟サイト」より)
●2007.11.21「しんぶん赤旗」→多喜二の『蟹工船』に注目が
晴男 何を読んでいるかと思えばまた漫画か。
漫画が相次いで
のぼる ただの漫画じゃないよ。小林多喜二の『蟹工船』の漫画なんだ。コンビニで売っていたんだ。
晴男 小林多喜二って、特高に虐殺された戦前の共産党員作家だろう。その小説が漫画になってコンビニに並んでいるとはすごいね。
のぼる これは『まんがで読破 蟹工船』といって文庫サイズだけど、少し前にも大判の『大学生のためのマンガ蟹工船』が出た。漫画で競作なんて『蟹工船』もなかなかの人気だよね。
晴男 書店でも新しい小林多喜二の文庫が出ていた。講談社文芸文庫の『老いた体操教師・瀧子其他』で、今年発見された多喜二が17歳の時の作品も収めている。プロレタリア作家になる前の作品集だけど、どの作品も立場の弱い貧しい人に寄り添っているね。
のぼる 青年を対象にした『蟹工船』の読書感想文コンクールもあったよ。多喜二の母校の小樽商科大学と白樺文学館多喜二ライブラリーの主催で15日が締め切りだった。賞金も出るし、友だちががんばって応募したよ。
晴男 なぜ『蟹工船』が注目されるんだろう。来年は多喜二の生誕105年、没後75年にあたるからそれにむけたという意味もあるのかな。
のぼる それだけじゃなくて、貧困と青年の雇用破壊がひどすぎるからだよ。昨年の青年多喜二祭で東京の若い共産党区議が「『蟹工船』を読んで、昔も今と同じだったんだなと思った」と話していた。驚いたよ。
・今の現実と共通
晴男 『蟹工船』の描いた〝海上たこ部屋労働〟が、いまの住み込み請負労働や、日雇い派遣と共通するというわけだ。
のぼる 文芸誌『すばる』も夏に「プロレタリア文学の逆襲」という特集を組んだけど、担当編集者は「格差、若年ホームレス、ネットカフェ難民などという言葉を盛んに聞くようになり、プロレタリア文学を再評価する意味があると考えた」と言っていたよ。
晴男 多喜二はそういう現実から出発して、立ちあがる労働者や共産党員を描くように進んでいった。今の青年のなかからも新しい運動と文学が登場するといいね。(「同盟サイト」より)
●2007.11.16「しんぶん赤旗」→小林多喜二の足跡をたどる/党苫小牧後援会など
治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟苫小牧支部と国民救援会苫小牧支部、日本共産党苫小牧地区後援会は11日、小林多喜二の足跡をたどる光寿寺参りと温泉ツアーを開催し、45人が参加しました。
多喜二の小説「東倶知安行」で演説会場となった光寿寺(京極町)は、多喜二が1928年2月、労働農民党から立候補した山本懸蔵の応援演説のために訪れたといわれる古寺です。
多喜二が演説した「広間いっぱいに集まった群衆を見た」という本堂で住職の松長正憲氏は、仏教は「けっして武器をとらない、戦争に手を貸さないという戦争放棄をうたった憲法九条そのものです。仏の願いはすべての人々が幸せ・平和になることです」と親鸞聖人の教えを30分にわたって説きました。
参加者から「住職さんがそのような話をされて檀家さんからの反発はないのですか」との質問に、「門徒さんは非常に勉強熱心で、公平・平等の考えをもち、いろいろなところで実践されておりますから」と民衆の人権と反戦を静かに語り、参加者の感動をよびました。法話後、参加者は門前で写真を撮ったり、京極温泉で日ごろの疲れを癒やし交流を深めました。
●2007.11.7「しんぶん赤旗」→韓国と小林多喜二/韓国日本語文学会に招かれて/伊豆利彦
・古書店でみつけたハングル版『党生活者』の書き込みに感動b
『戦争と文学 いま小林多喜二を読む』(拙著)が韓国で翻訳され、それがきっかけで10月13日に全州大学(全州市)で開かれた韓国日本語文学会で「帝国主義と文学」というテーマで講演した。このテーマは翻訳者の金正勲さんが学会の会長(金鉉煬・光州大学教授)と相談したとき、会長の方から言い出されたのだという。韓国の研究者の関心がどこに向いているかを示すものだろう。
・時代と民族こえ広い視野でみる
韓国日本語文学会は日本語、日本文学を研究する大学教員や大学院生で構成され、会員は300人以上とのことで、当日、私の講演を聞いたのは100人くらいだった。会員の多くは日本に留学していて、日本語での講演にまったく不便を感じないようだった。講演のあと次々と熱心な質問があったのもうれしかった。
韓国でハングル版『蟹工船』が民衆抗争のさなかに出版された経緯については本紙9月19日付の茶谷十六さんの記事にくわしいが、訳者李貴源さんは歴史学を専攻して、20年前の民主化闘争に参加し、民主主義運動の歴史や理論を学ぶために日本の書物を取り寄せて読む中で小林多喜二に出会ったという。『一九二八年三月十五日』の弾圧・拷問のありさまは、韓国の現実そのものであり、『党生活者』は民主化闘争の自分たちの姿とそのまま重なって、もっとも感銘深かったと語っている。
今度の訪問で李貴源さんに会いたかったが実現できなかった。しかし古書店で購入したハングル版『蟹工船』を見ることができた。それには『党生活者』の困難な運動を描いた部分、強い決意を示した部分にアンダーラインがほどこされていた。『蟹工船』がこのように訳され、このように読まれていることに私は感動した。
拙著の訳者、金正勲さんも386世代(60年代に生まれ、80年代の民主化闘争時代に学生生活を送り、90年代に30歳代だった世代)で、闘争の拠点、金大中前大統領を生んだ光州の出身であることを誇りとしている。訳者序文で、私の本からアブ・グレイブの米軍の残虐行為について書いた部分を引用し、「日本軍国主義の戦争時代、国家権力と天皇絶対主義に向かって闘争した多喜二の精神は、今の時代を生きる若者に再びよみがえるだろうか」と述べている。金さんは多喜二の時代と軍事政権の時代の権力による暴圧、アフガン・イラクにおける米軍の暴行に共通のものを見て、多喜二の文学を時代と民族を超えた広い視野から見ているのだと思う。
・多喜二の〝精神〟歴史進める力に
韓国の聯合ニュースはハングル版の拙著について「日本階級主義の作家の作品や批評書があまりない韓国で、現代的視点から見た本格的な批評書が刊行されたという点から読者の関心を引いている」「そこには絶対権力に立ち向かった小林多喜二の時代精神、自由と平和運動を身をもって実践した作者の文学世界がそのまま刻み込まれている」と評する書評を発信し、この書評は全国紙各紙に掲載された。
いま、韓国は大統領選挙のさなかである。数知れぬ犠牲者を出した民衆抗争の成果である金大中前大統領から受け継がれた南北融和と民主化の路線を守れるか。与党勢力が敗れれば、歴史が後もどりするのではないかと金さんは心配していた。いま多喜二が韓国で新しくよみがえり、このたたかいに寄与できればうれしい。
*いずとしひこ=1926年生まれ。横浜市立大学名誉教授。日本近代文学専攻。『日本近代文学研究』『漱石と天皇制』ほか。 (「同盟サイト」より)
●2007.10.12「しんぶん赤旗」→この秋多喜二ラッシュ/没後75年前に本が続々
13日は、戦前、日本共産党員作家として活躍し、特高警察に虐殺された小林多喜二の誕生日です。来年の没後75年を前に、今月は小林多喜二関係の本が次々登場し、時ならぬ出版ラッシュです。
今春、小林多喜二が17歳で書いた最初期の小説「老いた体操教師」が発掘されて話題になりましたが、さっそくそれを収録したのが講談社文芸文庫の『老いた体操教師・瀧子其他』(1300円)です。初期の短編16編を収めています。解説で曽根博義日本大学教授は、『一九二八年三月十五日』や『蟹工船』などの「高い尾根にたどり着く里程標であると同時に、一つ一つが短編としての独立した価値を持っている」と書いています。
『まんがで読破・蟹工船』(イーストプレス・552円)は多喜二の原作を若者むけにマンガ化。2年前の『大学生のためのマンガ蟹工船』(東銀座出版)に続くものですが、企画はまったく別。夏目漱石や太宰治などの名作をまんがで読むシリーズの7冊目です。主要人物に原作にない名前をつけ、まんが世代むけに読みやすくしています。
それにしてもマンガ界での意外な『蟹工船』人気です。無権利な非正規雇用が広がる現代の若者に、『蟹工船』の非情な資本に対する、労働者たちの命がけの反撃は、どのように読まれるか、興味深いものがあります。
青年向けの『蟹工船』読書エッセーコンテストも現在作品募集中です。主催は多喜二の母校である小樽商科大学と白樺文学館多喜二ライブラリー。締め切りは11月15日、締め切り時点で25歳以下なら応募資格があります。
韓国では、今月上旬に『戦争と文学―いま小林多喜二を読む』ハングル版が刊行されました。伊豆利彦横浜市立大学名誉教授の著書の翻訳です。訳者の金正勲氏は翻訳の動機について、「『小林多喜二』という日本近代の作家を通じ、またその不屈の精神を通じ、いまのイラク戦争を眺望し、現代を生きる我々の精神を省察してみる批評に少なからず刺激を受けたから」と書いています。
13日には韓国の全州大学で開かれる日本語文学会で、伊豆利彦氏の出版記念講演会が行われます。(北村隆志)(「同盟サイト」より)
●2007.7.1「しんぶん赤旗」→発見された小林多喜二の小説『老いた体操教師』/17歳の清新な息吹
日本を代表するプロレタリア文学の作家、小林多喜二が17歳のときに書いた作品、「老いた体操教師」が、このほど曾根博義・日本大学教授によって発見されました。1921年10月号の『小説倶楽部』に掲載された当選作(選外佳作一席)です。これは全集にも未収録ですので、ぜひ読みたいという多くの要望にこたえて、今回『民主文学』(7月号)が、曾根氏の「解説」のもとに再録しました。
毎朝酒くさいと言われ、「足が自由でなくて、よく走れない」けれど、性格の良さで生徒に愛されている老体操教師のT先生が主人公です。士官学校出身の先生は、日露戦争では満州に出兵した、「軍人的な単純さを持った典型的なタイプの人」です。
ところがT先生は、厳格で容赦なく教師の淘汰をするという新校長が赴任してくると、今日で言うリストラの対象に自身がなることを恐れ、生徒のあら探しをして罰する教師に豹変するのです。
伯父の命令で絵をやめなければならなくなった多喜二が、その後文学に情熱を注ぎ、雑誌への投稿を始めて間もないころの作品です。先生の内面にまで深く入り込んだ描写と、教師をとりまく人間関係や家族・社会状況をとらえる目の鋭さには、すでに並々ならぬ素養がうかがえます。緊密でみずみずしい筆致の文章からは、当時学び始めた志賀直哉の文学の影響も読み取ることができます。
作中で、T先生の行動は学校全体の空気に動揺をもたらし、生徒たちの排斥運動が起こって先生は学校を追われますが、このモデルは小樽商業の体操教師だったとされています。86年ぶりによみがえった本作品は、多喜二の清新な息吹を、読者にあますところなく伝えてくれるでしょう。(田島一=作家・日本民主主義文学会事務局長) (「同盟サイト」より)
●2007.6.15「しんぶん赤旗」→投稿時代の小林多喜二/「老いた体操教師」にみる社会批判/大田努
多感な姿がほうふつ/描写に文学的な特色
この間、小林多喜二のプロレタリア作家として登場する以前に書かれた文献の発見が相次いでいる。『小説倶楽部』1921年10月号に発表された投稿作品「老いた体操教師」もその1つである。さらに全集未収録文献として、小樽文学館に展示されている小樽商業での友人西丘はくあ宛のハガキは、その翌年のものだが、偶然とは言え『小説倶楽部』に関係している。
「選外佳作一席」相当な力量みる
短編「老いた体操教師」は、昭和女子大図書館旧近代文庫に雑誌が保管されていたもので、発見者の曾根博義氏の「解説」を付して、『民主文学』7月号に再録されている。この作品は、氏も触れているように2つの断稿があり、タイトルも確認されていたが、ただ雑誌の所在が分からないために未詳となっていただけに、今回の発見を喜ばしく思う。「老いた体操教師」が書かれたのは多喜二が好きな絵画を伯父に止めさせられ、文学に打ち込み始めて1年も満たない頃であるが、「選外佳作一席」とは言え、すでに相当な力量を感じさせるものである。
あらすじは、日露戦争での古傷をかかえつつも、校内の自由主義的な雰囲気に理解を示してきた人気教師が、校長の交代を機に新校長の厳格主義に歩調を合わせて、逆に生徒の支持を失い、追放されるという展開である。「解説」のモデル考証から見ると、教師の形象にも記録性の濃い作品とされる。しかし、事件や人物のエピソードに題材をとり、それを小説として十分にこなすに至っていないものの、不具の身ゆえに転身する教師の描写のように、その中に社会批判を含むことはすでに多喜二らしい文学的特色となりつつあった。
この作品の草稿の1つである断稿「その3」(全集第6巻収録)では、シベリア出征で負傷した退役軍人について、「一度創ついて役に立たなくなると子供だましのような年金をくれて、ほっぽらかす処置には彼はずうーと前から憤慨していた。やけに彼は年金を酒にしてしまった。」など、軍隊批判はより顕著であった。私はそこにも志賀直哉の「11月3日午後の事」などに描かれた批判的精神の継承を見るのである。
仲間たちとの競い合いの中で
この時期「老いた体操教師」を含む10編の投稿の事実が分かっているが、多喜二の投稿熱は、彼の仲間たちが『中学世界』『文章倶楽部』等の全国的な投稿雑誌に短歌、詩、創作などをさかんに送る、その腕の競いあいの中で高められていた。『小説倶楽部』もそういう投稿雑誌の一つだった。
先に掲げた西丘はくあ宛のハガキ(1922年4月5日消印)は、この時期の多喜二の消息を伝えてくれる。「小説倶楽部で貴兄の詩を拝見して、たゞ感心仕りました。1回は素描である作品を見ましたけれども、今から権威ある西條八十氏の手で1等であるとすると(人間心理の弱点か)尚あの時よりは秀れて思はれるのです」(『素描』は多喜二らの回覧文集)
「貴兄の詩」とは、同誌1922年4月号に1等当選した西丘の詩「かなしき笛」をさしている。「感心仕りました」という文句には、小説部門で佳作まではなっても、1等当選を果たせないでいる多喜二の、友人に先を越された悔しさもにじんでいるようだ。そのためか、自己の作品については「愚作」と評していたが、そこまで言わずとも、多喜二が「老いた体操教師」などにいささかも満足していなかったのは間違いないことだろう。
現状に安住せず到達点示す「健」
多喜二は著名な選者による優劣にこだわるのは「人間心理の弱点か」とも書いているから決して当選第一主義などではない。しかし、彼にとって投稿はもはや現状に安住せず、切磋琢磨に励む修業の場となっていた。「老いた体操教師」のほぼ1年後に書かれ、『新興文学』1923年1月号の「当選」作となった「健」は、多喜二の投稿時代の到達点に位置する作品の1つだった。のちに多喜二はこの「健」を自己の作品略歴の出発点に掲げることになる。(「略歴と作品その他」、全集第5巻)
発掘された新文献は、没後75周年を来年に控え、17、8歳の多感な多喜二の姿を髣髴と甦らせてくれよう。(おおたつとむ=多喜二・百合子研究会)
●2007.5.18「しんぶん赤旗」→映画『蟹工船』を上映へ/来月1日、仙台市福祉プラザ
治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟仙台支部は6月1日午後6時30分から、仙台市福祉プラザで、支部結成一周年記念行事として、小林多喜二原作、山村聡監督の映画「蟹工船」鑑賞会を開きます。
仙台支部ではこの鑑賞会に多くの市民の参加をよびかけています。60歳代の男性は「蟹工船は中学校のとき、課外授業でみました。もう一度見にいきたい」といいます。若林区の50代の農家の主婦は「若いとき小説でよみました。見たいですね」と語るなど期待を高めています。
実行委員会事務局の鈴木さんは、「特に若い人にはぜひ見てもらいたい。多喜二は当時の労働者の悲惨さだけでなく、どうしたら自分たちの生活を守れるかを描こうとしたと思う。それは現代にも生かせるし、勇気を与えてくれるでしょう」と話しています。
資料代300円。問い合わせ先=仙台市若林区上飯田2丁目4の32、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟仙台支部。電話・ファクス022(285)4626(鈴木さん方)。 (「同盟サイト」より)
●2007.4.19「しんぶん赤旗」→朝の風/多喜二の「老いた体操教師」
久しぶりの小林多喜二の新原稿の発見で、「老いた体操教師」(『小説倶楽部』1921年10月号)が話題になっている。作品の発見者である曾根博義氏が、日本大国文学会の『語文』第127輯で紹介したものだ。
多喜二の場合、早くから作品の一面に鋭い社会性を備えていた。その意味で、新しく発見された「老いた体操教師」が小樽商業の校長排斥事件を思わせる題材とともに、日露戦争で負傷した退役軍人を描いているのは偶然とは言えまい。
1920年代初頭の小樽港は、ロシア革命への干渉戦争であるシベリア出兵の軍隊の出動拠点になっていた。この頃書かれた「生れ出づる子ら二」の中にも、そうした軍人の市井での横暴を描いたスケッチが見られる(「汽車の中で」)。また「老いた体操教師」に先行すると思われる「断稿その3」には、傷痍軍人へのわずかな年金や、「シベリア出征」の戦場の描写が跡をとどめる。黒島伝治が反戦文学シベリアものを発表する6年前であるだけに注目される(いずれも全集第6巻)。
もちろん、これらのことと、当時の作者が現実からそうした題材を切り取ってくることに十分に自覚的であったかどうかという問題とは別個のことである。しかし、初期作品への、内外の文学者の影響関係とともに、多喜二のリアリズムの研究上では新しい一石が与えられたことは間違いない。(乾) (「同盟サイト」より)
●2007.3.15「しんぶん赤旗」→日本共産党知りたい聞きたい/小林多喜二の小説『一九二八年三月十五日』のモデルは?
〈問い〉小林多喜二の小説『一九二八年三月十五日』を初めて読みました。多喜二はこの小説をどんな思いで書いたのでしょう。モデルはいたのですか? (東京・一読者)
〈答え〉1928年(昭和3年)3月15日、天皇制政府は、全国いっせいに約1600人の日本共産党員と支持者を検挙し、野蛮な拷問を加えました。
「銃後」をかためるために、侵略戦争反対をかかげる日本共産党を暴力で圧殺しようというねらいでした。事件を契機に、特別高等警察の拡充、治安維持法の死刑法への改悪、拷問の日常化と殺人行為への変質など、日本を破滅に導いた暗黒体制が一段と強まりました。
小樽では、3月15日未明から、1カ月にわたって、200~300人が逮捕、検束、召喚されたといわれます。小樽警察は、所長官舎に拷問室を急造し、毛布で窓をおおい防音し、毎夜1人ずつ、意識不明におちいるまで、拷問をくりかえし、発狂して病院に収容される者も出ていました。この様子は、多喜二にもくわしく伝わっていました。
多喜二は、『防雪林』の原稿仕上げの作業を中断し、5月末『一九二八年三月十五日』に着手しました。このときの気持ちを多喜二は後年、『一九二八年三月十五日』という文の中で次のように回想しています(『小林多喜二全集』第5巻)。
「…半植民地的な拷問が、如何に残忍極まるものであるか、その事細かな一つ一つを私は煮えくりかえる憎意をもって知ることが出来た。私はその時何かの顕示をうけたように、1つの義務を感じた。この事こそ書かなければならない。書いて、彼奴等の前にたゝきつけ、あらゆる大衆を憤激にかり立てなければならないと思った」
「この作品の後半になると、私は一字一句を書くのにウン、ウン声を出し、力を入れた。 そこは警察内の場面だった。書き出してからスラく書けてくると、私はその比類(!)ない内容に対して上ッすべりするような気がし、そこで筆をおくことにした」
作中人物の腹案になった人びとの氏名については、「我がプロレタリア前衛の闘士に捧ぐ」という献詞のある多喜二のノート稿に、小樽警察の留置場周辺の見取図とともに次のように記されています。
「龍吉―古川〔友一・市役所職員〕、渡―渡辺〔利右衛門・小樽合同労組組織部長〕、鈴本―鈴木〔源重・同労組執行委員長〕、阪西―大西〔喜一・同労組員〕、斎藤―鮒田〔勝治・同労組書記〕、高橋〔英力・同労組会計係〕、石田―X(理想的な人物に伊藤信二〔行員〕)、佐多―寺田〔行雄・新聞記者〕」(〔 〕内は編集注)
「渡」への壮絶な拷問の描写は、渡辺利右衛門が実際に受けたものです。
多喜二は虐殺されました。しかし、多喜二の火は私たちの胸に継がれています。(喜)(「同盟サイト」より)
●2007.2.23「しんぶん赤旗」→小林多喜二を語る/釧路でつどい
「小林多喜二を語るつどい・くしろ」はこのほど、釧路市生涯学習センターで「2007年(第15回)小林多喜二を語るつどい」を開き、市民70人が参加しました。
治安維持法国賠同盟製作のビデオ「燃やし続けた炎」を視聴した後、小樽商科大学教授の倉田稔氏が、「小林多喜二と石川啄木」と題して講演しました。
倉田氏は、「多喜二と啄木の生き方には切実さがある。現在は治安維持法はないが、国民保護法や共謀罪のたくらみがあり、どうしても認めるわけにはいかない」と強調しました。「プロレタリア文学は横において読むものではないと思っていたが、結構おもしろかった」という学生が書いた感想文を紹介しました。 (2007年02月23日,「赤旗」) (「同盟サイト」より)
●2007.2.21「しんぶん赤旗」→多喜二を語り継ごうと集い/神戸
兵庫多喜二・百合子の会と兵庫文化クラブは17日、小林多喜二を語る会を神戸市内で開きました。特高警察が作家・小林多喜二を虐殺した1933年2月20日を忘れず、多喜二を語り継ごうと30人が集いました。
日本民主主義文学会神戸支部長の山口哲臣氏は、大銀行・大会社が吸収・合併して太る一方、ワーキングプアが広がる今日の時代にひきつけて、銀行が利ざやを自分のものにし、不在地主を牛耳っていたこと、銀行員だった多喜二が銀行の内幕を暴露していたことを紹介しました。
兵庫多喜二・百合子の会事務局長の大中肇、治安維持法国賠同盟兵庫県本部会長の佐野陽三、日本高齢者NGO会議代表委員の西岡幸利の各氏が発言しました。(「同盟サイト」より)
●2007.2.18「しんぶん赤旗」→没後74年の多喜二祭/墓前祭や講演など/20日、小樽
戦前、反戦平和と民主主義を訴え、天皇制政府に虐殺されたプロレタリア小説家・小林多喜二の没後74年多喜二祭(同実行委員会主催)が20日(火)にゆかりの小樽市で行われます。
▽墓前祭・午後1時半、場所=奥沢墓地(奥沢5丁目)
▽映画「時代を撃て多喜二」・午後3時、場所=小樽市民センターマリンホール
▽講演と音楽の夕べ・午後6時開場、場所=小樽市民センターマリンホール
記念講演=澤田章子氏(文芸評論家)「多喜二は現代に何を語るか」
音楽=清水公子氏(ソプラノ独唱)・新谷紗衣子氏(伴奏)「シューベルトの子守唄」ほか、うたう会きずな「多喜二へのレクイエム」問い合わせ=斎藤さん0134(32)8560。(「同盟サイト」より)
●2007.2.17「しんぶん赤旗」→日本共産党知りたい聞きたい/小林多喜二を虐殺した特高は罪に問われなかったの?
〈問い〉小林多喜二を虐殺した特高は罪に問われなかったのですか? (岡山・一読者)
〈答え〉1933年(昭和8年)2月20日、岩田義道が虐殺されてから3カ月後、プロレタリア文学の作家、小林多喜二は、詩人の今村恒夫とともに東京・赤坂福吉町の街頭で検挙され、わずか7時間後に築地署で虐殺されました。
虐殺については、築地署の留置場にいて目撃した人や、遺体を見た人たちの多くの証言があり、作家・手塚英孝が『小林多喜二』に詳細に記録しています。拷問の凄惨さは、安田徳太郎医学博士とともに遺体を検査した作家・江口渙が「作家小林多喜二の死」にリアルに描写しています。
「…首には一まき、ぐるりと深い細引の痕がある。よほどの力で締められたらしく、くっきり深い溝になっている。そこにも、無残な皮下出血が赤黒く細い線を引いている。左右の手首にもやはり縄の跡が円くくいこんで血がにじんでいる。だが、こんなものは、からだの他の部分とくらべるとたいしたものではなかった。さらに、帯をとき、着物をひろげ、ズボンの下をぬがせたとき、小林の最大最悪の死因を発見した私たちは、思わず『わっ』と声をだして、いっせいに顔をそむけた…」
小説『蟹工船』や『一九二八年三月十五日』の作者であり、都新聞(東京新間の前身)の連載小説「新女性気質」の作者としても有名だった小林多喜二の死は、翌21日の臨時ニュースで放送され、各新聞も夕刊で報道しました。しかし、その記事は「決して拷問したことはない。あまり丈夫でない身体で必死に逃げまわるうち、心臓に急変をきたしたもの」(毛利基警視庁特高課長談)など、特高の発表をうのみにしただけでした。そればかりか、特高は、東大・慶応、慈恵医大に圧力をかけ、遺体解剖を拒絶させ、真相が広がるのを恐れて葬儀に来た人を次々に検束しました。
時事新報記者・笹本寅が、検事局へ電話をかけて、「検事局は、たんなる病死か、それとも怪死か」と問い合わせると、「検事局は、あくまでも心臓マヒによる病死と認める。これ以上、文句をいうなら、共産党を支持するものと認めて、即時、刑務所へぶちこむぞ」と、検事の1人が大喝して電話を切ったという事実も書き残されています。
戦前でも、拷問は禁止されており、虐殺に関与した特高警察官は殺人罪により「死刑又は無期懲役」で罰せられて当然でした。しかし、警察も検察も報道もグルになってこれを隠し、逆に、天皇は、虐殺の主犯格である安倍警視庁特高部長、配下で直接の下手人である毛利特高課長、中川、山県両警部らに叙勲を与え、新聞は「赤禍撲滅の勇士へ叙勲・賜杯の御沙汰」と報じたのです。1976年1月30日に不破書記局長(当時)が国会で追及しましたが、拷問の事実を認めず、「答弁いたしたくない」(稲葉法相)と答弁しており、これはいまの政府に引き継がれています。(喜) (「同盟サイト」より)
●2007.2.16「しんぶん赤旗」→歴史の先端を望む眼差し/小林多喜二・私の読み方/右遠俊郎
私は1967年、日本民主主義文学同盟(現、文学会)に加入している。そのとき特別の意欲を持っていたわけではない。近代文学一般の教養に培われてきた自分に、何かプラスするものがあればいいと考えていた。プロレタリア文学の作品にしても拾い読みしてきただけだから。  その翌年、『小林多喜二全集』15巻が新日本出版社から刊行された。すでに出ていた手塚英孝の評伝『小林多喜二』を栞に、初めて多喜二のものをまとめて読んだ。所どころに違和感はあったが、迫力に圧倒された。作品に感銘したのか、作者の苛烈な生涯に打たれたのか見境がつかなかった。
その後も折に触れて多喜二の小説を読み返したが、そのたびに受ける印象が違い、作品の好みも変わる。変わらないのは、同じ書き手としての重圧感だ。体は小さいというが、全量で、真摯に、何と大きな世界に挑む人かと思う。流麗な文章や想の閃きは避けて、剛直な意思で時代の意匠を刻印する。
彼は小樽で『一九二八年三月十五日』を書いて出発し、10に余る中編その他を残し、東京の築地署で虐殺された。その間わずか5年。プロレタリア文学の流れに生きた作家。天皇制政府の暴圧に抗し、大資本と不在地主の悪を暴き、弱者の苦しみに身を寄せて幾多の作を為(な)した。30年に満たぬ生涯。
社会の変革を志す多喜二の作品は、その質量の大きさで私には咀嚼しかねた。そのくせ多喜二の美化と中傷に反発した。けれども、その頃にはまだ、多喜二と同時代を生き、その生身を知っている手塚英孝や蔵原惟人らがいた。彼らは多喜二のユーモラスな半面を語った。小樽では佐藤チマ(多喜二の姉)や島田正策からもっと多くを聞かされた。
そのせいか多喜二の呪縛が解けて、私はリラックスして向かえるようになる。さらに、彼の日記を読んで親しみを覚えた。恋人田口タキヘの愛(泥沼から救出する500円を調える)は生半可ではないが、美形好み、思いの深さ故の指導癖、尋常な性の悩みなど、普通の青年と変わらぬ側面も窺えた。
平常心に戻った私は、多喜二を物書きの先達として畏敬し、好き嫌いを遠慮せずに述べることにした。感じたことだけでいえば、概して小樽で書いたもの、「防雪林」・『一九二八年三月十五日』・『蟹工船』などがいいと思った。それらに作法として、映画好きから来るその方途の援用も見た。
東京に出てからの多喜二はプロレタリア作家同盟の書記長になり、さらには非合法生活に入って多忙と危険を背負った。そのなかで小説の構想を練るなど至難の業だが、家族の生計も立てねばならず、しかも時代の要請に応えて鋭い作品を次々に発表した。だが、無理な連打は諸作に瑕瑾を残した。
私は今度、多喜二の小説を読み返し、新たな感慨を持った。もっとも感銘を受けたのは『一九二八年三月十五日』だ。いわゆる三・一五事件、共産党弾圧の小樽の場合を描いたものだが、拷問の凄惨な場面にばかり気を取られて、幾つもの眼が幾つもの心を捉えていることを見逃していたと知る。
後半の作品では『転形期の人々』が良いと思った。この小説は小樽の街のパノラマから始まる。文章は平静なリアリズムだ。右肩を怒らせた姿はここにはない。懐かしい故郷への眼差し、小林多喜二はその1点を通して列島を見晴かし、歴史の先端を望もうとする。小樽を越えて日本を見るのだろう。(うどうとしお=作家)(「同盟サイト」より)
●2007.2.16「しんぶん赤旗」→私たちが火継ぐ/あす大阪多喜二祭
「多喜二の火を継ぎ、憲法、平和、民主主義を守り、人間らしく生きるため、みんなの力をあわせよう」と、30数年ぶりに大阪多喜二祭が17日(土)午後1時半から大阪市中央区・アピオ大阪小ホール(JR・地下鉄森ノ宮駅下車西へ徒歩3分)で開催されます。主催は、大阪多喜二祭実行委員会。
2004年に東京、05年には中国で開かれた国際シンポジウムで基調講演し、『マンガ蟹工船』の解説を執筆した島村輝さん(女子美術大学・大学院教授)が、多喜二の優れた人権・人間観などについて記念講演します。資料代1000円(青年学生500円)。正午からは同会場で、『蟹工船』初版本など、ここでしか見られない多喜二の文献、資料の展示も行います。
問い合わせは、治安維持法国賠同盟大阪府本部06(6772)7555。(「同盟サイト」より)

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2006年


●2006.4.12「しんぶん赤旗」→(大阪)「多喜二から学ぶ」16日上六で講演会
「今、いかに生きるか 小林多喜二から学ぶ」と題する講演会が16日に大阪市内で開かれます。講師は、浜林正夫一橋大学名誉教授。
この講演会は、1928年(昭和3年)3月13日、1929年(昭和4年)4月16日、治安維持法によって日本共産党員をはじめ労働農民党、評議会(日本労働組合評議会)、日農(日本農民組合)などの活動家が大弾圧された日にちなんで、毎年、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟大阪府本部、日本共産党大阪府委員会・日本民主青年同盟大阪府委員会の3団体が毎年共同で開催しています。
日時は16日(日)午後2時から。会場は大阪市天王寺区上本町六丁目の「たかつガーデン」(大阪府教育会館)八階「たかつの間」。参加協力費1000円(30歳以下は500円)。オープニングに、ケイ・シュガーさんの「多喜二へのレクイエム」が予定されています。(「同盟サイト」より)

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2005年


●2005.4.30「しんぶん赤旗」→「小林多喜二」上演成功へ/講演の夕べとミニコンサート
6月にエル・おおさかで上演される「小林多喜二・早春の賦」(米倉斉加年演出)を成功させようと大阪上演実行委員会は26日、大阪市内でミニコンサートと講演の夕べを開きました。
歌手のKei・Sugarさんは自ら作詞・作曲した「多喜二へのレクイエム」を初披露。ベートーベンの第九交響曲をモチーフに時代と切り結んだ作家の生き方と現代への思いを込め熱唱しました。
シンガー・ソングライターの野田淳子さんが「死んだ男の残したものは」などを歌いました。
治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟大阪府本部会長の柳河瀬精さんが講演。戦前の特高警察による拷問の残虐さ、多喜二に直接手を下した特高警察の氏名を明らかにしつつ、戦後も特高官僚の責任が問われず政治の場で要職についている事実を語りました。
実行委員会は5月13日午後7時から、大阪府教育会館8階で「講演とトークのつどい」を開きます。米倉斉加年さんが「小林多喜二」への思いと演出について講演。「九条を考える関西演劇人の会」の坂口勉さん(劇団コーロ)が落語を上演します。参加無料。連絡先=大阪教育文化センター06(6768)5773 (「同盟サイト」より)
●2005.3.20「しんぶん赤旗」→3・15記念の集い/多喜二の人生を映画で振り返る/徳島
治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟徳島県本部主催の3・15記念のつどい「時代を撃て・多喜二」上映会が15日、徳島市の県郷土文化会館で開かれ、およそ160人が参加しました。
上映に先立ち、県史学会の湯浅良幸会長が講義しました。湯浅氏は「治安維持法は大正末期に発布され、昭和初期に極刑を加えてさらに改悪された悪法。この法は、国民の中から盛り上がってきた運動をつぶしてしまうもの。小林多喜二もこれに基づき虐殺された。憲法が改悪されようとしている今、2度とあのような過ちを繰り返してはならない」と訴えました。
映画は、多喜二の人生を映像化して振り返り、ゆかりのある著名人が多喜二を語ったドキュメンタリー作品。主催者の1人の大栗丸人さん(75)は、「3・15は毎年取り組んでいるが、今年ほどのたくさんの参加は初めて。当時を知らない若い人たちに、治安維持法のひどさ、その中でたたかった不屈の運動を知ってもらいたい」と話しました。
参加した女性(19)は「日本にこんなひどい時代があったのだと改めて実感した。戦争を2度と繰り返さないためにも、現行憲法の改悪は絶対阻止しないといけない」と感想を語りました。(「同盟サイト」より)
●2005.3.3「しんぶん赤旗」→北見で多喜二に学ぶ集い/逆行の動き押し返す時
北見市常盤地区住民センターで2月26日午後、「小林多喜二に学ぶつどい」が開かれました。治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟北見支部(大橋誠支部長)が主催し、会場いっぱいの約100人が参加しました。
佐々木秀之副支部長が司会し、大橋誠支部長が開会挨拶で、「憲法や民主主義をめぐって、戦前の時代に逆行する動きが強まっています。小林多喜二の生き方を学び、それをおしとどめましょう」と述べました。
小樽商大の荻野富士夫教授が「小林多喜二の生きた時代と現代」と題し、三十年の生涯のほとんどを小樽で過ごし、小樽高等商業学校時の成績表、拓銀への就職の経過をエピソードをまじえて講演しました。
また、日本が帝国主義、侵略戦争に向かうなかで、多喜二がどのように成長し、『蟹工船』『不在地主』など、著名な作品を書きあげていったのかにもふれました。
参加者は「多喜二が特高に殺されたときの新聞を印象深く思い出す。いま92歳だが、治安維持法でつかまった。きょうはこんなに多くの人が集まり、ありがたい」と感想を寄せていました。(「同盟サイト」より)

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2004年


●2004.8.22「しんぶん赤旗」→劇「小林多喜二―早春の賦」/上演に向け「会」結成へ福岡市
戦前の治安維持法で逮捕・虐殺されたプロレタリア作家・小林多喜二の生涯を描いた「小林多喜二―早春の賦―」新劇公演の成功にむけて福岡市で27日、「小林多喜二を観る会」(仮称)の結成総会が開かれます。
公演の演出は福岡県出身の米倉斉加年さん。昨年は小林多喜二の生誕百周年・没後70周年にあたり、一昨年から全国で催されています。福岡公演は来年1月21日。会場は同市早良区のももちパレス。
日本共産党員小林多喜二は、天皇制政府がすすめる侵略戦争と国民抑圧に反対し、働く人々の権利を守ってたたかった不屈の闘士。1933年2月20日、特高に逮捕され、東京・築地署で虐殺されました。29歳の若さでした。
結成総会の呼びかけ人は、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟福岡県本部の諫山博会長(弁護士)ら九氏。同市中央区のふくふくプラザ603研修室で総会を開催。ビデオ「燃やしつづけた炎」(小林多喜二、宮本百合子らの記録)が上映されます。
「観る会」準備会では、「小林多喜二の青春に学び、引き継ぐことは、現代に生きる私たちにとって大切なこと。参加者といっしょに考えたい」と呼びかけています。連絡先は、日本民主主義文学会福岡支部、立石正巳さん、092(581)8171(「同盟サイト」より)
●2004.4.16「しんぶん赤旗」→「多喜二の夕べ」帯広で170人参加
日本共産党十勝地区委員会、国民救援会帯広支部、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟十勝支部は10日、帯広市内で「小林多喜二の夕べ」を開き、170人が参加しました。
主催者を代表して佐藤糸絵実行委員長が挨拶。小樽商科大学の荻野富士夫教授が「小林多喜二の生きた時代と現代」と題して講演しました。多喜二の時代と多喜二の成長過程を述べ、国外に向かっては侵略戦争、国内では反動的恐怖政治に対するたたかいと彼の成長過程から作品を学び取ることが重要であると強調しました。
次いで、郷土史研究家の松本尚志氏が「治安維持法下の青春・十勝」と題して特別報告。戦前の十勝・帯広での弾圧と、そのなかでの労働運動、農民運動、無産者消費組合、生活つづり方運動などについて話しました。(「同盟サイト」より)

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2002年


●2002.2.16「しんぶん赤旗」→多喜二祭/各地で多彩に
『蟹工船』『一九二八年三月十五日』などで知られる日本の代表的革命作家、小林多喜二が、天皇制警察に虐殺されて、ことしは63周年に当たります。その志を受け継ごうと命日の20日をはさみ各地で多喜二祭が開かれます。
・小樽多喜二祭 〈墓前祭〉=20日午後2時、小樽市内奥沢墓地。〈多喜二記念の夕べ〉=同午後6時、小樽市民(マリン)ホール。「多喜二文学の背景―スライドと作品朗読でつづる小樽の街と人」、記念講演「多喜二の恋」(倉田稔・小樽商科大学教授)。おとな800円、高校生以下400円。TEL0134(23)1966
・第31回秋田県多喜二祭 18日午後1時、秋田市千秋会館。記念講演「『種蒔く人』と小林多喜二」(北条常久・聖霊女子短期大学教授)、講演「秋田県における革新の伝統」(加藤謙二郎・治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟秋田県副会長)。作品朗読『一九二八年三月十五日』、合唱(秋田合唱団)など。1000円。TEL0188(24)1475
・1996杉並多喜二祭(東京)21日午後6時開場、杉並区立高円寺会館。講演「人間性豊かな多喜二 芸術をひろく愛した人柄」(土井大助・詩人)、「多喜二から学ぶもの―魯迅やロマン・ロランにかかわって」(緒方靖夫・参院議員)、独唱=檀上さわえ、ピアノ演奏=村上弦一郎。1000円。TEL03(3314)5551
・小林多喜二祭 18日午後2時、茨城県水戸市・県民文化センター別館八号室。「小説『工場細胞』に学ぶ」(田島一・作家)、「多喜二と島田正策さんのこと」(岩清水理・金融労働者後援会)、「多喜二をうたった三つの詩」(奈良達雄・新日本歌人協会)、作品朗読『一九二八年三月十五日』(川上文子)、合唱(うたごえ後援会)。300円。TEL0280(32)5761
・多喜二祭・96ふくおか 3月6日午後6時開場、福岡市民会館小ホール。講演「小林多喜二がこだわった『私』―『党生活者』のことなど」(新船海三郎・文芸評論家)、朗読劇「われらの陣頭に倒れた小林多喜二」。TEL092(581)8171(「同盟サイト」より)

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1961年


●1961.5.10・→小林多喜二の母・セキ歿。
小林多喜二の母・セキ歿。89歳。小林セキの葬儀はチマの所属する小樽シオン教会で挙げられた。

1934年


●1934.2.18・→「小林多喜二追悼プロレタリア文化の夕」を開催。
兵庫では、1934年2月18日に大橋公会堂で、「小林多喜二追悼プロレタリア文化の夕」を開催し「160名の観客を動員した」
別のところでは、「コップ中央は努力して、これを新しい方策を立て直す契機して「三・一五白テロ反対・第二回小林多喜二労農葬」を大橋公会堂でおこなった。おそらく戦前における全国でも最後の公然たる多喜二労農葬であったと思われる」とある。
これは、別々のものなのか。それとも同じものなのか。後者には開催日が書かれていない。(大岡欽治『関西新劇史』を読んで、神戸のことで、これだけは記録しておかなければならないと思うものがあったが、多忙のためほったらかしになってしまった。あらためて記録しておく)(「未来-私達の力で歴史を動かそう!サイト」より)
 

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1933年


●1933.2.28・「しんぶん赤旗」→「同志小林の略歴」
1903年8月、秋田県秋田郡の貧農の子として生まれ、3年後家族と共に北海道へ移住。
1924年、小樽高商を苦学卒業後、拓殖銀行小樽支店に勤め、『文芸戦線』に小作品を発表。
1928年春、同志山本懸蔵の総選挙闘争へ積極的に参加して革命的生活に入る。前衛芸術家同盟を経てナップ(全日本無産者芸術団体協議会)に加入。11月戦旗紙上に三・一五弾圧を取り扱った最初の傑作『一九二八年三月十五日』を発表。
1929年5月、同じく戦旗に『蟹工船』を発表。これにより傑出した革命作家としてこの地位を確立した。この年中央公論に発表した『不在地主』で拓殖銀行の内幕を激しく暴露したために馘首さる。
1930年、ナップ再組織の結果として日本プロレタリア作家同盟の創立と共に同盟中央委員となり、3月小樽より上京。文化団体に下された五・二○弾圧のため、6月遂に逮捕。半年間豊多摩刑務所に拘禁さる。
1931年1月保釈出獄。同盟の第四回大会において作家同盟書記長に選出され、一層強力に革命的活動を続く。
1932年4月、文化連盟に大暴圧が襲うと共に地下活動に移ったが依然として作家同盟と日本の文学運動の正しい政治的組織的指導のために最も執拗に闘った。大衆的文化運動への転換、コップの確立の際の彼の役割は決して忘れる事は出来ない。
東京日日新聞19330222

「東京日日新聞」昭和8(1933)年2月22日(水)より・画像クリックでこれも拡大しますぜ

1933年2月20日、遂に天皇制官憲の手に捕らえられ、東京、築地署で虐殺さる。享年31歳。
彼は日本のプロレタリア文学運動に於ける最も傑出した作家の一人であった。作品としては上述の他に、『沼尻村』『オルグ』『党生活者』『地区の人々』(絶作、改造本年3月号)等があり、その中『三・一五』等の諸作は数ヶ国語に翻訳され、既に世界の労働者農民によって愛読されている。彼は又最もすぐれた革命的実践家、プロレタリア文化=文学運動の、すぐれた指導者であった。最近に於けるこの方面での彼の活動は、文学運動に於ける右翼的偏向との闘争に注がれていた。昨年暮から虐殺に至るまで『プロ文学』誌上に堀英之助の名で執筆した諸論文『二つの戦線に於ける闘争』『右翼的偏向の諸問題』『更に二三の問題に就いて』等は、同盟を正しい軌道に導く上に最大の寄与をなしたものだ。彼はこの仕事の半ばに不幸にも敵の手によって遠く奪い去られたのである」
●1933.2.22「多喜二の遺体戻る」。虐殺された翌日の深夜つまり2月22日午前1時頃、母と弟三吾のいる馬橋の家に運ばれた。
『陣頭にたおれたる小林の屍骸を受取る』江口渙
死体の検査が始まった。「お母さんをそっちの部屋へつれて行って下さい。これじゃ如何にも体にさわるから」 。私はついにこういった。親戚の人も早速つれて行こうとした。だがお母さんは聞き入れない。矢張、枕元に座ったまま泣きつづけた。
安田博士の指揮の下に、死体の検査が始った。 驚くばかり青ざめた顔は、烈しい苦痛の痕を残して、筋肉の凹凸がけわしいために、到底平生の小林ではない。ことに頬がげっそりとこけて、ひどく眼がくぼんでいる。そして左のコメカミには、一銭銅貨大の打撲傷を中心に、五つ六つの傷痕がある。それがみんな皮下出血を赤黒くにじませている。「こいつを一つやられただけだって気絶するよ」と、その時誰かが叫んだ。首には、ぐるりと一とまき、ふかく細引の跡が食い込んでいる。余程の力で絞めたらしくくっきりと細い溝が出来ている。そして溝になったところだけは青ざめた首の皮膚とはまるで違って矢張、皮下出血が赤黒い無惨な線を引いている。左右の手首にも、首と同様円く縄の痕が食い込んで血が生々しくにじんでいた。
だが、その場合、それ位のことは他の傷に較べると、謂わば大したものではなかった。更に帯をとき、着物をひろげて、ズボン下をぬがせた時、初めて小林の最大最悪の死因を発見した。我々は思わず「わッ」と声を放つと、そのまま一せいに顔をそむけた。「これです、これです、矢張り岩田義道君と同じだ」
安田博士の声が沈痛に響いた。我々の眼が再び鋭く死体にそそがれた。凄惨全身を被う赤黒い皮下出血だ!
何というむごたらしい有様であろう、毛糸の腹巻きに半ば覆われた下腹部から、左右の膝頭へかけて下腹といわずももといわず、尻といわず肌といわず、前も後も外も中も、まるで墨とべにがらとを一しょにまぜて塗り潰したような、何とも彼ともいえないほどの陰惨限りなき色で一面に覆われている。その上、余程多量の内出血があると見えて、ももの皮膚がぱっちりとヘチわれそうにふくらんでいる。そして赤黒い皮下出血は陰茎から睾丸にまでも及んでいる。
好く見ると赤黒く張り切った膝の上には、釘か錐を打込んだらしい穴の跡が、左右とも十五六ヶ所も残っている、そこだけは皮膚が釘の頭ぐらいの丸さだけ破れて、肉が下からジカに顔を見せている、それが丁度アテナ・インキそのままの青黒さだ。 「こうまでやられたんじゃ生命が奪われるのは当り前だ」 「だが、流石に小林だなあ、こんなにされるまで好くもガン張り通したねえ」
想像される悶死の現場
「でも、着物はどうもなってませんが」 「無論、証拠を残さないために着物を脱がして、シャツとズボン下一つにしておいて、椅子にくくりつけたり、天井から細引で釣して腰から下を目当に、竹刀でなぐりつけたのです。おまけに首まで絞めつけた。その証拠に猿股がなくなっているし、ズボン下の寸法がとても短いじゃないですか。もとの奴は血だらけになったので、何処かへ捨てて代りを無理にはかせたんです」 「成程。そうですな。今まで私は拷問というようなことは、みな左翼の宣伝だとばかり思ってましたが、こうして現実にぶつかってみると、始めてほんとうのことが解りました。実に怖しいことをするもんですな」
市司氏の眼から涙がはらはらとこぼれた。そのうちに玄関の襖を開けて、若い女性が3人、いかにも悲しそうな様子をして入って来た。そして遺骸の横にずらりと座るが早いか、3人とも声といっしょに袂を顔にあてて泣き崩れた。
「新日本出版社・日本プロレタリア文学集34『ルポルタージュ集2』より」(ミクシイ「小林多喜二」コミュ「特高警察の実態」トピックpokoさんの2010.12.25の投稿から)



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